蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

ヤコブ・ケルファー

2005年11月08日 05時54分15秒 | たてもの
古代ローマ時代、ゲルマニア州のローマ軍宿営地であったケルンはコローニア・アグリッピネンシスと称していたそうだが、現代のわたしたちがケルンと聞いて先ず思い浮かべるのがドーム(大聖堂)、オー・デ・コロン、カーニバル。変わったところではチョコレートミュージアム、おそらく世界で唯一の博物館かも知れない。また教養好きの向きにはヴァルラフ・リヒャルツ美術館やローマ・ゲルマン博物館が見所といったところか。
ドイツ観光局ではないので観光案内はこのくらいにしておくとして、しかしこれを書いていてつくづく思い至るのは、昨今の我が日本国におけるあまりにも伝統を蔑ろにする姿勢。たとえば市町村合併でできた新しい市町村名が平仮名だったり、合併市町村名の頭文字を並べたものだったり、といったことが問題視されているけれども、これに伴いいかに多くの歴史ある地名がアホバカ行政によって消滅してしまったことか。もちろんこれは伝統破壊行為のほんの一例に過ぎないのであって、似たような事例を論っていけば切りがない。わたしはヨーロッパ文明を無条件で称揚する気は毛頭ないが、こと伝統を尊ぶ姿勢にたいする彼我の差を思うとき、暗澹たる気分にならざるを得ない。
と、ここまで書いて今回取り上げるヤコブ・ケルファーのケルン、ハンザ・ホッホハウスなのだが、これをはたして伝統を踏まえた新建築と観るか、はたまた調和を乱すゲテモノと観るか。当時の高層建築も今となってはすっかり低層建築になってしまったが、それでも相対的にはやはり他の建物から抜きん出ているこの構築物をどう評価したらよいのか。正直にいってしまうならば、わたし自身の嗜好としてはどうも頂けない。やはり美しいヨーロッパの街に高層建築物は不似合いなのではないだろうか。
ハンザ・ホッホハウスはヤコブ・ケルファーによって一九二四年から二五年にかけて建設された、当時としてはヨーロッパで最高層の建築物だった。十七階建て六十五メートルという高さそのものは、いまでは驚くほどのものでもないが、建物表面のクリンカー仕上げが表現主義全盛期という時代を感じさせてくれる。今時の高層建築のなかにクリンカー仕上げのものなどお目にかかれるものではない。だがナチス政権の時代には、この建物にあまり思い出したくない歴史が付加された。当時ケルン市地域には約百二十ヶ所の中小規模強制収容所が設置されており、この赤レンガの高層ビルディングもまたドイツ帝国国鉄の強制労働者のための収容所として使用され、九百人もの人々が収容されていたそうだ。戦後は一九八九年までWDK(Westdeutscher Rundfunk)西ドイツ放送があったが、その後はドイツの巨大家電、CD会社であるSaturn社が入ったため音楽やHifiフリークたちのメッカになったというが、今はどうなっているのか知らない。もしケルンを探訪の折には訪れてみるのも一興。
伝統とモダンの狭間に身を置いたヤコブ・ケルファーは一八七五年(明治八年)に生まれ、一九三〇年というからこのハンザ・ホッホハウスが完成して丁度五年後に亡くなっている。自分の造った建物が強制労働者たちの収容所に使用されている様子を見ずに済んだのですから、その意味では良い時期に神に召されたともいるが、しかし享年五十五というのはヨーロッパの建築家のなかでは比較的若死の範疇に入るのではないだろうか。そうはいうもののヤコブ・ケルファーは二十年代のドイツにおける指導的建築家の一人だったのであり、映画館、事務所、デパートなどの設計施工の多くにかかわった。そして百三十五日間という工期で造られたこの(当時としては)高層建築であるハンザ・ホッホハウスは、後々の建築家たちにとって立方体形状の機能的建築の雛形となったのである。
ケルファーはアーヘン、ドルトムント、デュッセルドルフ、エッセン、ケルンなどの西部ドイツにおいて多くの高層建築や映画館を併設した商業建築を手がけているが、それらの内部構成や技巧的な設備は、ドイツ国内はもとより諸外国からも多くの注目を集めていた。当時建築界ではエリッヒ・メンデルゾーンの影響がかなり顕著ではあったのだが、ケルファーの作品には優雅さと即物主義がほど良く統合されており、まさにその意味において近代建築家のなかでも、どちらかというと伝統的美意識を色濃く残している作家であったということができる。

写真資料:"Wasmuths Monats Hefte für Baukunst" Verlag Ernst Wasmuth A/G Berlin Jahrgang 1926

エミール・ファーレンカンプ

2005年11月02日 05時17分17秒 | たてもの
ケルンの西約六十キロメートルに位置する街アーヘン。カロリング朝ルネサンスを代表する建築物であるアーヘン大聖堂で有名なこの街に、一八八五年十一月八日エミール・ファーレンカンプは生まれた。
この年明治十八年、日本では第一次伊藤博文内閣が発足している。また世界に目を向けるとパストゥールが狂犬病の予防法を発見したり、ベンツ博士がガソリン自動車を発明したりと、人々はまさに輝く未来を信じて疑わない時代だった。ファーレンカンプはアーヘンの建築家カール・ジーベン教授の事務所で建築家見習として働きながら職業訓練を積み、一九〇九年にはデュッセルドルフに移って三年間ヴィルヘルム・クライス事務所のアトリエ主任として働いている。忙しく毎日の仕事をこなしながらも彼は建築コンテストに応募したり、自分独自の設計図を引く時間を作っては研鑚を積むことを忘れなかった。そうこうする内に、一九一一年にはデュッセルドルフ技術実業学校の夏学期に出勤し、最初の二つの学期をあのマイスター・アルフェレート・フィッシャーの助手を務め、一九一二年の夏学期からは補助教師として一本立ちし学生の指導にあたっている。一九一五年三月、ファーレンカンプは第一次世界大戦で召集されたが、ほどなく東部戦線で左腕を負傷し前線から「恒久的に役に立たない者」として送還させらた。しかし残った障害は幸いなことに軽く(つまり診断した医者が未熟だったためと言うべきか)仕事にも私的生活にもなんら支障が生じることはなかった。結局彼は一九一六年四月からデュッセルドルフで教師活動を再開することとなる。戦争が終わった年、一九一九年にデュッセルドルフ技術実業学校の建築部門が芸術アカデミーに併合され、ファーレンカンプは他の教師仲間ともども棚ボタ人事によりアカデミー教授職の地位を手に入れることとなった。こう見てくるとエミール・ファーレンカンプという人物はかなりいろいろな幸運に恵まれていたのだということがわかる。概して人は才能だけではなかなか生きては行けない。では逆に幸運だけで世の中を渡って行くことができるのかというと、これはこれでなかなか難しいものがあるとも思う。
ドイツ工作連盟"Deutscher Werkbund"はとヘルマン・ムテジウスによって一九〇七年ミュンヘンにおいて設立された団体であり、その目的とするところは「芸術と産業と職人技術の協力」を通して工芸の「品位を高める」ことにあった。設立の背景には経済的事情(輸出振興のためのデザイン改革)や政治的状況(民族主義の勃興)があったようだが、高品質な仕事をめざして各産業分野の協調を奨励した結果、工業製品製造の機械化およびこれに伴う規格化が推進されることとなった。初期のメンバーとしてはユリウス・ホフマン、ハンス・ペルツィッヒ、ペーター・ベーレンス、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデといった人物が挙げられる。当然といえば当然のことなのだが、芸術志向のヴァン・デ・ヴェルデにとってこれは肌が合うはずもなく、一九一四年のケルン連盟博覧会の後彼はドイツ工作連盟を離れることとなった。因みにドイツ工作連盟は一九三三年ナチスによって解散させられている。エミール・ファーレンカンプがドイツ工作連盟に加盟したことについては、彼が特にベーレンスの主義主張に同調していたというよりは、むしろ彼の処世的態度にその理由を求めたほうが判りやすいのではないか(簡単にいやあ出世志向ってやつですか)。デュッセルドルフ芸術アカデミー教授としてのファーレンカンプは工業界が必要とする技術者を養成するための職業教育を導入していわゆる産学協同を進めて行くのだが、この工業界との良好な関係のゆえにあの時代ヘルマン・ゲーリンクの取り巻きのなかに生き残ることもできたわけだ。
ドイツの東端、ポーランドとチェコに国境を接する街、ツィッタウ。ザクセンの郡役所所在都市、木綿紡績、金属製品、自動車、電子技術が地場産業だが、鉄道ファンにとってはまさに巡礼地のような場所として知られている。そのツィッタウでエミール・ファーレンカンプが手がけた"P.C.Neumann G.m.b.H."の織物工場は彼の一九二〇年代のプロジェクトに見られる簡潔で単純な形態のなかに、石とクリンカーで仕上げられた壁面に特徴的だが、表現主義的で装飾的な要素がよく現れている。この作品は「ドイツ織物市場においてこの企業が外国で兄弟企業が既に占めている指導的立場を手に入れることを、より短時間で可能にする工場施設がここに完成されたのである」(注1)と当時評価されている。ただし実際の現地の現場監督および平面図構成の改造に当たっては、多忙なファーレンカンプに代わってツィッタウの建築家レーヴとウェンティッヒが手がけている。

写真資料:Moderne Bauformen Monatshefte für Architektur und Raumkunst XXVII. Jahrgang 1928 Verlag Jurlius Hoffmann Stuttgart
(注1)出典は写真資料に同じ。

続昔日百貨店

2005年10月13日 07時45分22秒 | たてもの
メンデルゾーンは一八八七年五月二十一日東プロイセン、アーレンシュタイン(現在のポーランドOlsztyn)にユダヤ人商人ダヴィッド・メンデルゾーン、エンマ・メンデルゾーン(旧姓Jaruslawsky)の息子として生まれている。一八八七年は井上円了が哲学館、現在の東洋大学を設立した年にあたる。アーレンシュタインの人文ギムナジュームのアビトーア合格、それに引き続くベルリンでの商人修行の後、彼はミュンヘンの国民商業学校で学び、一九〇八年には再びベルリンに戻り、シャルロッテンブルクの技術高等学校(資料によっては工科大学ともなっていますが、なにぶん今日の日本と学制が異るので翻訳が難しい)で建築の勉学を開始し、一九一〇年二十三歳のときミュンヘンの技術高等学校に転学し、そこで『青騎士』や『ブリュッケ』の芸術家たちと接触している。一九一二年二十五歳で学士試験を通過して建築の勉学を終了した。
一九二一年三十四歳のおり、表現主義的な施工の重要な実例であるポツダムの宇宙物理学研究所のいわゆるアインシュタイン塔の設計、建設をてがけることとなる。この施設は多分中央ヨーロッパにおける彼の最も有名な建物であり、近代建築史の本には大方これが紹介されているはずだ。コンクリートの切株のように森の中にうずくまっているこのタワー、そして初期作品の多くがその典拠としている彼のスケッチからは、しかしながら彼の活躍した時代のクールなモダニズム以上に、建築へのより植物的なアプローチが見て取れる。このことが、メンデルゾーンがけっして本当にモダニストの理想に専念していなかったのではないか、という疑念の残る原因ともなっている。
一九三三年、ユダヤ人であるメンデルゾーンはナチスドイツを逃れて英国に亡命し市民権を得、建築家にしてインテリア・デザイナー、そしてかつて社交ダンサーでもあったゼルゲ・チェルマイェフの設計パートナーとして、パレスチナに移る一九三九年まで活動している。一九三三年はCIAMのイギリス支部、MARSが設立された年でもあるが、渡英三ヶ月のうちに、彼は小さな南海岸のリゾートであるベックスヒルの革新的市長であった九世伯爵デ・ラ・ヴァールによって組織されたこの国で始めてのモダニズム建築コンペティションに優勝した。二百三十名の応募者の中にはメンデルゾーンの亡命仲間であるマルセル・ボイアーのほかヴァルター・グロピウスなどもいて、これはイギリスのモダニズム運動がいかにドイツモダニズム運動から恩恵を蒙っているかという事の証左となった。
さてこうしてでき上がった有名なデ・ラ・ヴァール・ベクスヒル-オン-シー、近代建築の成果の最先端技術を持ち込もうとしたデ・ラ・ヴァール伯爵の意図を実現した、際立った娯楽施設は、メンデルゾーンとチェルマイェフのオリジナルプランよりはずっと小規模なものとなってしまったが、現存するこの作品はイングリッシュ・ヘリテージとテレビ局「Channel Four」による、英国の最もモダンな建造物の評価においてコンベントリー聖堂、リバプールカトリック教会に続いて第三位にランクされている。この施設のバー、レストラン、テラス、そして屋上のゲームセンターはベックスヒルの住民には身近で大衆的なものでしたが、それにもかかわらずメンデルゾーンにたいする英国民の感情はあまり芳しくはなかたようで、この「侵入者」である彼の作品を採用したことに関して不満を訴える「建築雑誌」への投書の対象となってしまった。
メンデルゾーンは一九四一年五十四歳のおり、個人的問題を理由に仲間とともにアメリカに亡命することとなる。一九四三年にはプリンストン、イェール、ハーバードなどの大学で講演、一九四五年サンフランシスコに居を定める。一九四六年には再びフリーランスの建築家として仕事を始め、一九四七年からはバークレー校での教職を引き受けている。以降、アメリカの各地で彼は幾つかの大型建築と並んで、とりわけシナゴーグを建設した。そのほかニューヨークにナチスの犠牲となったユダヤ人の碑を計画するがこれは実現していない。一九五三年九月十五日サンフランシスコにて死去。享年六十六。
一九二〇年代においけるエリッヒ・メンデルゾーンはヨーロッパで仕事をしている大変多作な建築家の一人だったが、彼の評判は当時彼の同時代人であったル・コルビジェやルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエよりは低いものだった。そして今日においてもなお、彼はこのモダニズム運動における二人の巨人の高く聳え立った影の内にいる。 しかしわたしとしては、メンデルゾーンがもっと評価されてよい存在ではないかと思っている。残された多数のスケッチからギーガーのエイリアンを連想するのも一興だが、しかし彼の出発点であるこれらの幻想的ともいえるスケッチこそが、今日彼の類稀な才能を証しているのではないだろうか。
建築学者ヴォルフガンク・ペーントはその著書で次のように述べている。「メンデルゾーンは当時革命家の名をほしいままとした唯一の人物であった。すなわち彼に比べれば他の建築家はあくまで付焼刃の革命家にすぎなかったのだ」(注1)

写真資料:Moderne Bauformen Monatshefte für Architektur und Raumkunst Jahrgang XXIX 11.Heft・November 1930 Julius Hoffmann Verlag Stuttgart
(注1)『表現主義の建築』下巻 245頁 Wolfgang Pehnt著 長谷川章訳 鹿島出版会 昭和63年10月20日

昔日百貨店

2005年10月12日 04時47分50秒 | たてもの
シュトットガルトのショッケンデパートはまるで近代建築の見本のような建物だった。正面左右に階段室を設け、左側のそれは一階部分がショー・ウィンドウになっていて、夜間は内側からの照明で階段室の様子を美しく引き立てていた。デパートチェーン・ショッケンはシュトットガルト、ケムニッツのほかニュルンベルクにもあったのだが、今日ではケムニッツの建物が残っているだけだ。
デパートのオーナーであったシーモンとサルマンのショッケン兄弟は、第三帝国の時代にナチスによって財産を没収されてしまった。すでにこの名前から気付かれたことと思うが彼らがユダヤ人だったからだ。第二次世界大戦の戦火のなかでシュトットガルト・ショッケンとニュルンベルク・ショッケンが消失したが、ケムニッツの建物は戦後再び整備されて再建され東独時代にもデパートとして使われ、東西ドイツ統一後はドイツKaufhofコンツェルンによって引き継がれたが、後に再び売却されたという。
シュトットガルト・ショッケンデパートのシュタイン・シトラーセ側、つまり裏通りは路面電車の走る表通りとは異なって、ちょっと静かな感じの町並みだった。籠細工、乳母車の看板やダンス教室の看板を出した切妻屋根の家屋には、三階部分に窓風の造り付けられていたりして、昔の町並みを当時まだ残していた。
シュトットガルト・ショッケンが建設された一九二六年から二八年にかけて設計者メンデルゾーンはベルリン、ケルン、ニュルンベルク、ティルジット(ソヴィエツク)そしてレニングラード(サンクト・ペテルブルク)で多くの工場、商業建築、複合住宅そしてデパートを手がけているが、彼は一般的な当時の建築家のスタイルの方向性にはに従わなかった。彼の個人的なスタイルにおいて典型的なのは、これを彼自身は『オーガニック・スタイル』と呼んでいるのだが、水平のコンクリート仕上げの湾曲したファッサードと長い窓の壁(光のバント)なのである。つまり、メンデルゾーンは自分の建築計画を組み立てるに当たって、歴史的慣習に沿ったデザインを使うことはなかったのであって、結果として初期の建築物は彼の同時代人の多くを特徴付けているところの折衷的借用を避ける結果となっているのである。メンデルゾーンの建築に関するアイデアは「現代建築の素材の質は新しい建築を志向しなければならない」と主張する表現主義的発想とロマンチックな象徴主義から導き出されている。しかし後期のデザインにおいては、初期の表現主義的建築様式から離れて、より線形なスタイルの建築を設計するようになる。
近代建築を語るとき、ル・コルビジェやグロピウス、ミース・ファン・デル・ローエにと比較して、どうも今日ではメンデルゾーンは取り上げられることの少ない作家といった印象を受ける。ここで私見を披瀝させていただくなら、たとえば神保町の明倫館書店の棚を眺めてもやたらル・コルビジェやらファン・デル・ローエやらの関連書籍はあるものの、メンデルゾーンの作品集なり研究書が一冊も無いという事態に暗澹たるものを感じてしまう。サルバドール・ダリはル・コルビジェが大嫌いだったが、わたしもあまり好きではない。ダリは「美は可食的でなければならない」という名言を吐いている。これはガウディについていっているのだけれども、この言葉はメンデルゾーンにおいても、あの曲線の美しさで有名なアインシュタイン塔には充分に当て嵌まるのではないかと思う。

写真資料:Moderne Bauformen Monatshefte für Architektur und Raumkunst Jahrgang XXIX 11.Heft・November 1930 Julius Hoffmann Verlag Stuttgart

百貨店

2005年10月02日 06時19分39秒 | たてもの
スーパーすなわちスーパーマーケットが一般化する前の日本では、いや日本だけではなく西欧諸国においてもデパートメントストアは現代資本主義経済における大衆の消費欲動を充足させる装置として盛んに機能していた。普段はあまり縁の無い高級品でもほんの少々ガンバれば手に入れることができるのだ、という可能性を一般大衆に与えることで、彼らの労働意欲を高めることに貢献していた事実を忘れてはならないと思う。わたしにしてからが日本橋の高島屋の雰囲気は今でも好きだ。
ところが一方でスーパーの隆盛とともにデパートの件の機能が減退しゆく。そしてここで注目すべきはこれとパラレルな形でわたしたちの労働にたいする意識も変化し始めたということだ。すべての消費行為が願望充足から日常的な生理現象処理の次元へと退転し商品フェティシズムも消滅してゆくなかで、労働行為にたいして抱いていた労働者側の幻想も消え去り始めたように思う。さて時は一九二〇年代後半、ところはヨーロッパ文化の中心地ベルリン。教養と娯楽と退廃の大盤振る舞いに多くの人々が魅了される一方、ある人々(例えばヒトラー)からは蛇蝎のごとく嫌悪されたこの街のデパートがN.Israel。この建築を手がけたハインリッヒ・シトラウマーは一九二〇年代の終わり頃までベルリンの穏健なモダニズムを代表する建築家のひとりだった。一八七六年七月十二日ケムニッツに生まれたシトラウマーは一九二九年当時五十三歳だからもう大御所の部類に入ってた。余談になるけれども、彼が生まれた一八七六年は日本では明治九年にあたり、この年札幌農学校にあのクラークが赴任している。
伝統と革新とのバランスが程よく取れているとされていたシトラウマーの才能は、田園風住宅から事務所建築やデパートにまでおよび多様性に富んでいると当時いわれたが、現代の視点でそれらの作品群を改めて眺めてみるとやはり凡庸の感は否めない。まったく評価という行為のなんと難しいことか。そのような彼の代表作の一つがベルリンのシャルロッテンブルク・メッセダム二十二番地に残っている。これは通常の建築物ではなく一九二六年に竣工したラジオ放送用の百三十八メートルの電波塔で、地上五十五メートルにレストラン、そして百二十六6mに展望テラスが設けられたもの。この塔の鉄骨構造はエッフェル塔を参考にしているということですが、しかしやはり本家エッフェル塔の方が断然美しい。ここに才能豊かだったはずの建築家シトラウマーの、美意識についての限界を見て取ることもできるように思われる。
一九三七年十一月二十二日にハインリッヒ・シトラウマーは亡くなっている。この年(昭和十二年)は四月二十六日にドイツ軍によるゲルニカ爆撃、七月七日には日中戦争の発端となった盧溝橋事件が勃発し世界は次第に暗い時代に突入していくのだが、一方ドイツ国内はナチスが政権を掌握して以来失業者数が一九三二年当時の五分の一に減少して、多くの一般大衆は第三帝国に明るい未来を託していた。最近出ている本のなかに、当時のドイツ国民がナチスにたいして今日わたしたちが考えるほどには高い評価をしていなかったと書いているものがあったが、失業を経験した者が雇用状況を目に見える形で改善した政権を高く評価しないということなどあり得ない。ナチスの本質を予感的であるにしろ気づいていた一部インテリゲンチャを除けば、大方の善良な庶民にとっては反ユダヤ主義だろうが反ボルシェビズムだろうが、そんなことは取るに足らない事でしかなかった。明日の食べ物と寝る所が焦眉の急である者にとって、自由、平等、平和などクソ食らえってなもんなのです。
それはさて置くとしても、時は一九二八年ヴァイマール共和国時代のベルリン、破綻的経済状況のドイツではあったのだけれども世の中在るところには在るもので、生活に困窮する人々がいるなか、ここN.Israelデパートで楽しいショッピングのできる人々が厳然と存在していたわけだ。

写真資料:Moderne Bauformen Monatshefte fur Architekutur und Raumkunst  XXVIII. Jahrgang 1929 Verlag Jurius Hoffmann Stuttgart

智利房屋

2005年09月27日 03時43分13秒 | たてもの
硝酸カリュームは火薬原料でもあり、また窒素肥料の原料としても使用されるものでその需要はきわめて高いのだが、天然にはごく限られた地域でしか産出されない。しかし一九〇六年ハーバー・ボッシュ法が開発され、窒素と水素からアンモニアを直接合成できるようになり、硫酸アンモニウムや尿素など合成窒素肥料の工業的な大量生産が可能となった。ということは、つまり一九〇六年以前は硝酸カリュームは須らく天然物に頼っていた。さてそれではこの貴重な硝酸カリュームつまり硝石をどこで採っていたかというと、南米はチリ北部のアタカマ砂漠。
このチリ硝石の輸入と加工で大儲けしたのがハンブルクの商人ヘンリー・ブラレンス・スローマンという人物だった。一九二一年に、不動産業に関しては素人同然だったスローマンは当時の六千万マルクを投じてハンブルク旧市街のオフィス地区、ブッチャードプラッツとメスベルクの間つまりフィシャー・トヴィーテ(漁師小路)の両側の土地を購入した。そしてここに建築するビルの設計者についてコンペを行った結果、フィシャー・トヴィーテをまたがったひとつの建物という革新的なプランで選ばれたのが、当時四十四歳の気鋭建築家であったヨハン・フリードリッヒ・ヘーガー(フリッツ・ヘーガー)だった。設計段階で何度も変更を重ねた結果、一九二二年から一九二四4年の二年間でヘーガーはこの十階建てのオフィスビルを完成させたが、現在でも人目を引く奇抜なデザインは、当時においてはなおさらその実現に色々な障害があったようで、例えばあの有名な南側ファサードのS字湾曲に難色を示した市建設局にたいしては、当時Oberbaudirektorの職にあったフリードリッヒ・ヴィルヘルム・シューマッハ(フリッツ・シューマッハ)の尽力により特別許可を取ることができたのである。
スローマンのチリ硝石商売に由来してこの商館建築につけられた「チリ・ハウス」の名称からは、今日その圧倒的なマッシブにかかわらずレストランかバーのような軽い印象を受ける。ハンブルクのハウプトバーンホフの約1キロほど南、現在の最寄り駅はUバーンのU1駅。戦艦を髣髴させるこの北ドイツ表現主義建築を代表する建物の威容は今も変わることなく(とはちょっと言いにくいのだが、とにかく)、ここを訪れる観光客を魅了して止まない。
建築家ヨハン・フリードリッヒ・ヘーガーは一八七七年六月十二日ハンブルク西北の街Bekenreihein Elmschornに、家具職人の親方にして大工の息子として生まれました。一八七七年は日本では明治十年、西南戦争で南洲西郷隆盛が城山で自刃した年にあたる。ところでヴォルフガング・ペーント著『表現主義の建築』の邦訳版では「ホルシュタイン州の小作農家に生まれた」とある。いったいどちらが正しいのか、あるいは彼の父親は小作農にしてマイスターだったのか。どうもこのあたりはよく判らない。仮に小作農であったとしたなら、大切な労働力を徒弟修業に出すだろうか。というのもヘーガーは十四歳でエルムショルンの大工に弟子入りし、さらに鍛冶の仕事と家具製作を学んでいるからだ。その後二十歳でハンブルクの建築学校に入学しマイスター試験を受けた後一八九九年、つまり二十二歳から二年間兵役についてる。除隊後の一九〇一年から一九〇五年までハンブルクの建築事務所Lundt & Kallmorgenに入り技術製図工として本格的に建築を学びはじめるが、この事務所での仕事を後年彼は「とても不毛だった」と語っている。すべてのスタイルにおいて見本帳から下絵を起こすようなLundt & Kallmorgenのやりかたは、ヘーガーの才能からは退屈極まりないものであったことは容易に想像できる。
一九〇七年、念願かなって自分の事務所をハンブルクのニーマンスハウスに持つことができたが、第一次世界大戦の勃発で一九一四年から一九一八年までフランドルで軍務に就き、ドイツの敗戦で復員したのはよいけれど戦前のような繁盛を回復するのは大変難しかった。そのような彼の一発逆転の契機となったのがこのチリ・ハウスで、ヘーガーはこれにより職業的逼塞状況を突破したというわけだ。
一九三三年以降のヘーガーの評価は、ナチズムとのかかわりという視点からいろいろ論じられている。しかし彼は建築にたいする美意識をヒトラーと共有することはなかったので、一九三二以来のナチ党員である彼がラジオ演説で「全ての外国人とドイツの血族でない者は帝国から追放しろ」と発言したり、あるいはその他過激な発言をしても、宣伝相ゲッベルスは彼の作品を「ソヴィエト的」だと指摘し、結局ヘーガーは望んでいた国家建築家の称号を得ることができなかった。
一九四五年以降は破壊された都市の再建計画に専念しつつも、過去の栄光が戻ることもなく、一九四九年六月二十一日リューベックの西、バッド・ゼーゲベルクで亡くなった。享年72。

車站的建築物

2005年08月05日 04時19分24秒 | たてもの
パウル・ボナーツ。一九三〇年代を代表する近代建築家である彼の名前をご存知の方は建築を専門的に学んだ方か、あるいは単なる物好か。最近彼の名前を目にしたのは社団法人高速道路技術センターのホームページに載っていた構造物研究部会報告「今後の橋梁設計-欧州橋梁景観設計システムとその事例-」(鹿島建設 鈴木圭)だった。そこではボナーツがアウトバーンに懸かる陸橋のデザインに関わっていたことが報告されているが、要すればこの年代のエンジニアは何らかの形で、多かれ少なかれナチズムに関わっていたということ。逆から見ればナチズムに全く関わったことのないエンジニア、あるいはその他どの分野であれ一流と見なされた人物はまずいなかったのではないか。 いやこの辺りで止めておこう。ここでハイデガーやカラヤンなどのナチズムへの関わりを論じる知識は、わたしにはないし、そもそもこの問題については斯界の優秀な学者先生がそれぞれに論考を発表していのだから。
さて本題に入るとして、我が国でもよく知られているボナーツの作品にシュツットガルト中央駅がある。テオドア・フィシャーの影響を受けたこの作品は石造りのとても美しい駅舎だ。バーデン・ヴュルテンベルクの主都シュトットガルトの名は「領主の馬の飼育場のそばの住居集落」というほどの意味で、すでに一一五〇年にはこの名称が記録されているとものの本に書かれている。シュトットガルト管弦楽団でも知られているこの街の玄関。パウル・ボナーツ、フリードリッヒ・オイゲン・ショーラー共同制作によるこのシュトットガルト駅は南ドイツの黒い森"Schwarzwald"への入り口にあたるこの文化都市の中央駅"Hauptbahnhof"として現在でもその威容を誇っている。なにしろ時計塔のてっぺんにはベンツのマークが輝いているのだから。
さてシュトットガルトと聞いてわたしが思い出すのは、かのドイツ観念論哲学の大御所ヘーゲル先生。むかしむかし樫山欽四郎(樫山文枝のお父さんです)の訳で『精神現象学』を読んで、何がなんだかさっぱり判らなかった。最近出た長谷川宏訳の『精神現象学』を読んでみたがやはり何がなんだか判らなかった。そもそもヘーゲルのいっている「精神」"Geist"なるものが理解できない。多分この"Geist"はわたしたちが日常的に使用しているいわゆる「精神」とは違ったものなのだ。哲学の専門家は簡単に「精神の自己発展」なんぞいうが、あんたら本当にヘーゲルの"Geist"ってわかっているのかいと突っ込みたくなる。ところでヘーゲルって身長はどのくらいあったのだろうか。多分普通のドイツ人のように大柄だったのだと想像する。牛食って豚食っておまけに酢キャベツ食ってさらにワインやビールをガンガン飲んで、そのあげくに重箱の隅を突っつくような事細かい思索にふけるんだから漬物と魚の日本人とではやはりパワーが違う。同じ土俵じゃ勝負になりません。因みにわたしはこと料理に関してはドイツを贔屓しない。
なんだか話が関係ない方に行ってしまったが、今話題となっているのはシュトットガルト駅だった。駅舎プランのためのコンペが一九一一年の春に催されてから十七年後、すなわち一九二八年に完成なったシュトットガルト駅の風景を写した一枚の写真。これはまた何とも幻想な風景だ。
この駅舎が完成した一九二八年(昭和三年)、五月二十日のヴァイマル共和国議会選挙では社会民主党と共産党が大きく議席を増やした。世界大恐慌が翌年襲ってくることなど誰一人想像だにしてはいなかった。