蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

我愛欧羅巴影片(十)

2006年03月08日 05時59分26秒 | 昔の映画
やっとこさ冬季オリンピックも終わり、ホッとしている。それにしてもあのNHKのはしゃぎ様は尋常ではなかった。朝七時台のニュースをそっちのけにして三位にも入れなかった選手に、まるで銅メダルでも取ったかのうような騒ぎでインタビューするものだから、見ているこちらが恥ずかしくなってくる。もっと恥ずかしかったのは不甲斐ない成績だったにもかかわらずインタビューされねばならない選手自身ではなかったのか。世の中には他に知らせなくてはならない事柄がたくさんあるはずなのだが、あんなバカ放送に受信料が使われているのかと思うと、本当に払う気が失せてしまう。まあなかにはお祭騒ぎの好きな連中もいるから、アナウンサーだけが舞い上がっているみたいな呆けた番組でも若干の視聴率は取れるのだろうが。
そんなこととは別に、北イタリアというのはちょっと魅力的ではある。アルプスに近いせいかもしれないが南に比べてなんだか文化水準が高いような印象をわたしは受ける。「文化水準」という言い方は最近ほとんど死語になっているが、これはいわゆる「差別」にかかわるからなのだろうか。何が高くて何が低いのか一概に断定はできないけれども、少なくとも身内の葬式において弔問客や親類縁者の対応で心身ともに衰弱したあげく葬儀屋に大金を支払わねばならないような社会を文化水準が高いとは、わたしには到底思えない。
いや、話題がそれてしまった。北イタリアの話だった。トリノと並んで有名な北イタリアの街というと、これはもうミラノしかない。ところでビットリオ・デ・シーカの名前をきいてすぐにネオ・レアリズモを思い出す読者諸賢はおそらく五十を超えていらっしゃるに違いない。いまではヌーベル・バーグはおろかニュー・ジャーマンシネマさえまともに判らないガキどもが増殖しているなんとも遣り切れない時勢なのだが、わたしたちの年代はデ・シーカやロッセリーニをかろうじて知っている最後の世代なのだろうと思う。
この場は映画教室ではないのでネオ・レアリズモについての詳しい話は抜きにするが、要すれば一九四十年代から五〇年代の中頃までにイタリアで製作された極めて暗~い映画のこと。我愛欧羅巴影片(七)の回で取り上げたピエトロ・ジェルミをこのネオ・レアリズモ作家に入れている評論もあるようだけれども、たとえば「鉄道員」などを観るとこれはけっして暗い作品ではない。どこが違うか一言で表現するなら「希望」があるかないかなのだ。デ・シーカの「自転車泥棒」は映画史の本には必ず出てくるほどあまりにも有名で、最近では廉価DVDで手軽に鑑賞できるようになったがわたしはこの作品を観ようとは思わない。あまりに陰鬱で食欲がなくなってしまうからだ。
そのような傾向の作品を作っているなか、一九五〇年彼はちょっと変わったものを撮った。"Miracolo a Milano"「ミラノの奇跡」という。一九四二年にチョザーレ・ザヴァティニによって書かれた"Toto il buono"「善人トト」を映画化したものだが、これは間違ってもレアリズモでないことだけは確かなので、なにしろラストシーンは主人公のトトとその仲間たちが箒にまたがって空の彼方へと飛び去ってしまうのだから。そんなわけでいつもの通りシノプシスは紹介しませんが、はっきりいって御伽噺です。そしてこの「ミラノの奇跡」が「自転車泥棒」(一九四八年)と「ウンベルトD」(一九五二年)という滅茶苦茶暗~い作品の間に作られているということを考えると、ちょっと意味ありげなような気もしてくる。
上映時間九十七分、むかし風に表現すれば全六巻ということになる「ミラノの奇跡」だけれど、わたしの大好きなシーンはトトが奇跡を起こすところでも、最後の箒飛行でもない。青年になったトトがそれまで暮らしていた孤児院を退院し、行くあてもなくミラノの街をさ迷い歩く場面なのだ。大きな石造りの建物と誰もいない広い道路、北イタリアの古く美しい大都会のなんと荒涼としていることか。このあとトトは持ち前の善良さで住みかにありつくことになるのだが、わたしにはこの寒々しいミラノの街のシーンが鮮烈に記憶に残っている。

我愛欧羅巴影片(九)

2006年01月29日 10時07分54秒 | 昔の映画
近頃は、映画俳優の魅力がすっかり無くなってしまった。だから最近売り出し中の若手女優も男優も名前を憶えることはほとんどない。そもそも映画を観ようとしてもカタカナ表記の題名ではどのような作品なのか想像する気さえ失せてしまう。「プロミス」って聞いても消費者金融業者の悪徳商法を描いた映画くらいにしか思わない。さらにわたしは子供の頃からいわゆるハリウッドの映画スターにはまったく興味がなかった。あの煌びやかな美男美女がたまらなく好きだという人もたしかにいるが、わたしにはとても退屈で空々しくさえ感じられたものだ。
クリント・イーストウッドと聞いて知らない人はまずいないと思う。わたしがこの俳優をはじめて見たのはCBSのテレビ西部劇番組「ロー・ハイド」だった。当然ながらそのときはクリント・イーストウッドという名前を意識して番組を観ていたわけではない。彼の名前を知ったのはセルジオ・レオーネのB級活劇といってよい「夕日のガンマン」を観たときだ。それにしてもこの映画はやたらと埃っぽかった印象がある。西部劇といってもハリウッド物はというとどんなに砂塵が渦巻こうがそんなことはなかった。
悪党を追う賞金稼ぎのイーストウッドと、別の理由でやはり同じ悪党を追っているリー・ヴァン・クリーフ。拳銃の腕が頼りのイーストウッドとどこか知的な雰囲気のあるリー・ヴァン・クリーフの対照がよかった。そしてもうひとり、憎憎しくて不愉快きわまりない悪党を演じていたジャン・マリア・ボロンテ。この映画を観終わった後、記憶に残ったのはイーストウッドではなくてリー・ヴァン・クリーフとジャン・マリア・ボロンテ の二人だった。
村の粗末な飯屋でリー・ヴァン・クリーフが食事をとるシーンがある。もちろん豪華な料理など出てくるわけではない。まるで前菜みたいな簡単なとても料理とはいえないような代物を彼が食べるのだが、このシーンがよかった。主人公であるイーストウッドに感情移入している観客であるわたしは、最初のうち彼をイーストウッドの敵のように思っていたのだが、このシーンで見せるリー・ヴァン・クリーフの演技は彼の食べている料理をこの上なく美味そうに見せ、しかもその表情がなんとも物悲しくて、もしかしたら彼は単なる商売敵ではないのではないかと想像させた。わたしはこれですっかりリー・ヴァン・クリーフという俳優が好きになってしまった。
そしてこのリー・ヴァン・クリーフと双璧をなす俳優がジャン・マリア・ボロンテ。油ギトギトの髭面で、観客に一点の好感も喚起しない「理想的」ともいえる悪党を演じた彼が当時まだ三十二歳だったと後で知ってびっくりした。わたしにはどうじても四十代後半に見えたものだ。髭や油顔はもちろんメイクで、素顔の彼はかなり魅力的な風采だということを知ったのもづっと後になってからだ。それにしてもこの悪党の憎たらしさは今もって忘れられない。まあそれほどの芸達者だったともいえるわけで、もしかしたら彼はこの悪党を演じるのが楽しくてしょうがなかったのかも知れない。
監督であるセルジオ・レオーネは一九八九年に亡くなったが同じ年にリー・ヴァン・クリーフも六十四歳で亡くなっている。そして五年後の一九九四年、ジャン・マリア・ボロンテも六十一歳で鬼籍に入ってしまった。

我愛欧羅巴影片(八)

2006年01月01日 16時54分18秒 | 昔の映画
このシリーズはむかしの映画、といっても戦後一九四五年以降に製作された作品をとりあげている。だからどんなに古いといってもたかだか六十年ほどの前のものに過ぎない。したがって「むかし」などといった表現が適切なのかどうか議論の分かれるところなのかもしれない。でも俗に十年一昔という言い方もあることをみれば「むかし」といったところでさほど的外れではないようにも思っている。いまから四十年前、フランスの映画監督ジャン=ガブリエル・アルビコッコが一篇の美しい作品を撮った。題名は"Le Grand Meaulnes"、日本公開時の題名を「さすらいの青春」という。この作品の原作となったアンリ=アルバン・フルニエの『モーヌの大将』そのものは結構有名な小説で、現在では岩波文庫に天沢退二郎訳があるし、みすず書房からも長谷川四郎訳が『グラン・モーヌ』という題名で出版されている。どちらがより原作の雰囲気を表現できているかは読者諸賢にて判断していただくとして、この作品はフランス語の授業でも取り上げられているそうだから、原文はかなり素直な文章なのだろうと思う。作者であるフルニエは一八八六年に生まれ、一九一四年第一次世界大戦で出征しヴェルダンにて戦死した。"Le Grand Meaulnes"は一九一三年の刊行だから彼の処女作にして絶筆ということになる。どのような物語なのかを延々と紹介するといった野暮な真似はわたしは大嫌いなので、ストーリーに関しては読者諸賢にて本屋さんに足をはこんで本を買って読んで確認してください。
ところで映画のほうだがこれは少々物語を追いにくい。初めて見たときわたしには何が何だかよくわからなかった。この点については直接小説をよんだほうがよい。そのあとでこの映画を観るとかなりの助けとなるのではないだろうか。
アルビコッコの「さすらいの青春」は、わたしの調べた限りでは今現在DVDで販売されていないようだ。今回この原稿を書くに当たって確認のために観たのは随分前にレンタルビデオテープをダビングしたもので(違法行為です。ごめんなさい)画質が良くない。その良くない画質をわたしの頭の中で修正しながら観たものだからすっかり疲れてしまった。

さてこの作品の山場の一つは間違いなくあの上映開始十五分後あたりから始まるガレー家の屋敷での宴会シーンだと思う。印象派絵画のような色の洪水といったらちょっと紋切り型になってしまうがほかに表現のしようがない。屋敷そのものが巨大な玩具箱になり、その中で何日も続けられる子供が主役の結婚披露宴。フランスの童謡がコラージュされた音楽もどこか懐かしさを感じさせる。そして極め付きが、アルルカンが先導してその後を大人や子供が手を繋いで長い長い列を作り、屋敷の中や松明で照らされた庭を踊り行くシーン。このような場面が約三十分くらい続く。わたしはこの光景を観ただけもう充分に満足してしまい、いつもは最後まで観ない。いや本当のことをいうとあのイボンヌ・ド・ガレーの亡骸が抱きかかえられながら階段を降りてくるシーンを観たくないのだ。イボンヌがかわいそうでとても観ていられない。
イボンヌを演じているのがブリジット・フォッセー。ルネ・クレマンの名作「禁じられた遊び」で少女ポーレットを演じていたのは有名な話だ。ところでわたしの個人的な意見として、ブリジット・フォッセーという人は女優には向いていないのではないか。女優というにはあまりに知的で上品過ぎるような気がするのだが、そんな彼女も今年還暦を迎える。
"Le Grand Meaulnes"はなかなか映画化が許可されなかったけれども、ジャン=ガブリエル・アルビコッコによって見事な映像表現が実現した。ところでフランス映画界の巨匠ジュリアン・デュビビエもこの小説を映画化したがっていた一人だった。しかしどうしても実現することができず、その結果代わりに作った作品が「わが青春のマリアンヌ」だった、と淀川長冶先生が言っていた。

我愛欧羅巴影片(七)

2005年11月07日 06時24分58秒 | 昔の映画
むかしの映画館は音響効果がわるかった。日比谷などの一流館はおくとして、渋谷、新宿、池袋などの小屋は総じて音が割れていた。だからわたしの子供の頃の映画館の記憶は、洋画の音声のあの独特の響きだった。今でこそドルビーなんとかシステムですっかり様変わりしてしまったが、例えばイタリア映画などは逆にあの音声の響きがよけいに雰囲気を盛り上げていたようにも思う。
最近めっきり映画を観なくなってしまった。わたしの知っているもっとも新しいイタリア映画といったら「カオス・シチリア物語」や「パードレ・パドローネ」というのだからお話にならない。それにしてもあのオメロ・アントヌッティという俳優はいい。野卑な男から知性ある紳士まで何を演じても様になっているからすごい。そこでアントヌッティ主演の作品について語りたかったのだけれども、ちょっと資料不足ゆえ別の機会にまわすことにして、今回は古いイタリア映画、カルロ・ポンティ製作一九五六年イタリア映画「鉄道員」(Il Ferroviere)を取り上げる。
四十代くらいまでの人には馴染みない作品かもしれない。わたしだってこの映画を初公開当時観ることのできた年代ではないのだから。最初に観たのは高校生の頃だったと思うがどうも記憶が曖昧だ。しかしあのカルロ・ルスティケッリの哀愁漂う音楽だけでも日本人の観客には充分受けた。ま、いうならばイタリア版家庭劇といったらよいだろう。アクションもなければもちろんセックスシーンもない、むかし風に表現すれば「文部省推薦」。あるイタリア国鉄職員の一年間の物語で、主人公の機関士アンドレアを演じているのはこの作品の監督でもあるピエトロ・ジェルミ。いま主人公を機関士アンドレアとしたが、じつは正確な表現ではない。この映画は彼の末息子であるサンドロ少年(エドアルド・ネボラ)の目線でみた家族の物語だからだ。したがってもしかしたら本当の主人公はサンドロ少年かもしれない。
仲間付き合いはよいのだが、家庭では暴君のアンドレアは長男や長女からは嫌われている。しかしサンドロ少年にとっては特急列車機関士の父は英雄的存在である。小学校低学年のころはまだ父親は偉大に見えた、そんな素朴な時代が舞台となっている。しかもアンドレアは第二次大戦中にはレジスタンス活動の経験もある戦争の影を引きずる男だということを忘れるわけにはいかない。だからサンドロ少年にとっては父親は単に機関士として以上に英雄なのだが,いっぽう長男(リナート・スペツィアーリ)や長女(シルヴァ・コシナ)は家庭における現在の父親しか評価しない。母親に手を上げたり、長女が妊娠すれば相手と強引に結婚させて世間体を繕うほんの五十年くらい前、つまりこの映画の舞台と同じ時代の日本でも普通に見られた父親像は、戦後世代の彼らとって因循姑息以外の何ものでもない。そのような中、衝突事故未遂を起こして査問委員会にかけられ、その結果市内を走る小さな貨物列車の運転士に左遷されたアンドレアは自棄となり、ついには当局にのせられてスト破りを犯すこととなる。ここから転落が始まる。アンドレアは家にも戻らず酒場でコールガール相手に安ワインを浴びる毎日を送るようになり、それが元でとうとう身体を壊してしまうのだ。
しかしそこは家庭劇で、最後は職場の仲間とも家族とも和解し、クリスマス・イブのパーティーには自宅に多くの仕事仲間や家族が集い、絶えて久しかった賑やかさが戻ってくる。さてこれで大団円だったら白けてしまうところだがそこは名匠ピエトロ・ジェルミ監督ちゃんと話を作ってくれていて、機関士アンドレアは皆が教会のミサに出かけたあと、残った妻が台所で片付け物をしているとき、ベットに身体を横たえ彼女のために得意のギターでセレナーデをひきながら永遠の眠りにつく。
ところで、この映画のもう一人の主人公それが母親。ルイザ・デラ・ノーチェが演じていたが、これがいいんですねえ。ぽっちゃり型のいかにもイタリア母さんって感じで、彼女の存在が下手すりゃ家族崩壊になりかねないこの一家を救っている。彼女はジェルミ監督の「わらの男」でも似たような設定の役を演じているが、このルイザ・デラ・ノーチェの表情が本当によい。ラストシーン、アンドレアの死から数ヶ月経ち生活に落ち着きを取り戻した一家。グレてすさんだ生活を送っていた長男も更生して父と同じ国鉄で働くようになったある朝、国鉄官舎アパート自室前の階段踊場でサンドロ少年と長男が出かけて行くのを見送る母親。階下の部屋から隣人が出てきてボン・ジョルノと彼女に挨拶する。しかし彼女はその声に気付くことなく、ふっと寂しそうに虚空を見つめる。この一瞬の表情が絶品。まるで泰西名画の世界なのだ。

我愛欧羅巴影片(六)

2005年10月07日 05時18分26秒 | 昔の映画
ヨーロッパ映画はどれを取っても魅力的な作品が多い。だから何を選んだらよいのか、まよってしまう。フォルカー・シュレンドルフの一九七九年度作品「ブリキの太鼓」なんかどうだろう。
わたしはこの原作を集英社版の高本研一訳で読んだ。これですっかりギュンター・グラスにはまってしまった。グラスのダンチッヒ三部作にはこのほかに「猫と鼠」「犬の年」がある。「猫と鼠」は他の二作品にくらべて短くわかりやすい。「犬の年」は象徴劇みたいでちょっとわかり難いところがある。「ブリキの太鼓」も歴史的背景を知らないで読むとなんだかよくわからないところもあるけれども、それでもストーリー展開の面白さは充分に伝わってくる。
映画では主人公オスカルによって語られる、自分の母の誕生にまつわる物語のシーンから始まっているが、原作は違う。冒頭部分を引用すると、
"Zugegeben:ich bin Insasse einer Heil-und Pflegeanstalt, mein Pfleger beobachtet mich, läßt mich kaum aus dem Auge; denn in der Tür ist ein Guckloch, und meines Pflegers Auge ist von jenem Braun, welches mich, den Blauäugigen, nicht durchschauen kann."「告白するするならば、私は療養院の収容者であり、私の看護人が私を監視していてほとんど目を離さないでいる。というのも扉には覗き穴がついているからだ。そして私の看護人の目はあの褐色からできていて、その目は私を、この初心な青い目の私を覗き見ることはできない」(注1)。どこかにあるには違いないのだがどうしても集英社版が見つからず高本訳を載せられなかった。拙訳なので原作の雰囲気をなかなか伝えることができないが、ここで「あの褐色」といわれているのはもちろんナチスの制服の色を意味する。この場面は戦争後、オスカルが療養院(おそらく精神病院)の個室で自伝を書き始めるところ。また映画ではオスカルが戦後ふたたび成長を開始する部分が省かれている。まあそんな違いはあるにしろ、映画だけを観ても結構おもしろかったし原作の雰囲気をかなり忠実に出していたと思う。そもそも映画と原作を比較することは無意味なのかもしれない。
なぜ「ブリキの太鼓」かというと、じつは最近までかかっていた映画"Der Untergang"とどうもダブってしょうがないからなのだ。どこに共通点があるのだと聞かれても、ちょっと説明できない。共通点というよりこれらの作品は互いに逆方向にむかっているようにさえ思える。それでもやはり似たもの同士の感が否めない。まあ結論を急ぐのは止しにしよう。この件についてはもっとじっくりと考えなければならない。
わたしがこの作品で最も印象に残っているシーンは、海水浴場の更衣室でも、ノルマンディーのトーチカの上を行進するフリークス一座でもない。それは馬の頭を餌にしてうなぎを捕るところ。海から引き上げられた馬の頭から何十匹ものうなぎがにょろにょろと出てくるのにはびっくりした。そもそもあんなうなぎ捕りの方法があるなんて知らなかった。映画の中でもオスカルの母アグネスはこれを見て嘔吐していたっけ。
ついでに書き添えると、その日の夕食はうな丼だった。

(注1)"Danziger Trilogie" s.9 Günter Grass Deutscher Taschenbuch Verlag 1999.12

我愛欧羅巴影片(五)

2005年09月07日 03時09分07秒 | 昔の映画
むかしむかし学校でドイツ語初級の授業のとき、アーベントィアと聞いて何のことだか判らなかった。アバンチュールと聞けば恋愛事のイメージしか浮かばなかった。これらがラテン語の"advenio"を語源としていると知ったのはもっと後のことだった。"advenio"の意味は動詞"venio"「来る、生ずる、起こる、(ある状態に)陥る」に方向を表す前綴り"ad"が付いてできた合成語であり、ここから"advena"「異国の人、旅人」という言葉が出てくる。なるほどね、「恋の旅人」か、なかなかロマンチックじゃないか。などと当時のわたしは馬鹿みたいに感心したものだ。
今回はフランスSociété Nouvell de Cinématographie1967年製作の"Les Aventuriers"、邦題「冒険者たち」について。某サイトにこの作品をアメリカ映画であるとしてご丁寧に"The Last Adventure"などという下卑た英語題名まで紹介してくれていたが、これはあくまでフランス映画です。
ところで、この作品についてはもう語りつくされていて、この上いったい何を付け加えることができるのだろう。フランソワ・ド・ルーベの音楽や海上要塞の廃墟風景などの美しさにも多く言及されているけれども、その語られている内容を煎じ詰めれば要するに「三角関係」「マヌーとローランの友情」「レティシアへのプラトニックラブ」この三点に尽きるように思われる。べつに間違いだとはいわない。たしかにそうなのかも知れない。作品中で明示的に物語られていない限り、観客がどうのうように解釈しようとそれは自由だし、むしろそのようにいろいろな解釈がある物語ほど人をひきつけるものだから。しかし解釈があまりに似通ったものに集中してくると、これはちょっとつまらないのではないか。わたしはそう思う。
たとえば上記の三点についていうならば、一番目の「三角関係」、これにわたしは賛同しかねる。三角関係を「一人の男と二人の女、または一人の女と二人の男との間の複雑な恋愛関係」という意味に取る限り、これは主人公三人の関係には当てはまらない。この映画のどこを観てもレティシアとマヌー、レティシアとローランの「恋愛」関係は直接的にも間接的にも見て取ることがわたしにはできないからだ。もしも「恋愛」関係が成り立ったならばこの映画はその時点で破綻してしまう。
「マヌーとローランの友情」、先ほども書いたように間違いではない。でもこの二人の関係を単なる「友情」という言葉に還元してしまうと、とたんに作品全体が薄っぺらくなってしまう。ロベール・アンリコはハリウッド型冒険活劇を作ろうとしたわけではない。マヌーとローランの関係が同年輩同士の友情だけで繋がっているのでないことは、この二人の年齢差を見れば歴然としている。青年期を終わろうとしているマヌーと、老眼鏡をかけなければ計器類が見えなくなってきている中年男ローランの間には「友情」だけではない何かがる。かつて折口信夫は師弟関係は恋愛関係となってこそ本物なのだ、というようなことを言ったとどこかで読んだ記憶があるけれども、折口はもちろんこれを男色という意味で言っていることは確かだが、「恋愛」感情というのが異性間でしか成立しないという考え方のほうがむしろ特異なのであって、そもそも人間同士の関係は「友情」や「恋愛」に厳密に分類できるものなのだろうか。ことはそれほど単純ではないように思う。
そのように考えてくると「レティシアへのプラトニックラブ」というのもかなり紋切り型の解釈ではないか。この場合「プラトニックラブ」は性交を伴わない恋愛関係という意味で使われる。これはこの言葉本来の意味ではなのだが、たしかに「プラトニックラブ」というキーワードは便利だ。しかしそもそも「愛情」とは精神的な衝動なのでる。異性関係には性交のない「恋愛」感情もあれば、「恋愛」感情のない性交もある。現実には後者のほうが多いのではないか。
何回読んでも飽きない小説、何回観ても飽きない芝居や映画には必ず謎が仕込まれていて、この謎の部分が読むごとに、観るごとに変化してくる。物語の本当の楽しみはここにあるのだと思う。

我愛欧羅巴影片(四)

2005年08月07日 14時03分15秒 | 昔の映画
最近古い映画のDVDが安く販売されるようになった。もっとも品揃えという面かから見るとまだまだ貧弱であるのは否めない。例えば今コスミック・インターナショナルから発売されている500円DVDシリーズはほとんどがアメリカ映画でヨーロッパものはクレマンの「禁じられた遊び」とデ・シーカの「自転車泥棒」、そうそうリーンの「第三の男」はイギリス映画だったか。もちろんアメリカ映画にもいいものはある。たとえばロバート・マリガンの「アラバマ物語」とかオーソン・ウェルズの「市民ケーン」とかフレッド・ジンネマンの「真昼の決闘」とかは何度見ても飽きない。しかしそうはいうもののアメリカ映画が圧倒的というのもちょっとさびしい気がする。著作権とかいろいろと問題があってなかなかレパートリーを広げるのが難しいのかもしれないが、わたしにはその辺の事情はわからない。
昨日神保町の書泉グランデを覗いたらこの500円シリーズに「フランケンシュタイン」があったので買ってきた。むかしむかし観たことがあるのだが今回改めて観て、これがなんとも不思議な映画だとういうことを実感した。
このDVDのパッケージには「怪奇映画史に燦然と輝く傑作!!」というキャッチコピーがついているのだけれども、これからしてどうもしっくりとこない。確かにボリス・カーロフ演じるモンスターは不気味でこのメークは間違いなく映画史に残るものだとは思う。でもシノプシスそのもはけっして怪奇ではない。幽霊や妖怪が出てくるわけでもない、そもそもマッド科学者が人工生命を創るということ自体はSF的ではあってもけっして怪奇なことではないから。そういう意味ではこの映画は昨今のホラー物の範疇には入らないと思う。ではどこに分類されるか、「恐怖映画」なら納得できる。怖いことには違いないから。ではモンスターは「悪者」なのか。これも問題。というのもこの映画をちょっと引いて観るかぎり彼が積極的に悪事を行っている場面はないからだ。少女を湖に投げ込んで溺死させてしまう有名なシーンにしてからが彼が積極的に少女を殺す意思があったようにはみえない。少女を殺す直前モンスターは彼女と花を湖に投げ込む遊びに興じている。モンスターにとって少女を湖へ投げ込むことは花を投げ込むことの延長でしかなかった。このシーンでモンスターが笑顔を見せているところからわたしはそのように想像する。そして少女を投げ込んだ直後に見せる動揺した姿から、モンスターが少女が死ぬことなど思ってもいなかったということを確信した。ラストシーン。山上の風車小屋に追い詰められたモンスターが焼き討ちされて死んでゆくところなど哀れを誘う。こうなってくるともうこれは「怪奇映画」などではない。
ところでこの映画での悪役は誰なのだろう。一番の悪役はもちろんモンスターを創った科学者フランケンシュタイン。なにしろ彼こそ三人の犠牲者が出たこの騒動を引き起こした張本人なのだから。ところが一切お咎めなし。しかも最後はめでたしめでたしで幕が下りるといった、どうにも釈然としない結末。この映画が作製された一九三〇年代はこのようなものが「怪奇映画」だったということなのか。まあ娯楽ものなのだから揚足を取るような野暮ったいケチはつけたくないのだけれども、以上のような感慨を持ったのはおそらくわたし一人ではないはずだ。

我愛欧羅巴影片(三)

2005年07月10日 04時57分01秒 | 昔の映画
世界はともかくとして、日本にナチスのステレオタイプを定着させたのは、1960年スウェーデン製作の記録映画「わが闘争」だった。アラン・レネの「夜と霧」(映倫カット版)はたしかその後の公開だったか、どうも記憶が曖昧なのだがいずれにしろ昭和三十年代というのはこの手の記録映画が多く上映された時期だった。
「わが闘争」が当たったものだから配給会社が似たような作品を次々に買い付けたものだと思う。しかしわたし個人としてはレネの「夜と霧」が強烈だった。映画館に張り出されていたスチル写真のなかに目を虚ろにして横たわる死体の大写しがあって、これを見たくて映画館の前を何度も往復したものだ。子供がそんな写真を見ていると必ずどこかのおじさんに叱られる、まだそんな時代だった。死人の真似と本物の死体の印象の違いは、正座して足が痺れたときと感電して痺れたときほどの違いだといえばわかってもらえるだろうか。もちろん当時のわたしは「わが闘争」も「夜と霧」も観ることができなかった。「わが闘争」を実際に鑑賞したのはずっと後になってから、そして「夜と霧」にいたってはさらに後のことで、ある映画研究サークルの上映会でノーカット版を観たものだ。いまではDVDでノーカット版を手軽に観ることができる。
"IL Portiere di notte"英語版題名を"The Night Porter"という映画がある。日本公開時の題名を「愛の嵐」という。シノプシスについはあまりにも有名なのでもう説明しない。知りたいかたはWebサイトで検索してください。そもそも今回話題とするところからしてストーリそのものとはあまり関係がない。さてこの映画にはいくつか有名なシーンがあってそのなかでもダントツが、シャーロット・ランプリングが強制収容所の将校クラブみたいなところで親衛隊の制帽をかぶりあとはズボンにサスペンダーだけというアンニュイなトップレス(懐かしいねえ)スタイルでデートリッヒの歌をまねるシーン、それからラストの道行か。親衛隊の制服で決めたダーク・ボガードと少女用のドレスをまとったランプリングが二人して鉄橋を歩いていくシーンね。
しかしわたしを最も不思議な気分にさせるのは、映画が始まってから二十分ほどのところからの、男性ダンサーがほとんどヌード状態(身に着けているのは水泳パンツ用サポータみたいなものだけ)で親衛隊員たちの前でダンスを披露するシーンです。髑髏マークの制帽に黒い制服の親衛隊員たち、もちろんそのなかにはボガードもいる。これだけでも充分に奇妙なのだけれども、彼らがいる場所というのがこれに輪をかけて随分と奇妙なところなのだ。廃墟のように荒れている屋内。高い天井と白いタイル張りの壁からそこが劇場でも住宅でもオフィスでもないことが想像できる。病院跡とも思えるがそれにしては天井が高すぎる。工場跡か浴場跡、もしかしたら共同食堂の炊事場跡、屠場跡かもしれない。あるいは強制収容所の一画なのだろうか。おそらく監督であるカバーニの意図は、今わたしが想像したようなことすべてを観客にも想像させたかったのであろうと思うのだが、正直なところよく判らない。ただ妙な気分だけがズッシリと後に残るシーンだ。
わたしは思うのだけれども世界中でもっとも映画になっている軍隊はアメリカ軍とナチス親衛隊ではなかろうか。

我愛欧羅巴影片(二)

2005年06月13日 06時44分37秒 | 昔の映画
年に一度か二度、観たくなる映画がある。「ローマの休日」と「わが青春のマリアンヌ」の二本。「ローマの休日」は有名だけれども「わが青春のマリアンヌ」は、今では知ってる人は知っているといった程度の作品になってしまった。それでもウェッブサイトやブログなんかにはけっこう取り上げられていたりして未だに根強い人気のあることがわかる。それにしても1955年製作のこの作品がなぜこれほどまで人を引き付けるのだろう。観れば判るが、答えはいたって簡単で要すれば満たされぬ願望の充足とでもいったらよいのだろうか。そりゃあそうでしょう、一日数時間の授業がある他はなにをしていても良い、鬱蒼とした森の中を遊びまわったり、作曲したり、詩を創ったり、あるいは古典文学の読書三昧、アウトドアスポーツは特に奨励されているらしい。唯一厳格に守られねばならない規則が食事の時刻に遅刻しないことってんだから、少なくともわたしにしてみればこれは天国以上の場所だ。家庭環境に恵まれぬといっても、こんな豪勢な寄宿学校に入学させるだけの財力がある家庭ではないか。両親が離婚しようが愛情をかけてくれなかろうが、そんなことはなんのその、できることなら用務係のゴッドファーザーみたいにこのドイツの山の中の城のような寄宿学校で一生過ごしたいものだ。
わたしがこの映画を初めて観たのはたしかフランスバージョンだった。だから何となく柔らかい雰囲気だったことを憶えている。バンサン(ドイツバージョンではビンセント)を演じたのが、これは後になって調べたのだけれどもピエール・ヴァネック(Pierre Vaneck)という俳優だった。金髪の美青年って感じかな。ところでいま「フランスバージョン」「ドイツバージョン」と書いたが、「フランス語バージョン」「ドイツ語バージョン」でないことに注目願いたい。よくヨーロッパの映画では各国語のバージョンを作成する。ドイツ映画だったら、英語版とかフランス版とかね。なぜそんなことをするのかというと、字幕にした場合たとえばドイツ映画をオランダでオランダ語字幕をつけて上映するとドイツ語とオランダ語が非常に似ているため、観ているお客が混乱してしまうのだそうだ。だから各国語バージョンを作製するわけだけれども、しかしこのとき俳優までは変わらない。同じ俳優が各国語で演じることになる。外国語のできない俳優ならば吹替えで外国語バージョンを作成する。しかしヨーロッパの俳優は概して数ヶ国語に堪能だから、けっこう吹替えなしで出来上がってしまう。で、この「わが青春のマリアンヌ」なのだが、主人公ビンセントや狂言回し的存在のマンフレッドを演じている俳優がフランスバージョンではそれぞれピエール・ヴァネック、ジル・ヴィダルであるのに対してドイツバージョンではホルスト・ブーフホルツ、ウド・ヴィオフとなっている。ちなみにヒロインのマリアンヌ役のマリアンヌ・ホルトと恋敵的な美少女リイズ役のイサベル・ピアは両バージョンとも同じ。つまりフランスバージョンとドイツバージョンでは別の俳優が演じている。だから単に言葉だけ替えてあるというのではない。
さて昨今のウェッブサイトやブログではフランスバージョンへの言及が圧倒的に多いけれども、これはどうしたことだろう。ドイツバージョンは観られないということなのか。いやそんなことはない、ポリドールからVHSでドイツバージョンが販売されている。わたしもこれを手に入れて観てみたのだが、これがいいんですねえ。主人公ビンセントを演じているホルスト・ブーフホルツ(「荒野の七人」にでてたな)がどうもアリアン民族的ではない、いかにもアルゼンチンのロザリオ(ヨーロッパのドイツ人から見たらド田舎)から遥々やってきたって感じの青年なんですね。落ち着き払ったマンフレッドと対称であるからこそますます神秘的に見えてくる。
"Ich höre deine Stimme..."ハイリゲンシュタットの森に響くマンフレッドの台詞がまた聞きたくなった。

我愛欧羅巴影片(一)

2005年05月07日 03時42分18秒 | 昔の映画
いま『去年マリエンバードで』"L'Année dernière a Marienbad"を見終わったところだ。もちろんビデオでだがもう二十回以上は観ているはずだ。フランス映画に興味のあるかたならば、贅言を必要としないほど「有名」な作品である。なぜ有名に括弧を付けたのかというとこの映画がその毀誉褒貶において有名となったからである。まず「誉・褒」についてはこれが映画芸術的に優れた作品だという意見。なんせ1961年ヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞したのだから。「毀・貶」については要すればなんだか判らないということ、嘘かホントか知らぬがニューヨークだったかどこだったかの映画館で、映写技師が上映するフィルムの巻の順番を間違えて何日間も上映していたって話があるくらいだから。
さて主な出演者はデルフィーヌ・セイリグ、サッシャ・ピトエフ、ジョルジョ・アルベルタッツイの三名(今では皆鬼籍に入ってしまった)、舞台は有閑階級の宿泊する巨大なバロック風ホテル。宿泊客たちは「1929年の夏は一週間も氷が張った」といったような当たり障りのない会話を続けている。ストーリー、強引にストーリを語ろうとするならばこれもいたって簡単で、男(ジョルジョ・アルベルタッツイ)が女(デルフィーヌ・セイリグ)をホテルから連れ出そうと説得し続けるというもの。女には夫あるいは婚約者あるいは愛人(サッシャ・ピトエフ)がいるらしい。「らしい」というのは映画の中ではサッシャ・ピトエフとセイリグの関係について明示的になにも説明されてはいないからだ。そしてアルベルタッツイとセイリグの関係もじつはよくわからない。時間的前後関係もロケーションも曖昧なら各シーンが昼なのか夜なのかも不明である。これではフィルムをかける順番をまちがっても観客はもとより違和感など感じようがない。そもそも題名にあるマリエンバード(おそらく現在のマリエンスケ・ラズニェ)はこの物語の舞台ではない。アルベルタッツイがセイリグにむかって「去年お会いしたのはフレデリックスバードかカルルシュタット、バーデンサルサ、それともマリエンバード」という一瞬の台詞に出てくるだけである。アラン・ログ=ブリエの原作(脚本)を読んで何らかの手がかりが得られるかというと、これもまったく期待できない。映画はむしろ原作の縮刷版といった感すらする。監督はアラン・レネだがドイツ国内のロケではあの『ブリキの太鼓』のフォルカー・シュレンドルフが助監督としてニンフェンブルン城の風景などを撮った。
レネのファンならばあの非現実的フランス風庭園の有名なシーンを思い出しただけで興奮をおぼえるだろう。擬古典的男女の石像、サッシャ・ピトエフがジョルジョ・アルベルタッツイにむかってそれがカール三世とその后であると説明する場面があったが、その石像があちらこちらの庭園に出没するのも考えてみれば滑稽だった。はじめてこの映画を観たとき、たしか場所は日本青年館だったと記憶しているが、わたしはよくも同じ石像があちらこちらにあるものだと感心したものだが、はたして全て同じものなのか、あるいはそれぞれ異なっているのか、繰り返し観れば観るほどかえってわたしのほうが曖昧になってきた。