蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

ヤコブ・ケルファー

2005年11月08日 05時54分15秒 | たてもの
古代ローマ時代、ゲルマニア州のローマ軍宿営地であったケルンはコローニア・アグリッピネンシスと称していたそうだが、現代のわたしたちがケルンと聞いて先ず思い浮かべるのがドーム(大聖堂)、オー・デ・コロン、カーニバル。変わったところではチョコレートミュージアム、おそらく世界で唯一の博物館かも知れない。また教養好きの向きにはヴァルラフ・リヒャルツ美術館やローマ・ゲルマン博物館が見所といったところか。
ドイツ観光局ではないので観光案内はこのくらいにしておくとして、しかしこれを書いていてつくづく思い至るのは、昨今の我が日本国におけるあまりにも伝統を蔑ろにする姿勢。たとえば市町村合併でできた新しい市町村名が平仮名だったり、合併市町村名の頭文字を並べたものだったり、といったことが問題視されているけれども、これに伴いいかに多くの歴史ある地名がアホバカ行政によって消滅してしまったことか。もちろんこれは伝統破壊行為のほんの一例に過ぎないのであって、似たような事例を論っていけば切りがない。わたしはヨーロッパ文明を無条件で称揚する気は毛頭ないが、こと伝統を尊ぶ姿勢にたいする彼我の差を思うとき、暗澹たる気分にならざるを得ない。
と、ここまで書いて今回取り上げるヤコブ・ケルファーのケルン、ハンザ・ホッホハウスなのだが、これをはたして伝統を踏まえた新建築と観るか、はたまた調和を乱すゲテモノと観るか。当時の高層建築も今となってはすっかり低層建築になってしまったが、それでも相対的にはやはり他の建物から抜きん出ているこの構築物をどう評価したらよいのか。正直にいってしまうならば、わたし自身の嗜好としてはどうも頂けない。やはり美しいヨーロッパの街に高層建築物は不似合いなのではないだろうか。
ハンザ・ホッホハウスはヤコブ・ケルファーによって一九二四年から二五年にかけて建設された、当時としてはヨーロッパで最高層の建築物だった。十七階建て六十五メートルという高さそのものは、いまでは驚くほどのものでもないが、建物表面のクリンカー仕上げが表現主義全盛期という時代を感じさせてくれる。今時の高層建築のなかにクリンカー仕上げのものなどお目にかかれるものではない。だがナチス政権の時代には、この建物にあまり思い出したくない歴史が付加された。当時ケルン市地域には約百二十ヶ所の中小規模強制収容所が設置されており、この赤レンガの高層ビルディングもまたドイツ帝国国鉄の強制労働者のための収容所として使用され、九百人もの人々が収容されていたそうだ。戦後は一九八九年までWDK(Westdeutscher Rundfunk)西ドイツ放送があったが、その後はドイツの巨大家電、CD会社であるSaturn社が入ったため音楽やHifiフリークたちのメッカになったというが、今はどうなっているのか知らない。もしケルンを探訪の折には訪れてみるのも一興。
伝統とモダンの狭間に身を置いたヤコブ・ケルファーは一八七五年(明治八年)に生まれ、一九三〇年というからこのハンザ・ホッホハウスが完成して丁度五年後に亡くなっている。自分の造った建物が強制労働者たちの収容所に使用されている様子を見ずに済んだのですから、その意味では良い時期に神に召されたともいるが、しかし享年五十五というのはヨーロッパの建築家のなかでは比較的若死の範疇に入るのではないだろうか。そうはいうもののヤコブ・ケルファーは二十年代のドイツにおける指導的建築家の一人だったのであり、映画館、事務所、デパートなどの設計施工の多くにかかわった。そして百三十五日間という工期で造られたこの(当時としては)高層建築であるハンザ・ホッホハウスは、後々の建築家たちにとって立方体形状の機能的建築の雛形となったのである。
ケルファーはアーヘン、ドルトムント、デュッセルドルフ、エッセン、ケルンなどの西部ドイツにおいて多くの高層建築や映画館を併設した商業建築を手がけているが、それらの内部構成や技巧的な設備は、ドイツ国内はもとより諸外国からも多くの注目を集めていた。当時建築界ではエリッヒ・メンデルゾーンの影響がかなり顕著ではあったのだが、ケルファーの作品には優雅さと即物主義がほど良く統合されており、まさにその意味において近代建築家のなかでも、どちらかというと伝統的美意識を色濃く残している作家であったということができる。

写真資料:"Wasmuths Monats Hefte für Baukunst" Verlag Ernst Wasmuth A/G Berlin Jahrgang 1926