蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

羅甸語事始(二十一)

2005年11月14日 06時05分52秒 | 羅甸語
動詞の相ということについて考えてみたい。相"voice"というとなんだか判りにくいが、むかしむかし中学校で英語を習ったとき"The active voice"、"The passive voice"という言葉を聞いたことがあると思う。わたしたちは日本語で「能動態」「受動態」と単純に覚えこまされていた。古典語ではこれらを「能動相」「受動相」という。つまり「相」も「態」も同じことなのだ。ではなぜこのような混在が生じてしまったのだろう。詳しい方がいらしたら教えていただきたい。そういえば古典ギリシャ語には能動相、受動相のほかに中動相なんてのもあったっけ。能動相が「~する」、受動相が「~される」という意味あいなのに対して中動相とはどういうものかというと、例えば「古代ギリシャ語では通常のシテ(['elowse]《彼は洗った》)と並んで,中間態(middle-voice)形式という,シテがその動作によって同時に影響を受ける《affected》場合の形式があった:[e'lowsato]《彼は自分(の体)を洗った》あるいは《彼は自分のために洗った》」(注1)ということだそうだ。このような中動相による表現を現代語では再帰代名詞を用いて行っている。もともとは同じ"voice"、ラテン語では"vox"の訳語なのだからどちらでもよいのかも知れないが、わたしなどは古典語では「態」というよりは「相」と呼んだほうがしっくりする。いずれにせよ幸いなことにラテン語ではそこまで詳しく動作を分類していないので中動相というものはない。
能動相についてはすでに何度も扱っている。"Ego amo te"(私は君を愛する)つまり他動詞+直接目的語の形がその典型。受動相ではこの直接目的語が主格となり動詞は受動相の活用をする。当たり前といえば当たり前のこと。つまり"Tu amatre a me"(君は私によって愛される)となる。ここでちょっと考えてみた。能動相は"Ego"(私)を中心的主題とする表現であり、受動相は"Tu"(あなた)を中心的主題とする表現であるといえるのだろうか。おそらくいえないのだと思う。ラテン語の語順はかなり自由で例えば現代のドイツ語における定型二位の法則のようなものは一切ない。だから"Ego amo te"は"Amo te ego"でも"Te ego amo"でもよい。加えて強調したい言葉を先頭に持ってくる傾向があるので、もし"Tu"(あなた)を強調したいのであれば"Te amo"とすればよい。したがって受動相を用いて"Tu"を強調する必要などまったくない。
ではそもそも受動相とは何なのか。普段から慣れ親しんでいる日本語についてこれを見てみる。受動態とは「動詞の相の一つ。「受身」「被動」「所相」ともいう。「ある事物が動詞の表す動作の影響を受ける」の意を表す。動詞がこの相をとったものを「受動態」(または「受動相」)という」(注3)のであって意味的には、①直接の利害を表すもの、②間接の利害を表すもの、③いわゆる非情の受身、の三種に分類される。①の例としては「彼女は皆に愛される」というもの。これは最も受動らしい受動文。②は「わたしは彼女に泣かれて困った」といった文が該当する。そして③のいわゆる非情の受身こそ本来の日本語にはなかった表現で、たとえば「会議の開会が議長によって宣言された」という文。このような文は翻訳物には必ず登場する言い回しだ。わたしは専門家ではないのでよく判らないのだが、②のような表現はヨーロッパ語にはないのではないだろうか。とすれば①と②は一緒にできて結局ヨーロッパ語の受動相は二種類ということになる。では③の「いわゆる非情の受身」が用いられる場面とはどういうものか。ここで受動相についての観点を主語と目的語との関係から、動詞であらわされる動作そのものへと移してみる。ラテン語は屈折語なので当然のことだが能動相と受動相では活用が変わる。現代語の英語やドイツ語、フランス語だってbe動詞、sein動詞、être動詞といった助動詞を用いて表すが、両者に共通しているのはどちらも文の中で動詞が「目立つ」ということだ。これは大事なことで、つまり受動相とは動作を受けるものを主語に立てる機能ばかりではなくて、動作そのものを強調する機能もあるということ。少々古い統計なのだけれどもドイツ語の場合「受動態に関するある研究書によると,文学作品の中では,動詞のすべての定型のうちで,受動態の占める割合は平均して1.5%,学術専門書6.7%,通俗文学1.2%,新聞9%,料理の本のような実用書10.5%となって」いるそうで(注2)、新聞と実用書でその使用が顕著に見られる。これなど動作の強調機能として受動相が使用されていることの証左となるのではないかと思う。そう考えてくると例えば薬の服用方法の説明文に受動相が頻繁に用いられることも頷ける。薬を「飲む」動作はとても重要なことだからである。
ようやくここから今回のテーマである受動相の活用を見ることにする。最初は基本として第一活用動詞の現在直接法受動相の活用から。"amor","amaris","amatur","amamur","amamini","amantur"、長母音に注目すると"amor","ama-ris","ama-tur","ama-mur","ama-mini-","amantur"と単数二人称、三人称および複数一人称、二人称で長母音となる。ついでだから第二活用から第四活用の動詞についても確認すが、すべて長母音を考慮して記述する。
第二活用:  "moneor","mone-ris","mone-tur","mone-mur","mone-mini-","monentur"(忠告される)
第三活用A型:"regor","regeris","regitur","regimur","regimini-","reguntur"(支配する)
第三活用A型:"capior","caaperis","capitur","capimur","capimini-","capiuntur"(捕まえる)
第四活用:  "audior","audi-ris","audi-tur","audi-mur","audi-mini-","audiuntur"(聞く)
第二活用と第四活用は第一活用に似ているので判りやすいが、第三活用A型と第三活用A型ちょっと厄介だな。"regor","regeris","regitur"という活用が嫌らしいし、長母音が複数二人称だけというのも注意しなくてはならない。しかもこのような活用が直接法現在だけではなくて未完了過去、未来や、さらに接続法の現在、未完了過去についてもあるのだからうんざりする。しかし完了については助動詞sumと完了分詞で構成されるので本動詞の活用はない。これらについてもこれから見ていかなくてはならないのだから前途遥かといった感じ。取り合えす今回は紙数も大幅に超過したことだし、もう止めておこう。とてもじゃないがこれ以上集中できない。さっさと終えてビール、ビール!
さて今回の自分への課題はユスティニアヌスⅠ世が編纂させた市民法大全(Corpus Iuris Civilis)の法学提要(Institutionen)からの抜粋。なんだか難しそうなのを選んでしまった。しかし一度選んだからには邦訳するというのがここで自分に課しているルールなので、逃げ出さずに挑戦してみることにするか。
"Jus autem civile vel gentium ita dividitur: omnes populi, qui legibus et moribus reguntor, partim suo proprio, partim communi omnium hominum jure utuntur: nam quod quisque populus ipse sibi jus constituit, id ipsius proprium civitatis est vocaturque jus civile, quasi jus proprium ipsius civitatis: quod vero naturalis ratio inter omnes homines constituit, id apud omnes populos peraeque custoditur vocaturque jus gentium, quasi quo jure omnes gentes utuntur. Et populus itaque Romanus partim suo proprio, partim communi omnium hominum jure utitur. "(Justinianus, Inst. 1.2.1)(注4)

(注1)『言語』342頁 Leonard Bloomfield著 三宅鴻 日野資純訳 大修館書店 1987年7月20日新装版第9版
(注2)『これからのドイツ語』244頁-245頁 Wolfgang Michel 樋口忠治 新保弼彬 小坂光一 吉中幸平 郁文堂 1988年4月第15版
(注3)『日本文法大辞典』321頁-322頁 松村明編 明治書院 昭和46年10月15日
 わたし個人としてはこのような分類にはちょっと抵抗を感じるが今回はこれに従う。以下日本語の受動態についての言説はすべて村松の『日本文法大辞典』に拠っている。
(注4)『新羅甸文法』100頁-101頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷