蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

芳賀留学日誌(六)

2005年10月19日 07時51分01秒 | 黎明記
九月十九日水曜日午後四時半、プロイセン号は香港に到着し九龍の埠頭に着岸した。芳賀たちが上陸すると一人の日本人がしきりに話しかけてくる。聞いてみると何のことはない日本旅館鶴屋の若者で要するに客引きだった。さっそく彼に連れられてその旅館に赴くと「同店は海岸通五層楼に在りて外観甚だ美なり 然れども其の入口たる急にして狭き長階を攀ぢざるべからず 人をしてまづ一驚を喫せしむ」(注1)。さらに「室内に入るに及びて其陋猥亦想像に反せり 日本婦人二三宿泊せり 器物皆穢くして心地よからず 楼上よりみれば隣屋亦日本旅館の榜あり 一行皆隣屋に入らざりしを憾む」(注2)というのだからよほど酷かったのだろう。そんな旅館に「日本婦人二三宿泊せり」という記述が気になった。今でこそ女性が単身で海外旅行をすることなど珍しくもなくなってしまったが、明治三十三年当時そんなことは想像することさえできなかったはずだ。ということはこの「日本婦人」たちが観光客ではないと思ってまず間違いないだろう。さらに「宿泊せり」というのだから従業員ではない。では彼女たちはこの陋猥で器物皆穢い鶴屋でいったい何をしているのか。どうも素人の女性ではないのではないか。芳賀が詳しく書いていないのでこれ以上のことはわからない。
芳賀は入浴を勧められるが断っている。そりゃそうだろう、こんな穢い旅館のバスだ、わたしだって想像するだけで鳥肌が立てくる。風呂には入らなかったが、芳賀はここで食事を取る。おそらくこれが目的で日本旅館に入ったのだろう。で、その食事は「鯛の刺身、焼肴等あり味噌汁あり 割合に食へたり」(注3)と、こちらは予想に反して結構いけたようだ。なんと「番茶の茶漬数碗を傾けて腹満つ」(注4)。つくづく芳賀矢一という人は健啖家なのだなあ、とわたしは感心した。食事を終えた一行は船に帰る道すがら、写真屋で香港の写真を買ったり煙草屋で葉巻を買ったりしたが、さすが「暑熱堪ふべからず 船室にかへりて冷水を以って全身を払拭し浴衣を穿つ」(注5)。九月中旬の香港だもの、暑いのは当然。
それにしても、芳賀たちは中華料理は食べなかったのだろうか。日記を読む限り其の記述はない。あるいは芳賀の口に合うような料理店がなかったのか。それとも節約しているのだろうか。そこのところはよくわからないが、もしかしたら日本食が食べられるうちは極力食べるようにしていたのかもしれない。ドイツやイギリスに渡れば当分の間御飯に味噌汁なんて夢のまた夢になってしまうのだから。
翌九月二十日「朝食を終へたる後再び九龍より渡船朝星に乗じて香港にいたる 九龍と香港とは相対して其間海上四五町許 朝星、晩星の二舟ありて往復す 賃金上等十銭なり」(注6)。香港を見て回った芳賀の印象は「香港の市街たる繁栄は上海に及ばざるが如しといへども巍然たる層楼相連りて昇降にはエレヴエーターを用ふ 全屋悉く大理石なるが如きは欧米の大都といへども及び難かるべし」(注7)というものだった。香港の繁栄が上海には及ばないというところがいかにも時代を感じさせる。しかし経済的には中国で最も潤った都市であったことは「支那人の富裕なるもの甚だ多く大廈高楼多くは支那人の所有なりと聞く」(注8)といった記述からも窺がえる。アヘン戦争に勝ったイギリスが一八四二年の南京条約で香港島を植民地にしているので、芳賀一行の訪れた香港は大英帝国のコロニーであり他の中国の諸都市と単純に比較することはできないとしても、やはり「欧米の大都といへども及び難かるべし」との感慨通り、芳賀はその経済的繁栄に圧倒されたに違いない。プロイセン号は午後四時に錨を上げた。「上海より搭乗せる一美人妙齢十八九船中の嘱目するところ亦こゝに上陸す」(注9)。三十四歳の芳賀は女性にも大いに興味があった。
夜になって芳賀は宣教師たちと語り合っている。彼らがどこの国の人間なのかは日記には記述されていないが、どうやら欧米人のようだ。「皆支那に布教の行はれ難きを慨く 支那の騒乱を惹起せしものは自己の所為たるを知るや否や」(注10)と憤る芳賀。しかしそういう自分もまた彼らの学術から学ばなければならない、芳賀は内心悔しい思いだったはずだ。だから夏目が宣教師の理屈を論破するのを聞いて快哉を呼んだ。「夏目氏耶蘇宣教師と語り大に其鼻を挫く 愉快なり」(注11)。
香港を離れると、もう芳賀たちの慣れ親しんできた文化圏ではない。この後一行は十月十七日ナポリに到着する。ここからは陸路となり、ロンドンへむかう夏目金之助とは十月二十八日パリで別れることとなる。

芳賀留学日誌 畢。

(注1)『芳賀矢一文集』618頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注2) 同上 618頁
(注3) 同上 618頁
(注4) 同上 618頁
(注5) 同上 618頁
(注6) 同上 618頁-619頁
(注7) 同上 619頁
(注8) 同上 619頁
(注9) 同上 619頁
(注10) 同上 619頁
(注11) 同上 627頁

芳賀留学日誌(五)

2005年09月29日 04時01分37秒 | 黎明記
九月十七日月曜日午後五時、プロイセン号は福州湾に入る。「恰も瀬戸内海に入る観あり」(注1)ということで、一行はやっとひと息ついた。しかしそこで芳賀の見た中国はというと「舷窓より煎餅、ビスケット等を投下するに争うて之を拾ふ 老若男女さながら餓鬼の如し 日本の民如何に貧困下等のものといへども恐くはこの態をなさゞるべしと坐に清国を悲む心あり」(注2)。芳賀も中国人に「煎餅、ビスケット等を投下」したということか。おそらく初めのうちは面白がってやっていたことと思う。ヨーロッパ人たちと一緒になって食べ物を投げ与えている自分が彼ら白人と肩を並べる一等国の国民であることに優越感さえ感じていたのだろう。しかし次第にそのようなことをしている自分自身に嫌悪感を覚えてきたに違いない。「清国を悲む心」は同時に自分自身の愚かさにたいする反省でもあった、とわたしは思いたい。
しかし中国民衆の惨憺たる状況に反して福州は「両岸砲台のある処を通過すれば風光益佳なり 群松の叢生せる山相連り茂林の下時に支那風の村落を見る 山骨露るゝ処飛瀑蜿蜒として下る 一幅南宋画を見る想あり」(注3)といった具合で、芳賀はその風景を褒め称えてもいる。要すれば中国とは東洋の巨大国家なのだ。「煎餅、ビスケット等を投下するに争うて之を拾ふ」人々がいる一方、世界に誇る文化を連綿と継承する文人たちも多く存在する。単に貧富の差が激しいことだけでその国の成熟度を判断するというのはきわめて近代西洋的な発想に過ぎないのであって、欧化路線をまっしぐらに進む明治日本の芳賀にしてもやはり同様の価値基準で中国という国を見ていたのだろうと思う。
九月十八日火曜日「喫煙室に在りて国学史を校訂す」(注4)とある。道中にあってもなお御仕事とはまさに働く日本人の象徴的存在だ。わたしにはとても真似ができないが。ここに書かれている「国学史」とはおそらく明治三十三年十一月に國語傳習所から刊行された『國學史概論』のことだろう。

(注1)『芳賀矢一文集』617頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注2) 同上
(注3) 同上
(注4) 同上 618頁

芳賀留学日誌(四)

2005年09月18日 04時25分33秒 | 黎明記
先ずはごめんなさいの話。前回の終わりの方で「梨園叢書」について触れた。要すればわたしの浅学ゆえこの書籍についてはよく判らないというのが結論だった。しかしこれではなんとも居心地がわるい。そこで芳賀留学日誌(三)の回を公開した後、再度『支那學藝大辭彙』を調べてみると「梨園叢書」ではなくて『梨園集成』が載っていた。おそらく芳賀はこれのことをいっていたのではないか。「【梨園集成】十八巻、清の李世忠編刊、光緒六年成る。皮黄戯四十六種の全本および散齣を集む。概ね當時の新作に係り、其中「魚蔵剣」、「取南郡」、「罵曹」、「探母」、「走雪」等今に行わるゝ齣少からず」(注1)というものだそうだ。光緒六年といえば西暦一八八八年、明治の二十一年にあたる。芳賀渡欧の十二年前だから当時としてはまだ新刊書に属していたこの中国戯曲の叢書を彼は上海の本屋で探していたということらしい。
それにしてもほんの少しの手間を惜しんだばかりに、とんでもなく恥ずかしい思いをする羽目になってしまった。発行年やその内容から勘案すれば桂湖村『漢籍解題』などに出ているわけが無い。『日本文学大辭典』に載っていないのは、国文学に大した影響を与えなかった書物だったからだろう。などとうっかり書くとまたとんでもないどんでん返しに会うとも限らないのでこの辺りで止しにしておくけれども、自分が不案内な分野の事柄はよくよく注意して調べなくてはならない、ということを改めて痛感させられました。
さてここから本題。
「食卓に集まる蠅を見るに太りて頭赤し」(注2)。上海東和洋行に止宿する芳賀たちの昼食のテーブルは、わたしたちの感覚からするとあまり清潔とはいい難い。食後「清人来りて筆墨を購はんことを勧む 夏目氏余と少許を購ふ 懸直の多き驚くに堪へたり」(注3)。まあ中国だからしようがないか。ちなみに「懸直」は「掛け値」と読む。このような用字は広辞苑の第四版にも載っていないので、使われなくなって久しいのだろうと『大言海』を見たらこちらにも出ていなかった。
九月十四日午後三時、一行は再び小蒸気ブレーメンでプロイセン号に戻る。「今夜新旅客本船に入るもの頗多く談話室食堂大に賑う 別を送りて来りし人々七時頃かへりゆくとて接吻処々にておこる 余に取りては一奇観たり」(注4)。芳賀ばかりではない。じつは現代に生きているわたし自身も、目の前で接吻をされると「奇観」だと感じてしまう。これはなにも日本人が行うのが「奇観」だというだけではない。西洋人のそれを見てもやはり「奇観」であり、しかもそれらは欲情の一欠けらも感じられない、おそろしく薄汚く見える「奇観」なのだ。これはわたしの倫理的な見解などではなくて、まったくの生理的な印象だからどうしようもない。
台風到来のため出航が大幅に遅れ、翌十五日土曜日、午後二時に錨を上げたプロイセン号は二時間ほど航行して再び停船するといった状況で、十六日午前二時頃ようやく正常な航行に入ったものの波は依然として高く、みな船酔いに苦しめられながら次の寄港地である福州へと向かったのである。

(注1)『支那學藝大辭彙』1333頁 近藤杢編 立命館出版部 昭和20年6月5日再版
(注2)『芳賀矢一文集』616頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注3) 同上 616頁
(注4) 同上 616頁

芳賀留学日誌(三)

2005年09月09日 07時01分53秒 | 黎明記
芳賀矢一、夏目金之助、藤代禎輔、戸塚機知、稲垣乙丙の一行は明治三十三年九月十三日、上海に到着した。
「五時眼覚む 蓬窓より海面を覗へば濁浪瀰漫船は早く揚子河口にあるなりけり 九時前小蒸気ブレーメンにに搭じて大江の支流黄浦江に遡る 両岸の楊柳翠色滴るが如し 處々に支那流の楼門を見る 農家亦その間に点綴す 航行二時間十一時の頃上海に達す」(注1)。当時の船旅では日本から上海まで五日もかかったわけだ。今だったら飛行機で約三時間少々で行ける。さて当然ながら一行は上海でもあちらこちらと歩き回っている。投宿したのは鉄馬路にあった東和洋行という日本旅館だった。日本旅館といっても設備は洋風ホテルなみだが、食事に日本食が供されるところに「日本旅館」たる所以がある、と芳賀は書いている。夜の九時頃になって芳賀たちは街の散策に出かけた。
「南京路を歩し左折して四馬路にいたる 同路は夜店のあるところにして戯場、寄席、酒楼等櫛比し京都京極通の趣あり 一酒楼に芸妓の盛粧して客を待つを見る 又轎に乗りて街上を往復するもの多し 轎は二人にて之を肩舁し一人提灯を持ちて前に立つ 提灯の大さ吉原遊廓の古図を見るが如し 一書肆に就きて試に梨園叢書の有無を問ふに無しといふ」(注2)。それにしても時代を感じてしまう。四馬路の賑わいを「京都京極通」に比較している、つまり当時の東京には上海に比肩しうる繁華街がまだなかったということか。また「吉原遊廓の古図」といわれても今日では好事家以外にはぴんとこないに違いない。勝手に想像するのだけれども、芳賀自身吉原遊郭に偶さか通っていたのではないか。しかしあからさまに書くことを差し控え「古図」としたのだと思う。芳賀はこの日記が将来公表されることを明らかに意識して書いているからだ。
ここでわたしが気になったのが「一書肆に就きて試に梨園叢書の有無を問ふに無しといふ」の一文。「梨園叢書」ってなんだ。もちろん「梨園」がナシ畑に関係するものでないのは当たり前としても、浅学のわたしは「梨園叢書」を知らなかった。しかし近藤杢の『支那學藝大辭彙』(注3)を見ても藤村作の『日本文学大辭典』(注4)にあたってみても該当する項目は載っていなかった。桂湖村の『漢籍解題』(注5)にも出ていなかった。芳賀が適当な書題をいって本屋をからかっているとも思えないので、もしかしたら本来の題をつづめて言ったのかもしれないし、あるいは「梨園叢書」を「梨園」つまり演劇界に関する文を収めた叢書一般というほどの意味で言ったのかもしれない。

(注1)『芳賀矢一文集』613頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注2) 同上
(注3)『支那學藝大辭彙』近藤杢編 立命館出版部 昭和20年6月5日再版
(注4)『日本文学大辭典』全7巻 藤村作編 新潮社 昭和12年2月25日
(注5)『漢籍解題』桂湖村 明治書院 明治39年2月7日再版

芳賀留学日誌(二)

2005年08月30日 06時24分24秒 | 黎明記
芳賀や夏目を乗せたプロイセン号は九月九日日曜日、神戸に入港する。今だったらもうとっくにシアトル辺りに到着している頃だ。まだまだ日本国内旅行の雰囲気から脱してはいない。芳賀の日記をみる。
「右顧左眄九時半頃神戸湾に入る 十時半投錨 小汽船に下れば山田子三郎氏迎へに来る 埠頭には 山本豊、たづ子を伴いて余を迎ふ 同行諸氏は午餐を喫せんとして中常盤に向ひ余はたづ子と同車巖君の官舎に入る」(注1)。前日三四十人の見送りのもと横浜港を出帆した芳賀だったが、さっそく神戸でお出迎え。これじゃあさすがに洋行の実感は沸いてこないだろう。なんと長女の田鶴子(六歳)まで来ているのだ。何故これほどまで連綿と別れの儀式をしなくてはならないのか。この状況を想像することは今となっては少々難しい。少なくともわたしには理解できない。いくら洋行が命の危険を伴うとはいえ、これではちょっとやり過ぎではないか。この日芳賀は昼食と夕食を陸上でとってたり、見送りの礼状を書いて投函するついでに田鶴子を勧工場につれていったりして過ごしている。プロイセン号は午後十時に神戸を離れた。
九月十一日火曜日、プロイセン号長崎到着。船は午後五時出帆予定(実際に出帆したのは午後九時)なのでまたもや上陸。「一行車を連ねて馬渕鋭太郎氏を県庁に訪ふ 参事官鈴木兼太郎氏亦大学の出身なり 談話半時許一行は向陽亭に入り沐浴し午餐を喫す 和洋折衷の料理にして甘味口に適す 三時同亭を辞して大波止場にいたる 馬渕、鈴木氏亦送り来り県庁の小汽艇を艤して本船にいたる」(注2)。「今夜いよいよ日本を離るとおもへば転旅袖の濡ふを覚ゆ」(注3)とはまったく紋切り型表現だが、これで日本ともお別れということで、芳賀矢一にしても万感胸に迫るものがあったに違いない。しかし考えるに、このようにやれ神戸だ長崎だといちいち停泊するから、乗っている方も未練がましくなてしまうのではないか。
『おくのほそ道』によれば芭蕉一行の見送りは「むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに別離の泪をそゝぐ」(注4)とある。だらだらと見送りするのはどうも日本の伝統らしいが、それでもたかだか深川六間堀の庵から千住大橋までだ。横浜を出た後神戸や長崎でまたも見送りというのは、やはり異常としか思えない。このようなことは蒸気船という文明の利器のしからしむることなのか、あるいは明治のエリート一般の成り上がり者的慣習なのかよくわからないが、わたしの個人的な趣味からすると野暮ったい感じがしてならない。もっともいまのサラリーマンは、もっと野暮ったいことを平気でやってるが。

(注1)『芳賀矢一文集』612頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注2) 同上 613頁
(注3) 同上 613頁
(注4)『おくのほそ道』10頁 松尾芭蕉著 杉浦正一郎校注 岩波文庫 昭和49年2月20日第19刷

芳賀留学日誌(一)

2005年08月22日 06時20分12秒 | 黎明記
夏目金之助は明治三十三年(一九〇〇年)英国留学のため、九月八日プロイセン号に乗船して横浜港を出航した。このとき夏目と同じく欧州留学のため同船したのが芳賀矢一だった。道中の様子を芳賀は日記に残している。
「家をいづる時残月天に在り 車を連ねて新橋にいたる 同行の諸氏亦踵いで到る 知友等の停車場に送るもの百人を超ゆ 更に汽車に搭じて横浜に見送りたるもの亦三四十人あり 六時四十分横浜に着 直に波止場にいたりプロイセン号に搭ず」(注1)。日記から九月八日は土曜日だったことがわかるが、それにしても慌しいかぎりだ。新橋駅で百人以上に見送られ、しかも四十人ちかくが横浜まで着いていったというからすごい。とはいってもこれはいまから百五年も前の話、洋行が片道一月半もかかった時代なのだ。わたしはこの人数よりもむしろ出発時刻に興味を引かれる。「六時四十分横浜に着」ということはおそらく五時頃には新橋駅に到着していたはずである。そこから類推して自宅をたったのが四時少し過ぎ頃か。これはたまらない。わたしだったら前日に横浜のホテルにチェックインする。既にグランドホテルが明治三年に建てられているのだから、芳賀はこれは利用できたはずなのにどうしてこんなに慌しい旅立ちを選んだのだろうか。
「船室は百三号にして藤代、稲垣両氏同室なり 夏目、戸塚の二氏は隣室とす 八時奏楽とともに発船す」(注2)。なるほどね、午前八時出航か。それにしてもなんとも際どい出発だ。ここで面白いのは各自個室ではないということ。芳賀先生にしたところで見送りが百人集まろうがしょせんはこの程度の待遇で旅をしなくてはならなかったわけだ。藤代禎輔は一高教授から京都大学の文学部長を勤めた人だし、稲垣乙丙は東京高等師範学校教授で,明治、大正期に幅広く活躍した農学者。そして戸塚機知はなんとあの征露丸(正露丸)の元となる薬を創り出した人なのだから、とにかく錚々たるメンバーだということがわかる。そんな人たちが相部屋の船室というのでは、明治政府もケチったものだ。
「午後三時頃にやありけん驟雨俄にいたりて甲板を一洗す 浮雲往来して富嶽は僅に其頂を認めたるのみ 船遠州灘に入る頃より波浪頗る高く船体やゝ動揺す 同行の諸氏多少の船暈あり 夏目氏最甚しく晩餐に与からず 余幸に毫末の異感なし」(注3)。横浜港出航後七時間経ってようやく遠州灘に入っている。まったくのんびりしたものだ。現代だったら東京から浜松まで新幹線ひかりで約一時間半くらいだろうか。ここには夏目金之助と芳賀矢一の対照がはっきりと出ていておもしろい。写真で見る芳賀の巨躯から想像される彼の健啖家ぶりと、後々ロンドンで欝状態に陥ってしまう夏目の繊細さが直接伝わってくるからだ。飛行機だったら成田を飛び立ってしまえばもう日本に繋がるどのような光景も見ることはできない。一方当時の船旅はというと出航二日目でもまだ紀州沖から淡路島と、いつまでも続く日本の景色。これではわたしなど三日目でもう家に帰りたくなってしまう。その意味では心身ともに堪える旅であったろうと想像する。

(注1)『芳賀矢一文集』611頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注2) 同上
(注3) 同上