蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

ふと、昔を思い出す。

2005年11月17日 04時33分30秒 | 彷徉
スズラン形をした街灯を見かけなくなってずいぶんと経つ。むかしは商店街といえばこのタイプが一般的だった。もちろん蛍光灯が普及する以前のこととて、ガラスでできたスズラン笠の中身は百ワット電球がねじ込まれていたことと思う。そんな商店街が郊外にはあった。
わたしが子供の頃は、たとえば東横線だったら渋谷を出発して都立大学あたりまで来るともう郊外だった。呑川沿いの中根町には畑が広がっていた。
まだ東横線祐天寺都立大学間の路線が高架になる以前のはなし。踏切を渡った目黒通り側の駅前にマーケットがあった、もちろん今のようなスーパーなどではない、どちらかといえばショッピングセンターに近い形態だったと思う。おもてから覗くと中はまるで洞窟のように暗く見えるのだが、迷路然とした店内に入ると裸電球で照明された台の上には食料品が山積みにされ、客でごった返していた。また暗渠になる前の呑川はまさにドブ川状態で、近隣家屋からの排水が注ぎ込み小物は空き瓶から大物は古い自転車まであらゆる生活雑貨が投棄されていた。
かなり以前の回でわたしの祖父母が中根町に住んでいたと書いた。なんの巡り合わせかわからないが現在その町にわたしが住んでいる。祖父母の生きていた頃とはかなり様変わりしてしまったけれども道の様子などは当時のままで、朝早く散歩などをすると何十年も前の思い出が縷々蘇ってくる。中根公園は今でこそ綺麗に整備されて子供のための遊具なども備え付けられているが、むかしは雑木林の斜面でわたしは「山」と呼んでいた。近所の子供と連れ立ってそこに行き、三つ葉などを採ってきたは、それを祖父母の家で吸い物に入れて食べたりしたものだ。当時中根町でのわたしの行動範囲はというと、南北は東横線の都立大学駅からこの「山」までの間。東西が東横線の線路と中根小道の間だった。だから「山」の向こう側の緑ヶ丘や呑川の東側、平町などはもう本当に別世界だったのだけれど、何のおりだったか忘れたが碑文谷公園には一度だけ行った記憶がる。
そういえば、線路の近くにバレースタジオがあったのを思い出した。近所の可愛い女の子に連れられてちょっと覗いたことがある。下町の職人の倅であるわたしには別世界のように思えた。まだまだ西洋というものが高値、そういう時代だった。