蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

ひさしぶりだね、ジュンク堂。

2005年11月12日 07時13分06秒 | 本屋古本屋
池袋のジュンク堂を一年半ぶりに覗いてみた。
この店はフロア面積が広く、加えて本を陳列してある棚が壁のように高いので、まるで書庫の中にいるような感覚を憶える。先だってオープンした丸善丸の内本店もこの棚を真似ている。商品が多く展示できるのが長所というだけではなくて、落ち着いて本を選ぶことができるのでわたし自身は気に入っているが、中には威圧感を憶える人もいるかもしれない。とくにうれしいのが人文書籍売り場の商品配置で、洋書と和書が同じ場所に置かれていること。むかしみたいに洋書をありがたがる時代ではない。そもそも特別に洋書のコーナーを設けることを、わたしは以前から疑問に思っていた。なぜ仰々しくForeignBookなどと看板を掲げて特設の売り場を置かなければならないのだろう。冷静に考えてみるとこれはとても奇妙なことだ。同じ本ではないか、日本語だろうが英語だろうが、タガログ語だろうが、スワヒリ語だろうが、言語で分類するのではなくて内容で分類すべきではないか。今だって新刊書店で量子力学の専門書と谷崎潤一郎の本が同じ棚に並ぶことはない。だから大修館から出ているヴィトゲンシュタインの『哲学的文法』の隣に底本であるBlackwell版の"Philosophische Grammatik"があってよいし、そのほうが自然のような気がする。
ところが残念なことに、このような配置は人文書籍と美術書だけらしいのだ。邦訳と原書を並べて置いて欲しいのは特に外国文学のジャンルではないだろうか。カポーティの初期作品などを文庫版で読んで、今度は原語で読みたくなったらわざわざ洋書コーナーで探さなくても同じアメリカ文学の棚で見つけることができる、そのような並べ方をわたしは求めている。もちろん英語に限ったことではない。文庫版として平凡社ライブラリーに収められ今では気軽に読めるようになった干寶の『捜神記』だが、漢文のものが中華書局の古小説叢書に入っている。だから中華書局版を同じ場所に置くというのも面白い。岩波文庫の『ドン・キホーテ』の隣にはスペイン語の仮綴本。聖書と並んでセプトゥアギンタやヴルガタを揃えておくのも一興だろう。もっとも今書いたような商品の展示をするとなると版型がばらばらになってしまい、たいそう置きにくくなるし見苦しくもなる。理想と現実にとても大きな落差があることは確かなのだけれども、人文書籍コーナーの試みをその他のカテゴリーにも広めて欲しいものだと、わたしは客の立場からそう思った。
ジュンク堂の帰り道、東通りを都電荒川線の雑司が谷停留所まで歩いた。昼間は知らないが、夜の東通りはちょっと風情がある。繁華街を少し離れれば商店も疎らとなり、脇道に入ると住宅街が広がっているような閑静な家並みが続く。そんな中にぽつんと粋な鮨屋や小奇麗なレストランなどがあったりするとちょっと入りたくなってしまう。左手にはサンシャイン・60の窓灯りが耿々と輝いて見える小道をさらに進んで行くと都電の踏切に差し掛かり、渡った先が夏目漱石眠る雑司が谷墓地。夜間なのでさすがに墓地には入らなかった。
雑司が谷停留所から一つ先の東池袋四丁目まで乗り、地下鉄に乗り換えて帰宅した。