蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

ぎょうざ定食のころ。

2005年11月18日 05時49分12秒 | 本屋古本屋
何年か前、江東区にある日本経済新聞社南砂別館に仕事で数ヶ月通っていたことがある。
近所にはあの有名な砂町銀座商店街があった。昼食は南砂別館のすぐ近くにある小さなラーメン屋か、明治通りに面した中華料理屋、それに砂町銀座商店街の食堂と決めていた。理由は味が自分の舌に合っていたからだ。これはとても大事なことで、わたしはいくら安くても不味いものは絶対に口にしないことにしている。わたしの知り合いには安物志向の人もいて、たとえば不味い不味いといいながらも吉野家の豚丼なんぞで食事を済ませているが、考えただけで吐き気がしてくる。その点、上に上げた三軒の店はどこも値段と味のバランスがよい店だった。あと、城東警察署の近くにも食堂があったのだがどうもこちらは味、雰囲気ともに馴染めなかった。
砂町銀座商店街の食堂は文字通り街の食堂といった感じで和洋中華と、簡便だがなんでもあった。わたしが頻繁に注文したのが餃子定食でこれは美味かった。客筋としては近所の住民やワイシャツ姿の勤め人が多かったように思う。勤め人の客が目立つ店は概ね美味くて安いと決まっている。フロアから見える広い厨房は南向きで明るく、湯気の立ち込める中で店の主人がかいがいしく料理を作り、それをおかみさんが客に運んでくる、気分のよい店だった。わたしの食事時間は比較的短い方だと思う。だいたい十五分くらいなものだ。しかし心の落ち着く店にはなるべく長居しくなる。だから料理が思いのほか早く出てきてしまうとなんだか損をした気分になる。かといって遅いのも困るのだが。その食堂は料理の出方が遅くもなくまた早くもなく、わたしが痺れを切らす前には必ず出てきたものだ。近くには有名な激安寿司屋もあったが、そこにはついに一度も入ったことがない。わたしは並んで待つというのが大の苦手で、いや苦手という以上に腹が立ってくるので、どれほど美味いと評判でも客を並ばせるような店には自慢じゃないが金輪際入ったことがない。
ちょっと古本が見たくなると地下鉄東西線の南砂町駅近くのたなべ書店駅前店まで足を延ばした。そこは砂町銀座商店街とまったくの反対方向なのでこちらに来るときには餃子定食は諦めねばならなかったが、そんなおりには清洲橋通と丸八通の交差点にある牛丼屋で我慢したものだ。一度だけたなべ書店本店近くの回転寿司屋で昼食をとったことがある。店に入ったとたん雰囲気の暗さに圧倒された。客も暗けりゃ店員も暗い、おまけに回っている寿司は高いときてはもうなにもいうことはない。二皿食って退散した。
ところでこのたなべ書店は主に白っぽい本を扱う店で、駅前店は文庫や新書それに実用書、小説といったものを、また本店ではコミックやビジュアル物を中心に品揃えしている店なのでわたしはあまり期待していなかったのだが、それでも駅前店で関口存男の『独作文教程』なんて本を定価五千五百円のところ二千六百二十五円で買った。美本だったのでこの値段は安いと思う。本店では飯島洋一著『アメリカ建築のアルケオロジー』二千四百円を千二百六十円で購入、こちらは挨拶代わり。慧眼なる読者諸賢におかれては既にお気付きのことと思うのだが、売値が定価の半額なのだ。じつはこの店は基本的に古書的価値とは関係なく定価の何掛けで商品の売値を決めている。だから場合によっては安い買い物もできるのだが、逆に本を引き取って貰うのには古書の市場価値と関係なく評価されてしまうのであまり良い店とはいい難い。しかしコミックやアイドル写真集を持っていく分には向いているかも知れない。
序ながら、ちょとチェックしてみたら南砂別館に通っている間にたなべ書店で購入した本はほとんど文庫本や新書本だった。

ふと、昔を思い出す。

2005年11月17日 04時33分30秒 | 彷徉
スズラン形をした街灯を見かけなくなってずいぶんと経つ。むかしは商店街といえばこのタイプが一般的だった。もちろん蛍光灯が普及する以前のこととて、ガラスでできたスズラン笠の中身は百ワット電球がねじ込まれていたことと思う。そんな商店街が郊外にはあった。
わたしが子供の頃は、たとえば東横線だったら渋谷を出発して都立大学あたりまで来るともう郊外だった。呑川沿いの中根町には畑が広がっていた。
まだ東横線祐天寺都立大学間の路線が高架になる以前のはなし。踏切を渡った目黒通り側の駅前にマーケットがあった、もちろん今のようなスーパーなどではない、どちらかといえばショッピングセンターに近い形態だったと思う。おもてから覗くと中はまるで洞窟のように暗く見えるのだが、迷路然とした店内に入ると裸電球で照明された台の上には食料品が山積みにされ、客でごった返していた。また暗渠になる前の呑川はまさにドブ川状態で、近隣家屋からの排水が注ぎ込み小物は空き瓶から大物は古い自転車まであらゆる生活雑貨が投棄されていた。
かなり以前の回でわたしの祖父母が中根町に住んでいたと書いた。なんの巡り合わせかわからないが現在その町にわたしが住んでいる。祖父母の生きていた頃とはかなり様変わりしてしまったけれども道の様子などは当時のままで、朝早く散歩などをすると何十年も前の思い出が縷々蘇ってくる。中根公園は今でこそ綺麗に整備されて子供のための遊具なども備え付けられているが、むかしは雑木林の斜面でわたしは「山」と呼んでいた。近所の子供と連れ立ってそこに行き、三つ葉などを採ってきたは、それを祖父母の家で吸い物に入れて食べたりしたものだ。当時中根町でのわたしの行動範囲はというと、南北は東横線の都立大学駅からこの「山」までの間。東西が東横線の線路と中根小道の間だった。だから「山」の向こう側の緑ヶ丘や呑川の東側、平町などはもう本当に別世界だったのだけれど、何のおりだったか忘れたが碑文谷公園には一度だけ行った記憶がる。
そういえば、線路の近くにバレースタジオがあったのを思い出した。近所の可愛い女の子に連れられてちょっと覗いたことがある。下町の職人の倅であるわたしには別世界のように思えた。まだまだ西洋というものが高値、そういう時代だった。

閑古鳥を鳴かせてはいけない。

2005年11月16日 06時15分29秒 | 彷徉
わたしは気が塞ぐような日には、いきなりどこかへ出かけることにしている。別にどこでもよいのだけれども、極端に人出の多いところや少ないところはいけない。ちょっと勝手だが手頃な混雑が必要だ。この前は横浜橋商店街を散策した。いや散策とは大げさかも知れない。商店街の通りを一往復と脇道の店を見て回っただけなのだから。
ここの雰囲気は浅草のひさご通り商店街とよく似ている。といっても浅草の方が幾分猥雑性が勝っているように思う。もっともわたしは夜の横浜橋商店街を知らないので、この判断が正しいのかどうかは判らない。
ここはこれまでに何回か訪れているが、いつも客で賑わっていて「手頃な混雑」を満喫できるのがよい。客足の途絶えた商店街は物悲しいというよりも気味が悪い。前に「幻想舊書舗」の回でも少しくふれたけれども、高崎の中央ぎんざ通りやスズランデパートの閑散とした光景はまるでトワイライト・ゾーンの世界だが、それにくらべてこちらは生きた人間の息吹を感じることができる。商店街の目玉はなんといっても食品だろう。生鮮食品と並んで総菜屋が多いのがいかにも下町的なところだ。夕餉の買い物客を眺めていてなんとなく郷愁を覚えるのは、わたしが年をとってきたからだろうか。といってもまだ老人と呼ばれるほどの年齢ではない。
じつは中村川を渡った中村町側にも商店街が続いているのだけれども、こちらはかなり渋い。中央ぎんざ通りとまではいかなくとも下手をすればそんな状態になりかねない、ちっと「午後三時」的な店舗がならんでいる。このような雰囲気が好きな人にはたまらないところなので、暇なおりには出かけてみるのもよいかも知れない。港町とは違ったむかしの横浜がそこにはある。このときは疲れ気味だったので中村町まで足を延ばさず、三吉演芸場の前で伊勢佐木町方面へと引き返した。
コーヒー屋で一休みした後、市営地下鉄で横浜駅に向かった。

古本は高くないって?

2005年11月15日 05時23分40秒 | 古書
泉井久之助の著した『ラテン広文典』という本がある。長らく品切れとなっていた本で、最近白水社の創立90周年記念出版として復刊された。ラテン語の入門兼文法書で内容的にも評判の高いものなのだが、残念ながら学校のラテン語授業の教科書には使えない。というのも各節に設けられているラテン語和訳の問題について解答が掲載されているからである。一概に良いとも悪いともいいかねるのだが、わたし個人としてはこのような解答は不要だと思う。難しい問題に出会ったとき解答に頼ってしまうからだ。さてこの『ラテン広文典』だが、品切れになっていた当時なんと二十万円で売買されていたという噂を聞いてビックリしたが、わたしはすぐにガセだと思った。ちょと古書の値に触れていれば、この手の本が売値で二万円を超えることが先ずないことなど簡単に見当が付く。もっとも個人的に売買されたとなると話は別だが。
古書の市場価格に疎い人は絶版や品切れになった本は業者の間で押しなべて高価で取引されていると思っているようだ。だから『ラテン広文典』に二十万円の値が付いたなどという戯けた話が横行することとなる。この復刊本は現在定価四千八百円で売られている。おそらく品切れ当時もこのくらいの値段で古書市場に出回っていたのではないだろうか。いまでは良質のラテン語入門書が多く出ているし、文法の専門的知識を得ようとするような専門家ならば外国語の本をあたるはずで、わざわざ『ラテン広文典』など閲覧しない。もし市場を通さず個人的にこれを二十万円で買った人間がいたとすればとんだ大間抜け者に違いない。
ちょっと前の朝日新聞の投書欄に古書の安値を嘆く投稿を見た。いや、気持ちは本当によ~くわかります。大枚はたいて買ったナントカ文学全集が二束三文どころかただでも引き取ってはくれない現実に直面すれば誰だって一言いいたくなるのは人情というもの。でも市場はそんな個人的な思いとは別の原理で動く。そりゃあ誰だって自分の愛着ある書籍は高値で取引されることを望むものだが、高値というのは買い手があって初めて付くものだという簡単な経済原則を忘れてはいけない。自分の蔵書がたとえば一冊辺り何十円単位で引き取られるのを見て、自尊心までも否定されたような気分になるのは、特にまじめな市井の勉強家に多いものだ。
身も蓋もない話なのだけれども、素人の蔵書はまず金にならないと思ってよい。古書店に買い取りを頼んでも「うちでは引き取れません」といわれるのがオチなのだ。これには持っていく側の認識不足がある。まず持ち込もうとする古書店がどこにあるかが問題だ。近所にある古本屋にいきなり「キリスト教神学史」なんか持ち込もうとしよう。でもここでちょっと考えてみて欲しい。自分の住んでいる街がどこにあるのかということを。例えば葛飾区の商店街にある古本屋だったとしようか。近所の住民には浄土宗、浄土真宗の檀家や日蓮宗の信徒はいるかもしれないがクリスチャンはカトリック、プロテスタントを含めていったい何人いるのだろう。さらにクリスチャンではないがキリスト教に興味のある人間はどれほどのものか。つまりここでいいたいのは需要と供給のバランスなのだ。万が一その古書店が「キリスト教神学史」を幾許かで引き取ったとしても、おそらく自分の店の棚に並べることはないだろう、これは自信を持っていえる。ではどうするか。古書会館で業者が開く市に出すのだ。駿河台下の東京古書会館、高円寺の西部古書会館、五反田の南部古書会館、そしてここはあまり知られていないが南千住の東部古書会館が市場を開いている。だからこのような市場に出す手間を勘案して店主は引き取るか否かを判断した上で買取値を決める。一方売るほうはそこまで考えて自分の売ろうとする本の引き取り値がいくらくらいになるかを考えているのだろうか。わたしは甚だ疑問に思う。
しかしそれでも古書店では店主の蒐集している分野に合致すれば、近頃できているBookOffやその他似非古本屋よりは幾分高く引き取ってくれる。じつはここが大切なところなのだが、件の似非古本屋には古書市場の相場を知る人間はいない。だって見りゃあわかるでしょう、アルバイトの兄さん姉さんが本を鑑定するんですよ、彼らはあるテーブルに従って機械的に引き取り値を決めているんです。市場価値とは無関係にね。もちろんコミックや文庫本をリサイクルショップに出す感覚で持て行くのならそれはそれで一つの遣り方で、わたしはなのもいうつもりはないが、少なくとも自分の蔵書の市場価値を評価してもらおうとするならば、須らく古書店に持ち込むべきである。まあそこで二束三文の評価を下されたならば、それはそれで素直に受け入れるべきではないだろうか。専門家の評価は素人のものよりよほど正確だ。わたしもこれまで何回か古書店に蔵書を引き取ってもらったことがある。おおむね適正価格だったのでこれらの店は誠実だったのだと感謝している。しかしコミックに圧倒的人気があったことにはちょっと寂しい気もしたものだが。

羅甸語事始(二十一)

2005年11月14日 06時05分52秒 | 羅甸語
動詞の相ということについて考えてみたい。相"voice"というとなんだか判りにくいが、むかしむかし中学校で英語を習ったとき"The active voice"、"The passive voice"という言葉を聞いたことがあると思う。わたしたちは日本語で「能動態」「受動態」と単純に覚えこまされていた。古典語ではこれらを「能動相」「受動相」という。つまり「相」も「態」も同じことなのだ。ではなぜこのような混在が生じてしまったのだろう。詳しい方がいらしたら教えていただきたい。そういえば古典ギリシャ語には能動相、受動相のほかに中動相なんてのもあったっけ。能動相が「~する」、受動相が「~される」という意味あいなのに対して中動相とはどういうものかというと、例えば「古代ギリシャ語では通常のシテ(['elowse]《彼は洗った》)と並んで,中間態(middle-voice)形式という,シテがその動作によって同時に影響を受ける《affected》場合の形式があった:[e'lowsato]《彼は自分(の体)を洗った》あるいは《彼は自分のために洗った》」(注1)ということだそうだ。このような中動相による表現を現代語では再帰代名詞を用いて行っている。もともとは同じ"voice"、ラテン語では"vox"の訳語なのだからどちらでもよいのかも知れないが、わたしなどは古典語では「態」というよりは「相」と呼んだほうがしっくりする。いずれにせよ幸いなことにラテン語ではそこまで詳しく動作を分類していないので中動相というものはない。
能動相についてはすでに何度も扱っている。"Ego amo te"(私は君を愛する)つまり他動詞+直接目的語の形がその典型。受動相ではこの直接目的語が主格となり動詞は受動相の活用をする。当たり前といえば当たり前のこと。つまり"Tu amatre a me"(君は私によって愛される)となる。ここでちょっと考えてみた。能動相は"Ego"(私)を中心的主題とする表現であり、受動相は"Tu"(あなた)を中心的主題とする表現であるといえるのだろうか。おそらくいえないのだと思う。ラテン語の語順はかなり自由で例えば現代のドイツ語における定型二位の法則のようなものは一切ない。だから"Ego amo te"は"Amo te ego"でも"Te ego amo"でもよい。加えて強調したい言葉を先頭に持ってくる傾向があるので、もし"Tu"(あなた)を強調したいのであれば"Te amo"とすればよい。したがって受動相を用いて"Tu"を強調する必要などまったくない。
ではそもそも受動相とは何なのか。普段から慣れ親しんでいる日本語についてこれを見てみる。受動態とは「動詞の相の一つ。「受身」「被動」「所相」ともいう。「ある事物が動詞の表す動作の影響を受ける」の意を表す。動詞がこの相をとったものを「受動態」(または「受動相」)という」(注3)のであって意味的には、①直接の利害を表すもの、②間接の利害を表すもの、③いわゆる非情の受身、の三種に分類される。①の例としては「彼女は皆に愛される」というもの。これは最も受動らしい受動文。②は「わたしは彼女に泣かれて困った」といった文が該当する。そして③のいわゆる非情の受身こそ本来の日本語にはなかった表現で、たとえば「会議の開会が議長によって宣言された」という文。このような文は翻訳物には必ず登場する言い回しだ。わたしは専門家ではないのでよく判らないのだが、②のような表現はヨーロッパ語にはないのではないだろうか。とすれば①と②は一緒にできて結局ヨーロッパ語の受動相は二種類ということになる。では③の「いわゆる非情の受身」が用いられる場面とはどういうものか。ここで受動相についての観点を主語と目的語との関係から、動詞であらわされる動作そのものへと移してみる。ラテン語は屈折語なので当然のことだが能動相と受動相では活用が変わる。現代語の英語やドイツ語、フランス語だってbe動詞、sein動詞、être動詞といった助動詞を用いて表すが、両者に共通しているのはどちらも文の中で動詞が「目立つ」ということだ。これは大事なことで、つまり受動相とは動作を受けるものを主語に立てる機能ばかりではなくて、動作そのものを強調する機能もあるということ。少々古い統計なのだけれどもドイツ語の場合「受動態に関するある研究書によると,文学作品の中では,動詞のすべての定型のうちで,受動態の占める割合は平均して1.5%,学術専門書6.7%,通俗文学1.2%,新聞9%,料理の本のような実用書10.5%となって」いるそうで(注2)、新聞と実用書でその使用が顕著に見られる。これなど動作の強調機能として受動相が使用されていることの証左となるのではないかと思う。そう考えてくると例えば薬の服用方法の説明文に受動相が頻繁に用いられることも頷ける。薬を「飲む」動作はとても重要なことだからである。
ようやくここから今回のテーマである受動相の活用を見ることにする。最初は基本として第一活用動詞の現在直接法受動相の活用から。"amor","amaris","amatur","amamur","amamini","amantur"、長母音に注目すると"amor","ama-ris","ama-tur","ama-mur","ama-mini-","amantur"と単数二人称、三人称および複数一人称、二人称で長母音となる。ついでだから第二活用から第四活用の動詞についても確認すが、すべて長母音を考慮して記述する。
第二活用:  "moneor","mone-ris","mone-tur","mone-mur","mone-mini-","monentur"(忠告される)
第三活用A型:"regor","regeris","regitur","regimur","regimini-","reguntur"(支配する)
第三活用A型:"capior","caaperis","capitur","capimur","capimini-","capiuntur"(捕まえる)
第四活用:  "audior","audi-ris","audi-tur","audi-mur","audi-mini-","audiuntur"(聞く)
第二活用と第四活用は第一活用に似ているので判りやすいが、第三活用A型と第三活用A型ちょっと厄介だな。"regor","regeris","regitur"という活用が嫌らしいし、長母音が複数二人称だけというのも注意しなくてはならない。しかもこのような活用が直接法現在だけではなくて未完了過去、未来や、さらに接続法の現在、未完了過去についてもあるのだからうんざりする。しかし完了については助動詞sumと完了分詞で構成されるので本動詞の活用はない。これらについてもこれから見ていかなくてはならないのだから前途遥かといった感じ。取り合えす今回は紙数も大幅に超過したことだし、もう止めておこう。とてもじゃないがこれ以上集中できない。さっさと終えてビール、ビール!
さて今回の自分への課題はユスティニアヌスⅠ世が編纂させた市民法大全(Corpus Iuris Civilis)の法学提要(Institutionen)からの抜粋。なんだか難しそうなのを選んでしまった。しかし一度選んだからには邦訳するというのがここで自分に課しているルールなので、逃げ出さずに挑戦してみることにするか。
"Jus autem civile vel gentium ita dividitur: omnes populi, qui legibus et moribus reguntor, partim suo proprio, partim communi omnium hominum jure utuntur: nam quod quisque populus ipse sibi jus constituit, id ipsius proprium civitatis est vocaturque jus civile, quasi jus proprium ipsius civitatis: quod vero naturalis ratio inter omnes homines constituit, id apud omnes populos peraeque custoditur vocaturque jus gentium, quasi quo jure omnes gentes utuntur. Et populus itaque Romanus partim suo proprio, partim communi omnium hominum jure utitur. "(Justinianus, Inst. 1.2.1)(注4)

(注1)『言語』342頁 Leonard Bloomfield著 三宅鴻 日野資純訳 大修館書店 1987年7月20日新装版第9版
(注2)『これからのドイツ語』244頁-245頁 Wolfgang Michel 樋口忠治 新保弼彬 小坂光一 吉中幸平 郁文堂 1988年4月第15版
(注3)『日本文法大辞典』321頁-322頁 松村明編 明治書院 昭和46年10月15日
 わたし個人としてはこのような分類にはちょっと抵抗を感じるが今回はこれに従う。以下日本語の受動態についての言説はすべて村松の『日本文法大辞典』に拠っている。
(注4)『新羅甸文法』100頁-101頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷

土曜日の成果。

2005年11月13日 07時18分03秒 | 古書
昨日の土曜日、性懲りもなくまた神保町を巡ってきた。病気だと自覚しつつも、ふと自分はいったいなぜこんなにまでして古書店を見て歩かねばならないのだろうかと疑問に思ったりする。じつはこういう日は収穫の乏しいことが多い。長年の経験からそういえる。
先ずは駿河台下の古書会館で即売展をチェックする。だめだった。わたしの興味を引く品物は見事なほど一切出ていなかった。しかしここで幸先が悪いと判断するのはまだ早い、と自分に言い聞かせる。神保町をチェックしないことには何ともいえないではないか。そう、何ともいえないのだけれども、嫌な予感がする。
大島書店を覗く。相変わらずオクスフォードのギリシア語辞典が上の棚に置いてあった。一万八千円ではなかなか売れないよ。それにそもそもこんなもの普通の人が使うか。まあ使うとしたら大学の哲学科か西洋古典学科くらいなものだろう。ドイツ語関係の棚に低地ドイツ語の研究書があったが今回は買わなかった。反対側の棚に回りこんで眺めてみても目新しい品は入っていない様子。棚の最下段には数週間くらい前からオランダ人の書いたドイツ語ハンドブック二巻本が置いてある。内容的にはあまり面白くもなさそうなのでこれも購入せず、英文学の棚を一瞥して店を出る。
三茶書房の店先のワゴンを見ると岩波文庫が並んでいた。白帯、青帯、黄帯のものはほとんど集めているが、戦前発行され復刻されていないものは残念ながら持っていないのでそれらをチェックする。しかし今ではもうそんな品は廉価では売っていない。一概に岩波文庫は古書でもそんなに安くはならない。小川町の文庫川村は別格として、どこでも学術物の文庫は高めだ。因みにこの文庫川村はバカ高いので有名な店。いくら文庫本の専門店とはいえちょっと異常な値付けに見えるが、これは復刻版が出ても絶版だったころの値がそのまま付けられているからそんなことになる。もっともあれだけの量の文庫本だもの、とてもじゃないが一々値を書き換えてなんかいられないだろう。
大屋書房の纐纈さんは飛ばして、というのもこの店は和本専門店なもで。ところで和本と和書を混同している人が偶さかいるけれども、和書というのは日本語で書かれた本というほどの意味で、つまりわたしたちが普通目にする本のこと。で、和本というのが有史以来明治初期までに日本で作られた本なのだが、ここで注意しなくてはならないのが和本と和装本の違い。つまり和装本は装丁の仕方をさしていう言葉です。
八木書店はいつも店先の廉価品を確認するだけだ。以前に三島由紀夫の研究書を集めていた頃には結構店内にも入っていたものだが最近は御無沙汰している。このあと慶文堂、東陽堂、村山書店などと続くのだけれども全部かいていったら神保町案内になってしまうのでこのあたりにしておく。
結局今回の獲物は崇文荘の店先に並んでいた次の三冊だけだった。
1."Lyrische Anthologie des Lateinischen Mittelalters" Karl Langosch編 Wissenschaftliche Buchgesellschaft Darmstadt 1968. これは中世ラテン語の叙情詞集で八百円。左ページにラテン語、右ページにドイツ語訳という体裁の本。
2."Zur Geschichte der Philosophie"(2Bänden) Karl Bärthlein編著 Verlag Königshausen + Neumann Würzburg 1984. こちらは二巻物の哲学史の本で千六百円。
もともとの売値については、1.の方はわからないが2.は三千六百八十円なので、これは安い買い物だと思う。
最後にいやな話を一つ。御茶ノ水駅のすぐそばにS書店というのがある。むかしからある店だが改築したので古書店としては綺麗な店構えだ。しかし恐ろしく雰囲気がわるい。その原因はレジに座っている店主(だろうと思う)にある。古書店というのは客が入ってきても「いらっしゃいませ」というところはまずないといってよい。レジに本を持っていっても黙ったまま客からそれを受け取り包装する。代金を支払ったとき初めて「ありがとうございます」という店主の声を聞くことができる、というのが一般的。だから東陽堂などのように普通の商店なみの接客をされると、とても丁寧な印象を受けてしまう。というわけでわたしは古書店主の無愛想、ぶっきらぼうには慣れている。わたしが気分を害したのはそんなことではない。件の店主はレジにすわったまま、なんと鼻歌まじりにレジの台を指先でコトコトと延々叩き続けているのだ。これはかなり耳障りで、神経を逆撫でされる。本など落ち着いて見られたものではない。一体全体このオヤジは何を考えているのだろう。もしかして冷やかし客を排除するための方策なのだろうか。それなら店など閉じて呼び鈴店にすればよい。どうしても入店したい客が呼び鈴を鳴らして入れてもらうシステムにすれば冷やかし客はほとんどいなくなるはずだ。それともこの人物は本当にちょっとアブなくなってきているのだろうか。以前はこんな店ではなかったのに。

ひさしぶりだね、ジュンク堂。

2005年11月12日 07時13分06秒 | 本屋古本屋
池袋のジュンク堂を一年半ぶりに覗いてみた。
この店はフロア面積が広く、加えて本を陳列してある棚が壁のように高いので、まるで書庫の中にいるような感覚を憶える。先だってオープンした丸善丸の内本店もこの棚を真似ている。商品が多く展示できるのが長所というだけではなくて、落ち着いて本を選ぶことができるのでわたし自身は気に入っているが、中には威圧感を憶える人もいるかもしれない。とくにうれしいのが人文書籍売り場の商品配置で、洋書と和書が同じ場所に置かれていること。むかしみたいに洋書をありがたがる時代ではない。そもそも特別に洋書のコーナーを設けることを、わたしは以前から疑問に思っていた。なぜ仰々しくForeignBookなどと看板を掲げて特設の売り場を置かなければならないのだろう。冷静に考えてみるとこれはとても奇妙なことだ。同じ本ではないか、日本語だろうが英語だろうが、タガログ語だろうが、スワヒリ語だろうが、言語で分類するのではなくて内容で分類すべきではないか。今だって新刊書店で量子力学の専門書と谷崎潤一郎の本が同じ棚に並ぶことはない。だから大修館から出ているヴィトゲンシュタインの『哲学的文法』の隣に底本であるBlackwell版の"Philosophische Grammatik"があってよいし、そのほうが自然のような気がする。
ところが残念なことに、このような配置は人文書籍と美術書だけらしいのだ。邦訳と原書を並べて置いて欲しいのは特に外国文学のジャンルではないだろうか。カポーティの初期作品などを文庫版で読んで、今度は原語で読みたくなったらわざわざ洋書コーナーで探さなくても同じアメリカ文学の棚で見つけることができる、そのような並べ方をわたしは求めている。もちろん英語に限ったことではない。文庫版として平凡社ライブラリーに収められ今では気軽に読めるようになった干寶の『捜神記』だが、漢文のものが中華書局の古小説叢書に入っている。だから中華書局版を同じ場所に置くというのも面白い。岩波文庫の『ドン・キホーテ』の隣にはスペイン語の仮綴本。聖書と並んでセプトゥアギンタやヴルガタを揃えておくのも一興だろう。もっとも今書いたような商品の展示をするとなると版型がばらばらになってしまい、たいそう置きにくくなるし見苦しくもなる。理想と現実にとても大きな落差があることは確かなのだけれども、人文書籍コーナーの試みをその他のカテゴリーにも広めて欲しいものだと、わたしは客の立場からそう思った。
ジュンク堂の帰り道、東通りを都電荒川線の雑司が谷停留所まで歩いた。昼間は知らないが、夜の東通りはちょっと風情がある。繁華街を少し離れれば商店も疎らとなり、脇道に入ると住宅街が広がっているような閑静な家並みが続く。そんな中にぽつんと粋な鮨屋や小奇麗なレストランなどがあったりするとちょっと入りたくなってしまう。左手にはサンシャイン・60の窓灯りが耿々と輝いて見える小道をさらに進んで行くと都電の踏切に差し掛かり、渡った先が夏目漱石眠る雑司が谷墓地。夜間なのでさすがに墓地には入らなかった。
雑司が谷停留所から一つ先の東池袋四丁目まで乗り、地下鉄に乗り換えて帰宅した。

だめです、疲れました。

2005年11月11日 05時34分01秒 | 彷徉
このところ、気分的に少々落ち込んでいる。毎日掲載しているブログの文章を翌日読み返しては、自分自身の感性や知識の乏しさ、そしてなにより文才の無さに暗澹とした気分になる。他人様のブログもよく拝見させていただくが、みな面白いものばかりだ。達文ではないが個性的で読者の心を引くものが多い。翻って自分のものはどうなのか。気取ってばかりでちっとも面白くない。自分が面白くなくては他人様が面白がるはずがない。いっそやめてしまおうかとも考えたのだが、それではなんだか挫折感だけが残ってしまいそうでいやだ。
思い返してみれば、そもそもこのブログを始めたのはブログそのものがどんなものかを知ろうとしたからだ。拙文を他人様に読んでもらうことが第一義ではなかったはずなのだ。しかし回を重ねていくうちにわたし自身に欲が出てきて、いつの間にかアクセス件数などを気にするようになっていた。要すれば本来の目的から段々と離れていってしまった。他人様に読まれることを目的としない文章をブログに掲載する、というのはちょっと矛盾している。そんなものは端ッから出さなきゃいいのだ、といわれても返す言葉がない。写真だけのブログだって結構あるのだからその方向で続けていく手もあったわけだ。しかし文章を主体とした体裁のブログを選んだのは、そもそもわたしがカメラにあまり興味がなかったからだ。現在ブログに掲載している写真は偶々撮ってあったものをかなりいい加減に出している。まあなかには文章に合わせて撮ったものもあるが、なぜそれらを敢えてオリジナルサイズでアップロードしなかったかというと、そこには自分の書いた文章に注目してもらいたいという下心があったからだ。まったく愚かしいとしか言いようがない。しかもその文章にしてからが駄文なのだから話にもならない。
ところで、それではいま自分がブログを継続している動機は何かとつくづく考えてみるとそれは「継続」だけだという以外にない。上で「挫折感だけが残ってしまいそうでいやだ」と書いたが、この「継続」が途絶えることで生じるであろう挫折感への恐怖が、いまわたしがブログを書き綴る続けている動機なのだ。だから自分にも他人様にも面白くないような駄文を毎日夜中に書いている。それも一回につき四百字詰原稿用紙三枚以上というノルマまで自分に課している。こうなってくるとブログ作りという行為がまるで修行、とまではいかなくとも何かの治療のようにも思えてくる。「箱庭療法」というのを聞いたことがある。あるいは曼荼羅の作製における精神的統合との連関。だからこれからはもう他人様に読んでもらおうとしてブログの内容を考えるのは止めることにした。あくまで自分の書きたいことを書く。何のことはない、初心帰りしただけのことだ。どこといって新しくなったところなど何もない。
それにしても、頭の中がからっぽで、ちょっと振っただけでカランカランと音がするみたいだ。人ごみの中すれ違いざまに相手から舌打ちされたり、捨て台詞を吐かれているように感じられて仕方がない。職場での会話にも悪意や蔑視を感じる。朝は慢性的な吐き気、おまけに便秘。用事になかなか手が着けられず結局期限ぎりぎりまでほったらかしにしてしまう。世の中では鬱病が流行っているらしいけれども、わたしもそうなのだろうか。といって医者にいくのも億劫だ。

ヤコブ・ケルファー

2005年11月08日 05時54分15秒 | たてもの
古代ローマ時代、ゲルマニア州のローマ軍宿営地であったケルンはコローニア・アグリッピネンシスと称していたそうだが、現代のわたしたちがケルンと聞いて先ず思い浮かべるのがドーム(大聖堂)、オー・デ・コロン、カーニバル。変わったところではチョコレートミュージアム、おそらく世界で唯一の博物館かも知れない。また教養好きの向きにはヴァルラフ・リヒャルツ美術館やローマ・ゲルマン博物館が見所といったところか。
ドイツ観光局ではないので観光案内はこのくらいにしておくとして、しかしこれを書いていてつくづく思い至るのは、昨今の我が日本国におけるあまりにも伝統を蔑ろにする姿勢。たとえば市町村合併でできた新しい市町村名が平仮名だったり、合併市町村名の頭文字を並べたものだったり、といったことが問題視されているけれども、これに伴いいかに多くの歴史ある地名がアホバカ行政によって消滅してしまったことか。もちろんこれは伝統破壊行為のほんの一例に過ぎないのであって、似たような事例を論っていけば切りがない。わたしはヨーロッパ文明を無条件で称揚する気は毛頭ないが、こと伝統を尊ぶ姿勢にたいする彼我の差を思うとき、暗澹たる気分にならざるを得ない。
と、ここまで書いて今回取り上げるヤコブ・ケルファーのケルン、ハンザ・ホッホハウスなのだが、これをはたして伝統を踏まえた新建築と観るか、はたまた調和を乱すゲテモノと観るか。当時の高層建築も今となってはすっかり低層建築になってしまったが、それでも相対的にはやはり他の建物から抜きん出ているこの構築物をどう評価したらよいのか。正直にいってしまうならば、わたし自身の嗜好としてはどうも頂けない。やはり美しいヨーロッパの街に高層建築物は不似合いなのではないだろうか。
ハンザ・ホッホハウスはヤコブ・ケルファーによって一九二四年から二五年にかけて建設された、当時としてはヨーロッパで最高層の建築物だった。十七階建て六十五メートルという高さそのものは、いまでは驚くほどのものでもないが、建物表面のクリンカー仕上げが表現主義全盛期という時代を感じさせてくれる。今時の高層建築のなかにクリンカー仕上げのものなどお目にかかれるものではない。だがナチス政権の時代には、この建物にあまり思い出したくない歴史が付加された。当時ケルン市地域には約百二十ヶ所の中小規模強制収容所が設置されており、この赤レンガの高層ビルディングもまたドイツ帝国国鉄の強制労働者のための収容所として使用され、九百人もの人々が収容されていたそうだ。戦後は一九八九年までWDK(Westdeutscher Rundfunk)西ドイツ放送があったが、その後はドイツの巨大家電、CD会社であるSaturn社が入ったため音楽やHifiフリークたちのメッカになったというが、今はどうなっているのか知らない。もしケルンを探訪の折には訪れてみるのも一興。
伝統とモダンの狭間に身を置いたヤコブ・ケルファーは一八七五年(明治八年)に生まれ、一九三〇年というからこのハンザ・ホッホハウスが完成して丁度五年後に亡くなっている。自分の造った建物が強制労働者たちの収容所に使用されている様子を見ずに済んだのですから、その意味では良い時期に神に召されたともいるが、しかし享年五十五というのはヨーロッパの建築家のなかでは比較的若死の範疇に入るのではないだろうか。そうはいうもののヤコブ・ケルファーは二十年代のドイツにおける指導的建築家の一人だったのであり、映画館、事務所、デパートなどの設計施工の多くにかかわった。そして百三十五日間という工期で造られたこの(当時としては)高層建築であるハンザ・ホッホハウスは、後々の建築家たちにとって立方体形状の機能的建築の雛形となったのである。
ケルファーはアーヘン、ドルトムント、デュッセルドルフ、エッセン、ケルンなどの西部ドイツにおいて多くの高層建築や映画館を併設した商業建築を手がけているが、それらの内部構成や技巧的な設備は、ドイツ国内はもとより諸外国からも多くの注目を集めていた。当時建築界ではエリッヒ・メンデルゾーンの影響がかなり顕著ではあったのだが、ケルファーの作品には優雅さと即物主義がほど良く統合されており、まさにその意味において近代建築家のなかでも、どちらかというと伝統的美意識を色濃く残している作家であったということができる。

写真資料:"Wasmuths Monats Hefte für Baukunst" Verlag Ernst Wasmuth A/G Berlin Jahrgang 1926

我愛欧羅巴影片(七)

2005年11月07日 06時24分58秒 | 昔の映画
むかしの映画館は音響効果がわるかった。日比谷などの一流館はおくとして、渋谷、新宿、池袋などの小屋は総じて音が割れていた。だからわたしの子供の頃の映画館の記憶は、洋画の音声のあの独特の響きだった。今でこそドルビーなんとかシステムですっかり様変わりしてしまったが、例えばイタリア映画などは逆にあの音声の響きがよけいに雰囲気を盛り上げていたようにも思う。
最近めっきり映画を観なくなってしまった。わたしの知っているもっとも新しいイタリア映画といったら「カオス・シチリア物語」や「パードレ・パドローネ」というのだからお話にならない。それにしてもあのオメロ・アントヌッティという俳優はいい。野卑な男から知性ある紳士まで何を演じても様になっているからすごい。そこでアントヌッティ主演の作品について語りたかったのだけれども、ちょっと資料不足ゆえ別の機会にまわすことにして、今回は古いイタリア映画、カルロ・ポンティ製作一九五六年イタリア映画「鉄道員」(Il Ferroviere)を取り上げる。
四十代くらいまでの人には馴染みない作品かもしれない。わたしだってこの映画を初公開当時観ることのできた年代ではないのだから。最初に観たのは高校生の頃だったと思うがどうも記憶が曖昧だ。しかしあのカルロ・ルスティケッリの哀愁漂う音楽だけでも日本人の観客には充分受けた。ま、いうならばイタリア版家庭劇といったらよいだろう。アクションもなければもちろんセックスシーンもない、むかし風に表現すれば「文部省推薦」。あるイタリア国鉄職員の一年間の物語で、主人公の機関士アンドレアを演じているのはこの作品の監督でもあるピエトロ・ジェルミ。いま主人公を機関士アンドレアとしたが、じつは正確な表現ではない。この映画は彼の末息子であるサンドロ少年(エドアルド・ネボラ)の目線でみた家族の物語だからだ。したがってもしかしたら本当の主人公はサンドロ少年かもしれない。
仲間付き合いはよいのだが、家庭では暴君のアンドレアは長男や長女からは嫌われている。しかしサンドロ少年にとっては特急列車機関士の父は英雄的存在である。小学校低学年のころはまだ父親は偉大に見えた、そんな素朴な時代が舞台となっている。しかもアンドレアは第二次大戦中にはレジスタンス活動の経験もある戦争の影を引きずる男だということを忘れるわけにはいかない。だからサンドロ少年にとっては父親は単に機関士として以上に英雄なのだが,いっぽう長男(リナート・スペツィアーリ)や長女(シルヴァ・コシナ)は家庭における現在の父親しか評価しない。母親に手を上げたり、長女が妊娠すれば相手と強引に結婚させて世間体を繕うほんの五十年くらい前、つまりこの映画の舞台と同じ時代の日本でも普通に見られた父親像は、戦後世代の彼らとって因循姑息以外の何ものでもない。そのような中、衝突事故未遂を起こして査問委員会にかけられ、その結果市内を走る小さな貨物列車の運転士に左遷されたアンドレアは自棄となり、ついには当局にのせられてスト破りを犯すこととなる。ここから転落が始まる。アンドレアは家にも戻らず酒場でコールガール相手に安ワインを浴びる毎日を送るようになり、それが元でとうとう身体を壊してしまうのだ。
しかしそこは家庭劇で、最後は職場の仲間とも家族とも和解し、クリスマス・イブのパーティーには自宅に多くの仕事仲間や家族が集い、絶えて久しかった賑やかさが戻ってくる。さてこれで大団円だったら白けてしまうところだがそこは名匠ピエトロ・ジェルミ監督ちゃんと話を作ってくれていて、機関士アンドレアは皆が教会のミサに出かけたあと、残った妻が台所で片付け物をしているとき、ベットに身体を横たえ彼女のために得意のギターでセレナーデをひきながら永遠の眠りにつく。
ところで、この映画のもう一人の主人公それが母親。ルイザ・デラ・ノーチェが演じていたが、これがいいんですねえ。ぽっちゃり型のいかにもイタリア母さんって感じで、彼女の存在が下手すりゃ家族崩壊になりかねないこの一家を救っている。彼女はジェルミ監督の「わらの男」でも似たような設定の役を演じているが、このルイザ・デラ・ノーチェの表情が本当によい。ラストシーン、アンドレアの死から数ヶ月経ち生活に落ち着きを取り戻した一家。グレてすさんだ生活を送っていた長男も更生して父と同じ国鉄で働くようになったある朝、国鉄官舎アパート自室前の階段踊場でサンドロ少年と長男が出かけて行くのを見送る母親。階下の部屋から隣人が出てきてボン・ジョルノと彼女に挨拶する。しかし彼女はその声に気付くことなく、ふっと寂しそうに虚空を見つめる。この一瞬の表情が絶品。まるで泰西名画の世界なのだ。