蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

各位好人的世界

2005年03月31日 23時55分06秒 | 彷徉
いまゴッホの展覧会が開催されている。ポスターに使われている夜のカフェの店先の場面を描いた絵。空には星が輝いている。しかしその輝き方がどうも尋常ではない。いくら今から百何十年ほど前の空とはいえ、星があのような輝き方をするものだろうか。星がたくさん見えるというのならば話はわかる。東京だって天気具合いによっては星の多く見える日があるのだから。しかしゴッホの描くこの星の輝き方は異様だ。これはいわゆる芸術的表現といったものではなく、おそらくはゴッホ自身の目に見えた光景だったと思う。今日この絵を観る善良にして健康的な一般市民はちょっと変わったきれいな絵、くらいにしか思わないかもしれないが、実際に自分にあのような光景が見える状況を想像してほしい。これはかなり辛いのではないだろうか。少なくともわたしには耐えられない。同じように耐えられない思いをさせられる絵は他にもある、例えばムンクとか。ちょっと毛色は違うけれどもココシュカなんかもそうかな。はっきり言って「狂気」なのだ。観るものを引き付ける絵には「狂気」か或る。いや絵だけではない、脚本にも「狂気」はある。例えば向田邦子とか。とっておきはやはり「舞踏」か。
で、そのような「狂気」はいわゆる創作家の特権かというと、どうもそうでもないようだ。わたしの周囲にも時として「狂気」を感じさせる人間がいる。正直な話、そんな人物とはかかわり合いたくないのだが、仕事上どうしてもかかわらなくてはならない場合もある。創作に向かえばあるいは未来のゴッホやムンクになれるかもしれない(もちろん単なるアホ馬鹿が圧倒的に多いのだが)、そんなパーソナリティーと付き合うのはかなり苦痛である。

及時當勉励

2005年03月30日 00時21分26秒 | 太古の記憶
四月下旬の三浦半島某所、京急田浦駅から逸見駅までの間のどこかとも思えるが定かではない。わたしは小学校に登校するために歩いている。新入学ではなく転校生としてやってきたのだ。親の付き添いも無くいきなり見ず知らずの学校に行かせるのだから、乱暴といえばかなり乱暴である。なにしろ転向手続きまで小学生のわたしが行わなくてはならないのだから。事前に聞いたところによると、その学校はミッション・スクールらしいのだ。家は浄土宗の檀家なのになぜわたしがキリスト教の学校に通わねばならないのか。しかしもう決まってしまったことなのでどうしようもない。
京浜急行の駅を降りて学園までの道を進む。学校への道順さえ教えてもらっていないし、したがって学校の所在地さえわからない。アスファルト舗装された静かな道は車両の通行が規制されているのか歩行者しか見当たらない。道の両側には青々と葉を茂らせた桜の木が規則的に植えられていてその奥は林となっていている。新芽の香りが辺りに充溢し、呼吸をするたびに私自身が植物と同化してしまいそうだ。
わたしの十メートルほど先を三四名の男子小学生がふざけ合いながら歩いて行くのに気が付いた。彼らがわたしのこれから通学すべき学校の児童であることは間違いないと直感したわたしは、彼らのあとに付いて行くことにした。学校が何処にあるのかわからない以上、小学生のわたしにとってそれが最善の決断だった。彼らはわたしより高学年だろうか、それとも低学年だろうか。どうも低学年のように見えるが、しかしわたしの立場は転校生である。上だろうが下だろうが、通学するようになったらしばらくの間、例えば一ヶ月くらいは様子を見ることにしよう。一ヶ月大人しくしていれば彼らの中での位階関係がわかるというものだ。
やがて森の中に蔦の纏わる赤煉瓦造りの古風な建物が見えてきた。本館校舎は二階建てで中央部分が塔になっている典型的な学校建築。しかし校舎に至る前にわたしはグラウンドの横を歩いていた。グラウンド面はわたしのいる側道から三メートルほど高くなっていて、下つまりグラウンド地下が今は使用されていない講堂となっていた。高くなったグラウンドの壁面にはアール・デコ風の扉が等間隔に幾つも設けられていて、わたしはそのガラス張り部分から中を覗いてみた。中には運動用具やグラウンドの整備用具が収納されているようで、もう何年も講堂として使われていないことが見て取れた。床に塗る油とそして埃、微かに黴の香りも漂ってきそうな薄暗い旧講堂。中に入ってみようとしたがすべての扉は施錠されていて入ることができない。わたしはしかたなく再び学校に向かうことにした。なぜならこの瀟洒な学校はわたしの通学するはずの小学校ではなかったからだ。
とんだ道草を食ってしまったわたしは、先ほどの小学生たちとも逸れてしまい、もはや何処に行ったらよいのか完全にわからなくなってしまっていた。

商賣昌盛

2005年03月29日 18時51分25秒 | 彷徉
地下鉄荻窪線の新高円寺駅を出てすぐのところに、JR高円寺駅に続く商店街がある。なんという名前だか忘れてしまったが、結構若い衆も歩いている、道幅は狭いが比較的にぎやかな商店街だ。何故ここを通るかというと、じつはこの通りには三軒の古書店があり、かつ行き着いた先のJR中央線ガード下には都丸支店(人文系書籍では都内随一ではないだろうか)があるからなのだ。
さて都内の商店街の衰退が取りざたされるようになって久しい。なにが原因かと問われてもわたしは中小企業診断士ではないので正鵠を得た回答などざせない。ただ消費者的視点からいくつかの商店街を見てきて思うのだけれども、どう見ても入りたくない店というのがあるもので、並んでいる商品は古くて疎ら、照明も薄暗く店内に人の気配がまったく感じられない店。なにもわたしはここでドリフのコントを書いているのではない。実際にそのような店があるのであり、そしてそんな店がまるで黒黴のように商店街全体の活気を殺いでしまうんですよ。
つまり確実に言えるのは商店街の繁栄には絶えざる活性化が必要なんですね。そのためには店主は若返る必要があるし、それができない店は廃業するか、経営者が変わるかしなくてはならない。一番無くなってほしい店は、やはり高くて悪い物を商っている店。二番目には近所の付き合いで商売している店。三番面には客に説教する店。
それと、これは商店街とは関係ないのだけれど、よくテレビなんかでやってるでしょう、行列のできる店ってのを。わたしはあれも嫌いです。客に行列させるなんて、たいへん失礼なことだし、客もこれに対して怒らなくていいけない。並ばせたんだから値引きしろってくらい、言ってよいのだ。だからわたしは行列のできる店には金輪際入ったことがないのを誇りとしているものであります。

羅甸語事始(三)

2005年03月28日 21時43分26秒 | 羅甸語
膠着語、屈折語という言い方がある。膠着語とは文字通り「くっ付く」ということで、日本語はこれにあたる。『私が学ぶ』という文は主語である一人称代名詞「私」に主格助詞「が」がくっ付くことで人称代名詞の主格を形成する。一方屈折語とはくっ付くのではなく語そのものが変化してしまう言語のことであり、印欧語族はその代表なのであって、例えばドイツ語で『私が学ぶ』はIch lerne.となる(この場合はlernenを自動詞として使用している)。ここで注目すべきはichでありつまりichで一意的に「わたしは」の意味となる。仮に「私に」とする場合にはmirとなる、つまり語自体が変化(屈折)するのである。蛇足ながら「わたしは」ichはnominativ(主格)であり「私に」mirはdativ(与格)である。1格とか3格という呼称は最近では使用しない。
などと偉そうに書いたがもちろん言語学の本からのパクリです。さて、ラテン語も印欧語族の言語なので性、数、格変化や時制、法、態による語の変化がある。前述の一人称代名詞でいうならばego,mei,mihi,me,meでそれぞれ主格、属格、与格、対格、奪格に対応する。さらにlernanに対応するdisco(伝統的に不定詞discereを見出語には使用しない)はdisco,discis,discit,discimus,discitis,discuntでこれは現在時制、直説法、能動態の場合の変化で「私は学ぶ」「あなたは学ぶ」「彼(彼女)は学ぶ」「私たちは学ぶ」「あなたたちは学ぶ」「彼ら(彼女ら)は学ぶ」という意味だそうだ。
確かに規則はあるのであって、まったく滅茶苦茶な変化はしないのではあるけれども、それにしてもいろいろな規則を覚えこまなきゃならないのが明らかとなった、まさに詰込み教育でもやらないことにはとても物になる言葉ではないなあ。古典語の勉強に怨念を抱いたヨーロッパ人たちの気持ちが判るような気がする。ところで彼らにとってのラテン語は日本人にとっての漢文のようなものだという人がいるが、それもちょっと違うのではないだろうか。だってそうでしょう、漢文ってのは文字は漢字だけれども読む際には明らかに日本語で読むのだから。
amo,amas,amat,amamus,amatis,amant,「私は愛する」「あなたは愛する」「彼(彼女)は愛する」「私たちは愛する」「あなたたちは愛する」「彼(彼女)は愛する」か、前途洋々だなあ。

対酒誠可楽

2005年03月27日 18時57分26秒 | 彷徉
なんだかんだといっても卒業式のシーズンになった。駿河台辺りを歩いていたらどっかの大学の卒業生(明大か知らん)がぞろぞろぞろぞろと大集団で歩いていた。わたしにもあんな頃があったのだか、とっくに忘れてしまっていた。しかしそれにしても皆若い、いや表現が不正確だ。皆幼いとすべきなのだ。タクシーから仲間に抱えられながら降ろされたあの兄さんはいったいどうしてしまったのだろうか。周りの連中の様子から病気ではないように覗われた。とすれば残る可能性は一つ、そう急性アルコール中毒。わたしが大人の嗜みを教えてやろう。「飲んだら酔うな。酔うなら飲むな」判ったか若人よ。むかしむかしわたしが子供の頃、高校生はお兄さん、大学生はおじさんに見えた。いまどきの子供たちから見ても今日日の大学生は高校生より幼く見えるのではないだろうか。まあ、ぼやいてもしようがないが、これも戦後民主主義教育とやらの成果なのだろう。
そんな彼らも社会に出て十年もすれば、一応社会人らしくはなるんだろうなあ。ところでわたしは電車に乗ったときなど、車内を一渡り見回してダメ人間がいるかどうか探す変なクセがある。将来ひとかどの人物になるかどうかは判らないけれども、確実にポシャるであろう人間は一目で判る。いい年こいて子供漫画雑誌を見ている奴、これはもう先が見えている。かりに現在仕事で活躍していそうにみえたとしてもである。あと、スポーツ新聞を見てる奴とか、大人向け漫画雑誌を広げている奴ら、彼らは境界線上をさ迷っているといったところかな。

一期一会

2005年03月27日 07時01分59秒 | 古書
Die Religion in Geschichte und Gegenwart そう、あの七巻物の宗教辞典をついに購入してしまった。後先考えずになんてまねをするんだ、とわたしは自分の常識に嗜められている。だが常識が常に正しい判断を下す保証はない。むしろ長期的に見れば常識が非常識になる例は枚挙にいとまがない。おおそうかい、それじゃあ今回のお前の判断は正しかったというわけだ。いや、待ってくれよ、そんなことは今このときに判るわけがないだろう。でもね、わたしは今回の決断といっては大仰だが、件の書籍つまりDie Religion in Geschichte und Gegenwartを購入したことは間違ってはいなかったと確信している。根拠はないが。
毎度言っているように、人が本を選ぶのはもちろんだけれども、本のほうでも人を選ぶのだ。例えば今回話題となっているDie Religion in Geschichte und Gegenwartだが、これは小川町の崇文荘書店の店頭に二週間以上晒されていた物なのだが、じつは同じ品物が店内にも少なくとも2セットあった。店員さんに教えられて知ったのだか、当然こちらの品はコンディションがよい。お値段はたしか4万5000円だったかな、したがって五分の一以下値段で買ったわけだ。安い分だけあって背の部分の皮装が痛んでいるが、これはワセリンを磨り込んでかなり回復できる。天、地、小口、版面は非常に良好で、まるで新品のまま古くなったみたい。店員さん曰く「この本はいい本なんですが、売れないんです」。残念ながら世の中そんなものなのだね。
で、自宅に持ち帰って(かなりしんどかった)中身をチェックすると、扉つまり本の題名が印刷されたページに鉛筆で薄く何か書かれている。全巻の扉右上部に「藤田先生」とか「藤田富雄先生」とか書かれているのだ。藤田先生ってあの宗教学者の藤田富雄先生のことか。今を去る~十年前、わたしは藤田富雄先生の宗教学の講義を聴いている。結構面白い講義だった。その藤田先生にこの宗教辞典は何らかの関係があったということなのだ。事実としてはわたしの意思で購入したのだが、もしかしたらわたしのほうがDie Religion in Geschichte und Gegenwartに選ばれたのかも知れない。

占術無限

2005年03月26日 20時56分36秒 | 占術
7、8年前少々易を、すなわち周易を勉強したことがある。勉強といっても何処かの先生について学んだというのではなく、あくまで独学だったが。しかし最近はいろいろと有益な出版物もあるので、とんでもない理解をするといったことは避けられる。基本的には『易経』と『易傳』を読み、その他の注釈書で判らない部分を補強してゆく、極めてシンプルな勉強だった。
現代ではかなり高度な学術的研究対象ともなっており、なかなか素人が手を出しにくい世界になってしまったが、『易』はあくまで占い書であり、この側面からなら素人でも参入可能であるし、またそうでなくてどうして今まで伝承されてこようか。と、気張ってもしようがないのだが、とにかく誰でも、何処でも、何時でもできるのが易占いのよいところなのだ。他の占い、例えば四柱推命、奇門遁行など、あるいは西洋占星術やタロットにしてからがかなり複雑な体系が確立されておりとてもではないがすぐに使えるといった代物ではない、それに比べて『易』の方法はかなり簡単だ。
正式にはメトギつまり筮竹を使用するが、そんなものそうそう手に入らない(骨董屋か神保町の原書店ならあるかも知れない)。そこで代替手段としてコインやサイコロが用いられる。ユングはコインをつかったそうだが、わたしはサイコロを使用した。あとは卦をたてて、対応する意味を『易経』から読めばよろしい。さてここからが問題なのだが。例えば乾上乾下(六本の横棒で示された記号)がでたとしようか。この意味は『易経』には「乾、元亨利貞」としか出ていない。読み下させばさしづめ「乾、おおいにとおる。ただしきによろし」となるらしい。もちろんこれだけでな何のことだか判らない。そこでいろいろな卦の読み方が出てくるのだが、これもほぼスタンダードがある。したがって占者はそれらの情報と自身の経験に基づいた直感によって、例えば乾上乾下がでた意味を解いていくのである。

世界終点

2005年03月26日 06時50分00秒 | 太古の記憶
会社の会議で誰かが「Nを殺してしまえばよいのではないか」と発言した。半ば冗談としての結論だったが、それを聞いたわたしは心の中で快哉を叫んだ。退社時刻となり、わたしとその他何名か、或る目的のために千葉県某所へ向かう事となった。JR総武線で千葉駅に到着し、そこから支線に乗り換えて「ファ」とかいう駅で降り、さらに他の線に乗り継がねばならないのだ。わたしたちが千葉駅に降り立ったとき、一行の中にガイドとして雇われている女性がいるのに気が付いた。容貌はまったく異なってはいたものの、彼女は確かにわたしのよく知っている人物だったが、しかし心には何らの感情的変化も起きはしなかった。それよりもわたしは今自分達の立っている千葉駅コンコースの構造の方に興味を覚えた。そこはむかしの両国駅が持っていたターミナル独特の雰囲気と、住宅地帯の中枢として機能する町田駅の溌剌とした空気が渾然となっている巨大空間だった。ホーム下の通り抜け通路はその先端がほとんど見極められぬほど彼方まで続いていたし、高い天井を有する中央エントランスの壁や床は古代ローマの建築を髣髴させる重厚な大理石造りとなっていて、わたしはその美しさに永久にこのままでいたい、とさえ思ってしまった。

威尼斯客死

2005年03月25日 19時26分25秒 | 言葉の世界
今わたしの手元にDas Werk Thomas Mannsという320頁どの本がある。Hans Burginという人がWalter A.Reichart及びErich Neumannとの共同作業によって作成したトーマス・マンの作品目録である。1959年にフランクフルト・アム・マインのS.Fischer Verlagから出版されたものだが、めぐりめぐって極東の貧乏労働者の所有となったのも何かの縁とでもいうのか。第四章を翻訳書のリストに当てていて、世界各国、といってもヨーロッパと南北アメリカがほとんどなのだが、加えて東洋では中国と日本での翻訳ものが挙げられている(因みに中国は1冊、日本は56冊で最も新しいものは1955年出版のもの)。で、面白かったのは邦題の付け方。いまでは『Der Tod in Venedig』は『ベニスに死す)』が定着しているが、1933年春陽堂版では『ベネチア客死』、『Lotte in Weinar(ヴァイマルのロッテ)』は1941年新潮社版では『ロッテ帰りぬ』、『Konigliche Hheit(皇太子殿下)』にいたっては、1949年というから終戦まもなくの版で『薔薇よ香りあらば』、『Tonio Kroger(トニオ・クレーゲル)』はさすがに『トニオ・クレーゲル』。なにか時代が感じられて面白い。『ベネチア客死』は確かに間違いではないけれどもなんだか任侠映画のタイトルみたいだ。やはりマンの世界は佐伯清よりルキノ・ビスコンティのほうがいいよなあ。『皇太子殿下』と『薔薇よ香りあらば』の関係については、わたしが『皇太子殿下』を読んだことがないので那辺から薔薇の香りが出てきているのか見当もつかない。そういえば昔の洋画はよく原題とは異なる題名をつけていたものだ。最近はヤッタラメッタラカタカナ題名が多くて原題なんだか日本で付けたカタカナなんだか判然としないから困ったものだが、つまるところ『薔薇よ香りあらば』もこの洋画題名を付ける乗りで命名したのかもしれない、がもっと突っ込んで考えると1949年という年がキーとなるのではないか。つまり皇族を連想させるような文言を意図的に避けたのではないかとも思えるのだが。
さて『Der Zauberberg』を『魔の山』とした邦題は正解だったと思う。これの英訳は『The Magic Mountain』で、英語を母語としている人間はこの題名からどのような印象を受けるのだろうか。英語センスのまったく無いわたしは、とりあえずディズニーランドのアトラクションを連想してしまう。

巴塞羅那的天才

2005年03月24日 22時59分42秒 | 彷徉
神保町のタトル商会の店先にTASCHENのGaudi The Complete Buildingsという写真集が平積みされていたので買ってしまった。消費税込みで1995円だったこともある。このTASCHENから刊行される写真集は廉価なのがうれしい。内容的にもしっかりしているし、まあ英語版なのはちょっと不愉快だが値段と勘案すれば何度か辞書を引く手間を我慢するのもしようがないか。Printed in South Koreaとなっているところから推測するに、恐らく人件費を徹底的に低く押さえているのだろうなあ。
ガウディの作品から感じられる一見狂気とも思える意匠、これは明らかにアール・ヌーボーの嫡子なのでありそれは特にCasa Batlloのインテリアに顕著に見て取ることができる。つまり植物的曲線の多用、これはちょっと見には判らないのだけれどもグエル公園やサグラダファミリア教会も確実に植物的なのだ。ただし1900年以前の作品にはクリンカー仕上げのまるでオランダ表現主義みたいな作品(Colegio Teresiano1888-1889)もあるので、それなりにいろいろな様式を試みた後にできたのがあのガウディ様式なのだろう。サルバドール・ダリはル・コルビジェが大嫌いでアントニオ・ガウディが大好きだった。「美は可食的でなければならない。そうでなければ存在しないだろう」これはわたしの大好きな言葉。理屈ではなく実感としてわかるでしょう。美しいものは美味しそう、美味しそうなものは美しい。