蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

後心不可得(後)

2006年03月19日 16時29分05秒 | 不知道正法眼蔵
「まち」の回で「神田多町、神田司町、神田神保町と、どれもこれも気忙しい気分にさせられるけれども、神田小川町(おがわまち)と聞けば、ちょとほっとする」と書いた。これは音から受ける印象が「まち」と「ちょう」でかなり異なるということをいいたかったものだが、どうもこのうちの「神田司町」については「つかさちょう」ではなくで「つかさまち」と読まねばならないらしいのだ。たしかに「つかさちょう」と読んでいるサイトもあったのだが、なにしろ千代田区が公開しているホームページでははっきりと「つかさまち」と記されているのだから、これには抵抗のしようがない。というわけで、わたしはとんだ間違いをしでかしていました、とエクスキューズいたします。たとえどんな些細なことであれ、そしてそれが自分にとっていかに明白なことであれず確認しておかなければならないと、改めて反省しております。
さて気を取り直して、むかしむかし中国でのこと。
唐の国は肅宗皇帝の時代、西の国からやってきた大耳三蔵という名の人物が、人の考えていることを読み取ることができるというのでたいそう評判になった。そこで皇帝は大證国師という高僧に大耳三蔵が本当に人の考えていることがわかるのかどうか調査するように命じた。大耳三蔵と面会した大證国師はさっそく彼に「わたしはいったい今どこにいるのかね」と質問した。すると大耳三蔵は「和尚様は一国の師ですが、どうして西川で競艇なんかを見物していらっしゃるのでしょうか」と答えた。大證国師はこの言葉を黙って聞いた後、しばらくしてからまた大耳三蔵に「わたしはいったい今どこにいるのかね」とまったく同じ質問をした。三蔵は今度は「和尚様は一国の師ですが、どうして天津橋の上にいって猿回しなんかを見物していらっしゃるのでしょうか」と答えた。そこで国師は再び三蔵にむかって「わたしはいったい今どこにいるのかね」と尋ねたが、今度は三蔵は答えることができなかった。そこで大證国師は「この野狐精め、いったいお前のいう他人の心を読む能力とはどこにあるというのだ」と大耳三蔵を叱りつけた。三蔵はついに返す言葉がなかった。
このお話は伝燈録五の光宅慧忠章にあるということだが、わたし自身は『景徳伝燈録』を開いて確認したわけではない。
道元禅師はこの大證国師と大耳三蔵のエピソードについての五人の祖師の解釈を「正法眼蔵第七十三 他心通」において詳細に検討している。結論からいってしまえばこの大耳三蔵なる人物は本当に他人の心を読む能力つまり仏教における他心通など持ってはいない、ということなのだが、それにしてもこのお話は「正法眼蔵」から離れて、ちょっと考えてみたくなる。
おそらくこの出来事は実際にあったことなのだろうと思う。西川の競艇や天津橋の猿回しは当時みやこで有名な娯楽だったに違いない。そこで大耳三蔵は山をかけたのではないか。そもそもこの三蔵という人、心の中では本当の坊さんなんてこの世にいるものかといった覚めた目を持っていたのだろう。そしてどんなに偉い坊さんだって所詮は世間の誘惑に勝てるわけがない、ナントカ国師などと称されている連中ほど欲望むんむんの俗物であるはずだという強い信念に凝り固まっていたのに違いない。そうであればこそ大證国師の「わたしはいったい今どこにいるのかね」という質問を「わたしはいま何をしたいのか」という意味にとったわけだ。彼はそれまでにも同様の遣り方で多くの高僧と呼ばれる坊主たちの虚飾を剥ぎ取ってきたのではないか。だから大證国師にもそれが通じると考えたのだろう。しかし今回はちょっと様子が違っていた。
道元禅師は大證国師が「汝道、老僧即今在什麼処」(注1)つまり「わたしはいったい今どこにいるのかね」と質問した意味は「三蔵もし仏法を見聞する眼睛なりや」「三蔵をのづから仏法の他心通ありや」(注2)ということなのだと説明している。そしてもしも大耳三蔵に仏法というものがあったならば「老僧即今在什麼処としめされんとき、出身のみちあるべし、親曾の便宜あらしめん」として三蔵は「仏道を学せざる」(注3)と結論する。道元禅師にとってこの大耳三蔵のお話はあくまで仏道とはなにかを語り解くための材料なのであってみれば、このような展開になるのは当然としても、わたしのような俗人はどうしても大耳三蔵というキャラクターに関心が向いてしまう。
つまり大耳三蔵と大證国師はそれぞれ別次元に身をおいていた。片やジャーナリズム、一方は魂の世界といったらよいだろうか。これでは百年経っても話がかみ合うはずがない。道元禅師は三蔵が仏道を夢にも見たことがないからこんな頓珍漢な回答をしたのだといっているが、わたしにはこの三蔵という人は始めっから仏道なんてことは頭になかったと思えてならない。要すれば彼は当時の「正義派評論家」だったと見ることもできる。彼が持っていたのは超能力というよりもインチキ坊主は必ず見抜くことができるのだという経験に裏打ちされた強い自信だったのだ。
それにしても、何事につけ真贋を見分けることは大層難しい。

(注1)『日本思想大系 道元(下)』283頁 
(注2) 同上 284頁
(注3) 同上 285頁

後心不可得(前)

2006年01月25日 04時30分47秒 | 不知道正法眼蔵
『正法眼蔵』という本は難しい。なぜ難しいのかということについてはわたしなりの見方を「回憶正法眼蔵」の回でちょっと披瀝してみた。確かに難しいのだが、すべての章が理解不能な宇宙語で書かれているのかというとそうでもない。なかにはかなり判りやすいものもある。宗教的な深さということを抜きにすれば言語レベルでの了解は可能という章だってなかにはある。
例えば「前心不可得」「後心不可得」などはこの部類に入れてよいのではないだろうか。ところで岩波の日本思想大系版では「第八心不可得」が「前心不可得」に相当し、「後心不可得」は「第七十三他心通」に相当する。今回は「後心不可得」を取り上げるのだけれども、今まで日本思想大系版を参照してきた都合上、今回もまた日本思想大系の「第七十三他心通」をテキストとして使用することにする。
それにしてもこの『正法眼蔵』という本はやったらめったら色々なバージョンが存在していて、これの研究についての論文も半端な数ではない。だから素人がこの問題に手を出すととんでもないことになってしまう。もちろんわたしは正真正銘の素人だから正法眼蔵フィロロギーについては何もいえない。岩波版を使うのもこれが偶々手元にあるということ。もっと遡っては、むかしむかし古田紹欽先生に『正法眼蔵』を読んでいただいた折に使用したテキストが岩波の日本思想大系版だったからなのだ。さらにいえばこの岩波版が理想的なテキストというわけではけっしてない。古田先生がこれをテキストに指定したのは、当時最も簡単に手に入れることができたのが岩波版だったからだと拝察している。研究室での講読で先生はこのテキストに対して時々言葉を置き換えながら読んでいらっしゃったからだ。誤解しないでいただきたいのだが、なにもわたしは岩波版が使い物にならないといっているわけではない、これだってしっかりとしたテキストだし、このおかげでわたしたちは『正法眼蔵』を手軽に読むことができるようになったのだから。
同版は今では岩波文庫にも収められていてハードカバーよりさらに手軽に読めるようになっている(が、値段的に手軽になっているとはいいかねる)。しかし岩波文庫ではこの版より以前に衛藤即応校訂による上中下三巻の『正法眼蔵』を刊行している。それがなぜ水野弥穂子校訂の四巻本になってしまったのか理解できない。さらに本来なら衛藤即応版は岩波書店でリクエスト復刻版として出すべきところをなぜ紀伊國屋書店出版部(一穂社)からバカ高い価格(オンデマンドとはいえ上巻五千八百八十円、中巻五千八百八十円下巻六千百九十五円だと)で出ているのかまったく判らない。これが岩波のリクエスト復刻版だったらどれほど高くても一冊あたり精々千円前後見当だろう。ついでにいえばこの衛藤即応三巻本は古書価格で全巻揃九千円といったところだ。わたしは怒りをもってこれを書いている。いまわたしたちは水野版であるならばかなり手軽に参照することができるが、しかしもし衛藤版を読もうとしたならば一万八千円近く支払わなくてはならないということで、これはどう考えてもまともな状況とはいえない。かりにそれが著作権にからむ問題が背後にあるのだとすればなんとも遣り切れない話だ。
なかなか本題に入らないのはいつもの事とて、それでは「後心不可得」または「第七十三他心通」を見ていこうと思ったのだが、これから始めると紙数を大幅に超過するので本編は次回ということにいたします。あしからず。

粘華(下)

2005年12月27日 05時53分09秒 | 不知道正法眼蔵
「おほよそこの山かわ天地、日月風雨、人畜草木のいろいろ、角々粘来せる、すなはちこれ粘優曇花なり。生死去来も、はなのいろいろなり、はなの光明なり。いまわれらが、かくのごとく参学する、粘華来なり」(注1)。すべての自然現象、いろいろな生物はそれぞれにそのものとして在るこいう状態、それは取りも直さず粘優曇花つまり正法眼蔵涅槃妙心である。生死去来も正法眼蔵涅槃妙心の現れ方の一つに過ぎない。いまわたしたちがこのように学んでいること、それも正法眼蔵涅槃妙心の現れ方の一つに過ぎないのだ。と道元禅師はいっているのだろうか。
と、ここまで書いてきてわたしはとても空しい気分になってきてしまう。一々文字で理解することはできるとしても、だからそれでなんだというのだろう。思うに道元禅師は本来言語表現が不可能な事態を敢えて言語表現しようとしているのだと思う。これはなにも道元禅師だけではなくてすべての祖師の試みて成就しなかったことなのだ。「道得」とかいて禅宗では「どうて」と読むが、これは「完璧に語ることのできたこと」というほどの意味らしい。しかしこれが実現することはまずないといってよい。結局言語表現とは言語の限界内でしか成立しない。そして言語の限界は思考の限界を意味する。これは人間存在の限界であるということもできるが、つまるところわたしたちはこの限界を超越することはできない。ではそれでも言語表現をしようとするとどうなるか。
「粘花の正当恁麼時は、一切の瞿曇、一切の加葉、一切の衆生、一切のわれら、ともに一隻の手を伸べて、おなじく粘花すること、只今までもいまだやまざるなり。さらに手裡蔵身三昧あるがゆへに、四大五陰といふなり」(注2)。正直なところわたしにはもうついてはいけない。そしてここで素朴な疑問がわいてくる。無上正等覚があるとして、そもそもなぜそれが一部の人々にしか明かにされなのだろう。しかもたとえ厳しい修行をしたとて無上正等覚を得る保証はまったくないのだ。無上正等覚がそれほど大切なものであるのならば、逆になぜこれほどまでに秘匿されているのかということのほうが疑問なのだ。なにもこれは仏教に限らない。すべての宗教について秘教の部分がりそこに辿り着くためには同じような厳しい修行が要求される。
話はかわるのだが、むかしむかし学校に通っていた頃、わたしが受けていた講義で先生が「価値というのは、価値という実体があるのではなくて、まさに価値付ける行為そのものなのだ」といっていたことを思い出す。非常に魅力的な考え方なのだが、わたしには今ひとつ納得できなかった。別にプラトン的なイデアの世界があるなどとも思ってはいなかったのだが、かといってもし価値がわたしたち自身にその起源を持つとしたならば、当然のことながらそのような価値とはわたしたち自身の限界内のものでしかなく、とすればそのような価値のオーソリティーはいったい何が担保するというのだろう。自分でいくら良いといっても他人がそれを良いというとは限らない。こんな状況を一昔前に流行った「価値の多様性」ということになるのだろうが、そんなものは価値でもなんでもない。

(注1)『日本思想体系13 道元(下)』216頁 岩波書店 1972年2月25日第1刷
(注2)『日本思想体系13 道元(下)』217頁 岩波書店 1972年2月25日第1刷

粘華(上)

2005年09月10日 07時27分47秒 | 不知道正法眼蔵
「霊山百万衆前、世尊粘優曇華瞬目。干時摩訶迦葉、破顔微笑。世尊云、「我有正法眼蔵涅槃妙心、附属摩訶迦葉」(注1)。
お釈迦様が霊鷲山で弟子たちに説法していたとき、優曇華の花を手でぐじゃぐじゃにして一瞬眼を閉じた。それを見て弟子の摩訶迦葉がにっこりすると、お釈迦様は「わたしの会得している正法眼蔵涅槃妙心をお前に付託しよう」とおっしゃった。
花をぐじゃぐじゃにしたのを見ただけで、お釈迦様の伝えようとしていたことをすべて悟ってしまった摩訶迦葉という弟子は、その仏教理解においておそらくお釈迦様とほとんど同じレベルにまで達していたに違いない。だからお釈迦様は彼を自分の後継者に選んだわけだ。一般にはこれを指して「以心伝心」といっている。美しい優曇華の花もちょっと手で捻っただけでバラバラになってしまう。しかも優曇華にしてみれば、そのような形で自分が消滅することなど思ってもいなかった。「無常」という概念を直接的に示す、なんとも遣り切れない気分になってくる話だ。この有名な粘華微笑のエピソードはなんでも「大梵天王問仏決疑経」というお経が元ネタなのだそうだが(注2)、道元禅師はこれにたいして「正法眼蔵第六十四 優曇華」で独特の詳細な解釈を行っている。
「七仏諸仏はおなじく粘華来なり、これを向上の粘華と修証現成せるなり。直下の粘花と裂破開明せり」(注3)。過去、現在、未来の諸仏はみな同じように粘華してきたのであり、これを過去の粘華であるとして修証を現成させたのだ。そして現在の粘花であると明らかにさせたのだ。ここでは粘華が単なる行為ではなくて仏教の根本概念として捉えらな直されている。粘華すなわち正法眼蔵涅槃妙心。わたしの感じた感傷的「無常」などもはや入り込む隙間もない。
「しかあればすなはち、粘華裏の向上向下、自他表裡等、ともに渾華粘なり。華量仏量、心量身量なり。いく粘華も面々の嫡々なり、附属有在なり。世尊粘華来、なほ放下着いまだし。粘華世尊来、ときに嗣世尊なり。粘花時すなはち尽時のゆへに同参世尊なり、同粘華なり」(注4)。そうであるからには、すなわち粘華における上に向かうとか下に向かうといったこと、自分と他人、表と裏など、すべてまったく区別のないもの、つまり粘華という概念にそのような区別は一切ない。花の力、仏の力、心の力、身の力があるだけなのだ。いくつもの正法眼蔵涅槃妙心としての粘華の継承者はそれぞれ正しい跡継ぎなのであり、正しい教えの附属が行われているのである。この伝統は世尊が粘華して以来、いまだ捨てられてしまったことはない。粘華つまり正法眼蔵涅槃妙心そのものである世尊が到来して、次の世尊が粘華を継いでいく。粘華するのはあらゆる時にわたるのであるから、同じように世尊が参じ、同じように粘華するというわけだ。

(注1)『日本思想体系13 道元(下)』215頁 岩波書店 1972年2月25日第1刷
(注2)『『正法眼蔵』読解8』70頁 森本和夫 筑摩書房 ちくま学芸文庫 2005年1月10日第1刷
(注3)『日本思想体系13 道元(下)』同
(注4)『日本思想体系13 道元(下)』同

不能充飢(下)

2005年08月01日 02時05分15秒 | 不知道正法眼蔵
「「画餅」といふは、しるべし、父母所生の面目あり、父母未生の面目あり。米麺をもちひて作法せしむる正当恁麼、かならずしも生不生にあらざれども、現成道成の時節なり、去来の見聞に拘牽せらるゝと参学すべからず」(注1)。
正直に白状すると初めてこの文章を読んだとき、理解できたのは「「画餅]といふは、しるべし」までだった。「父母所生の面目」「父母未生の面目」「正当恁麼」といわれたも何のことだかさっぱり判らなかった。現在のわたしはだいたい次のような意味だと思っている。「「画餅」といのは、絵であるから現実の餅としては存在しないという状態であり、また絵としての餅は現実に存在してるという状態であるという二つの側面を持っている。しかしその「画餅」とは米や麦粉を使って作るまさにそのもの(餅一般)であり、生まれるとか生まれないとかではなく、現に手元にあるような言葉(概念)として成立しているわけだ。だから「画餅」は去来(出現したり消え去ったりするもの)についての見たり聞いたりといった感覚的なものに束縛されていると考えてはいけない」。へえ、「画餅」といのは絵の具で描いた餅ではなくて、ちゃんと穀類を使って描くのか。だから道元禅師の論理が成立するのだなあ。「しかあればすなはち、いま道著する画餅といふは、一切の糊餅、菜餅、乳餅、焼餅、茲餅等(茲は米篇で作る)、みなこれ画図より現成するなり」(注2)、つまり「そうであるから、いま話題にしている「画餅」というのは、全ての個々の餅の抽象的概念なのである」。
では「不充飢」とは何なのだろう。「「不充飢」といふは、飢は十二時使にあらざれども、画餅に相見する便宜あらず、画餅を喫茶するにつゐに飢をやむる功なし。飢に相待せらるゝ餅なし、餅に相待せらるゝ餅あらざるがゆへに、活計つたわれず、家風つたはれず」(注3)。これも同じく最初に読んだときは「「不充飢」といふは」までしか判らなかった。早い話、すべてがまったく判らなかった。現在のわたしはおそらくこんな意味なのだろうと思っている。「「不充飢」については、先ずここで言う「飢」とは通常わたしたちが感じる空腹感とは違うものだ。つまり十二時使(現実的な時間のなかで使われているもの)ではなくてもっと抽象的な「希求」といったようなことを意味する。その「希求」が画餅つまり「概念」と相互に出会う都合のよいときがない。ある「概念」を自分のものにしたと思ってもその「概念」への「希求」そのものはけっしてなくなりはしない。その「希求」に待たれる「概念」はなく、更に「概念」に待たれる「概念」(より相応しい概念)がないために、なにも伝えることができないのだ」。ところで「餅に相待せらるゝ餅あらざるがゆへに」の部分だけれども、ここを増谷文雄は「餅に相待せらるゝ飢あらざるがゆへに」と読んでいる(注4)。どちらが正しいかわたしには判らないので一応岩波版テキストの通りに読んでおいた。
煎じ詰めればこういうことか。わたしたちは概念つまり言葉によって他者と交流する。そのためにより相応しい言葉すなわち概念を求めるのだが、それは永久に手に入れることができない。というのもわたしたち自身のはたらきである「希求」にとって、概念とは超越的なものだからだ。まさにこのことを「画餅不充飢」は表している、と道元禅師は言っているのだろうか。しかしわたし自身まだ釈然としない。回を改めてもう一度読みなおしてみよう。それにしても道元禅師がユニックなのは「画餅」と「不充飢」を別々に分析しているところ。そして「画餅」とはなにか、「不充飢」とはなにかという論じ方はこれが漢文だから可能なのだと思う。一般に道元禅師の漢文解釈には独特のものがある。単に中国語に堪能だったというだけでは『正法眼蔵』で展開されるアクロバティックとも見える議論はおそらく出てこなかったのではないだろうか。それにしても難しい。まるで外国語を翻訳しているみたいだ。

(注1)『日本思想体系12 道元(上)』284頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注2) 同上
(注3)『日本思想体系12 道元(上)』285頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注4)『正法眼蔵』(四)252頁 増谷文雄訳注 講談社学術文庫 2004年10月10日

不能充飢(中)

2005年07月31日 07時04分36秒 | 不知道正法眼蔵
前回『景徳傳燈録』第十一巻、香嚴章が「画餅」本文理解の助けとなる、と書いてしまった。別に間違いではないのだが、これは道元禅師のいう「画餅」を理解する直接的な助けとなるということではない。そうではなくて禅師が否定しようとするもが何であるかを理解するたすけとなる、としたほうがより正確かもしれない。
正法眼蔵は「古仏言「画餅不充飢」」という文章の後に「この道を参学する雲衲霞袂、この十方よりきたれる菩薩・声聞の各位をひとつにせず。かの十方よりきたれる神頭鬼面の皮肉、あつくうすし。これ古仏今仏の学道なりといえども、樹下草庵の活計なり」」(注1)と続く。つまり「この「画餅不充飢」という道(言葉)を学ぼうとあちらこちらからやって来る僧たちには声聞(小乗仏教に帰依したもの)や菩薩(大乗仏教に帰依したもの)がいて各位(それぞれの能力)は同じではない。彼らは神頭鬼面、つまり顔形が異なっているし、その皮や肉が厚いのもいれば薄いのもいる。「画餅不充飢」は昔の坊さんも今の坊さんも学ぶ言葉とはいえ、これは禅寺の日常つまり基本的な言葉なのだ」というわけだ。雲衲霞袂、菩薩・声聞だの、神頭鬼面だのと難しいことをいわずに初めっからそう言ってくれればわたしにだって理解できるのに。もちろんこの部分は話の核心ではなく、ほんの序の口に過ぎない。だから比較的簡単に理解できるのだが、普通はだいたいこの辺りでもうギブアップしてしまう。しかし本題はこの後。
今この「画餅不充飢」を学ぶ連中は、経や論(経義を解釈して法門の差を弁じた書)では真智つまり無差別平等の真理を観照する知恵を修得することができないから、経・論(画餅)は真智を修得することができない(不充飢)、といった解釈をしたり、大乗や小乗の教学(画餅)では仏の位の悟りには至れない(不充飢)といった解釈をしたり、あるいは文字や言語による教えは用を成さないという意味に「画餅不充飢」を解釈しているとして道元禅師は強く批判する。しかし、とここでわたしは思ってしまう。不立文字、教外別伝といっていたのは他ならぬ禅宗(禅師の嫌がる言葉)だったのではないか。『正法眼蔵思想体系』には「故に高祖は不立文字、教外別傳を否定し、文字を見直して、体験の深みを与へるところに、独創的な立場が存するのである」(注2)と書かれているが、原文を見る限り、不立文字、教外別傳を否定するというよりは、上記のような「画餅不充飢」の単純解釈(判りやすい解釈)は本来この言葉が持っている意味ではないといって批判し、禅師独自の分析を展開していると見たほうがよい。
まず「画餅不充飢」とは端的にどのようなものか。禅師はつぎのように書いてる。「「画餅不能充飢」と道取するは、たとへば、「諸悪莫作、衆善奉行」と道取するがごとし、「是什麼物恁麼来」と道取するがごとし、「吾常於是切」といふがごとし。しばらくかくのごとく参学すべし」(注3)。文法的には簡単なのだが言っている言葉が素人には難しい。いや知らないと判らないといった方が適切か。「諸悪莫作、衆善奉行」「是什麼物恁麼来」「吾常於是切」(注4)これらはまさに禅林の活計といってもよい言葉で、「画餅不充飢」はそれらに等しく重要なのだと禅師は強調し、本格的な分析へと入っていく。

(注1)『日本思想体系12 道元(上)』283頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注2)『正法眼蔵思想体系』五巻200頁 岡田宜法 法政大學出版局 昭和29年9月1日
(注3)『日本思想体系12 道元(上)』284頁
(注4)「諸悪莫作、衆善奉行」「是什麼物恁麼来」「吾常於是切」を今の言葉にすると「悪いことをするな、善をおこなえ」「何が何処から来たのだ」「私は常にこれに切実なのだ」となってしまうが、もちろん事はそれほど単純ではない。

不能充飢(上)

2005年07月30日 10時41分20秒 | 不知道正法眼蔵
絵に描いた餅は飢えを満たすことはない。しかしそれが餅の絵であるということには、いったいどのような意味があるのだろうか。概念としての「餅」が餅であるための条件はこれが飢えを満たすことができるもの、食の対象だというところにあるのではないだろうか。そうだとすれば絵に描いた餅が飢えを満たすことはできないといっておきながら、まさにその絵に描いた餅は、飢えを満たすたものに他ならない。ルネ・マグリットの作品に「これはパイプではない」と題された絵がある。たしかにそれは一枚のタブローであってタバコの煙を燻らすパイプそのものではない。わたしたちは絵の具の塗られたキャンバスを眺めているということか。しかしわたしたちは視覚与件を統合してパイプを作り上げてしまう。つまり目の前にあるものは明らかにタバコの煙を燻らす機能をもった対象なのであり、それ以外の何ものでもない。見る主体と見られる対象についてのこのような関係を考察するのがヨーロッパ的エスプリだとすれば、道元禅師の「画餅不充飢」ではこれとはまったく異なった議論が展開される。
「古仏言「画餅不充飢」」(注1)と書いていきなりその分析が始まる『正法眼蔵第二十四画餅』の巻を、むかしむかし古田紹欽先生に読んでいただいたのを思い出す。このとき「画餅」を「がへい」ではなくて「わひん」と読むが「わひょう」とも読むと教わった。当時使用したテキストは岩波の『日本思想体系12 道元(上)』だったが、たった五頁を一回当たり一時間半で三回かけて講義していただいたものだ。
最近再び読んでみた。古田先生によるコメントを書き込んだ岩波のテキストは、今でも判りにくい。理由は簡単で頭注そのものが判りずらいのと、そもそも本文そのものにも問題があるのであって、古田先生は「この「せずして」の「せず」は削って読まねばならない」とか「ここには「絵に描いた」という言葉を補って」とか、水野弥穂子の校訂したテキストをかなり批判的に読んでいらした。惜しむらくはわたしが未熟だったため、先生のコメントを充分に筆記し得なかったこと。
さて先ほどの「古仏言「画餅不充飢」」はそもそも「香嚴禅師の語を拈擧して、これを自由に評釋されたものである。『傳燈録』第十一巻、香嚴禅師の章に、「師遂に堂に帰り、集むる所の諸方の語句を遍く検するに、一言も將て酬報すべき無しと、乃ち自ら嘆じて曰く、畫餅飢に充すべからずと。是に於いて盡く之を焚く」とある。これを「古佛言く、畫餅は飢に充たず」と云はれたのである」(注2)。このことを知った上で読まないと道元禅師がなにを言いたいのかさっぱり判らない。逆にこのことを知っただけでも本文理解にはかなり助けとなるのだけれども、岩波のテキストにはその辺りの説明が一切ない(注3)。これでは「古仏言「画餅不充飢」」を「むかしの坊さんが腹が減ったとき、絵に描いた餅を見てこれは食えない、と言った」と解釈しかねない。
要するにこれは餅うんぬんの話ではなかったわけだ。一言でいうと香嚴禅師が文献からは得るものがないといってこれを焼き捨てたってことなので、道元禅師はこの場合の「画餅不充飢」を「画餅」の章で分析しているということになる。では、どのような分析がなされているのか。

(注1)『日本思想体系12 道元(上)』283頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注2)『正法眼蔵思想体系』五巻199頁 岡田宜法 法政大學出版局 昭和29年9月1日
(注3)『日本思想体系12 道元(上)』の渉典(480頁)に「古仏言「画餅不充飢」」が『傳燈録』第十一巻、香嚴章からの引用であることが示されているが、しかしこれだけでは専門家でない者には何のことだかさっぱり判らない。今日『景徳傳燈録』は活字本としては出版されていないが、京都大学図書館の開いているホームページから『景徳傳燈録』のきれいな写真版を参照することができる。しかし普通の人がこれをすらすら読めるとは到底考えられない。

回憶正法眼蔵

2005年07月12日 02時48分21秒 | 不知道正法眼蔵
昭和十六年釈宗演の弟子鈴木大拙が師の遺言にもとづいて北鎌倉は東慶寺内の後丘に創立した施設がある。これを松が丘文庫という。
大拙の後この文庫長を務めていらっしゃったのが古田紹欽先生で、わたしに正法眼蔵に接するきっかけを作ってくださった。先生としては仏教のブの字も知らぬ若造相手なのでかなり詳細に説明していたことと拝察する。が、それでもわからなかった。ぽかんとした顔の学生達を見まわして先生いわく「どうだ、わからないだろう。あはっはっは」と爽快に一笑された後「一年や二年ではなかなか判るものではないが、読んでいくうちにだんだんと判ってくる」ともおっしゃっていた。わたしは永久に判らないと思った。その講義に出席していた学生の多くは仏教専門ではなかったので、わたし同様の感慨だったにちがいない。古田先生の講義を一年聞いたが結局そのときは『正法眼蔵』はわたしにとって意味不明理解不能な奇書でしかなかった。
そもそも『正法眼蔵』の理解を難しくしているものな何なのか。第一の壁は時代とそれに相即する言語の問題がある。日本で初めてのかな書きによる仏教書であるということは鎌倉時代中期の都の貴族が用いた言語がベースとなっている。ということはまず古語文法の知識はこれを読むにあたってかならず必要なはずだ。平安朝のたとえば紫式部や清小納言の書いた文章よりは読みやすいとしても、古語で書かれていることに変わりはない。第二の壁は道元禅師の個人的な用語法というのもある。つまり簡単にいえば個人の癖。そして三番目の壁は当時の文化といったらよいか、社会的慣習があるだろう。当時道元禅師のような身分の高いものが当然心得ていた規範とか慣わしなど。そして宋代中国の言葉。道元禅師は今日の学者が外国語を引用するように気軽に当時の中国語を引用する。それほど禅師は中国語に通じていたわけだ。
しかしこれらの壁は、越えるのが困難というほどではない。ほんのちょっと努力して勉強すりゃ容易に習得できる知識ばかりだから。難しいのはこのあとにくる第四以降の壁。まず四番目の壁。これは仏教一般の知識。当時の学僧が学ぶ経論釈の知識を今日において修めることは、できなくはないけれどもむずかしいように思う。街の新刊書店にいけば仏教書コーナーがあるが、そこに並べられている本はいわば「ハウ・ツー仏教」物で、おおよそ経論釈にはほど遠いものだ。いっそふんばって『大正新修大蔵教』でも紐解くか。この浩瀚な集成には道元禅師時代の学僧が学んだ経典はすべて網羅されているに違いない。違いないが、それじゃあいったいどれがその経典なんだ。そもそも『大正新修大蔵教』の経典はすべて白文ときている。これをすらすらと読むのはそれほど簡単ではない。要すればこのレベルになってくるともう独学では対応できなくなってくる。それなら、というので何処か仏教学科のある大学に入学するなり、聴講生になるなりしてそのあたりの知識を吸収することとなる。だから「できなくはないがむずかしいように思う」と書いた。
仮にこれらをクリアしたとする。第五の壁がある。それが修行、具体的には座禅。道元禅師は「只管打座」という。ひたすら座れというのだ。これは理屈ではない。正師に就いてとにかく自分で座禅を実際におこなわなくてはならない。しかも、一回や二回の座禅で悟りが開けるものではない、いやそもそも坐禅とは悟りを開くためのものではない。座禅の目的をしいていうならば、それは坐禅そものもだと禅師はいう。しかしこの体験がないかぎり道元禅師の説く仏道は見えてこない。これはきびしい。だから『正法眼蔵』がわたしにとって永久に意味不明理解不能な書でありつづけるのは目に見えているのだ。「あわれむべし、かなしむべし」

大海不宿死屍

2005年06月28日 05時36分36秒 | 不知道正法眼蔵
『正法眼蔵』の「第十三海印三昧」に不思議な一節がある。曹山禅師に或る修行僧が、「大海死屍を宿せず」の意味を尋ねている。これに答えた曹山禅師の言葉を道元禅師が解説しているのだが、わたしにはどうしても「大海死屍を宿せず」の意味が素直に理解できなかった。望月の佛大辭典によれば「大海の具する十種の徳相の意。舊華嚴經第二十七に「佛子、譬えば大海の十相を以っての故に名づけて大海と爲し、能く壊するものあることなきが如し。何等をか十と爲す、一に漸次に深く、二に死屍を受けず、三に餘水は本名を失し、四に一味なり、五に寶多く、六に極めて深くして入り難く、七に廣大にして量なく、八に大身の衆生多く、九に潮は時を失はず、十に能く一切の大雨を受くるも盈溢あることなし。菩薩地も亦是なり」と云へる是れなり」(注1)とあり更に「又大涅槃經第三十三にも大海に八不思議ありとし、一に漸漸に轉た深く、二に深くして底を得難く、三に同一鹹味、四に潮は限を過まらず、五に種種の寶蔵あり、六に大身の衆生、中に在りて居住し、七に死尸を宿さず、八に一切の萬流大雨之に投ずるもせず滅せずと云へり。今華嚴の大海十相の説は恐らく此等の説を布衍せしものなるべし」(注2)と載っていた。要すれば太平洋みたような大きな海の功徳(この場合は機能というほどの意味)は大涅槃經第三十三では八不思議という形に分類され、華嚴經ではこれが更に敷衍された十種類があげられているということで、つまり大海の機能の一つに死体を海中にいつまでも留め置かないということがあるということだ。簡単にいってしまうと土左衛門は一昼夜すれば岸辺に流れ着く、つまり海中から排除されてしまうということ。『俚諺大辭典』にも「【大海は屍をとどめず】(涅槃經)大海不宿死屍」(注3)と出ているくらいだからかなり有名な一節らしく、したがってこの言葉自体は何等難しいことをいっているわけではないことがわかった。それが道元禅師にかかるととたんに様相が変わってくる。「いはゆる大海は、内海、外海等にはあらず、八海等にはあらざるべし」()(注4)といってこの海がわたしたちの認識している海ではないことを強調する。つまり「海」は菩薩の立場の比喩なのだということ、ここまでは簡単にわかる。しかし不宿死屍というのが「不宿とは明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なるべし。死屍は死灰なり、幾度逢春不変心なり。死屍といふは、すべて人々いまだみざるものなり。このゆへにしらざるなり」(注5)となってくると考え込んでしまう。「不宿」というのは「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」であるはずなのだ、といわれてもねえ。道元禅師はこの「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」を『正法眼蔵』のなかで何回か使用している。たぶん宋留学中に覚えたのだろうけれどよっぽど気に入ったのかな。これについては日本思想体系本の頭注に「情況に応じて確執遅滞なくやってのけられること」(注6)とあるのでそのように理解するとしよう。ということはまず菩薩としての大海は死体を情況に応じてすいすいと処理してしまう、ということになる。しかしそれではそのように処理される屍とはいったい何なのだろう。そこで道元禅師は透かさず「死屍は死灰なり」という。「死屍」(シシ)は「死灰」(シハイ)または(シカイ)、つまり生気のないもの。あたりまえだ。そして畳み掛けるように「幾度逢春不変心なり」とくる。恒久的に変わることのない「心」。これは「こころ」ではなく「意味」とか「趣」というくらいに解釈しよう。つまり生気のないものは恒久的に不変であるということか。そして最後に「死屍といふは、すべて人々いまだみざるものなり。このゆへにしらざるなり」とくる。生気のないものを人々はまだ見たことがない、だから知らない。
煎じ詰めれば、大海のような菩薩は恒久的に変わることのない生気ないものを確執遅滞なく処理してしまう。だからそのような生気のないものを人は見たこともないので、したがって知ることもない。ということになるのだろうか、しかしわたしにはまだわからない。不知道正法眼蔵。

(注1)『佛大辭典』第四巻3200頁 望月信亨 佛大辭典發行所 昭和10年3月15日
(注2) 同上
(注3)『俚諺大辭典』528頁 中野吉平 東方書院 昭和8年10月15日
(注4)『日本思想体系12 道元(上)』145頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注5) 同上 145頁~146頁
(注6) 同上 137頁

死也全機現

2005年06月12日 07時53分36秒 | 不知道正法眼蔵
たしか去年のことだったと思う。わたしの自宅近くの道路で、猫がひき逃げされて落命した。朝、道の真ん中に轢死体があったのを目撃したけれども、わたしはそのまま見てみぬ振りをした。強烈な不快感だけしか感じなかった。数時間して同じ場所を通ったら、亡骸が歩道の植込みのところに退避されていた。奇特な人が処置したのだと思う。さらに翌日にはそれがなくなっていた。役所に連絡して始末してもらったに違いない。むかしは犬猫の骸なんぞ、いつまでたっても放置されていたものだが、まあそれだけ人々の心持に余裕が出てきたということになるのだろうか。それはそうと、わたしとはなんの拘わりもない猫だったので悲しいとかいった感情は起こらなかったけれども、この一件が「生き死に」ということについてほんの少しだけ考えるきっかけを造ってくれた。
道元禅師は生について「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しかあれども、生は全機現なり、死は全機現なり。しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり」(正法眼蔵第二十二 全機)(注1)といっている。なるほどねえ、生きるということは何処からか来たものでも、何処かへ去っていくものでもない。来るものでなければ現れるものかというとそうではない。何処かへ去っていくのでなければ生成変化するのかというとそうでもない。ここでは生の本質がどこかイデアの世界からやってくるといったプラトンのミュトスや、ヘーゲル流の自然における自己発展を基礎付ける弁証法哲学は完全に否定される。そのうえで道元禅師は生やそして死もまた全ての機能の完全な現成であるという。自己の持っている特性、というよりは数え切れないほどの特性の総体としての生命体が全機能を完全に現成するとき、そのなかに生も死も含まれてしまうのだそうだ。生死という生命体の絶対的形式はここで否定され、特性の総体としての自己のうちに還元されてしまう、ということか。というよりも恐らく生死という現象そのものが重要なのではなくて、生死をも含めて一個の生命体、特性の総体としての生命体の全ての機能が現実に完璧に成就するそのことこそ、最も大切なことなのだといっている(と思う)。
そこでひき逃げされた猫にもどって考えてみると、その猫、たぶん野良だったことと思うが、彼または彼女は生まれてから死ぬときまで自分の全機能を完全に成就させて一瞬一瞬を行動していたかのどうか。わたしはしていたことと思う。野良猫にとって軽く流して過ごせる瞬間などなかっただろうから。それでは軽く流して過ごすことの多い人間は野良猫よりも真如から遠い存在なのか。そうだともいえるし、そうでないともいえる。だってそもそも人間と猫を比較してあっちが上等だこっち下等だと議論すること自体がナンセンスなことなのではないだろうか。六道輪廻のなかで猫も人間もぐるぐると生まれ変わるという意味では互いに救われない存在なのですからね。

(注1)『日本思想体系12 道元(上)』275頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷