「まち」の回で「神田多町、神田司町、神田神保町と、どれもこれも気忙しい気分にさせられるけれども、神田小川町(おがわまち)と聞けば、ちょとほっとする」と書いた。これは音から受ける印象が「まち」と「ちょう」でかなり異なるということをいいたかったものだが、どうもこのうちの「神田司町」については「つかさちょう」ではなくで「つかさまち」と読まねばならないらしいのだ。たしかに「つかさちょう」と読んでいるサイトもあったのだが、なにしろ千代田区が公開しているホームページでははっきりと「つかさまち」と記されているのだから、これには抵抗のしようがない。というわけで、わたしはとんだ間違いをしでかしていました、とエクスキューズいたします。たとえどんな些細なことであれ、そしてそれが自分にとっていかに明白なことであれず確認しておかなければならないと、改めて反省しております。
さて気を取り直して、むかしむかし中国でのこと。
唐の国は肅宗皇帝の時代、西の国からやってきた大耳三蔵という名の人物が、人の考えていることを読み取ることができるというのでたいそう評判になった。そこで皇帝は大證国師という高僧に大耳三蔵が本当に人の考えていることがわかるのかどうか調査するように命じた。大耳三蔵と面会した大證国師はさっそく彼に「わたしはいったい今どこにいるのかね」と質問した。すると大耳三蔵は「和尚様は一国の師ですが、どうして西川で競艇なんかを見物していらっしゃるのでしょうか」と答えた。大證国師はこの言葉を黙って聞いた後、しばらくしてからまた大耳三蔵に「わたしはいったい今どこにいるのかね」とまったく同じ質問をした。三蔵は今度は「和尚様は一国の師ですが、どうして天津橋の上にいって猿回しなんかを見物していらっしゃるのでしょうか」と答えた。そこで国師は再び三蔵にむかって「わたしはいったい今どこにいるのかね」と尋ねたが、今度は三蔵は答えることができなかった。そこで大證国師は「この野狐精め、いったいお前のいう他人の心を読む能力とはどこにあるというのだ」と大耳三蔵を叱りつけた。三蔵はついに返す言葉がなかった。
このお話は伝燈録五の光宅慧忠章にあるということだが、わたし自身は『景徳伝燈録』を開いて確認したわけではない。
道元禅師はこの大證国師と大耳三蔵のエピソードについての五人の祖師の解釈を「正法眼蔵第七十三 他心通」において詳細に検討している。結論からいってしまえばこの大耳三蔵なる人物は本当に他人の心を読む能力つまり仏教における他心通など持ってはいない、ということなのだが、それにしてもこのお話は「正法眼蔵」から離れて、ちょっと考えてみたくなる。
おそらくこの出来事は実際にあったことなのだろうと思う。西川の競艇や天津橋の猿回しは当時みやこで有名な娯楽だったに違いない。そこで大耳三蔵は山をかけたのではないか。そもそもこの三蔵という人、心の中では本当の坊さんなんてこの世にいるものかといった覚めた目を持っていたのだろう。そしてどんなに偉い坊さんだって所詮は世間の誘惑に勝てるわけがない、ナントカ国師などと称されている連中ほど欲望むんむんの俗物であるはずだという強い信念に凝り固まっていたのに違いない。そうであればこそ大證国師の「わたしはいったい今どこにいるのかね」という質問を「わたしはいま何をしたいのか」という意味にとったわけだ。彼はそれまでにも同様の遣り方で多くの高僧と呼ばれる坊主たちの虚飾を剥ぎ取ってきたのではないか。だから大證国師にもそれが通じると考えたのだろう。しかし今回はちょっと様子が違っていた。
道元禅師は大證国師が「汝道、老僧即今在什麼処」(注1)つまり「わたしはいったい今どこにいるのかね」と質問した意味は「三蔵もし仏法を見聞する眼睛なりや」「三蔵をのづから仏法の他心通ありや」(注2)ということなのだと説明している。そしてもしも大耳三蔵に仏法というものがあったならば「老僧即今在什麼処としめされんとき、出身のみちあるべし、親曾の便宜あらしめん」として三蔵は「仏道を学せざる」(注3)と結論する。道元禅師にとってこの大耳三蔵のお話はあくまで仏道とはなにかを語り解くための材料なのであってみれば、このような展開になるのは当然としても、わたしのような俗人はどうしても大耳三蔵というキャラクターに関心が向いてしまう。
つまり大耳三蔵と大證国師はそれぞれ別次元に身をおいていた。片やジャーナリズム、一方は魂の世界といったらよいだろうか。これでは百年経っても話がかみ合うはずがない。道元禅師は三蔵が仏道を夢にも見たことがないからこんな頓珍漢な回答をしたのだといっているが、わたしにはこの三蔵という人は始めっから仏道なんてことは頭になかったと思えてならない。要すれば彼は当時の「正義派評論家」だったと見ることもできる。彼が持っていたのは超能力というよりもインチキ坊主は必ず見抜くことができるのだという経験に裏打ちされた強い自信だったのだ。
それにしても、何事につけ真贋を見分けることは大層難しい。
(注1)『日本思想大系 道元(下)』283頁
(注2) 同上 284頁
(注3) 同上 285頁
さて気を取り直して、むかしむかし中国でのこと。
唐の国は肅宗皇帝の時代、西の国からやってきた大耳三蔵という名の人物が、人の考えていることを読み取ることができるというのでたいそう評判になった。そこで皇帝は大證国師という高僧に大耳三蔵が本当に人の考えていることがわかるのかどうか調査するように命じた。大耳三蔵と面会した大證国師はさっそく彼に「わたしはいったい今どこにいるのかね」と質問した。すると大耳三蔵は「和尚様は一国の師ですが、どうして西川で競艇なんかを見物していらっしゃるのでしょうか」と答えた。大證国師はこの言葉を黙って聞いた後、しばらくしてからまた大耳三蔵に「わたしはいったい今どこにいるのかね」とまったく同じ質問をした。三蔵は今度は「和尚様は一国の師ですが、どうして天津橋の上にいって猿回しなんかを見物していらっしゃるのでしょうか」と答えた。そこで国師は再び三蔵にむかって「わたしはいったい今どこにいるのかね」と尋ねたが、今度は三蔵は答えることができなかった。そこで大證国師は「この野狐精め、いったいお前のいう他人の心を読む能力とはどこにあるというのだ」と大耳三蔵を叱りつけた。三蔵はついに返す言葉がなかった。
このお話は伝燈録五の光宅慧忠章にあるということだが、わたし自身は『景徳伝燈録』を開いて確認したわけではない。
道元禅師はこの大證国師と大耳三蔵のエピソードについての五人の祖師の解釈を「正法眼蔵第七十三 他心通」において詳細に検討している。結論からいってしまえばこの大耳三蔵なる人物は本当に他人の心を読む能力つまり仏教における他心通など持ってはいない、ということなのだが、それにしてもこのお話は「正法眼蔵」から離れて、ちょっと考えてみたくなる。
おそらくこの出来事は実際にあったことなのだろうと思う。西川の競艇や天津橋の猿回しは当時みやこで有名な娯楽だったに違いない。そこで大耳三蔵は山をかけたのではないか。そもそもこの三蔵という人、心の中では本当の坊さんなんてこの世にいるものかといった覚めた目を持っていたのだろう。そしてどんなに偉い坊さんだって所詮は世間の誘惑に勝てるわけがない、ナントカ国師などと称されている連中ほど欲望むんむんの俗物であるはずだという強い信念に凝り固まっていたのに違いない。そうであればこそ大證国師の「わたしはいったい今どこにいるのかね」という質問を「わたしはいま何をしたいのか」という意味にとったわけだ。彼はそれまでにも同様の遣り方で多くの高僧と呼ばれる坊主たちの虚飾を剥ぎ取ってきたのではないか。だから大證国師にもそれが通じると考えたのだろう。しかし今回はちょっと様子が違っていた。
道元禅師は大證国師が「汝道、老僧即今在什麼処」(注1)つまり「わたしはいったい今どこにいるのかね」と質問した意味は「三蔵もし仏法を見聞する眼睛なりや」「三蔵をのづから仏法の他心通ありや」(注2)ということなのだと説明している。そしてもしも大耳三蔵に仏法というものがあったならば「老僧即今在什麼処としめされんとき、出身のみちあるべし、親曾の便宜あらしめん」として三蔵は「仏道を学せざる」(注3)と結論する。道元禅師にとってこの大耳三蔵のお話はあくまで仏道とはなにかを語り解くための材料なのであってみれば、このような展開になるのは当然としても、わたしのような俗人はどうしても大耳三蔵というキャラクターに関心が向いてしまう。
つまり大耳三蔵と大證国師はそれぞれ別次元に身をおいていた。片やジャーナリズム、一方は魂の世界といったらよいだろうか。これでは百年経っても話がかみ合うはずがない。道元禅師は三蔵が仏道を夢にも見たことがないからこんな頓珍漢な回答をしたのだといっているが、わたしにはこの三蔵という人は始めっから仏道なんてことは頭になかったと思えてならない。要すれば彼は当時の「正義派評論家」だったと見ることもできる。彼が持っていたのは超能力というよりもインチキ坊主は必ず見抜くことができるのだという経験に裏打ちされた強い自信だったのだ。
それにしても、何事につけ真贋を見分けることは大層難しい。
(注1)『日本思想大系 道元(下)』283頁
(注2) 同上 284頁
(注3) 同上 285頁