goo blog サービス終了のお知らせ 

蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

羅甸語事始(二十五)

2006年02月27日 00時02分17秒 | 羅甸語
"Jupiter, postquam terram caede Gigantum pacavit, homines novum genus, in eorum locum collocavit. Hos homines Prometheus, Japeti filius, ex luto et aqua finxerat. Prometheus autem, misericordia motus, ubi paupertatem eorum et inopiam vidit, ignem e caelo terram secreto deportavit. Principio enim homines, ignari omnium artium, per terram errabant, famem grandibus et baccis aegre depellentes. Propter hoc furtum Jupiter iratus Prometheum ferreis vinculis ad montem Caucasum affixit. Huc ferox aquila quotidie volabat, rostroque jecur ejus laniabat. Denique post multos annos Hercules aquilam sagitta transfixit, et captivum longo supplicio liberavit."(注1)
「ユピテルが地上の巨人族を殺戮することによって平定して以来、人類という新しい種族を、彼ら(巨人族)のいた場所に置いた。これらの人々をユピテルの息子であるプロメテウスは泥と水から創造したのである。しかしプロメテウスは彼ら(人間たち)の貧困と欠乏を見たとき、同情につき動かされて、燃えるものを隠れて天から地上に持ち帰った。というのも最初のうち人間たちはなんの技術も知らず、すなわち巨大なオリーブの実でもって苦しみつつ飢えを追いやりながら、地上をうろつきまわっていたからである。この盗みにより怒ったユピテルはプロメテウスを堅固な鎖でカウカスス山に縛り付けてしまった。そこに持ってきて大胆不敵な鷲が毎日飛んできては、嘴で彼の肝臓をついばんだ。結局何年もの後、ヘラクレスが鷲を矢で貫き、そしてこの囚われ人を永きにわたった罰から開放したのである。」
今回の課題は比較的易しかった。易しかったというのは文法的事項についてもそうなのだけれど、じつはそれよりなにより、わたしがプロメテウスのお話を知っていたということによる。これはとても大事なところで、つまり何が書かれているのかを事前に知っていれば、文法的にあやふやな部分でも想像力で理解できてしまうということなのだ。だから自分の熟知している分野について書かれた外国語ならば、まったく未知の領域よりはいかほどか読みやすいということになる。むかし学校に通っていた頃、効果的な外国語学習の方法として自分に興味のあることが書かれた文章を読むことを勧めた先生がいらっしゃったが、要すれば興味があるのなら聖書でも経済学でも、あるいはジョイスでもポルノでもよいから読んでみることだというのだ。当時わたしはなるほどそれはよいかもしれない、と納得したものだが、実際に外国語をじっくりと勉強してみると、ことはそれほど単純でないことが判ってきた。この伝にしたがって自分の好きな話題、それは例えばドイツ近代史だったとしようか。これをドイツ語で読んだとしておそらくフランス革命を論じた本よりは速く読めるかも知れない。しかしいくら速く読めたとしてはたしてどのくらい厳密に文章を読み込んでいるのかはかなり怪しくなってくる。というのも上にも書いているように「文法的にあやふやな部分でも想像力で理解できてしまう」というとんでもない陥穽があるからだ。わたしなどネイティブ・ランゲージである日本語で記述されている本だって実のところかなりいい加減に読んで判った気になっているのが再三なのであって、ときどき恥をかいている。
要すればたしかに自分の知っている分野に係る文章が理解し安いのは判るのだけれども、それだけに思い込みで読んでしまう危険も多く孕んでいるということ。だからわたしは今では件の先生のアドバイスは外国語学習にとっては、そして特に初心者にとっては返って有害なのではないかと考えるようになった。つまり意識せずに文章を思い込みで読んでしまい、副詞や形容詞の一つ一つ、動詞の活用が何に当たるのか、ドイツ語でいうなら接続法Ⅰ式なのか単なる過去形なのかを厳密に読み込んでいく必要があるというわけだ。
さて本題に取り掛かる。形容詞については既にみているが、この品詞については性と数による局用のほかに比較級、最上級という形がある。英語でも同じ言い方をしているけれども、例えば原級、比較級、最上級というと"good","better"."best"、"much","more","most"、あるいは"tall","taller","tallest"、それから"useful","more useful","best useful"なんてのもあった。最初の例は不規則変化、二番目は規則変化、そして三番目は二音節以上の形容詞における原級、比較級、最上級の作りかたとなる。
ラテン語の形容詞での比較級、最上級についてまず規則変化をみると、例えば"fortis"(勇敢な)は比較級が"fortior"、最上級が"fortissimus"となるが、最上級の語尾は現代イタリア語の絶対的最上級に"issimo"という形で残っているのでちょっと親近感を覚えるが、当然ながら性、数、格による曲用があるわけで、まず比較級の局用を見てゆく。
単数・男性形、女性形は"fortior","fortio-ris","fortio-ri-","fortio-rem","fortio-ri-"となる。
単数・中性形は"fortius","fortio-ris","fortio-ri-","fortius","fortio-ri-"で主格と対格の形は第一変化形容詞と混同しやすいので注意する必要があるが、"fortis"が第二変化形容詞であることを知っていれば間違えることもない。なお奪格は"fortio-re"ともいう。
複数・男性形、女性形は"fortio-re-s","fortio-rum","fortio-ribus","fortio-e-s","fortioribus"で対格は"fortio-ri-s"ともいう。単数属格との違いは"ris"と"ri-s"つまり短母音と長母音の違いなので文字の上では違いがまったく判らないのでこれも注意しなくてはならない。困ったものだ。
最後に複数・中性形は"fortio-ra","fortio-rum","fortio-ribus","fortio-ra","fortio-ribus"
次に最上級の局用も見ておこうか。こちらは"fortissimus"、"fortissima"、"fortissimum"で要すれば第一変化形容詞の局用をおこなえばよい。
このほかに不規則変化する形容詞もいくつかあるが、今回はこのあたりで止めておこう。不規則変化する形容詞と副詞の比較級、最上級、ならびにこれらの実際的な使い方に関しては次回でみて見たいと思う。
今回の自分への宿題はプリニウスの文章から。
"Bene est mihi, quia tibi bene est. habes uxorem tecum, habes filium. Frueris mari, fontibus , viridibus , agro, villa amoenissima. Neque enim dubito esse amoenissimam, in qua se composuerat homo felicior, antequam felicissimus fieret. Ego in tuscis et venor et studeo, quae interdum alternis, et interdum simul facio: nec tamen adhuc possum pronuntiare, utrum sit difficilius capere aliquid, an scribere. Vale"(注2)

(注1)『新羅甸文法』111頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷
(注2) 同上 129頁

羅甸語事始(二十四)

2006年01月30日 23時31分00秒 | 羅甸語
前々回で能相・現在完了について検討した。ちょっと活用を思い出してみよう。現在完了形の活用を例によって"amo"を用いて行うと、"ama-vi-","ama-visti-","ama-vit","ama-vimus","ama-vistis","ama-ve-runt"(ama-vere)ということだった。第二変化、第三変化、第四変化動詞の現在完了については、
"moneo"(忠告する):"monui-","monuisti-","monuit","monuimus","monuistis","monue-runt"(monue-re)
"ago"(行う):"e-gi-","e-gisti-","e-git","e-gimus","e-gistis","ege-runt"(e-ge-re)
"audio"(聞く):"audi-vi-","audi-visti-","audi-vit","audi-vimus","audi-vistis","audi-ve-runt"(audi-ve-re)
だった。
現在完了があれば過去完了、未来完了もあるということは、あまり想像したくないのだがじつはあるのだ。またしても六種類の活用をそれぞれの時制について憶えなくてはならないのか。まったく忌々しい話だ。しかしちょと冷静になって考えてほしい。普段何気なく使用している日本語にだって五段活用、下一段活用、上一段活用、サ行変格活用、カ行変格活用なんてのがあるが、それではわたしたちは学校で「来ない」「来ます」「来る」「来るとき」「来れば」「来い」なんてかたちで暗誦させられただろうか。たしかにわたしも中学校の国語の時間に「来ない」「来ます」「来る」「来るとき」「来れば」「来い」と唱えた憶えはある。しかしこれは日本語の使用法を習得するためにやっていたわけではない。あくまで文法知識としての未然、連用、終止、連体、仮定、命令を学習する中での出来事であったはずなのだ。つまりなにを言いたいのかというと、日本語ネイティブスピーカーであるわたしたちがその日本語を習得する過程においては、個々の動詞活用を機械的に憶えこむ訓練などしなかったということだ。これは古代ラティウム地方の人々とてまったく同じなわけで、ヴェルギリウスだってカエサルだって子供の頃"amo-","ama-s","amat"ってな具合に動詞活用、名詞曲用のお勉強をしたなんてことはなかった(はずだ)。
つまりここには古典語学習の進め方についての大きな間違いがある。現代語の学習を思い出してみてほしい。たとえばドイツ語だとしようか。教科書をめくったらいきなり"lieben"の直説法現在能動相の人称変化"liebe","liebst","liebt","liben","liebt","lieben"が出てきたら面食らってしまう。でもこれが"amo-","ama-s","amat","ama-mus","ama-tis","amant"だとなんだか有難く感じられるというのは古典語についてある種の先入観があるからではないか。古典ギリシア語だろうが、ラテン語だろうが現代英語だろうが、タガログ語たろうが、これらの言語に価値的な差異はない。もっと露骨な言い方をするならば、ギリシア語にしろ、サンスクリット語にしろ古典語を有難がるのはまったく馬鹿げたことで、要すれば学習しやすい教科書をつくれば済む話なのだ。そんなわけで最近の古典語教科書はむかしと比べて随分進歩している。例えばCambridge University Pressから出ている"Reading Latin"などは文法編とテキスト編の二冊物で文法編は六百頁ほどの分厚いものだがテキスト編は現代語の教科書のように次の会話から始まっている。
"quis es tu?"
"ego sum Euclio. senex sum."
"quis es tu?"
"ego sum Phaedra. filia Euclionis sum"
何を言っているのか、だいたい見当が付くはず。蛇足だけれど意味は次のようになる。
「お宅はどちらさんだね?」
「わしゃエウクリオ、年寄りじゃよ」
「して、あなたはどなたさんですかな?」
「あたしフェードラ。エウクリオの娘よ」
これならば"Puellae donant Dianae deae coronam rosarum"(少女たちはダイアナ女神にバラの冠を贈る)なんてアホみたような文章よりはよっぽど学習意欲が沸くというものだ。
さて気が進まないけれども過去完了、未来完了を見ることにするか。お馴染みとなった"amo"を使うと、まず過去完了は、
"ama-veram","ama-ver-as","ama-verat","ama-vera-mus","ama-vera-tis","ama-verant"
次に未来完了は、
"ama-vero-","ama-veris","ama-verit","ama-verimus","ama-veritis","ama-verint"
なんだそうだ。いずれも完了幹"amav"から構成されていることに注意願いたい。ところでここでなにか気付かないだろうか。つまり活用する語尾部分。わたしは気を持たせるのが嫌いなので早速種明かしをしてしまうのだが、"sum"の未完了過去直説法能動相の活用"eram","eras","erat","eramus","eratis","erant"と未来直説法能動相の活用"ero","eris","erit","erimus","eritis","erunt"をそれぞれ過去完了、未来完了の活用語尾とくらべてみる。ほとんど同じなのだ。「ほとんど」といったのは同じではないものがあるということで、未来完了の三人称複数形の活用語尾は"erint"であって"erunt"ではない。以上が第一変化動詞についての過去完了、未来完了の活用だったがこの他第二変化、第三変化、第四変化動詞についての活用もある。しかしそれらも完了幹に上記の活用語尾を付ければ出来上がってしまうのでたいした問題ではない。
それでは"sum"の過去完了、未来完了はどんなことになるかというと、まずは現在完了の活用を確認する必要がある。たぶん今まで"sum"動詞の完了形についてはまったく触れてないはずだ。そこで"sum"動詞の現在完了形はというと、"fui-","fuisti-","fuit","fuimus","fuistis","fue-runt"("fue-re")。まずびっくりするのは"sum"の完了幹が"fu"ということ。わたしたち日本人には"sum"と"fu"の間に限りなく大きな隔たりを感じてしまう。このあたりの事情を突き詰めてゆくと、それだけで一冊の本が書けるくらいの議論になってしまうので、ここではもうこれ以上は触れないことにする。そこで"sum"動詞の過去完了、未来完了の活用はというと、まず過去完了は
"fueram","fuera-s","fuerat","fuera-mus","fuera-tis","fuerant"となる。活用語尾はあくまで"sum"の未完了過去直説法能動相の活用なのですよねえ。そして未来完了については、もう大方想像できると思うのだけれども、一応上げておくと、
"fuero-","fueris","fuerit","fuerimus","fueritis","fuerint"
これは大層判りやすい。ラテン語ってなかなか規則的なんだなあ。何十年か前の某国立大学のラテン語初級講座では、文法事項の説明もそこそこにいきなり『アエネイアス』を読んだって話を聞いたことがある。教える側の先生にしてみれば文法説明なんてあまりに単純すぎて退屈でたまらなかったんだと思うのだけれど、それにしてもねえ、いきなり『アエネイアス』はないんじゃあないだろうか。とにかくむかしはこのような乱暴な教授法が幅を利かせていたわけだが、これじゃあなかなか西洋古典語の力なんてつくわけがない。よくできた教材が多く出回るようになった今(といっても、外国語の教科書ばかりなのだが)、もしわたしが学校に通っていたならトマス・アクイナスの"Summa Theologica"くらいだったなら読めるようになっていたかも知れないと思ったりした。
もうこのあたりにしておこう。あとは冷えたビールが待っている。ところで今回の自分への課題は次のようなお話。
"Jupiter, postquam terram caede Gigantum pacavit, homines novum genus, in eorum locum collocavit. Hos honimes Prometheus, Japeti filius, ex luto et aqua finxerat. Prometheus autem, misericordia motus, ubi paupertatem eorum et inopiam vidit, ignem e caelo terram secreto deportavit. Principio enim homines, ignari omnium artium, per terram errabant, famem grandibus et baccis aegre depellentes. Propter hoc furtum Jupiter iratus Prometheum ferreis vincuis ad montem Caucasum affixit. Huc ferox aquila quotidie volabat, rostorque jecur ejus Ianiabat. Denique post multos annos Hercules aquilam sagitta transfixit, et captivum longo supplicio liberavit."(注1)

(注1)『新羅甸文法』111頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷

羅甸語事始(二十三)の後編

2006年01月11日 19時27分01秒 | 羅甸語
"Midas, rex Phrygiae, quod olim Baccho placuerat, egregio munere a deo donatus est. "Delige, rex magne," inquit deus, "id quod maxine cupis; hoc tibi libenter dabo." Tum vir avarus mirum donum impetravit, omnia enim quae suo corpore tangebat in aurum mutata sunt. Protinus rex laetus regiam domum percurrebat manuque vasa, mensas, lectos, omnia tangebat. Inde ubi nihil ligni aut argenti in aedibus manebat, gratias pro tanto beneficio Baccho persolvit. Tandem labore fessus cenam poscit avidisque oculis dapes splendidas lustrat. Mox tamen ubi piscem ad os admovet, cibus in aurem statim mutatus est; rex igitur, cujus in faucibus rigida haerebat massa, vinum poscit; idem evenit. Tandem rex esuriens, quod nihil nec edebat nec bibebat compluribus diebus, maximis precibus Bacchum orat. Inde cum risu deus fatale donum amovet."(注1)
「ピュリギアの王ミダスはかつてバッカスに気に入られたので、その名誉によって神から贈り物が与えられた。「大王よ、選ぶがよい」と神は言った。「お前がもっとも望んでいるもの、わたしはそれをお前に喜んで与えよう」。そこで(この)貪欲な男は驚くべき贈り物を要求した。すなわち彼の身体が触れたすべてのものが金に変えられるというものだった。王は喜んで絶えず王宮の建物を素早く通り抜けて、そして手で什器や机、寝台などすべてに触れた。その結果木製の品や銀製の品が何所にもなくなってしまった場所に彼は住み続け、これほどに大きなバッカスの寵遇にたいして感謝をしめした。(とうとうこの)作業に疲れ果てた王は食事を要求し、そして貪欲な眼差しで豪華な食事を吟味した。しかしまもなく彼が魚を口に付けたとき、食物は直ちに金に変わってしまった。そのため王は、咽喉に硬い塊がつかえたのでワインを求めたのだが、(ワインについても)同じことが起こった。何日間も何も飲まず食べずでついに王は餓えてしまい、精一杯の祈りをもってバッカスに懇願した。そこで神は笑いながら(この)不吉な贈り物を取り除いた」
この邦訳については若干の説明がいる。そもそもなぜミダス王がバッカスから気に入られたのか。じつはバッカス(ディオニュソス)の育ての親であるシレノス(サチュロス)がミダス王のブドウ畑で酔っ払っているところを百姓に捕まってしまい王の所へ連れてこられたのを彼がディオニュソスの元へ送り届けたことをバッカスからえらく感謝されたという経緯がある。それとこの文章では簡単にバッカスに頼んでその厄介な能力を取り除いてもらったことになっているが、神話では王がバッカスからパクトロスの川の泉で体を洗うよう指示されたことになっている。
今回は少々詳しく邦訳の過程を披露する。つまり楽屋裏を公開してしまおうというわけでちょっと長くなるけれどもおつきあい願います。
"quod olim Baccho placuerat":"quod"は理由を表す従属接続詞で問題ないと思う。"Baccho"はバッカスのことだけれども「~によって」いう意味合いから格は奪格にとった。というのも動詞"placuerat"は"placeo"の過去完了形で「~に気に入られる」という意味だからだ。過去完了形についてはまだ検討していない文法事項だったのでこれはちょっと想像力を働かせて訳してみた。詳しくは次回で見てみようと考えている。
"egregio munere a deo donatus est":"munere"はmunus「贈り物」の対格、"a"は奪格支配の前置詞で意味は「~によって」だから「神によって贈り物を」となる。"donatus est"もまだ検討していない文法事項で"donatus" は"dono"「与える」の過去分詞であり"donatus est"で受動相完了三人称単数となる。過去分詞もいやな文法要素だ。分詞については別にまとめて検討したい(わたしはこの分詞という奴が大嫌いだ)。当たり前だが完了時制にも能動相と受動相がある。
"inquit deus":「いう」という意味の不完全動詞つまり完全な活用形を持たない動詞なのだそうだ。"id quod maxine cupis; hoc tibi libenter dabo."は簡単な文章だけれども"id"や"hoc"といった代名詞、"quod"といった関係代名詞が出てくるのでいやなところだ。"id"も"hoc"も中性の代名詞で関係代名詞"quod"によって導かれる関係句"maxine cupis"「お前がもっとも望むもの」を示している。
"Tum vir avarus mirum donum impetravit, omnia enim quae suo corpore tangebat in aurum mutata sunt.":前半は簡単だ。しかし後半とうまく繋がらないように思えてならなかった。"enim"は従属接続詞で「というのは」くらいの意味だということはすぐにわかる。しかしこの部分を直訳すると「なぜならば彼の身体によって触れた総てのものが金に変えられる」となってしまう。"enim"に「というもの」といった意味も含めて訳さないと日本語にならない。このあたりが想像力を駆使しなければならないところで、外国語の翻訳というのは辞書を引いても機械的には成立しない。
"Protinus rex laetus regiam domum percurrebat manuque vasa, mensas, lectos, omnia tangebat.":恥ずかしいのだが書くことにする。じつは"Protinus rex laetus"の部分を読んだときわたしは「裕福なプロティヌス王」と訳してしまった。もちろんこれでは意味がまったく不明になってしまう。なぜ唐突に「裕福なプロティヌス王」なんかが登場しなくてはならないのだ。"protinus"を名詞にとったのは「プロティヌス」を人名としてしまうわたしの先入見が働いたからだ。これは副詞の"protinus"で「絶えず」と訳さなくてはならない。そうすると途端にこの文章は未完了過去時制として簡単に理解できてしまう。ただひとつ注意しなくてはならないのは"laetus"という単語で、これを素直に形容詞として訳すか、あるいは副詞として訳すか。形容詞と副詞とはかなり曖昧でテキストの中では形容詞を副詞にとることはかなり頻繁に起こる。この文章の元ネタである『初等ラテン語讀本』には編者の注として副詞的に訳すよう指示されているのだが、わたしの感覚としては別に副詞ととらなくとも"rex"を修飾する形容詞として「喜んだ王は」としてもよいのではないかと思った。
"Inde ubi nihil ligni aut argenti in aedibus manebat, ":ここで問題となるのは"manebat"だろうがその前に文全体として考えてみると、このまま訳文に使うと判じ物になってしまう。「それで木のものや銀のものは家の中でどこにも留まらなかった」では意味不明だ。"manebat"を「留まっていた」とすること自体は間違いではないが、日本語の文章にするということを考えた場合にはそんな硬直した原則論は通用しない。文法的な問題点としては"manebat"が未完了過去単数三人称であるということか。つまりこの動詞の主語は明かに"ligni"と"argenti"なのであり、そうだとすれば"manebat"ではなくて"manebant"ではないかという疑問が沸き起こってくる。じつはそもそもこのような考え方が根本から間違っていた。ここは素直に"manebat"が正しいとすると主語が三人称単数であるわけで、これはミダス王に他ならない。この点を中心にすえて改めてこの文章を読んでみると、"ubi"の解釈が鍵となっていることが見えてくる。これを「~の場所に」という意味の接続詞ととって「家の中には木製のものも銀製のもの一切無い、そういう場所に」と読んでみた。後半の"gratias pro tanto beneficio Baccho persolvit. "はそのリズムがなんだかイタリア映画の台詞みたいな感じがして好きだ。
"Tandem labore fessus cenam poscit avidisque oculis dapes splendidas lustrat.":"labore"は"labor"の奪格だからこれをいわゆる「手段の奪格」であると理解して「作業によってつかれてしまって」というほどの意味に取った。"poscit"、"lustrat"と現在形が使われているのは歴史的現在ということでよいと思う。
"Mox tamen ubi piscem ad os admovet, cibus in aurem statim mutatus est;":大きな問題はないところだ。"mutatus est"は"donatus est"と同様受動相完了三人称単数なので「変えられてしまった」と訳すところだけれども「変わってしまった」としたほうがより滑らかな日本語になる。
"rex igitur, cujus in faucibus rigida haerebat massa, vinum poscit;":関係節を無視して読むと「そのために王はワインを求めた」となるが、ここに"cujus in faucibus rigida haerebat massa"が挿入されているのでこれをどのように上手く組み込むかがここでの課題だろう。まず"cujus"は関係代名詞の属格で単数の女性、男性、中性形すべてに共通だけれども、これの先行詞はどう考えても"rex"なので単数男性の属格となる。そこで「彼の咽喉の中に硬い塊が痞えてので」と理解した。"rigida massa"で「硬い塊」だけれどもその間に動詞"haereo"「付着する」が挟まっている。日本語からはちょっと想像しがたい文型だが、曲用や活用が厳格に決まっている屈折語ではこんな芸当もできるという見本かもしれない。"idem"は「同じこと」、"evenit"は「起こった」と訳しておいた。
"Tandem rex esuriens, quod nihil nec edebat nec bibebat compluribus diebus, maximis precibus Bacchum orat.":始めの"Tandem rex esuriens,"は"esuriens"が"esurio"「 餓えている」の現在分詞なので分詞構文として解釈した。現在分詞だってまだ検討してないのに出てくるのだからたまったものではないが、出てきたからには始末しなくてはならない。中学校で英語を習っていたとき、これがどうしても理解できなかった。形容詞の機能をもつ動詞の不定形なのだそうだが、こんな品詞なんてそもそも日本語に存在しない。インドヨーロッパ語族の言葉なのだから理解できなくて当たり前だ。白状するとわたしは今でもこの分詞というものをよく理解できていない。そもそも現在分詞、過去分詞などという言い方が理解を妨げている。能動分詞、受動分詞といえばすっきりとするのだ。この分詞についても後々じっくりと考えてみたいと思っているが、今回のところはとりあえずこれを現在分詞の属性的用法(この言い方もなんだかペダンチックで人を不愉快にさせる)、と解釈して「ついに餓えている王は」とするところを、ちょっと日本語らしい表現にしようと「王は餓えてしまい」としてみた。因みに"quod"以下はその理由を説明する従属節ととった。"maximis precibus"は前にも出た手段の奪格で「最大の祈りによって」となるがこれでは日本語ではないので「精一杯の祈りをもって」してみたがまだ生硬な気がする。
"Inde cum risu deus fatale donum amovet.":最後にまたいやらしい単語"risus"が出てきた。"cum"は奪格を支配する前置詞でここでは「~でもって」という意味にとるけれども場合によっては「~とともに」という意味になることもある。さてこの前置詞についてくる品詞というのが"rideo"「笑う」の名詞形"risus"で第四変化名詞に分類される。ということは以下のように曲用する。
"risus","risu-s","risui-","risum","risu-"、複数形は"risu-s","risuum","risibus","risu-s","risibus"となるので"cum"に支配されて単数奪格形"risu"になるわけだ。したがって直訳すると「笑いをもって」となるがこれじゃあ日本語ではないので「笑いながら」とした。
以上が今回の課題をこなしたときのわたしの思考過程です。もちろん毎回こんなことを書いていたのでは(読者諸賢にとっても、そしてわたしにとっても)たまったものではないので、よほど難しい文章でない限りこんなことはもうしません。
くそ~! 冷えたビールが飲みたいっ!!!

(注1)『初等ラテン語讀本』10頁 田中英央 研究社 1996年4月20日19刷

羅甸語事始(二十三)の前編

2006年01月10日 01時08分57秒 | 羅甸語
むかしむかしわたしが中学校の英語の授業で先ず躓いたのが、完了時制だった。他の生徒たちが教師に教えられるままに英文和訳や和文英訳をシステマティックに行っているのが不思議でならなかった。教師は完了時制とは動作が完了した状態だとわたしたちに教えた。もっと詳しく言うと完了には「完了」「経験」「継続」の意味があると教えていたのだ。これを鵜呑みにして完了とはそういうものなのだと憶えることができたのがいわゆる優秀な生徒たちだったわけだで、成績順位などケツから数えた方が遥かに早いわたしにはこれができなかった。そもそも動作の完了した状態と、過去とどのように違うのかがわからなかった。わたしにとって動作として認識される事態はすべからく過ぎ去った出来事でしかなかったので、動作が完了しようがしなかろうがそんなことは関係ない、一切の事象は過去か未来のいずれか以外には考えることができなかった。後になっていろいろと調べてみたら、過去と完了の違いが理解できなかったのは、なにもわたしが馬鹿だったからというわけでもないことが判った。「日本人が英語を学び始める時、過去形と現在完了形の区別を誤ることのあるのは、現代の日本語にその区別がはっきりしてはいないからである。過去の日本語には、回想の助動詞と呼ばれるものがある。「き」と「けり」が、それである。今で言えば前者は、「…したものだった」という述懐に用いられ、後者は「昔々じいさとばあさがあったとさ」という物語形式に対応する(前者は英語のused toに似ている。後者は例えばフランス語の単純過去、いわゆる「物語の過去」に比せられる )」(注1)。なるほどね、区別がはっきりしていないんじゃあ理解のしようがないではないか。「お湯」という言葉のない英語で「茶の湯」を表現できないのと同じことだ。してみるとあの中学校のときの「優秀な生徒」等は現在完了という事態をいったいどのように理解していたのだろう。
現在完了時制は現代語ではたとえば英語だったらhave動詞、ドイツ語だったらhaben動詞またはsein動詞と過去分詞から作られるのだが、これにたいしてラテン語では動詞そのものの活用で完了形を作る。ところでラテン語の動詞は現在形、未完了過去形、未来形は現在幹をもとに、また現在完了形、過去完了形、未来完了形は完了幹をもとに活用する。どういうことかというとたとえば"amo"では"ama"が現在幹、"amav"が完了幹であり、それぞれこれに活用語尾がついて数や人称、時制を表現する。つまり完了系と非完了系とでは語の形が明かに異なってくる。ここで現在形と現在完了形の活用を"amo"を例として比較してみると、
"amo-","ama-s","amat","ama-mus","ama-tis","amant"
"ama-vi-","ama-visti-","ama-vit","ama-vimus","ama-vistis","ama-ve-runt"
なお複数三人称では"ama-vere"ということもある。
第Ⅱ変化、第Ⅲ変化、第Ⅳ変化動詞の現在完了時制の活用を以下にしめす。
"moneo"(忠告する):"monui-","monuisti-","monuit","monuimus","monuistis","monue-runt"(monue-re)
"ago"(行う):"e-gi-","e-gisti-","e-git","e-gimus","e-gistis","ege-runt"(e-ge-re)
"audio"(聞く):"audi-vi-","audi-visti-","audi-vit","audi-vimus","audi-vistis","audi-ve-runt"(audi-ve-re)
あとはこの活用を機械的に憶えればよい。じつはこのほかにも母音縮約、畳音、母音の弱化現象など語の形が変化する現象が多々あるようなのだが、今の段階ではそれらには触れないことにした。理由は簡単で、一度になんだかんだといわれたってとてもじゃないが憶えきれるものじゃあないからだ。それよりも今ここでおさえておくべき事柄は完了時制の意味相だろう。
現在完了形については『ラテン広文典』よりも『新ラテン文法』の説明の方がわかりやすいように思う。「完了時称は(イ)話している時に、すでに終わっている動作を示す.これが本来の意味であるが,さらにしばしば(ロ)過去の行為の現在における結果を示す.(イ)(ロ)の完了をかりに現在完了(present perfect)と呼ぶ」(注2)ということで、今の段階では基本的はこれだけを抑えておけばよいのではないだろうか。余談になるけれども現代ドイツ語では現在完了を過去時称として使うことが多い。ということは現在完了時制と過去時制の意味合いが曖昧なのはなにも現代日本語に限らないということだ。もしかしたら将来的には過去時制は使われなくなってしまう可能性だってある。
それでは前回自分に課した宿題を片付けることにしようか。と思ったのだけれども紙数を大幅に超えてしまうので今回は特に二回に分けることにします。

(注1)『国語学辞典』690-691頁 亀井孝記 国語学会編 東京堂出版 昭和47年1月20日訂正21版
(注2)『新ラテン文法』77頁 松平千秋 国原吉之助 東洋出版 2000年11月30日第7版

羅甸語事始(二十二)

2005年12月29日 05時37分30秒 | 羅甸語
"Jus autem civile vel gentium ita dividitur: omnes populi, qui legibus et moribus reguntor, partim suo proprio, partim communi omnium hominum jure utuntur: nam quod quisque populus ipse sibi jus constituit, id ipsius proprium civitatis est vocaturque jus civile, quasi jus proprium ipsius civitatis: quod vero naturalis ratio inter omnes homines constituit, id apud omnes populos peraeque custoditur vocaturque jus gentium, quasi quo jure omnes gentes utuntur. Et populus itaque Romanus partim suo proprio, partim communi omnium hominum jure utitur. "(Justinianus, Inst. 1.2.1)(注1)
「さらに民法と万民法(国際法)は次のように分けられる:いろいろな法や規則によって支配されているすべての民衆は、ある者たちは彼ら独自の法を、ある者たちはすべての人々に共通の法を持つ:なぜならば、それぞれの民衆が自分自身のために法を制定するので、これはその市民自身に特徴的なものであり、市民自身の独自の法という意味で市民法と呼ばれる:これにたいして商取引は自然にすべての人々の中に確立されるという理由で、それ(万民法)は全ての人々においてまったく等しく管理され、全ての部族がこの法をもつという意味で万民法(国際法)と呼ばれる。さてそんなわけでローマ(世界)の大衆は、一部は彼独自の法を、一部はすべての人々に共通の法を持つのである」
正直言ってこの文章は今のわたしにはちょっと難しすぎたようだ。古代ローマ法に詳しい人ならばなんのことはないようなターム、たとえば"JUS GENTIUM"や"JUS CIVILE"の意味からしてわたしには馴染みのないものだった。英和辞典などを開くと"JUS GENTIUM"を「国際法(注2)」、"JUS CIVILE"を「民法(注3)」としているが古代ローマにおけるそれは現代の国際法や民法とは同じというわけではない。それで上記の邦訳文でもJUS GENTIUM"を「万民法」としたりしてみた。しかしそもそも古典語に限らずその解釈に梃子摺るのが代名詞だろうと思う。「それ」とか「あれ」とかいわれてもそれらがいったいが何を指示しているかわからないと文章が判じ物になってしまう。外国語翻訳の実力のない者が訳すと代名詞だらけの邦文ができあがるが、これは特に人文系の専門書に時折見かけられる。むかし学校に通っていた頃、ゼミで外国語文献を読むときなど諸先生方が盛んに注意していた事柄の一つが各代名詞は何を指示しているのかということだったことを、今回のユスティニアヌスⅠ世の市民法大全(Corpus Iuris Civilis)法学提要(Institutionen)読みながら思い出したものだ。
というわけで、今回も引き続き所相について勉強してみたい。まずは未完了過去について"amo"で見てみると、
"ama-bar","ama-ba-ris","ama-ba-tur","ama-ba-mur","ama-ba-mini-","ama-bantur"となる。ちなみに現在形では
"ama-bam","ama-bas","ama-bat","ama-ba-mus","ama-ba-tis","ama-bant"だった。ここでは複数二人称の形が"r"音のない"ama-ba-mini-"となるのという点で特徴的だろう。
同じく"amo"で未来形所相を見ると
"ama-bor","ama-beris","ama-bitur","ama-bimur","ama-bimini-","ama-buntr"となる。未完了過去形で"a"音だったものが未来形では"e"音や"i"音、"u"音になってくる。言語学的にはどのように説明されているのかわたしにはまったくわからないけれども、なんだか未来形所相は未完了過去形所相に比べて音が鋭角的な印象を受ける。まるで未来へと突き抜けていくみたいな感じなのだ。反対に未完了過去の方は吸い込まれるような感じといったらよいか。もちろん音についての個人的な印象はきわめて文化的影響下にあるものなので、古代ローマ人たちがわたしと同じように感じていたなどといえないことは充分承知の上でこんなことを書いている。知らない言葉を学ぶ楽しみの一つにはその言葉の意味ばかりではなく、音やリズム、高低強弱について自分なりに想像してみたり妄想してみたりするということがある。言葉というものは先ず第一に「音」なのだから当たり前といえば当たり前の話しなのだけれども、わたしのように普段は「音」としての言葉より文字としての言語にしか接することのない者にとっては、そのことがついつい忘れがちになってしまう。致し方ないことではあるのだろうが、このことについては充分に注意する必要があると思う。
今回もあまり勉強が進まなかった。冷えたビールがおいでおいでをしているからなのだが、そんな誘惑に耐えつつ、最後にまた自分への宿題を貸すことにしよう。「法学提要」はちょっと難しすぎたのでもっと簡単なものはないものかと探してみた。田中秀央の『初等ラテン語讀本』に簡単そうな文章があったのでこれを邦訳してみることにした。
"Midas, rex Phrygiae, quod olim Baccho placuerat, egregio munere a deo donatus est. "Delige, rex magne," inquit deus, "id quod maxine cupis; hoc tibi libenter dabo." Tum vir avatus mirum donum impetravit, omnia enim quae suo corpore tangebat in aurum mutata sunt.Protinus rex laetus regiam domum percurrebat manuque vasa, mensas, lectos, omnia tangebat. Inde ubi nihil ligni aut argenti in aedibus manebat, gratias pro tanto beneficio Baccho persolvit. Tandem labore fessus cenam poscit avidisque oculis dapes splendidas lustrat. Mox tamen ubi piscem ad os admovet, cibus in aurem statim mutatus est; rex igitur, cujus in faucibus rigida haerebat massa,vinum poscit; idem evenit. Tandem rex esuriens, quod nihil nec edebat nec bibebat compluribus diebus, maximis precibus Bacchum orat. Inde cum risu deus fatale donum amovet."(注4)

(注1)『新羅甸文法』100頁-101頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷
(注2)JUS GENTIUM - The law of nations. Although the Romans used these words in the sense we attach to law of nations, yet among them the sense was much more extended.「国際法」
(注3)JUS CIVILE - Among the Romans by jus civile was understood the civil law, in contradistinction to the public law, or jus gentium.「民法」
(注4)『初等ラテン語讀本』10頁 田中英央 研究社 1996年4月20日19刷

羅甸語事始(二十一)

2005年11月14日 06時05分52秒 | 羅甸語
動詞の相ということについて考えてみたい。相"voice"というとなんだか判りにくいが、むかしむかし中学校で英語を習ったとき"The active voice"、"The passive voice"という言葉を聞いたことがあると思う。わたしたちは日本語で「能動態」「受動態」と単純に覚えこまされていた。古典語ではこれらを「能動相」「受動相」という。つまり「相」も「態」も同じことなのだ。ではなぜこのような混在が生じてしまったのだろう。詳しい方がいらしたら教えていただきたい。そういえば古典ギリシャ語には能動相、受動相のほかに中動相なんてのもあったっけ。能動相が「~する」、受動相が「~される」という意味あいなのに対して中動相とはどういうものかというと、例えば「古代ギリシャ語では通常のシテ(['elowse]《彼は洗った》)と並んで,中間態(middle-voice)形式という,シテがその動作によって同時に影響を受ける《affected》場合の形式があった:[e'lowsato]《彼は自分(の体)を洗った》あるいは《彼は自分のために洗った》」(注1)ということだそうだ。このような中動相による表現を現代語では再帰代名詞を用いて行っている。もともとは同じ"voice"、ラテン語では"vox"の訳語なのだからどちらでもよいのかも知れないが、わたしなどは古典語では「態」というよりは「相」と呼んだほうがしっくりする。いずれにせよ幸いなことにラテン語ではそこまで詳しく動作を分類していないので中動相というものはない。
能動相についてはすでに何度も扱っている。"Ego amo te"(私は君を愛する)つまり他動詞+直接目的語の形がその典型。受動相ではこの直接目的語が主格となり動詞は受動相の活用をする。当たり前といえば当たり前のこと。つまり"Tu amatre a me"(君は私によって愛される)となる。ここでちょっと考えてみた。能動相は"Ego"(私)を中心的主題とする表現であり、受動相は"Tu"(あなた)を中心的主題とする表現であるといえるのだろうか。おそらくいえないのだと思う。ラテン語の語順はかなり自由で例えば現代のドイツ語における定型二位の法則のようなものは一切ない。だから"Ego amo te"は"Amo te ego"でも"Te ego amo"でもよい。加えて強調したい言葉を先頭に持ってくる傾向があるので、もし"Tu"(あなた)を強調したいのであれば"Te amo"とすればよい。したがって受動相を用いて"Tu"を強調する必要などまったくない。
ではそもそも受動相とは何なのか。普段から慣れ親しんでいる日本語についてこれを見てみる。受動態とは「動詞の相の一つ。「受身」「被動」「所相」ともいう。「ある事物が動詞の表す動作の影響を受ける」の意を表す。動詞がこの相をとったものを「受動態」(または「受動相」)という」(注3)のであって意味的には、①直接の利害を表すもの、②間接の利害を表すもの、③いわゆる非情の受身、の三種に分類される。①の例としては「彼女は皆に愛される」というもの。これは最も受動らしい受動文。②は「わたしは彼女に泣かれて困った」といった文が該当する。そして③のいわゆる非情の受身こそ本来の日本語にはなかった表現で、たとえば「会議の開会が議長によって宣言された」という文。このような文は翻訳物には必ず登場する言い回しだ。わたしは専門家ではないのでよく判らないのだが、②のような表現はヨーロッパ語にはないのではないだろうか。とすれば①と②は一緒にできて結局ヨーロッパ語の受動相は二種類ということになる。では③の「いわゆる非情の受身」が用いられる場面とはどういうものか。ここで受動相についての観点を主語と目的語との関係から、動詞であらわされる動作そのものへと移してみる。ラテン語は屈折語なので当然のことだが能動相と受動相では活用が変わる。現代語の英語やドイツ語、フランス語だってbe動詞、sein動詞、être動詞といった助動詞を用いて表すが、両者に共通しているのはどちらも文の中で動詞が「目立つ」ということだ。これは大事なことで、つまり受動相とは動作を受けるものを主語に立てる機能ばかりではなくて、動作そのものを強調する機能もあるということ。少々古い統計なのだけれどもドイツ語の場合「受動態に関するある研究書によると,文学作品の中では,動詞のすべての定型のうちで,受動態の占める割合は平均して1.5%,学術専門書6.7%,通俗文学1.2%,新聞9%,料理の本のような実用書10.5%となって」いるそうで(注2)、新聞と実用書でその使用が顕著に見られる。これなど動作の強調機能として受動相が使用されていることの証左となるのではないかと思う。そう考えてくると例えば薬の服用方法の説明文に受動相が頻繁に用いられることも頷ける。薬を「飲む」動作はとても重要なことだからである。
ようやくここから今回のテーマである受動相の活用を見ることにする。最初は基本として第一活用動詞の現在直接法受動相の活用から。"amor","amaris","amatur","amamur","amamini","amantur"、長母音に注目すると"amor","ama-ris","ama-tur","ama-mur","ama-mini-","amantur"と単数二人称、三人称および複数一人称、二人称で長母音となる。ついでだから第二活用から第四活用の動詞についても確認すが、すべて長母音を考慮して記述する。
第二活用:  "moneor","mone-ris","mone-tur","mone-mur","mone-mini-","monentur"(忠告される)
第三活用A型:"regor","regeris","regitur","regimur","regimini-","reguntur"(支配する)
第三活用A型:"capior","caaperis","capitur","capimur","capimini-","capiuntur"(捕まえる)
第四活用:  "audior","audi-ris","audi-tur","audi-mur","audi-mini-","audiuntur"(聞く)
第二活用と第四活用は第一活用に似ているので判りやすいが、第三活用A型と第三活用A型ちょっと厄介だな。"regor","regeris","regitur"という活用が嫌らしいし、長母音が複数二人称だけというのも注意しなくてはならない。しかもこのような活用が直接法現在だけではなくて未完了過去、未来や、さらに接続法の現在、未完了過去についてもあるのだからうんざりする。しかし完了については助動詞sumと完了分詞で構成されるので本動詞の活用はない。これらについてもこれから見ていかなくてはならないのだから前途遥かといった感じ。取り合えす今回は紙数も大幅に超過したことだし、もう止めておこう。とてもじゃないがこれ以上集中できない。さっさと終えてビール、ビール!
さて今回の自分への課題はユスティニアヌスⅠ世が編纂させた市民法大全(Corpus Iuris Civilis)の法学提要(Institutionen)からの抜粋。なんだか難しそうなのを選んでしまった。しかし一度選んだからには邦訳するというのがここで自分に課しているルールなので、逃げ出さずに挑戦してみることにするか。
"Jus autem civile vel gentium ita dividitur: omnes populi, qui legibus et moribus reguntor, partim suo proprio, partim communi omnium hominum jure utuntur: nam quod quisque populus ipse sibi jus constituit, id ipsius proprium civitatis est vocaturque jus civile, quasi jus proprium ipsius civitatis: quod vero naturalis ratio inter omnes homines constituit, id apud omnes populos peraeque custoditur vocaturque jus gentium, quasi quo jure omnes gentes utuntur. Et populus itaque Romanus partim suo proprio, partim communi omnium hominum jure utitur. "(Justinianus, Inst. 1.2.1)(注4)

(注1)『言語』342頁 Leonard Bloomfield著 三宅鴻 日野資純訳 大修館書店 1987年7月20日新装版第9版
(注2)『これからのドイツ語』244頁-245頁 Wolfgang Michel 樋口忠治 新保弼彬 小坂光一 吉中幸平 郁文堂 1988年4月第15版
(注3)『日本文法大辞典』321頁-322頁 松村明編 明治書院 昭和46年10月15日
 わたし個人としてはこのような分類にはちょっと抵抗を感じるが今回はこれに従う。以下日本語の受動態についての言説はすべて村松の『日本文法大辞典』に拠っている。
(注4)『新羅甸文法』100頁-101頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷

羅甸語事始(二十)

2005年11月01日 03時51分24秒 | 羅甸語
はじめに、前回自分に課した宿題への回答から。
"In oppidis Italiae erant et ludi et scholae. In ludis pueri elementa prima discebant, sed in scholis Graecos poetas maximeque Homerum legebant. In Iudo vir qui pueros exercebat magister appellabatur, sed schola docebatur a viro doctissimo qui appellabatur grammaticus. Scholae pulcherrimae saepe erant et columnis marmoreis et statius Minervae ornatae erant. Nam Minerva dea sapientiae est. Grammaticus discipulis verba Homeri cotidie recitabat et discipuli verba grammatici iterabant iterabantque. Denique verba Homeri memoria tenebant. Quot verba Homeri vos memoria tenetis?"(注1)「イタリアの都市にはludus とscholaがあった。ludusにおいては少年たちは読書きの初歩を学んでいたが、scholaではギリシアの詩人とくにホメーロスを読んでいた。ludusでは少年たちを訓練する男性が教師と呼ばれていた。しかしscholaでは文法家と呼ばれていた大へん博学な男性によって教えられていた。立派な学校がいくつもあり、そして大理石の列柱とミネルバの像によって飾られていた。というものミネルバは知恵の女神だったからである。文法家は弟子たちのためにホメーロスの言葉を毎日朗誦し、弟子たちは文法家のいろいろな言葉を繰り返しては繰り返していた。そしてついにはホメーロスの言葉を彼らは記憶したのである。どれほど多くホメーロスの言葉をあなた方は記憶しているだろうか。」
このラテン語文を邦訳するに当たって注目した点についてあげると、
(1)"ludus" と"schola"は適当な訳がなかったので敢えて原語のままとした。なおオックスフォードのラテン語辞典では"ludus"については"play"の他に"A place for exercise, plase for practice, school"という説明が(注2)、また"schola"については"an intermission of work"の他に"A meeting place for teachers and pupils, place for instruction, place for learning, school"が載っていた(注3)。
(2)"elementa prima"の"elementa"は中性名詞"elementum"「第一原則」の複数形だが、複数形で「基礎」という意味にもなる(注4)。ところでランゲンシャイトの羅独辞典では"elementa"の意味としてはっきりと"Buchstaben"(文字)という訳を載せているが(注5)、これがもっともわかりやすい。つまり"elementa prima"を直訳すると「初めての読み書き」というほどの意味になる。
(3)"doceo"「教える」の未完了過去受動相三人称複数。ここで受動相が出てくる。これについては後ほど見てみる。
(4)"maximeque Homerum"の"que"は"et"つまり接続詞"and"と同じ働きをする。
(5)"qui"は関係代名詞男性単数主格。これはフランス語と同型なので類推できた。しかし関係代名詞も形容詞のように曲用がある。これについては別途関係代名詞の回を設けてじっくりと考えてみたい。
(6)"sed schola docebatur a viro doctissimo qui~"の"schola"は主格ではなくて奪格であるから、これは前置詞"in"を補って解釈すればよい。もっとも奪格そのものが場所を指示する機能があるので、前置詞は不必要かもしれない。しかしわたしのように現代語に慣れてしまうと前置詞がないと不安でたまらない。
(7)"a"は奪格支配の前置詞「~によって」だが、(5)でも述べたように必ずしも必要ではない。しかしあったほうが文意がより明確になる。
(8)"doctissimo"は形容詞"doctus"「博学な」の最上級形の単数奪格で「たいへん博学な」というほどの意味。もちろん"viro"を修飾しているのでこれに性、数、格が一致しているというわけ。
(9)"appellabatur"は"appello"「呼ぶ」の未完了過去受動相三人称単数形。またしても受動相。

(10)"grammaticus"は「文法家」あるいは「文献学者」というほどの意味に理解した。このラテン語文のネタ本である『初等ラテン語読本』の「語彙」には「語学者」という訳が載せてあるが(注6)、これは誤解を招くのでよくない。
(11)"ornatae" は"orno"「飾る」の過去分詞でここでは過去完了となるが、完了受動分詞と解釈して「飾られていた」と訳した。分詞についても別途そのための回を設けて考察する。
(12)"cotidie"は"cottidie"とも綴る。「毎日」という意味の副詞。
(13)"Grammaticus discipulis verba Homeri cotidie recitabat"の"discipulis"は奪格支配前置詞"pro"を補って解釈して「弟子たちのために」と訳した。
(14)"verba Homeri memoria tenebant"の"memoria"は女性名詞単数の奪格だからこれを手段の奪格として「彼らは記憶によって持った」となるが、これでは日本語ではないので単に「彼らは記憶した」と訳した。
以上、邦訳についての補遺を述べたのだけれど、何分にも素人なのでひょっとしてとんでもないことを書いてしまっているかも知れない。もしも間違っていたらコメントを下さい。
でもって、やっとここから今回の主題である受動相の話に入っていこうとしたのですが、一回分の文字数を既に大幅に超えてしまっているので、受動相は次回ということで。今回はこのあたりでお開き。

(注1)『初等ラテン語読本』2頁 田中秀央 研究社 1996年4月20日19刷
(注2)"An Elementary Latin Dictionary"p.481 Charlton T. Lewis Oxford Unversity Pres 1966
(注3) ibid. p.756
(注4) ibid. p.274
(注5)"Langenscheidt Großes Schulwörterbuch Lateinisch-Deutsch"s.422 Langenscheidt KG, Berlin und München 2001
(注6)『初等ラテン語読本』70頁

羅甸語事始(十九)

2005年10月16日 04時00分33秒 | 羅甸語
まずは一人称、二人称代名詞について確認するならば、一人称単数が"ego","mei","mihi","me","me、複数が"nos","nostri(nosutrum)","nobis","nos","nobis。二人称単数は、"tu","tui","tibi","te","te、複数は、"vos","vestri(vestrum)","vobis","vos","vobis"。属格の括弧で括った綴りは部分属格だった。では三人称はというとこれは指示代名詞を用いて表現する。使う指示代名詞は男性、女性、中性が"is"."ea","id"でこれらは指示代名詞としては最も指示性の弱いもので「それ」というほどの意味だそうだ。三人称代名詞として使用する際は"is"「彼」"ea"「彼女」と訳すのはわかるが"id"はどう訳すのだろう。「それ」とするしかないか。これらの人称代名詞はお決まり通り性、数、格に従った曲用がある。ちょっと退屈でたまらないが、一応すべての曲用を確認しなくてはならない。"is"「彼」の曲用"is","e-jus","ei-","eum","eo-"、複数形は"ei-,ii-,i-","eo-rum","ei-s,ii-s,i-s","eo-s","ei-s,ii-s,i-s"。複数形主格は"ei-,ii-,i-"と三種類の形があるのだそうだ。ここまででもうわたしはウンザリしてしまった。このあと"ea"「彼女」、"id"「それ」が控えているというのに。しかしここは初代若乃花のことば「人間、辛抱だ」を思い出して凌がなくてはいけない。"ea"「彼女」、"id"「それ」を列挙する。
「彼女」"ea","e-jus","ei-","eam","ea-"、"eae","ea-rum","ei-s,ii-s.i-s","ea-s","ei-s,ii-s,i-s"。
「それ」"id","e-jus","ei-","id","eo-"、"ea","eo-rum","ei-s,ii-s,i-s","ea","ei-s,ii-s.i-s"。疲れた。しかしとにかくこれで人称代名詞はすべて確認した。指示代名詞については今回はもう見る気がしないので別の機会にする。しつこいようだけれどもう一度確認。
「彼」 "is","ejus","ei","eum","eo"、"ei,ii,i","eorum","eis,iis.is","eos","eis,iis,is"。
「彼女」"ea","ejus","ei","eam","ea"、"eae", "earum","eis,iis.is","eas","eis,iis,is"。
「それ」"id","ejus","ei","id", "eo"、"ea", "eorum","eis,iis,is","ea", "eis,iis.is"。
ラテン語の「数」については「単数」と「複数」しかない。すべての言語ついていえるのかどうかは知らないがおそらく「単数」は基本的な概念だと思う。では「複数」についてはどうかというと、これはそれほど単純ではないようだ。複数概念を二以上の「数」だとする文化もあれば、二つのものを一組としてこれを「複数」とは別物と捉える言語だってある。例えばサンスクリット語や古典ギリシア語などの「双数」はその代表で、そのほかにも三つのものを一組として「双数」「複数」とは別立てで捉える言語だって考えられる。このあたりはそれぞれの文化と密接に絡んでいてちょっとよくわからない。まあラテン語についていえば「単数」と「複数」しかないのだから、わたしのような初心者には憶える事柄がそれだけ少ないのでこれは喜ばしいということでおさめておくことにする。
ところで今まで確認してきた時制としては現在形、未完了過去形、未来形があるがこれらはすべて直接法能動相だった。受動相はまだ手をつけていない。しかし困ったことがある。デポネンティアつまり能動欠如動詞の存在。簡単にいえば語形は受動相だけれども意味は能動相という動詞群があるということ。このことを意識していないととんでもない日本語訳ができあがってしまうから注意が必要、というわけで次回では受動相について考えてみたい。考えるだけではつまらないので、また簡単なラテン語文で頭をウォーミング・アップしておこうか。
"In oppidis Italiae erant et ludi et scholae. In ludis pueri elementa prima discebant, sed in scholis Graecos poetas maximeque Homerum legebant. In ludo vir qui pueros exercebat magister appellabatur, sed schola docebatur a viro doctissimo qui appellabatur grammaticus. Scholae pulcherrimae saepe erant et columnis marmoreis et statius Minervae ornatae erant. Nam Minerva dea sapientiae est. Grammaticus discipulis verba Homeri cotidie recitabat et discipuli verba grammatici iterabant iterabantque. Denique verba Homeri memoria tenebant. Quot verba Homeri vos memoria tenetis?"(注1)

(注1)『初等ラテン語読本』2頁 田中秀央 研究社 1996年4月20日19刷

羅甸語事始(十八)

2005年10月01日 22時17分51秒 | 羅甸語
"Societatem jungunt leo, equus, capra, ovis. Multam praedam capiunt, et in unum locum comportant. Tum in quattuor partes praedam dividunt. Leo,autem, "Prima pars," inquit, "mea est, nam leo rex animalium est. Et mea est pars secunda, propter magnos meos labores. Tertiam partem vindico, quoniam major mihi quam vobis, animalibus imbecillis et parvis, fames est. Quartam, denique, partem si quis sibi arrogat, mihi inimicus erit."(注1)「ライオン、馬、山羊そして羊が同盟を結んだ。彼らは多くの獲物を得て一箇所に集めた。そして彼らは獲物を四等分した。しかしライオンが言った。「最初の四分の一は私の物である、というのもライオンは動物たちの王だからである。そして二番目の四分の一も私の大きな働きのゆえに私の物である。三番目の四分の一を私は自分の物とする。というもの弱くて小さな動物であるお前たちよりもより酷く餓えているからである。さらに、四番目の四分の一をもし誰かが自分の物にするならば、私の敵となるであろう。」」
今回の長文も基本的には簡単なのだがいくつか注目すべき点が在る。まず与格の訳し方についてだが"mihi~fames est."を直訳すると「私により多く餓えがある」となってしまい不自然なので「私はより酷く餓えている」とした。つぎに"arrogat"は"sibi (acc.) arrogo"で「あるもの(acc.)を我が物とする」という意味になる。なお"sibi"は三人称再帰代名詞"se"の与格。また最後の"erit"は"sum"の未来形単数三人称でこの二つの単語は今回新しく出てきたもの。未来形について今回検討することにする。"mihi inimicus erit."の直訳は「私にとって敵であろう」だがこれを「私の敵となるであろう」した。こちらの方が日本語らしい。また"jungunt","capiunt","comportant","dividunt","inquit"はすべて現在形単数三人称だがこの文章は物語なので歴史的(物語的)現在(historical present)と解釈してすべて過去形の和訳にしてある。歴史的現在は英語でも使われるがラテン語のほうがより頻繁に使用されるのだそうだ(注2)。こんな簡単な文章でさえ、いろいろとわたしたちの言語感覚にそぐわない言い回しが出てくるがこればかりは慣れるほかない。基本的には外国語というものは翻訳不可能だと思ってかかるべきなのだと思う。
そこで未来形について。まず"sum"の未来形から見ることにする。"ero","eris","erit","erimus","eritis","erunt"と活用するのだそうだ。長母音は"ero-"のみであとの活用はすべて短母音となる。意味はもちろん一人称単数で「わたしは在るだろう」あるいは「わたしは~であろう」となり他の活用もそれそれの人称に合わせて訳せばよい。
ついでなので一般の動詞についても直接法能動相未来形の活用を見てみると、第一変化動詞"amo"は"amobo","amabis","amabit","amabimus","amabitis","amabunt"となる。最初のうちは未完了過去と似ているように感じられで紛らわしいかもしれない。因みに未完了過去の活用は"amabam","amabas","amabat","amabamus","amabatis","amabant、だった。第二変化動詞もあまり変わらない。"moneo"(忠告する)で活用を見てみると"monebo","monebis","monebit","monebimu","monebitis","monebunt"となる。ところが第三変化、第四変化動詞はいささか趣が異なってくる。「羅甸語事始(七)」の回で取り上げた第三変化動詞(A型)rego(支配する)、同(B型)capio(捕まえる)、そして第四変化動詞audio(聞く)を使って活用を確認すると、第三変化動詞(A型)"rego"は"regam","reges","reget","regemus","regetis","regent"となり単数二人称、複数一人称二人称の語尾母音が長母音となる。第三変化動詞(B型)"capio"は"capiam","capies","capiet","capiemus","capietis","capient"、第四変化動詞が"audio"が"audiam","audies","audiet","audiemus","audietis","audient"で長母音は第三変化動詞(A型)と同断。
しかしそれにしてもこれを書いている私自身、とても退屈だ。いくら基礎知識とはいえこんなことを延々と勉強させられたらたまったものではないだろう。古典語学習を恨んだ欧州の先哲の気持ちが判るような気がする。今回はこの辺りで止しにしてさっそくビールでも飲もう。

(注1)『新羅甸文法』97頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷
(注1) "Latin Grammer"p.157 B.L.Gildersleeve Gonzalez Lodge Macmillan 1974

羅甸語事始(十七)

2005年09月16日 06時28分28秒 | 羅甸語
形容詞とは何か。答えは簡単で"The adjective adds a quality to the substantive"(注1)、これだけだ。しかし日本語の形容詞についての知識がかえって躓きの石となる。日本語における形容詞の機能は「連体修飾語になる(美しき花)だけでなく、単独で述語になり得るのは、西洋語の形容詞と大いに違う点で、たとえば、英語の形容詞(adjective)は、The boy is honest. のように、be動詞がなくては述語になることはできないが、日本語の場合は「花美し」のように、形容詞が単独で述語になる。また、「美しく咲く」の場合は、動詞を修飾するのであり、それだけ取り出せば、むしろ副詞と呼ばれるべきものである」(注2)。要すればラテン語、というよりヨーロッパ語に共通していえるのは、形容詞とは名詞に性質を付加する品詞だ、といことだけでそれ以外になにもない。だからわたしたちが"pulcher"を読むとき、これは「美しい」何かであって、「美し」でも「美しく」何かをすることでもない、ということを常に意識する必要があるわけだ。まったく理屈っぽい話なのだが、そもそも日本語の「美しい」を形容詞としているのにはヨーロッパ語文法の影響が多分にあることを忘れないでおこう。そして何か他の語を修飾するという意味では形容詞も副詞も同じで、だからこそ現代語の英語にしてもドイツ語にしてもそうなのだが、形容詞を副詞として読まねばならない文章が多々あるわけだ。この辺りの事情は日本語とて同様で上の引用にもあるように「美しく咲く」といった用法も可能。馬鹿なわたしはこのことを知らずに学校で英文を読んでいたのだから、まったくお話にもならない。
ここで人称代名詞について確認しておく。既に明らかなようにラテン語は動詞の活用で機械的に人称が確定する。"amo"なら「わたしは愛する」、"amatis"なら「あなた方は愛する」という意味になる。したがって普通「わたしは愛する」をわざわざ"Ego amo"とは言わない。もしそのように書いてあったとすれば、よほど「私」を対比的に強調したいときなのだ。たとえば「君は愛さなくとも、この私は彼女を愛するのだ」というような場合"Tu non amas, sed ego amo eam."となる。ここで"tu"、"ego"が人称代名詞。曲用は一人称単数がego,mei,mihi,me,me、複数がnos,nostri(nosutrum),nobis,nos,nobisとなる。長短母音に注目するとego,mei-,mihi-,me-,me-、no-s,nostri-(nostrum),no-bi-s,no-s,no-bi-s。注意すべきは属格には所有格の意味はないということ。動詞、形容詞が属格支配であるときに用いられる。これはちょっと気をつけないといけない。所有を表したいならば所有代名詞というのがる(そんなものいらないってか)。二人称単数は、tu-,tui-,tibi-,te-,te-、複数は、vo-s,vestri-(vestrum),vo-bi-s,vo-s,o-bi-s。属格の括弧で括った綴りは部分属格(genetivus partitivus)用法の際に用いる。部分属格とは「~のうちの」というほどの意味で、"vestrum multi"「あなた方の内の多くは」といったような使い方をする。
では三人称代名詞はどうか。英語ではhe,she、ドイツ語ではer,sie,es、となるところだが面白いことにラテン語には三人称固有の代名詞はなく、指示代名詞であるis,ea,idが用いられるがこれについては次回に回すことにする。
さて理屈ばかりでは力が身に着かないので今回も長文にチャレンジしてみる。といっても他愛ない内容の文章なのだが。
"Societatem jungunt leo, equus, capra, ovis. Multam praedam capiunt, et in unum locum comportant. Tum in quattuor partes praedam dividunt. Leo,autem, "Prima pars," inquit, "mea est, nam leo rex animalium est. Et mea est pars secunda, propter magnos meos labores. Tertiam partem vindico, quoniam major mihi quam vobis, animalibus imbecillis et parvis, fames est. Quartam, denique, paretm si quis sibi arrogat, mihi inimicus erit."(注3)

(注1) "Latin Grammer"p.37 B.L.Gildersleeve Gonzalez Lodge Macmillan 1974
(注2)『日本文法大辞典』198頁 松村明編 明治書院 昭和46年10月15日
(注3)『新羅甸文法』97頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷