蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

アナザ・ワールド

2005年11月05日 06時16分41秒 | 悼記
友人のSは三島由紀夫を気取っていた。彼の相貌そのものは三島に似ていたとはいいかねるが、体躯については筋肉質タイプでクレッチマーの分類でいうなら粘着質タイプ(E型)といったところか。
もう数十年も前のこととなってしまったが、あるときSが奇妙な話をした。いつも通っている近所の銭湯で「日本画の先生」と顔見知りになったというのだ。Sの話によるとなよなよした感じの男性で、身体を洗うときも人目を避けるような仕種をするらしい。その「先生」から掛け軸を鎌倉まで持っていくアルバイトを依頼されたのだそうだ。Sは「先生」から掛け軸を預かると、鎌倉の指定された住所まで持参した。受取り人は「先生」と同年輩の、つまり五十代くらいの男性だったそうだ。結局話はそこまでのだったが、Sによるとその受取り人は自分を嘗めるように見ていたという。と、ここまで聞けばいくら鈍感なわたしにだって大方の察しはつく。その「日本画の先生」とやらはSに目をつけて、というか贄として彼を鎌倉の同好者に送りつけたわけだ。結論としてSはこの鎌倉在住の同好者の好みに合わなかったらしい。露骨ないい方をすればオカマを仕掛けられずに済んだということになる。
Sの話をどこまで信じたらよのか、わたしには判らない。しかし彼の性格からして作り話をするようなことはないので、おそらくこれは本当にあったことなのだろう。当時のSの風貌からして、その趣味の者には心引かれるものがあったことは大いに想像できる。しかし、例えばジャン・ジュネを気取って白色ワセリンを持ち歩いたり、近所の某大学に美少年がいるという噂を聞きつけては見に行こうなどとはしゃいだりしても、けっして男色だという印象は受けなかった。どうしてそう感じたかというと、彼のそのような行為があまりにも戯画的だったからだ。ところでSは女子学生から秋波を送られている気配があった。当時わたしが好意を寄せていた某女子学生もSに興味を持っているようだった。だからわたしは一層Sに嫉妬した。当時のわたしにはSが自分にないものすべてを持っているように見えたものだった。
ところでこの鎌倉の一件は、わたしにとって軽いショックだった。自分の身近なところにそのような世界へのインタフェースがあるこという事実を容易に受け入れることができなかった。しかもそんなインタフェースに遭遇していたのはSだけではなかった。同じクラスのYもエロ映画専門館で誘われたそうだ。YはSよりもずっと容姿は劣るのだが(失礼)そんな彼でも誘われる、いやはやなんともわたしの理解を超える世界もあるものだと、自分の世間知らずをつくづく思い知らされた。。
今わたしは何を語ろうとしているのだろう。Sが男色ではないことを主張したいのではない。そんなことは明らかだ。なぜならわたしは彼が亡くなるまでその日常を聞かされてきたのだから。もっともSがはっきりとわたしに「俺は年下の女はだめだ」と自身の嗜好を白状したのは、お互い学校を出て社会人になった後のことだったが。
しかしそれにしても、記憶というものはいつも今現在のものでしかなく、けっして重層的であることはない。だから過去の時点の出来事は何もかも今現在の記憶の中に収斂され、あの時この時の否定的評価も肯定的評価もすべて一緒くたになってしまい、今生きているこのわたしの視点でしか再構成されないということになる。この点はちょっと注意しておく必要があると思う。

金木犀

2005年10月10日 04時30分47秒 | 悼記
今年も金木犀の香る季節になった。わたしは二十歳頃までこの花の香りを嗅いだことがなかった。いや、これは正確な表現ではない。嗅いだ記憶がないというべきだ。香りそのものは嗅いだことがあるのかもしれないけれど、その香りと金木犀の花を関連付けたことがなかったから。しかしわたしの生まれ育った街には今でもほとんど金木犀を見かけないので、ほんとうに嗅いだことがなかったのかもしれない。
金木犀が濃い黄色の小さな花を咲かせるということと、その香りとに関連付けができたのはSが西荻に住んでいた頃だった。Sとは中央線沿線の古書店を何度が巡り歩いている。Sはけっして古書マニアではなかった。本はけっこう読んでいたが集めるという趣味はまったくなかったはずだ。もっともお互い金がない身なので本を蒐集するなどいった大それたことなどできる筈もなかったが。今ではもうよく思い出せないのだがSとそのほかにTやHもいたかもしれないが、皆で西荻窪駅南側の古書店を覗いた帰りだった。待晨堂ではなかったはずだ。この店にSと一緒にいった記憶はないから。たしか道を立教女学院の方向に歩いているときだった。急にあの甘い香り、桃の缶詰を開けたときに香ってくるのと同じような香りがしたので、わたしはSに「これは何の匂いだ」と聞くと、彼は「金木犀じゃねえか、そこいらに木があるんだろう」という。このとき初めて金木犀という植物名がわたしにとってとてもリアルなものになった。匂いの元を探すと、すぐ横にある民家の垣根から黄色い花をつけた潅木がほんの少し突き出ていた。
金木犀を知っていようがいまいが別にどうということではない。ないのだが、しかしまたしてもやられたとわたしは思った。Sには基礎学力でも、文学でもそしてフランス思想に関する知識でも完全に負けていたが、その上今度は植物というわけだ。わたしはSたちと別れて井の頭線の三鷹台駅まで歩いた。とにかくすべてのことが嫌でたまらなかった。Sが話題にする事々はみなナンセンスなのだと思い込もうとした。それほど嫌ならSから離れてしまえばそれでよいではないか。なにも彼と付き合わなくとも日々は過ぎてゆく。ジャン・ジュネやジョルジュ・バタイユを解ろうなどと努力する必然性はどこにもない。もうSと議論するようなことは一切止めにしよう。そう思うとほんの少しだけ気分は楽になったのだが、不満が残った。Sと没交渉になるのはよいとしても、それは結局わたしが彼に敗北したということではないのか。あらゆる分野において(当時は本気でそう思っていた)彼に敵わないという事実が残るだけではないのか。
翌日の昼食時、わたしは相変わらずSやH、Tたちと学生食堂にいた。べつにSにたいしてリターン・マッチを試みたわけではない。でもわたしはそこにいた。惰性というのではない。延々と続く観念的話題の繰り返しのなかにいることが、なんとなく心地良かっただけだ。

受験勉強的技術

2005年09月21日 05時41分22秒 | 悼記
わたしがSと知り合うようになったのはHを介してだった。Hは学校に入ってわたしが初めて言葉を交わした学生で、以降わたしの交友関係はすべてHを中心にして広がっていった。
最初からSと親しかったわけではなかった。どちらかというとわたしはむしろ彼を敬遠していた。なにしろサルトルがどうの、カミュがこうの、三島由紀夫はああ言っている、福永武彦はよいとか、だいたい名前は聞いたことがあるものの、彼らの作品など一切読んだことがないのだから話しがかみ合うはずがない。フランス系思想家にはうんざりしていたし、三島文学も当時はまったく読む気にならなかったのだが、これではどうも取り残されてしまいそうな気分になってきたので、わたしはとりあえず福永武彦を読んでみることにした。印象はというと、たとえば「忘却の河」などその暗さにはとことん辟易したものだ。池澤夏樹が福永の息子だと知ったのはつい最近のことである。ついでに書いておくと池澤夏樹の娘、池澤春菜は「知性派として有名な」声優なのだそうだ。しかしここまで来ると福永の七光りが滑稽にさえ見えてくる。
ま、よけいな話は止しにして、後々三島由紀夫の作品を集中的に読むようになって三島の世界を知ってから、Sが三島と福永を同時に好んだことにある謎めいたものを感じた。というのもこの二人の作風がわたしには北と南ほどにも異なるもののように思えたからだ。だがよく考えてみると、フランス文学の専門家である福永と、フランスの小説を好んだ三島にはそれなりの共通点があるのかもしれない。
しかしわたしたちの前ではSはあくまで三島のアポロン的側面を真似て、夏場の蒸し暑い日など学部図書館のロビーで、女子学生たちの前でわざと胸を大きく曝け出しながら「あちーいなあ」などと言ってみたり、講義の合間にキャンバスの芝生で級友のTにプロレスの技をかけたりして暇潰しをしたりしていた。わたしはといえば、プロレスにも三島的アポロンにも興味はなかったので、彼らが戯れているのを脇で眺めているだけだった。
中国近代哲学の試験直前のことだったと記憶している。Sとわたしと他にもいたはずなのだがもう忘れてしまったが、一号館の階段踊場で試験の想定回答を作ってそれを暗記していたときのこと、その想定回答に出てくる思想家の名前「譚嗣同」をどう読んだらよいか分らない、とSに尋ねると彼は「そんなのはAとかBとかにしておきゃいいんだよ」と軽く言い放った。考えてみれば当たり前のことで、わたしたちはなにも口頭試験を受けるわけではないのだから「譚嗣同」は「A」でも「甲」でも「与太郎」でもよいわけだ。要すれば漢字を憶えるだけ。これは受験勉強でのテクニックなのだが、わたしはまともに受験勉強などしたことがなかったので、Sに教えられてはじめて気がついた。この時点でのわたしとSは、じつは基礎学力的にはかなりの差があったことと思う。わたしはSに英語の発音の初歩的な間違えを指摘されたことさえあった。
そんなこんなで、結局初学年のときのSとわたしの関係は、けっして親しいといえるものではなかった。

実存主義

2005年08月25日 05時42分16秒 | 悼記
八重洲ブックセンターにいったらサルトルの『存在と無』の新装版が平積みされていた。実存主義だって。まだそんなものがあったのか、とっくの昔に死滅してしまったものと思っていたが。
むかしむかし高等学校倫理社会の教科書ではハイデガーを実存哲学者として、キェルケゴールやサルトルなどの実存主義者と同列にとりあげていたが、これはどう考えてもおかしい。たとえばサルトルは哲学者だったのか。あの不健康極まりない容姿のキェルケゴールが精力的なハイデガーと同じ思考回路を持つはずがないではないか。「実存」というキーワードで彼らをひとからげにはできない、などと若い頃のわたしは考えたものだ。ごく大雑把にいえば実存主義ってやつは合理的概念の体系としてのヘーゲル哲学への反発から生じたものであって、つまり具体的個体としての人間は普遍的なものに還元できない現実の存在(実存)であるとするもの。今では当たり前の主張に聞こえるかも知れないけれども、それはわたしたちがキェルケゴールやハイデガー、サルトルよりも後の世界に生れたからだ。よく個人の自由とか、個人の権利とかいわれるが、そもそも「個人」という概念はきわめて近代の産物なのであって、たとえばヘーゲルにとって個人とは国家があって初めて成立する概念だった。
今は亡きわたしの親友Sはサルトルを読んでいた。正直言ってわたしはサルトルに限らずどうもフランスの思想家は苦手だったしそれは今でも変わりない。わたしは仏語がよく判らないのでバタイユもメルロ・ポンティも、そしてドゥールーズにしてもみな日本語訳で読んでいるのだが、それらすべての文体について同じような印象を受ける。簡単にいうと「気取り」を感じてしまうのだ。もちろん翻訳者はそれぞれ異なっているのだから訳者のクセというのでないことは明らかで、原因は元のフランス語文章にある。そのような気取った文章はフランスのインテリゲンチャに特有のもの、もっというならばあの超エリート学校エコールノルマルシューペリュー出身者の身についた文体なのだろうか。その辺りの事情をフランス語の専門家に聞いてみたいもの。
ところでSは学校に入った当初、杉並区の西荻にある学生専用の下宿屋で生活していた。わたしたちクラスの仲間が訪れると三畳の部屋は満室状態になってしまい、おまけにちょっとでも大きな笑い声を立てると隣室の受験生が壁を叩いて「Sさん静かにしてください」とクレームをつけてくる、なんとも窮屈なところだった。Sの部屋の壁には当時流行っていたヴィーン幻想派絵画の展覧会の大判ポスターが貼られていて、そこに描かれている男の顔がやけにSに似ていたのが今でも印象的に残っている。Sやわたしたちがそのときどのような話をしていたのか、もう憶えてはいない。多分サルトルも話題に上ったことと思うのだが、そうだとしてもわたしにはほとんど理解できなかったはずだ。
しかし、Sが自分の住んでいる下宿屋の正面が松浪信三郎の屋敷だとうれしそうに言っていたことだけは、鮮明に憶えている。

論理学研究

2005年08月18日 13時02分56秒 | 悼記
七月に東京ブッグサイトで開催された第12回東京国際ブックフェア2005に行ったおり、恒例の洋書バーゲンにフッセルの"Logische Untersuchungen"(注1)が出ていたので買ってしまった。よい本なのに誰も手を出そうとはしない。大方の客の目当ては英語系ビジュアル物だからしようがないといえばそれまでなのだが、それにしても「国際」と謳っているにもかかわらずどうしてこうも英語ばかりなのだ。ヨーロッパはもちろんアジア諸国のブースもあるのだから、バーゲンだって各国語の書籍があってもよさそうなものなのに。しかも英語本の占める割合が年毎に増えているように思える。これは単なるわたしの僻みなのだろうか。
わたしの学校時代からの親しい友人Sが数年前に亡くなった。土曜日の朝だったか、これから検査入院するというEメールが届いたので、早速「一刻も早い社会復帰を祈る」なんて返信したのだが、後になって聞いたところではこのメールのやり取りの後、数時間後に病院で突然逝ってしまったという。家族は死目にも会えなかったそうだ。結局この日届いたEメールがわたしにとってSの最後の言葉となってしまった。このSとは学校を卒業してお互い職に就いてからも電話で連絡を取り合っていた。当時はEメールなどという便利なものはなかった。Sからの電話は一度かかってくると通話時間が一時間を超えるのがざらだった。よほど鬱積したものがあったに違いない。それでも数年に一回くらいは東京で会ったものだがそれも三十代までだった。それ以降はもっぱら電話かEメールが主で、所用で彼が上京してきても会うことはなかった。わたしは「上京したら連絡してくれ」と再三言っていたのだけれども、しかし直接会う機会はなかった。わたしもSに対して会うことを無理強いしなかったのは、そのような彼の心情がなんとなくわかるような気がしたから。
Sとの間で話題となったのは仕事の話でも身辺の雑事でもなかった。双方ともにそのような話題は意識的に避けていたように思う。そうなると話は必然的に抽象的な話題、例えばキリスト教の教理、オカルティズム、サルトル的実存主義、精神分析、なかでもフロイトとラカン、要すればなるべく現実に抵触することの少ない分野になってくる。いつだったかロートレアモンの『マルドロールの歌』のフランス語版を読みたいとSが言ってきたので、わたしは日本橋丸善でどこの版だったかは忘れてしまったけれども、それを購入して彼に届けたことがある。Sの住んでいた地方都市には当時フランス語の書籍を常時商う店がなかった。『マルドロールの歌』の原書を初めて読んだSは、邦訳書がなんといい加減なものかと嘆いていたものだった。そんなSがあるときの電話でみすず書房版のフッセル『論理学研究』を全巻読み終えた、ととてもうれしそうに報告してきた。わたしはちょっと嫉妬して「それで、いったい何がわかったんだい」と邪険に答えてしまった。Sがうれしそうに電話をかけてくることなど滅多になかったのに。わたしはつくづく自分の狭隘な心根を恥じ入ったし、いまでもその思いは変わらない。
ブックフェアで"Logische Untersuchungen"を購入したことについては、もちろん値段が安かったこともあるが、しかしそれとともにいま書いたような事情もあって、Sにかわって『論理学研究』の原書を読んでみようかな、という気分になったからなのだ。

(注1) "Logische Untersuchungen" Edmund Husserl Siebte Auflage Max Niemeyer Verlag Tübungen 1993