蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

所有権委譲

2005年06月30日 06時50分46秒 | 古書
電車の中で本を読んでいる人は多い。よく見るとたいていナントカ図書館と印刷したシールが貼られている。
昨今本も高価となってしまい、たとえばハードカバー四六判の小説で千六百円以上ノンフィクションだと二千五百円を越えるのが普通だ。これでは少ない小遣いから書籍代まではとても支出できない。いきおい図書館の利用ということになるのは判る。しかしこれでは本が売れない。売れなければ出版業界が疲弊する。そうなれば本はますます高価になる。悲劇的悪循環に陥ってしまうのは目に見えている。そこでわたしはついに考えた。食料品と書籍にはすべからく消費税を課さない、これはかなりの妙案だと思うのですがどうでしょうか。食べ物が生きていく上で必要不可欠なように、知識だって人間にとって必要不可欠であるに違いないのだから。このままではますます知識の独占が加速してしまう。わたしは知識を独占する支配階級が無知な労働者をこき使うグロテスクな世の中なんて真っ平御免ですね。いやいや、いま書こうとしているのは知識「階級闘争」ではない。本の話だった。
わたしは図書館で本を借りたことはない。以前「簡編可巻舒」の回でも書いたのだけれども、なぜ図書館を利用しないかというと貸出し期間が限定されているからなので、あくまで自分のリズムで読みたいわたしにはこれが苦痛なのです。そしてもう一つ、これは「簡編可巻舒」では書かなかったのだけれども今回それを明かす。つまりどこの誰がいじったかわからないような本には指一本触れたくないからなのだ。賢明なる読者諸子はさっそくわたしのこの発言に仰天するに違いない。だってさんざっぱら古書がどうしたこうしたと好き勝手なことをいっておきながら、いまさら図書館の本に触れられないなどとぬかす奴があるものか。おっしゃる通り、わたしには一言もありません。しかしこれは嘘でも冗談でもない。手垢で黒ずんだ小口を見ただけで寒気がしてくるし、ましてそれがオヤジが指をなめなめ頁を繰った本だと知ればこれはもう卒倒ものだ。犬耳(読み止しの目印に頁の角を折り曲げておくこと)なんぞを見つけようものなら、熱した鏝で引き伸ばしてやりたくなる。これはもう理屈ではない。しかし、しかしです、古書店で購入した書籍にたいしては、そんな感情はいっさい起こらない。だからわたしの書架にはナンタラ大学図書館旧蔵書が何冊もある。黒っぽい本など図書館の蔵書以上に何人もの人々の手を経てきているはずなのに嫌悪感がまったくといってよいほど涌かない。古本屋が店の商品を消毒したり洗い張りしているといった話もいままで聞いたことがなし、そこの主人に超能力があって人の汚れを落としているって噂も知らぬ。そこでわたしは考えた。考えに考えて古書店と図書館の重要な違いに気づいた。気づいたとはちょっと大仰か。片やお金を払う、片やタダ。たしかにそうなのだがこれは重要なことではない。有料図書館だってあるから。
決定的なのは所有権が変わるということ。図書館ではあくまで借りるのであるのにひきかえ、古書店では本が店の主人の所有物からわたしの所有物となる。これはたいへんなことだ。他人には薄汚いガキでも自分の子供は宝物に見える。自分の所有物となった瞬間、変化が起こる。ゴキブリの齧り跡が金箔装飾に、フンでできた染みが透かし文様に、つまり穢れが聖なるものへと変貌するのだ。

沈迷勞働的人

2005年06月29日 03時36分52秒 | 太古の記憶
M電機東京工場内。計装関係子会社であるM制御株式会社の管理課事務室がある東部42棟の8階に、わたしはスーツ姿でおまけにコートまで着て訪れている。季節は秋も終わりに近く、外気はかなり冷え込んできていた。
その日はM制御株式会社に用件があって来たわけではなかったのだが、一度工場構内に入ってしまった以上、そこを出るには役職者から入館証に印をもらわなくてはならない。さもないと守衛所でトラブルとなることは目に見えていたので、わたしはとりあえず8階の管理課事務室に向かうことにした。M電機製のエレベータで8階まで上がると廊下で何人かの顔を見知った社員と出会った。わたしが頭をさげると相手も応じるのだが、皆なんだか気まずそうな風に見える。管理課事務室に入るとキャビネットの向こうのほうでS部長が何かの書類に目を通しているところだった。この人から印を貰うのが最適だったのだが、管理課には何の用事もなかったのでただ印だけを貰いにいくことも憚られた。
辺りを見まわすとちょうど管理課員のT嬢がやってきたので、わたしは彼女に印を押してもらうことにした。T嬢は昨年結婚したと聞いていたるどうも妊娠しているらしく顔色が優れず、わたしが三年前に初めて彼女にあったときと比べて容姿がかなり落ちていた。わたしが声をかけるよりも早くT嬢のほうから話かけてきたので押印の件を切り出そうとしたら、彼女はまたシステム障害が発生していると訴えてきた。なんでも作成されたレコードがまったく別のファイルに出力されているというのだ。それはわたしが作り上げた予算管理システムだった。普段であったら暗澹とした気分になってしまうところなのだが、このときばかり内心ほっとした。理由が何であろうともとにかくわたしがここにいる説明をつけることができるのだから。
すべての行為が堂々と容認されたような晴れやかな気分になり、わたしはT嬢にすぐに対応しますといって、さっそくデバッグ・ルームに向かうことにした。マシン・ルームとデバッグ・ルームは東部42棟とは別の建屋にある。いくつもの廊下と曲がり角と防火扉、目が痛くなるほど白い光を放つ無数の蛍光灯そしてアスファルト舗装された構内歩道を過ぎやっとのこと目的の場所にたどりついた。しかしデバッグ・ルームはまるで昨日引っ越してしまったばかりといった状態の、見事に空っぽな広々としたフロア―があるだけだった。
要するにマシン・ルームとデバッグ・ルームは他の場所に移転してしまっていたのである。この工場ではこのようなことは日常茶飯事だったのでわたしはさして驚きもしなかったが、そのような事情に疎い新入りの外注業者エンジニアたちは、不用になったLP用紙や今では紙くずとなったシステム仕様書が隅の方に積み上げられた室内を茫然とした面持ちでながめていた。わたしはいかにも先輩ぶって見栄を張り、つまり移転先は宣告承知という顔をして何事もなかったかのように泰然とそこを離れた。デバッグ・ルームの移転先はT嬢、いや今では姓もかわりH夫人となった彼女に尋ねればすぐにわかることだから。
わたしは、ふたたび気の遠くなるような道のりを東部42棟の8階にもどることにした。

大海不宿死屍

2005年06月28日 05時36分36秒 | 不知道正法眼蔵
『正法眼蔵』の「第十三海印三昧」に不思議な一節がある。曹山禅師に或る修行僧が、「大海死屍を宿せず」の意味を尋ねている。これに答えた曹山禅師の言葉を道元禅師が解説しているのだが、わたしにはどうしても「大海死屍を宿せず」の意味が素直に理解できなかった。望月の佛大辭典によれば「大海の具する十種の徳相の意。舊華嚴經第二十七に「佛子、譬えば大海の十相を以っての故に名づけて大海と爲し、能く壊するものあることなきが如し。何等をか十と爲す、一に漸次に深く、二に死屍を受けず、三に餘水は本名を失し、四に一味なり、五に寶多く、六に極めて深くして入り難く、七に廣大にして量なく、八に大身の衆生多く、九に潮は時を失はず、十に能く一切の大雨を受くるも盈溢あることなし。菩薩地も亦是なり」と云へる是れなり」(注1)とあり更に「又大涅槃經第三十三にも大海に八不思議ありとし、一に漸漸に轉た深く、二に深くして底を得難く、三に同一鹹味、四に潮は限を過まらず、五に種種の寶蔵あり、六に大身の衆生、中に在りて居住し、七に死尸を宿さず、八に一切の萬流大雨之に投ずるもせず滅せずと云へり。今華嚴の大海十相の説は恐らく此等の説を布衍せしものなるべし」(注2)と載っていた。要すれば太平洋みたような大きな海の功徳(この場合は機能というほどの意味)は大涅槃經第三十三では八不思議という形に分類され、華嚴經ではこれが更に敷衍された十種類があげられているということで、つまり大海の機能の一つに死体を海中にいつまでも留め置かないということがあるということだ。簡単にいってしまうと土左衛門は一昼夜すれば岸辺に流れ着く、つまり海中から排除されてしまうということ。『俚諺大辭典』にも「【大海は屍をとどめず】(涅槃經)大海不宿死屍」(注3)と出ているくらいだからかなり有名な一節らしく、したがってこの言葉自体は何等難しいことをいっているわけではないことがわかった。それが道元禅師にかかるととたんに様相が変わってくる。「いはゆる大海は、内海、外海等にはあらず、八海等にはあらざるべし」()(注4)といってこの海がわたしたちの認識している海ではないことを強調する。つまり「海」は菩薩の立場の比喩なのだということ、ここまでは簡単にわかる。しかし不宿死屍というのが「不宿とは明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なるべし。死屍は死灰なり、幾度逢春不変心なり。死屍といふは、すべて人々いまだみざるものなり。このゆへにしらざるなり」(注5)となってくると考え込んでしまう。「不宿」というのは「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」であるはずなのだ、といわれてもねえ。道元禅師はこの「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」を『正法眼蔵』のなかで何回か使用している。たぶん宋留学中に覚えたのだろうけれどよっぽど気に入ったのかな。これについては日本思想体系本の頭注に「情況に応じて確執遅滞なくやってのけられること」(注6)とあるのでそのように理解するとしよう。ということはまず菩薩としての大海は死体を情況に応じてすいすいと処理してしまう、ということになる。しかしそれではそのように処理される屍とはいったい何なのだろう。そこで道元禅師は透かさず「死屍は死灰なり」という。「死屍」(シシ)は「死灰」(シハイ)または(シカイ)、つまり生気のないもの。あたりまえだ。そして畳み掛けるように「幾度逢春不変心なり」とくる。恒久的に変わることのない「心」。これは「こころ」ではなく「意味」とか「趣」というくらいに解釈しよう。つまり生気のないものは恒久的に不変であるということか。そして最後に「死屍といふは、すべて人々いまだみざるものなり。このゆへにしらざるなり」とくる。生気のないものを人々はまだ見たことがない、だから知らない。
煎じ詰めれば、大海のような菩薩は恒久的に変わることのない生気ないものを確執遅滞なく処理してしまう。だからそのような生気のないものを人は見たこともないので、したがって知ることもない。ということになるのだろうか、しかしわたしにはまだわからない。不知道正法眼蔵。

(注1)『佛大辭典』第四巻3200頁 望月信亨 佛大辭典發行所 昭和10年3月15日
(注2) 同上
(注3)『俚諺大辭典』528頁 中野吉平 東方書院 昭和8年10月15日
(注4)『日本思想体系12 道元(上)』145頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注5) 同上 145頁~146頁
(注6) 同上 137頁

起死回生

2005年06月27日 05時54分36秒 | 彷徉
まだ梅雨の真っ最中だというのに、今日も関東地方は夏日になってしまった。いやまあ、とにかく暑い、わたしは暑さが大嫌いだ。といってそれならば冬が好きなのかと問われると、さあ困った。じつは寒い冬も大嫌いなんです。できることなら常に「初夏ちょっと前くらいの遅い春」的気候が年中続くところで暮らしたい。そうしたら心身ともにベストコンディションでいられるはずなのだ。
子供の頃は学校のプールでの授業が、或る時まで待ち遠しかった。とにかくひんやりした水に漬かっているだけで満足だったから、泳ぎの練習なんてどうでもよかった。そのような態度では当然ながらまともに泳げるようになれるはずもなく、実際ちっとも泳げなかった。小学校の五年生のときだったか、その年のプールでの体育の時間、競泳をやらされることになった。もちろんわたしは泳ぎの練習なんかまじめにやってこなかったのだから対応できるはずがない。しかし自尊心ばかり強いが馬鹿なガキだった(いまでも馬鹿は治っていない)わたしは泳げませんとも言えず、他の数名の級友たちとスタート台に立った。
教師の吹く笛の合図で一斉にスタートを切り、といってもわたしがドン尻だったことは確かでこりゃあだめだと思った瞬間、水を飲んで沈んでしまった。水中で呼吸するということは水を吸い込むことと同じで、わたしの肺の中にたっぷりとプールの水が染込んでくる。しかし今思い出しても妙な気分なのだけれども、少しも苦しくない。まるで陸にいるのと同断の爽快感とおまけに夢心地の浮遊感があるだけだった。その後救助されたときのことは憶えていない。周りでは大騒ぎになったみたいだけれども、いまではそのことも記憶にない。そしてそれ以来わたしにはプールでの遊泳はできなくなってしまった。真水では沈んでしまうという先入観が強烈に印刻されたのかもしれない。しかしこのときの理由のわからぬ爽快感と夢心地の浮遊感はいまでも鮮明に記憶している。
もちろん級友からは馬鹿にされるわ両親からは怒られるわで、とんでもないことになったものだけれども、これは後々大人にってからのことだが、もしかしたら水の中なはとても居心地良いところなのではないか、あのときわたしに太古の昔すべての生命が海中にあった時の幽かな記憶がよみがえったのではないか、などと他愛ないことを考えたりもした。そういえば壇ノ浦で入水した安徳天皇や二位の尼、建礼門院徳子は本当に水底に都が見えたのかもしれない。
「この國は粟散邉地と申て、心憂き境にて候へば、極楽浄土とて目出処へ具し参らせ候ぞと泣々申させ給へば、山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、小さう美しい手を合わせて、先東を伏拝み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて、御念佛ありしかば、二位殿やがて抱き奉り、浪の底にも都の候ぞと慰め奉り、千尋の底へぞ入り給ふ」(注1)

(注1)『平家物語略解』917頁 御橋悳言 寶文館 昭和4年9月10日

深夜勞働

2005年06月26日 06時59分19秒 | 彷徉
人は夜には睡眠をとるものであり、昼間には起きて活動するものである。そんなわけで、この本来熟睡している時間に目覚めているこということは、これは尋常ではない。その尋常ではないことが日常的におこなわれている職業分野がある。以前は徹夜といえばマスコミ業界の十八番だったが、今では情報処理業界のほうが有名だ。この業界も御多分に漏れず低賃金長時間労働を甘受する若年労働者によって支えられている。インターネットだろうがATMだろうがすべては孫受け玄孫受けの零細企業から派遣された彼ら二十代の子供のようなエンジニア(と呼ぶことさえ痴がましいような連中)に負っているのだから、IT社会なんていってもこれほど脆弱なものはない。業務システムの開発なんぞといえば聞こえは良いが、要するに学校のクラブ活動の乗りで仕事をしている連中に皆さんの財産や、ときには生命までもが握られていることを思うと薄ら寒いものを感じる。そんな連中にまじって仕事をしたときの話。
都内某所、はっきりと所番地やビル名まで書きたいところなのだけれども、この手の話の慣習としてここでは伏せておくことにする。そのときはわたし一人で徹夜作業するはめになった。なぜそんなことになったかは今取り上げようとしている話題には直接関係ないことなので省略するけれども、とんでもなく理不尽な理由だったとだけ書いておく。
午前二時を過ぎた頃、同じフロア―で作業をしていた若者が「おさきに失礼します」といって帰ってしまい、とうとうわたし一人になった。腹が減ってきたので夜食でも摂ろうかと思ったが、セキュリティの関係でコンビニに買出しにいくこともできず、仕方がないのでそのまま作業を続けることにした。この日は恐れていた睡魔に襲われることもなく、作業を淡々と進めることができた。午後三時を少し回った頃、向かっていた端末から目をそらしてすぐ右側の壁のほうを眺めた。どこにでもある事務所つくりのフロア―の安っぽい白壁。そのときわたしは音が聞こえていることに気づいた。
はじめは空調の音かと思っていたが、どうもそれだけではないようなのだ。一人や二人ではない、十人以上の人々がお互い好き勝手にしゃべり合っている。満席になった居酒屋の店内みたような騒がしさとともに、音楽もきこえてきた。何に一番似ているかといったら、沖縄民謡のなかでも派手なもの、そうあのカチャーシーのリズムと三線の音。人々の話し声は延々と続いているが内容は聞き分けることができない。空調の騒音とは明らかに異なるものだったけれども、わたしはそれを不思議ともまた怖いとも感じなかった。このときの気分を言い表すとすれば「ああ、聞こえているなあ」というほどのものである。かさねていうけれども、このときわたしは眠気を催してはいなかった。まして夢、幻を見ているのでは絶対になかった。ただほんの少しだけ感覚が鋭くなっていたようには思う。
やがて話し声や三線のリズムは四時半頃には聞こえなくなり、空調の単調な騒音だけになっていた。

看書思人

2005年06月25日 07時27分44秒 | 新刊書
三島由紀夫関係本と澁澤龍彦関係本を買ってしまった。学術書でもないのに二冊で4800円というのはかなりの出費だと思った。思ったがそれでも買ってしまったのだから、書痴なのだ。
で、今回は澁澤龍彦本について。これは澁澤龍子のエッセイ。さっそく話を脇道に逸らしてしまうが、書店の棚を見渡すとこの「エッセイ」というのがやったらめったら目に付く。気軽な感想雑記程度の文章を「エッセイ」というが、いっぽう小論、試論のようなものもエッセイという。だからナントカ娘の書いた作文も「エッセイ」だし西田幾多郎の『善の研究』もエッセイなのだ。ちなみに『善の研究』のアンセルモ・マタイス先生訳によるスペイン語版題名は"Ensayo Sobre el Bien"(注1)である。ところが昨今ではエッセイといえば前者つまり気軽な感想雑記程度の文章が主流になってしまっていて、わたしはエッセイと名の着く本にたいして敬遠がちになっていた。だからこの『澁澤龍彦との日々』も腰巻に「感動の書き下ろしエッセイ」などとあったので買うのにちょっと躊躇いがあった。しかしそれでも買ってしまったのは、カバーデザインが上品で、おまけに出版元が白水社だったから。
読んでみて、買ってよかったと思った。たとえば次のような一節からは酒宴での澁澤の無邪気とそれを受け流す龍子夫人の暖かさが感じられる。
「わたしはひそかに失礼ながら「三馬鹿」と呼んでいたのですが、土方巽さん、加藤郁乎さんに澁澤がそろうと、もう手がつけられません。慈姑を薄切りにしておせんべいみたいに揚げろ(澁澤の好物)、あれを作れ、これを出せ、あげくはわたしに裸になれの逆立ちしろのと無理難題をふっかけてきます。相手は正気ではないのですから、下手に抵抗すると修羅場になりそうですので、ひたすら泣いてしまいました。」(注2)
わたしは澁澤を通して初めてサドやオカルトを知った。まだ子供だったので彼の文章から酷く回りくどい、衒学的なものいいをする人だと思ったが、読み慣れてくるとこれが結構端正な文章であるがわかってきた。例えば『サド復活』所収の「暴力と表現 あるいは自由の塔」冒頭、
「サドについて語ることは、語ること自体が逆説となることを免れない。サルトルの言うようにジュネが悪人として書いたとすれば、一方サドは、書いたものが悪そのものとなったところの何者かであって、現代の批評家はもしサドを支持するならば、この悪徳のアポロジストを問題とするより悪徳そのものを問題とした方が捷径ではないか―という、先ずこれが第一のパラドックスである。実際、サドを単純に賛美するとすれば、こういう筋違いが起こるのは当然すぎるほど当然である」(注3)などは、1959年とまだ若い頃の執筆なので晩年のものより生硬なところもあるけれど、それでも現今のアホな学者の論文などより、よほど上質だ。このような文章を紡ぎ出してきた人の日常を、恐らく澁澤本人は望まないであろうとしても、この龍子夫人の本から垣間見ることができる。

(注1) "KItaro Nishida:Ensayo Sobre el Bien" traduction de Anselmo Mataix, S.J.y Jose M. de Vera, S.J.Revista de Occidente, Madrid, 1963.
(注2)『澁澤龍彦との日々』72頁 澁澤龍子 白水社 2005年6月20日第2刷
(注3)『澁澤龍彦全集』第1巻115頁 河出書房新社 1993年5月20日初版第1刷

東京国際書籍交易會

2005年06月24日 03時28分57秒 | 本屋古本屋
毎年四月の下旬ころになると、東京ビックサイトで「東京国際ブックフェア」が開催されてきたが、ことしは七月に開催されるという。四月から七月に変更なった経緯は知らないが、わたしにとっては頗る迷惑だ。だってそうでしょう、蒸し暑くて雨勝ちな時期にやられた日にはたまったものではない。と当初は腹が立ったのだけれども、冷静になってよくよく考えてみると、どうこもれは事務当局の深謀遠慮なのではないかと思われだした。
わたしは「東京国際ブックフェア」をもう何年も前から観覧しているけれど、年を追うごとに盛大かつ一般的になってきている。十年ほど前は幕張メッセで開催されていたけれども、その頃はもっと落ち着いたこじんまりした雰囲気の催し物だったように思う。わたしなどは会場でのんびりとサンドイッチをつまみにビールを飲み、ベンチで居眠りをしたりしながら見て回ったものだ。幕張というロケーションが普通の人たちに「ちょっと覗いてみよう」って気にさせなかったのかもしれない。たしかにわたし自身にしてからが自宅からは遠いし、交通の便は悪いしで帰りの電車ではぐったりしてしまった。京葉線海浜幕張から東京駅まで戻り山手線で品川に出て、そこから京浜急行で横須賀までたどり着いた記憶がある。会場が東京ビッグサイトに移ったので新橋からゆりかもめを使うようになったが、やはり近くなったことを実感した。そしてわたしが実感したことは他の多くの人たちも実感しているはずで、だから一般公開日には「ちょっと覗いてみよう」派のお客がわんさか押しかけるようになった。賑々しいのはよいが過ぎるのも困りもので、硬派の出版社例えばみすず書房とか創文社などのブースの前で子供がはしゃぐ姿をわたしはあまり見たくはない。要すれば少々お祭り化してしまったこの催しを本来の姿に戻そうという意思が、事務局に働いたのではないだろうか。その結果がこの鬱陶しい時期の開催という形になって現れたのだと、わたしは密かにそう睨んでいる。雨が降ったら普通の家族連れは先ず来ない。その結果、やって来るのは業界関係者のほかには生真面目な読書家と、そしてわたしたち書痴ということになる。
「東京国際ブックフェア」は扱っているものがものだけに、最新技術やデザインの発表といった華やかさはない。とくに娯楽本以外のブースでは出展物も展示レイアウトもほぼ毎年同じといった状態で、これはこれで問題だと思う。そのほか作家の朗読パフォーマンスなどもあるが、他のブースの音響で聞こえなかったり、逆に朗読パフォーマンス側の音響機器の設定が悪く音が割れてしまっていたりなど、無神経なエベントが目立っている。運営する事務局はこのようなところにも目を配って、より意味のある催し物にしてもらいたいものと強く強く強~く、願うものです。

勿謂今日不學而有來日

2005年06月23日 05時27分04秒 | 彷徉
体系としての哲学が成立したのはヘーゲルまでだとは、よくいわれるところであるけのだれども、そもそも体系だっていない哲学などあるのだろうか。少なくともWissenschaftとしてのPhilosophieであるかぎり体系立たないはずがない。もし体系立っていないとすれば、それはたんなる箴言の集積に過ぎない。そう思うんですね。
一般に誤解されているようなので、ここで明確にしておきたいのですが、哲学がWissenschaftである限り、方法と対象は最低限なくてはならないのであって、それでは方法論上の基礎理論とはなにかといえばこれが認識論であり、一方対象論上の基礎理論が存在論なんですね。だから、よく世間でいわれているような「人生とは何か」とか「愛とは何か」とか「真実とは何か」とか「善とは何か」とか「美とは何か」といった問いの立て方は、きわめてプリミティブな問いなので、これがすなわち哲学的な問いの立て方というわけではないということになる。ただ、本格的な認識論や存在論の議論はきわめて技術的な面があり、そっちの方面に関心がないとこれはけっこう退屈な世界なので、だから一般向けのいわゆる「哲学書」は読者の興味を繋ぎ止めておくために、比較的一般的な話題である「人生論」とか「真、善、美」などを話題とするわけです。
例えば、日本語訳でプラトンの著作を読んでプラトンの世界に興味を持った人が、それではというので勇躍大学院のプラトン購読ゼミを聞きにいったとしても、恐らく十分も経たぬうちぬ酔魔に襲われることとまず請合ってよい。おそらくそのゼミで議論されるのは古典ギリシア語原典の、多分Oxford Classical TextかあるいはL'association Guillaume Budéの仏語対訳版を使うのだろうが、その単語一語一語の文法的分析だろうと想像する。専門家の仕事とは門外漢から見るとまるで重箱の隅をつつくように些細な事柄にこだわって延々と議論を重ねる世界でしかない。しかしそのような膨大な「退屈」の中から、やっとプラトンのミュトスがわたしたちの元に「面白い」形でやってくることができるともいえるわけで、これはこれでまた大切な作業なのだ。
今日インターネットで二宮尊徳を検索していたら、学校時代に卒論の指導をしていただいたU先生のお名前に出くわした。脳溢血で四十代で亡くなってからすでに二十年以上になる。この先生がクリスチャンであったことを亡くなってから知った。かなり苦労して学校を出てドイツに留学したものの、当初は現地のドイツ語会話がまったくわからず恩師に泣きを入れたという伝説があった。「根を詰めて勉強したので歯ががたがたになってしまった」ともおっしゃっていた。若造であった当時のわたしはそんなことがあるもんかと思っていたが、いまではよく理解できる。指導熱心ゆえに怠け者の学生たち(わたしもその一人)からは嫌われていたが、いまではU先生のゼミに参加しなかったことを心底後悔している。

恐怖感受性

2005年06月22日 02時41分23秒 | 彷徉
「或人、葛西とやらん釣に出しに、釣竿其他へ夥しく蚋といへる虫の立集まりしを、かたへに有りし老婆のいへる、「此辺へ人魂の落ちしならん。夫故に此むしの多く集まりぬる」といひしを、予が知れるもの、是もまた払暁に出て釣をせしが、人魂の飛来りてあたりなる草むらの内へ落ちぬ。「如何なるものや落ちし」と、其所へ至り草抔騒分け見しに、淡だちたる者ありて臭気も有りしが、間もなく蚋と成りて飛散りしよし。老婆の云ひしも偽ならずと、語りぬるなり」(注1)
旗本藤原守信こと根岸鎮衛が天明から文化というから1780年ころから1800年ころまでの約三十年に渡って書き続けた随筆集『耳嚢』から「人魂の事」を引用した。読んでわかるとおり、葛西の老婆が云っていた人魂が落ちた場所から蚋が発生するという話を自分も体験したとする知人の話を紹介しているのだが、鎮衛はここでその原因とか因果関係といった野暮ったいことについては一切ふれていない。この随筆集はべつに怪奇譚だけを蒐集しているわけではなく、その話題は世の中の諸事万端に及ぶ、読んでいてとても楽しい本だ。
平成の御世になって、事象を淡々と記述する根岸鎮衛のこの姿勢を受け継いだ本が出た。1990年に第一冊目が刊行された『新耳袋』(注2)。「あとがき」を読む限りこの時点では続刊の予定はなかったようだが、1998年に第二夜と第三夜、1999年に第四夜、その後毎年一巻ずつ刊行されて今年の第十夜で最終巻だという。平成の耳袋は不思議現象に限っていてエンターテイメントそのものなのだけれども、特にわたしの好きな話は第一冊目第二章第十三話の「電柱のうえにいるもの」。どんな話かはこの本を自分で読んで確かめてください。
むかしむかし夏になると、一家そろって外房の九十九里海岸へ泊りがけで何日間かでかけたものだ。いやべつにわたしが裕福な家庭の子息だったというのではない。母方の縁戚がC村にあったので、そこを訪れたというだけのことなのである。当時は本当になんにもないところで、一応海水浴場ではあったのだけれどもほとんどが近隣からやってくる人々で、今のように遠方から海水浴客がわんさかとやってくるといった状況は、当時は想像もしていなかった。もちろん海岸線の距離は九十九里もなかったがそれでも果てが見えないほど長く続く遠浅の浜辺と青い空に群がり立ち昇る入道雲、夜の漆黒の気味悪さと虫の喧しい鳴き声の充溢を今でも強烈に憶えている。
19・・年の夏だったが、その時はわたしの母親とわたしより年長の知り合いの子供たちがいたと思う。男子はわたしひとりだけだった。わたしたちはある農家の小さな小さな別棟を借りてそこに寝泊りしていた。夜の何時ごろだったか忘れてしまったが、それほど遅い時刻ではなかったと思う。月のない空に隙間なく星が輝いていた。母も含め皆が近所へ出ていってしまったのでわたしは縁側で帰ってくるのを待っていた。もちろん屋内の電燈はつけてあるから暗い中にいたわけではない。今でもよくわからないのだけれども、そのとき唐突に恐怖を感じた。恐怖する対象が存在しない恐怖。恐怖だけの恐怖。しかしこれは本当に怖かった。皆が戻ってくるまで十五分とかかっていなかったはずなのだが、わたしにはそれが一時間以上にも感じられた。後にも先にもあれほどの恐怖を感じたのはそのときだけである。

(注1)『耳嚢』中巻332頁 根岸鎮衛著 長谷川強校注 岩波文庫 1991年3月18日第1刷
(注2)『新耳袋』木原浩勝 中山市郎著 第一冊目は当初扶桑社から刊行されたが、後にメディアファクトリーから全巻が刊行されている。

尼采哲學

2005年06月21日 06時12分46秒 | 彷徉
むかしむかし、わたしが学校に通っていたころ、ニーチェを読まなきゃ哲学を語れないといった雰囲気がまだ少し残っていた。そこでわたしも岩波文庫の『悲劇の誕生』を読んでみたのだが、正直なところなぜこの本が画期的なのかさっぱりわからなかった。
ギリシアの精神性、プラトンやアリストテレスに代表されるロゴスの支配する世界。明るい太陽のもとギュムナシオンで競技にいそしむ健康的な若者。シュムポシオンでの詩や討論競技、今流にいえばディベートということになるのだろうか。総じてギリシアは十九世紀まで西ヨーロッパ人にとってアルカディアであり、精神的理想郷だったようだ。
古典文献学者ニーチェはこれに対して、この本で「そうではないんだよなあ」といったわけである。だから画期的なのだ。ヨーロッパ人の精神的ハイマートであるアルカディアとしてのギリシャ、しかし現実のアルカディアは泰西名画にあるような羊飼いの少年が愁顔で夕暮れ迫る草原に佇んでいる、そんな牧歌的なところなどではない。からからに乾いた石ころだらけの不毛の地だという事実をたたきつけられたようなものである。今となってはそれほど突飛な主張であるとも感じられないのは、わたしたちがニーチェの言葉「神は死んだ」を聞いた後の世界に生きているからなのだ。大衆化したニーチェの箴言にすっかり慣れてしまったからなのですよ。もっともニーチェがこのような状況を目にしたならば恐らく卒倒してしまったに違いないと思う。大衆化こそニーチェのもっとも嫌ったものだから。わたしが教わった先生はニーチェを狂人であるとはっきり言っていたけれどもさらに、「時として狂人とて真実を語ることがある」ともいっていたっけなあ。
ニーチェの思想の中にÜberMenschというのがある。日本語にすると「ウルトラマン」。ニーチェのいうウルトラマンは永劫回帰する「生」を生き抜く強靭な精神力を持った者をさしていう。この永劫回帰ってのはそっくり同じ人生が永久に繰り返すってんだから、普通の人間にはとても耐えられないだろう。少なくともわたしには絶対に耐えられない。だからわたしはウルトラマンにはなれない。
ウルトラマンといえば実相寺昭雄監督、この人の担当したものは面白かった。あれはウルトラセブンのときだったか、ウルトラセブンとバルタン星人が江東区あたりの木造アパート二階の一室で丸い卓袱台をはさんで対峙するシーンは鮮烈だった。ガラス窓のそとからは夕日が差し込んでいたと思う。異星人との対論では明らかにウルトラセブンのほうが分が悪かった。いかにも実相時監督らし演出。
話をもどして(っていつもこんな展開だ)、ニーチェだった。ニーチェは今では専門家以外には誰も省みはしない。「誰も」という表現はちょっと言い過ぎかもしれないが、昔ほどの人気はない。さて十九世紀から二十世紀の初頭にかけて注目された天才的古典文献学者という評価はこれからも変わらないとしても、はたして哲学者としてこれからも評価されるのだろうか。そもそもニーチェは哲学者だったのだろうか。わたしは違うと思う。少なくともアフォリズムを連発するだけでは職業的哲学者とはいえない。