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蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

憂鬱な旅(二)わたしはレモンティーが飲みたいっ!

2005年12月05日 04時58分48秒 | 太古の記憶
ホームでは既に数百人もの乗客たちが列車の入線を待っていた。
乗降口に当たる位置には陶製の板が埋め込まれていて、乗客たちはそれを目当てに各自整然と列を作っている。乗降口案内用のこの陶板にはいろいろな文様や文字が描かれていて、その一枚一枚が一つのエピソードを表し駅全体の陶板を合わせるとギルガメッシュ叙事詩が構成されるという話を、いつか聞いたことがある。わたしが四十一番線ホームの車止のところに埋め込まれた陶板から1つずつ読み始めてみようかと思ったとき、信越線富山行き特急列車が入線してきたのであの壮大な叙事詩の読解作業を早々に諦めた。並んでいた乗客たちが一斉に動き出すと、御影石が敷き詰められたホームにはまるで朝靄がはうように綿埃が立ち昇り、列車の先頭部分がほとんど判別しがたいくらいにぼやけて見えた。
のどの渇きを覚えたわたしは、列車に乗り込む前に飲み物を買おうとホームの売店に寄ってみた。車内販売で購入することもできたが、駅の売店とは比べ物にならないほど品数が乏しかったからだ。売店にはわたしと同じ考えの五六人の先客が既に来ていて売り子の女性に注文しているその騒ぎの中に、わたしも参加しなくてはならなかった。他の客たちの声が途切れたころあいを見計らって、客への応対にはもううんざりした様子の売り子に注文した。
「あの、缶ビールをください」
「すみません。アルコール飲料は今月から置かないことになったんです」
「え、あそうですか。それじゃ缶紅茶なんかありますか」
「セリン、スレオニン、ヒスチヂン、グリシン、パリン、トリプトファン、どれにしますか。ほかにもメチオニン、イソロイシン、アラニンもありますけど」
「なんですかそれ、むかし高校で化学の授業のときに聞いたような記憶があるけど」
「缶紅茶の種類ですよ。お客さんはやくしてください、ほかのお客さんも待ってるんですから」
決めるにもなにも初めて耳にする品名ばかりなので、いったいどのような味がするのだかまったく想像することもできず、わたしは売り子の女性のまえで狼狽するしかなかった。
「そうれじゃあお客さん、決まったらそういってください」
彼女はわたしとの遣り取りを放棄してあとから来た客たちの相手を始めた。セリンだのヒスチヂンだのとそんな銘柄の紅茶など見たことも聞いたこともない、と彼女と争ってみたところで事態の進展は望めないと悟ったわたしは、紅茶やそのほかコーラなどの炭酸飲料水の並べてある冷蔵ケースをのぞいてみた。中には缶や瓶が隙間なく置かれているのだが、どれもこれも見たこともないものばかりだった。
「店員さん、それではトリプトファンを下さい」
格別トリプトファンがよいと思ったわけではない。つまりイソロイシンのような極太の注射器で打ち込まれそうな紅茶などとても飲む気になれなかっただけのことだ。
「トリプトファンね、はい三百六十円です」
「え、百五十円じゃないの」
「三百六十円です。ほかになにか買いますか」
「いや、もういい」
わたしが売店を離れようとしたとき、小学校の三年生くらいの男の子がやってきて彼女にいった。
「レモンティー」
「は~い。レモンティーは百五十円ね」
初めからそういえばよかったのか。そうすればトリプトファンとやらを三百六十円も出して買うことはなかったのだ。
「何なんだ、君。まともな缶紅茶だってあるんじゃないか」
無性に腹が立ってきたわたしは売り子に思いっきり食って掛かった。
「へんなこといわないで下さい。お客さんがトリプトファンを注文したんじゃないですか」
「それは君がレモンティーっていわなかったからだろう。いってくれれば三百六十円もするわけのわからない缶紅茶なんか買わずに済んだんだぞ」
四十代はとうに越しているように見えるその売り子は動揺した様子もなく、わたしには視線も向けず淡々と商品の整理をしながら応じてきた。
「あのね、お客さん。駅の売店にレモンティーがあるのは当たり前じゃあないですか。うちではかけそば出しますなんてわざわざいう蕎麦屋がないように、レモンティーありますなんて御大層にいう売店なんてないですよ。かえってマイナーな商品を教えてあげるのがサービスてもんじゃあないんですかあ」
「だからって、高いものを勧めることはないじゃないか。そもそもこのケースの中にはレモンティーなんてまったく見つからなかったぞ」
「ちゃんと見てください。下から三段目に並んでますよ」
わたしは再び冷凍ケースの中を見て驚いた。ついさっきまでメチオニンとかアラニンとかが並んでいた同じ場所に、どこにでもある定価百五十円のレモンティー缶が、しっかりと置かれていた。

憂鬱な旅(一)

2005年11月27日 09時53分35秒 | 太古の記憶
レストランで食事を終えたわたしは乗客たちの流れを横断して通路の左側へ寄った。いくらか人混みが緩和して歩き易くなるだろうと思っての行動だったが、思惑は完全に外れてしまった。しかたなく他の人々が行く方向に自分自身の身体を預ける格好で進んだが雑踏にどうにも我慢ができなくなり、偶々見つけた横に延びる通路に逸れて一息つくことにした。
その通路は人通りがまったくなかった。六メートルほどもあろうかという高い天井には約三メートル毎に照明のための水銀灯が点され、両側の壁は赤煉瓦がむき出しのまま何の塗装も施されておらず、見たところ明らかに一般乗客用のものではなかった。通路入り口付近に矢印とともに「XX線ホーム」と記されたプレートが貼られているのを見たので、わたしは多分ここから行けば必ずホームに出られるだろうと判断した。奥へと進むと通路はいたるところで他の通路と交差したり、あるいは分岐したりしていたが、迷うことはなかった。天井には何本もの配電用パイプが通されていて、それらは通路の交わる地点で同じ太さのパイプと十字型に溶接され、分かれるところではY字方に接続されている。壁にはほぼ等間隔で鋼鉄製の扉がありそれらの多くは厳重に封印されていたが、中にいくつか開放されているものもあったのでわたしはその内の一つを覗き込んでみた。そこには旧式のエレベータ室に設置されているような受電盤、製御盤、信号盤、それにマグネチック・ブレーキ付きの巻上機があり、リレーの作動するときに生じる破裂音が間歇的に室内に響き渡っていた。
先へ進むにしたがって天井はさらに高くなり、辺りは通路というよりも倉庫のような巨大な空間に変っていった。コンクリートでできた太い角柱が前後左右の方向に等間隔で並びそれぞれにアドレス番号が白ペンキで几帳面に記されている。AD-FFA-06とある柱の付近から向こうが鮮魚の中卸店舗地区になっていて、免許番号の刻印された矩形の樹脂製札を貼り付けたフィッシング・キャップを被った業者を何人か見かけたが、繁忙時間が過ぎていたせいか各店舗の仲買人ものんびりと雑談を交わしている様子で、わたしの姿が場違いのためだろう、ときおりこちらの方を見遣ったりする。わたしは彼らの視線を無視して足音の共鳴する通路を歩いた。
まだ店先に残っているわずかな魚介類は、それでもかなり多岐に渡っていて東京湾や相模湾の近海物から、ハワイ沖にマダガスカル、カナリア諸島からセイシェル群島、大陸棚に深海魚、近代中世古代魚まで、時間と空間こえてあらゆるものが並んでいた。商品には和名とラテン語の学名が記されている。これには驚いた。和名はわかるとしても何ゆえ学名まで必要なのだろうか。スポーツ新聞を眺めている暇そうな店主に尋ねてみると、なんでも当局からの指導でそうしているのだそうだ。店主が「あんた、カツオくんの学名知っているかい」と聞いてきた。もちろん知るはずがない。「カツオヌス・ペラミスってんだよ。ペラミスってのはマグロの子ってことさ。プリニウスによれば古代ローマ人はカツオが成長してマグロになると理解していたわけだな」。わたしは中卸業者の博識に感動してしまった。回転寿司のネタの多くが「~もどき」だということを思い出したわたしは、これは必要なことなのだと大いに納得した。
遥かに高くなった天井からは水が少しずつ滴り落ちてきて、コンクリート打放しの床に水溜りを造っている。急がなくては列車に乗り遅れてしまいそうだったので、わたしは近くにあった貨物用エレベータで上に昇った。天井の上が目的のホームだった。

高額医療

2005年10月29日 05時15分58秒 | 太古の記憶
I君の回想。「僕が学校を卒業した年にね、僕の友人はあるブティックに就職したんだよ。電子工学関係の学科を終了しているのにね、友人は横浜にあったそのブティックに自分から金を出してまで雇ってもらったそうなんだ。その金も彼の父親の傷痍軍人恩給を当てたらしいって話だよ」
そのブティックのオーナーが、今では関東一円に支店を持つまでに成功し、眼科のクリニックさえ開業しているとのことだった。わたしは横浜中区にあるという件の眼科クリニックを訪ねてみることにした。
で、いってみて驚いた。待合室では既に十五人以上の患者たちが診療の順番を待っていたのだ。いたしかたなくわたしも彼らと同じように待つことになってしまったが、よく見てみるとほとんどの患者は小学生と思しき子供で、それも三十年以上前の場末の子供たちのように、どことなく薄汚れている様子だった。あまりに患者が多かったので、わたしは待合室で看護婦から問診を受けねばならなかった。
そのとき、突然わたしの性的欲求がほとんど限界にまで昂じてきた。原因は判らないがとにかく一刻もはやく情欲を鎮めなくてはならない。わたしはとりあえず目前の看護婦に襲いかかろうとする。しかし相手は巨大でなんとしてもわたしの思い通りにはならない。自分はまるで象にしがみつこうとしている蟻のようだ。わたしのことなど一向かまうことなく、彼女は他の子供患者の処置をし始めている。子供たちはそのようなわたしの様子を面白がって、笑い出した。彼らの笑い声がしだいに大きくなり、待合室いっぱいに広がったとき、巨大な看護婦が一喝した。「静粛!」
子供にかまうことなく彼女を相手にしばらく悪戦苦闘していると、突然診察室から白衣を着て首から聴診器をさげた一人の若い医師が出てきてわたしを診察し始めた。さらになぜ眼科で聴診器が必要なのか訝るひまさえ与えず、彼は次々と各種の最新医療器具について事細かに説明するのだが、しかしわたしには何のことだかさっぱり判らない。それは当然だ。なにしろこちらには眼科医療に関する知識など微塵も持ち合わせてはいないのだから。それに診察室ではなくて待合室で診察を受けるというのも屈辱的だ。そんなこんなでわたしとしては早いところ診療を終えてここから抜け出したかった。
診察を中断させる方途をあれこれと考えているとき、わたしは保険証を持ってこなかったことに気付いた。この若造医師の宣伝する器具で診療を受けるとなると今日一日ではたしていくらの支払わねばならなくなるのだろう。高額の実費が請求されることは明らかだ。それはあくどい商売で急成長したブティックチェーンの成功が証明してる。ブティックの客が数十万円で安物ブレスレットを掴まされたように、わたしも効果不明の医療を数十万円で掴まされることになるのだろうか。
医療費についての危惧はいつのまにか恐怖へと変わっていた。この医師こそ、あのブティックのオーナーその人に他ならなかったのだ。

球技

2005年10月04日 04時54分16秒 | 太古の記憶
校舎の屋上にはわたしのほかに数名の児童が残っていた。わたしたちはドッヂボールをしていたのだ。二チームに分かれて互いにボールをぶつけ合って、上手く受け取れぬ者がゲームから抜けてゆくあの遊びだ。
いつもはすぐに負けてしまっていたわたしが、その日に限っては思いのほか首尾よくボールを受け止めることができ、少々調子づいていた。相手チームのなかにわたしの好きなEがいたからだ。彼女は大きな商家の末娘らしくどこかおっとりとしていて、何を考えているのかわからないような雰囲気の子供だった。わたしはEの気を引くためことさら強くボールを投げて彼女に当てようとしたが、彼女はわたしよりも数段このゲームに慣れていて、わたしの投げたボールなど容易く受け取ってしまった。いつまでも終わることの無いボールの投げ合い。わたしはEがあの永久に勝ち続けるヴィクトーリア女神のように、わたしなんかの投げたボールでは絶対に負けることはないだろうし、またそうあって欲しいと願っていた。ボールを受け取ったヴィクトーリア女神はそのきわめて個性的な微笑み、ふだんからキルギス人のように細い瞼はより一層細くなり、頬には笑窪ができるその微笑をわたしに向け、いっぽうわたしはといえば、それが見たくてEよりもっと弱くて容易に陥落できるであろう相手にはいっさい見向きもせず、彼女のためだけに、彼女に向かってボールを投げ続けた。
Eが好意をよせている男子児童がMであることをわたしは知っていた。Mはわたしより背が高く、それに運動神経もよかったし勉強だってわたしよりほんの少しだけできた。わたしにはあまり勝ち目のない相手だった。今になって思い返してみると本当に馬鹿げたことなのだが、わたしはアルルカンのようにEに面白がられようと努めた。彼女がわたしに注目してくれさえしたなら、どんなことでもやったものだ。
夕日はしだいに遥か西方に連なる山嶺に沈み込み、それとともに東の空は水色から群青色に変っていった。何回目かの対戦が終了したとき、わたしのチームの男子がもうそろそろ止めようと言い出した。しかしわたしはあと一回戦だけやろうと強く主張した。ほかの連中にはわたしが彼女と一緒にいたくて試合の延長を要求していることが、そのときにはもう明らかだったに違いないのだが、しかしわたしには彼らがどのように思っていようとも、もうどうでもよくなっていた。Eもわたしの要求に敢えて反対はしなかったし、それどころかむしろ積極的に同意してくれさえした。
試合が再開された。わたしはEの微笑みを見るために、それだけのために自分にボールが渡ってくることをひたすら願っていた。

起業家

2005年08月10日 03時06分16秒 | 太古の記憶
数十年ほど前からだろうと思うが、世間では何事につけ片仮名表記をするようになった。片仮名を使用するといっても、そこで表記される言葉が必ずしも外国語であるということを意味するわけではないのだけれども、しかし多くは英語やフランス語もどきの言葉であることには違いなかった。もうとっくに過去の言葉になってしまったようだが「カフェ・バー」もその一つ。大衆酒場や居酒屋や小料理屋などではなくて、あくまでも「カフェ・バー」でなくてはならなかった。
わたしたちが入った店は下北沢駅前のパチンコ屋の二階にあったスノビズム紛々たるあの「ラパン・シック」のようなお子様向けの店などではなかった。銀座六丁目に建っているビルの十階にあるその「カフェ・バー」で、わたしのほかM・T、K・A、K・Sそして未知の人物一名の五人が集まった。M・TとK・Sが組んで事業を立ち上げるということらしい。「ツール・ツール・ツール」とかいう商品を販売する事業だそうだがこの「ツール・ツール・ツール」とはどうやらコンピュータ・ソフトウェア開発支援ツールの開発を支援するソフトウェアの開発をサポートするソフトウェア・ツールのことらしい。わたしは二十年以上ものあいだソフトウェア開発の現場を見てきているが、この商品がはたしてどのような機能を持っているのか、いかなる設計思想に基づいて構築されたソフトウェアなのか、まったく見当もつかなかった。M・Tの説明によればK・Aとそして同席している未知の人物がスポンサーとして就くことになっているとのはなしだった。
ところでこの二人のスポンサー氏たちが酷く悪趣味な色柄のネクタイを締めながら、それとは対照的にとても地味なツィードのスーツを着ているのを見て、わたしは可笑しくてたまらず、笑いを懸命に堪えねばならなかった。M・Tはこの事業にかなりの自信があるものと見えて、わたしの肩に手を架けながら彼の抱いている今後の事業計画などについて熱心に説明したりしていたが、わたしとしては正直なところこの事業が成功するとは到底思えなかった。やがて会合も終わり皆それぞれ帰途に着くことになった。わたしは一人だけでビルの地階に下りた。そこから高速鉄道の駅まで続く連絡地下通路のあることを知っていたからだ。初めて訪れた場所ではあったけれども、事前に調べておいたので迷うことなく駅にたどり着くことができた。
時間は午前一時を少し回っていた。高速鉄道のホームに立って電車を待ってると、金属的な音がしてきた。最初のうちそれがどこから聞こえてくるものなのか、また何の音なのかまったくわからなかった。周囲を見回すとホームの奥の方が青白く照らされてる。そのなかでホームレス風の男が一人で砂利の山を浚っていた。何を探しているのだろう。しばらくすると彼はスコップで何かを掘り出しては、ネコに載せてどこかへ運んでいった。やがて彼も疲れてしまったのだろう、自分自身がネコに乗って、しかしネコは誰にも押されることなく何処かへ消えてしまった。あとには大きなポリエチレン製のたらいが一つ残っているだけだった。

海市蜃楼

2005年07月15日 02時32分23秒 | 太古の記憶
わたしがいるところはS川のI町辺りなのだが、ロケーションとしてはA区のS川沿い。周辺には中小の工場が疎らに建っているような、住宅地からは外れた場所。
わたしの立っているところから少し先に新しい火葬場ができたという事を聞いていたので、ぜひ見てみたいものだと思いたった。その火葬場は向こうに見えるS川により近い建物の裏辺りにあることも聞いていたので早速向かってみた。ところがそれは別の建物で、火葬場はこの建物の隣にあった。新築と聞いていたがかなり古い鉄筋コンクリートの建物で三十年前の区役所の出張所みたいだと思った。時刻はすでに夕方になっていたが三階の事務室には照明が灯されていて職員がまだ仕事をしている様子だ。一階のロビーは明かりが消されていて中の様子がよく判らない。恐らく炉前室だろうと思われる部分も外からでは確認出来なかった。しかしじつはここは火葬場ではなかった。
本当の火葬場は先ほどわたしが間違えた建物よりもさらに川沿いに近いところにあった、既に以前からあった旧火葬場こそじつは新築されたというその火葬場だった。正確には改築したということらしい。その証拠に、崖の上からこの火葬場を見下ろすと、まるでバラックのような旧火葬場とあとから立てられた鉄筋の火葬場(こちらももう随分と旧式になてしまってる)が渡り廊下のような構築物でつながれているのが見えた。むかって左側がバラック火葬場、右側が鉄筋の火葬場。わたしは位置を変えて、鉄筋の火葬場がよく確認できる場所にでた。
地下と思しき部分はまるで空襲で破壊されたコンクリート製トーチカのように内部が剥き出しになっていて、古い火葬炉が二機放置されていた。耐火煉瓦で造られた昔の火葬炉は古いとはいうものの今すぐにでも使用できるのではないかと思えるほど手入れされている様子だ。しかし周辺は瓦礫で覆われていてとても会葬者たちが立ち入れる情況ではない。火葬場というよりも陶芸家の作業場といった感じといったらよいか。改装工事は奥の部分だけおこなわれ旧火葬炉と炉前室はそのままうち捨てられてしまった様子だ。私以外にも見物人がいて私同様デジタルカメラで火葬場の様子を撮影していた。左側に目をやるとそこは波に穿たれた洞窟のように薄暗い洞びなっていて、壇状になった壁面には小ぶりのしかも比較的新しい墓石が隙間なく並べられていた。
腹がすいたので、近くの小料理屋にはいって食事をとることにした。狭い店だったが、店のおやじは比較的愛想が良かった。次から次へとお勧め料理を出してくる。それらは一品が少量だったのでいくらでも食べることができた。おやじがにこにこしながら「鯛のお澄ましをいっぱいいかがですか」といったので、わたしは迷うことなく頼むことにした。これも他の料理と同じように量はけっして多くはなかった。普通の大きさの碗に普通に盛られていた。このときオヤジがニコニコしながら注文書をわたしに見せた。わたしは嫌な予感がした。案の定そこには鯛のお澄まし六千円と買いてあった。わたしは一瞬息が詰まった。他の品物は一品辺り三百円から四百円なのに、この鯛のお澄ましだけが六千円というのは納得できなかった。しかしオヤジは相変わらずにこにこしているだけだ。わたしは所持している現金の額を思い出し、この場はなんとか支払うことはできるだろうと観念して、誰にいうのでもなく「これも勉強ですね」とつぶやいた。

沈迷勞働的人

2005年06月29日 03時36分52秒 | 太古の記憶
M電機東京工場内。計装関係子会社であるM制御株式会社の管理課事務室がある東部42棟の8階に、わたしはスーツ姿でおまけにコートまで着て訪れている。季節は秋も終わりに近く、外気はかなり冷え込んできていた。
その日はM制御株式会社に用件があって来たわけではなかったのだが、一度工場構内に入ってしまった以上、そこを出るには役職者から入館証に印をもらわなくてはならない。さもないと守衛所でトラブルとなることは目に見えていたので、わたしはとりあえず8階の管理課事務室に向かうことにした。M電機製のエレベータで8階まで上がると廊下で何人かの顔を見知った社員と出会った。わたしが頭をさげると相手も応じるのだが、皆なんだか気まずそうな風に見える。管理課事務室に入るとキャビネットの向こうのほうでS部長が何かの書類に目を通しているところだった。この人から印を貰うのが最適だったのだが、管理課には何の用事もなかったのでただ印だけを貰いにいくことも憚られた。
辺りを見まわすとちょうど管理課員のT嬢がやってきたので、わたしは彼女に印を押してもらうことにした。T嬢は昨年結婚したと聞いていたるどうも妊娠しているらしく顔色が優れず、わたしが三年前に初めて彼女にあったときと比べて容姿がかなり落ちていた。わたしが声をかけるよりも早くT嬢のほうから話かけてきたので押印の件を切り出そうとしたら、彼女はまたシステム障害が発生していると訴えてきた。なんでも作成されたレコードがまったく別のファイルに出力されているというのだ。それはわたしが作り上げた予算管理システムだった。普段であったら暗澹とした気分になってしまうところなのだが、このときばかり内心ほっとした。理由が何であろうともとにかくわたしがここにいる説明をつけることができるのだから。
すべての行為が堂々と容認されたような晴れやかな気分になり、わたしはT嬢にすぐに対応しますといって、さっそくデバッグ・ルームに向かうことにした。マシン・ルームとデバッグ・ルームは東部42棟とは別の建屋にある。いくつもの廊下と曲がり角と防火扉、目が痛くなるほど白い光を放つ無数の蛍光灯そしてアスファルト舗装された構内歩道を過ぎやっとのこと目的の場所にたどりついた。しかしデバッグ・ルームはまるで昨日引っ越してしまったばかりといった状態の、見事に空っぽな広々としたフロア―があるだけだった。
要するにマシン・ルームとデバッグ・ルームは他の場所に移転してしまっていたのである。この工場ではこのようなことは日常茶飯事だったのでわたしはさして驚きもしなかったが、そのような事情に疎い新入りの外注業者エンジニアたちは、不用になったLP用紙や今では紙くずとなったシステム仕様書が隅の方に積み上げられた室内を茫然とした面持ちでながめていた。わたしはいかにも先輩ぶって見栄を張り、つまり移転先は宣告承知という顔をして何事もなかったかのように泰然とそこを離れた。デバッグ・ルームの移転先はT嬢、いや今では姓もかわりH夫人となった彼女に尋ねればすぐにわかることだから。
わたしは、ふたたび気の遠くなるような道のりを東部42棟の8階にもどることにした。

望眼欲穿的電話

2005年06月07日 05時50分33秒 | 太古の記憶
かなり大きな大衆酒場、いまでは居酒屋という。たとえば「庄屋」「つぼ八」「魚民」のような店と思えばよろしい。一階にはテーブル席と奥に座敷、二階は大広間の座敷という造り。多くの仲居が酒や料理を盆に載せて広い廊下を往来している。わたしとM社長、それにK君の三人でその店に入り一階のテーブル席についた。
いろいろと注文したがいたって庶民的雰囲気の店だったので、三名でしっかり飲み食いしても支払いが一万円を越すことはないだろうと、わたしはかなり楽観的見通しを立てながら銚子を空けていった。やがてM社長とK君は飲み物にも食べ物にもあきて、先に帰るといい出した。わたしは料理を食べていたにもかかわらず空腹感にさいなまれていた。そのため鰻重を二人前注文していたのだが、いつまでたってもそれはできてこなかった。鰻重を食べるためにはかれら二人といっしょに店を出ることはできない。しかたなくわたしだけ店に残り鰻重を食べることにした。
M社長とK君が出ていってからしばらくして二人前の鰻重が運ばれてきた。早速食べようと二つの重箱のふたを開けて驚いた。中にはほんの少しのご飯と消しゴムほどにもちいさな蒲焼の破片が二つ三つが入っているだけだったからだ。当然ながらわたしはそれをほんの数分もかからず食べ終えてしまい、空腹が満たされぬままレジに向かった。ところがレジまで来てわたしは先に帰った二人が勘定を済ませたかどうか確認していなかったことに気づいた。さっきわたしたちのテーブルに料理を運んできた仲居が近くにいたので尋ねてみると、どうも払ってはいかなかったらしいことがわかった。これは困った。わたしの財布には一万円しか持ち合わせがなかったのだ。恐る恐るレジの女性にいったいいくらになるのか聞いてみると、なんと四万円を超えているではないか。自宅に電話して金を持ってきてもらうことも考えたが、しかし時刻が遅すぎた。すでに午後九時をまわっている。そんな時刻に自宅に四万円もあるのだろうか。昼間ならばATMが使えるが、この時刻には全てのATMが停止しているはずなのだ。わたしは途方に暮れて店内を徒にうろついていたが、だれもわたしのことなど気に留めはしなかった。
とことん困り果てたとき、わたしは昔の商家の帳場のような構えのなかにいる女性、あたかも女王のごとくその店に君臨しているその女性が、ちょうどかかってきた電話にでているのを眼にした。「え、なに、***、***ね」と彼女は聞き返した後、「***さんっていますかあ」と叫ぶではないか。わたしはすぐさま飛んでいって電話に出た。電話はM社長からだった。彼は自分たちの飲食代はせいぜい二千四百円程度だと思っていたと呑気にいったので、わたしはつい「あれだけ飲み食いして二千四百円で済むはずがないじゃないですか」と怒鳴ってしまった。「とにかく助けてください」と社長に訴えていると、それまでわたしの隣で電話していたK大学の学生らしき男が、わたしの使用している電話機のフックをガチャガチャといじりだした。その電話機は一台で二つの受話器が接続されているというきわめて珍しい代物だった。おかげでM社長との回線は途絶えてしまった。
わたしは再びM社長から電話のかかってくることに一縷の望みをかけつつ、しかし二度とかかってはこないだろうと知りながら、それでも電話の前に立ち続けていた。

動物追悼碑

2005年05月25日 13時07分19秒 | 太古の記憶
上野動物園に物故した動物の慰霊碑があることはみなが知っていることと思う。慰霊碑を設けている動物園は日本だけらしいがそんなことはどうでもよい、問題は件の慰霊碑の奥にある異様とも思える大きな石塔群だ。宝篋印塔のようにも見える。木陰に隠れて昼間でも薄暗くてちょっと確認しにくいのだけれど、あれは明らかに宗教的意味をもったオブジェにちがいない。それも日本の仏閣にあるような石塔というよりは、どこか東南アジア、ビルマかタイあたりの寺院にあっても不思議ではないような、異国的形態。異国生まれの動物の霊を弔うのにはぴったりのもの。しかしだれが、いつ設けたものだろうか。
どこかのホームページにそれらしき記載はないものかと検索してみたのだが、期待した答えを記述したものはかった。もしかしたらわたしのキーワード設定が不適切だったのかもしれない。そこで動物園に電話で尋ねてもみたのだがこちらも要を得た答えは得られなかった。「そのようなものは無いはずですよ」「何かの見間違えではないでしょうか」「慰霊碑はあのふくろうが乗っている四角いものだけです」。明らかにこの件に触れたくない様子が相手の声の調子から感じられたので、わたしはそれ以上の追及をあきらめた。
考えてみればおかしな話ではある。もしそれがわたしの思っているように動物慰霊のためのオブジェだとして、なにも隠し立てするほどのことでもないではないか。上野動物園は百年以上の歴史がある。死んでいった飼育動物だってかなりの数にのぼるはずだ。それらを弔うための施設が昔からあったといって誰も訝りはしない。もしかしたら太平洋戦争中にあったあの馬鹿げた飼育動物殺害事件のための慰霊碑だろうか。しかしそのことはもう周知の事実なのであっていまさら隠す意味がない。
少々見方を変えてみよう。そもそもあのオブジェは動物慰霊とはなんの関係もないものだ、というのはどうだろうか。いままで動物慰霊碑だと見てきたのは、単なる憶測であって根拠といえるものはまったくないのではな。動物園の敷地内にあるものだから動物に結び付けて解釈しているに過ぎない。
そもそも上野の山というのはそれほど陽気なところではない、ということは日本史の教科書をちょっとめくればすぐにわかる。わたしは「霊」というものがあるのかないのか、まったく判断がつかないのでなんともいえないが、「霊」を感じると主張する人たちは上野の山をいわゆる「心霊スポット」のひとつに数えているようだ。つまりあのオブジェは動物のためにあるのではなくて、死んていった人間のためのものという考え方だってできるのではないか。もちろんこれにもなんら根拠はない。
結局なにも明らかにはなっていないのだ。でもわたしはあの慰霊碑の背後にある鉄扉越しに、参道のように奥へと続く石畳の道の両側に黒々とした巨大なチェスの駒のような物体がいくつもいくつもたち並んでいるを、確かに見た。

命運的看戯

2005年05月09日 06時01分04秒 | 太古の記憶
渋谷の会社に出社しようというのだが、まだ赤坂付近を歩いている。これではとても始業時間の九時には間に合わない。左手には国立劇場がある。今日は公演があるらしく、出演する役者たちが舞台衣装で通行人にちらしを配っていた。どうも時代劇仕立ての前衛芝居らしい。その劇団は過激な芝居で有名だった。マチネーなのだろう、客が途切れることなく劇場にはいっていく。多くは若者たちでしかもA学院高等部の女子生徒たちだった。彼女らは二人、三人と連れ立って場内にはいっていった。今日は平日のしかも午前中ではないか、A学院高等部はもう授業が終わったのだろうか、と訝りながら、わたしは必死で地下鉄への入り口を探した。もう徒歩では会社にたどり着けないと観念したからだ。坂を登りきったところに地下鉄駅への入り口があることを知っていたので、わたしは人通りで賑わう坂道を登っていった。ところがたどり着いた先は日比谷の映画街だった。
映画館ではちょうど一回目の上映時間となっていた。かかっていたのが洋画だったのでわたしは会社にいくことをあきらめて、その映画を観ることにした。それほど興味をひく作品というわけでもなかったが、窓口でチケットを買い中に入る。そこはまるで喫茶店のように狭い通路だった。右手に階段があり一見してどこが劇場への入り口なのか見当がつかなかったが、もぎりの女性が二三人立っていたのでそれとわかった。わたしはズボンの右ポケットに手を突っ込みチケットを取り出したが、出てきたのはくしゃくしゃに丸められた千円刷だった。入れたつもりのまったくないその千円刷を戻し、ふたたびぽ見との中をまさぐりやっとチケットを取り出したが、こちらもくしゃくしゃになってしまってる。わたしはとにかくそのチケットをもぎりの女性の一人に渡そうとした。しかし彼女は片腕しかなかった、つまり左腕が肩のところからまったくなかったのである。彼女は右手でわたしからチケットを受け取ると半券をもぎって返してきた。わたしには彼女がどうのようにしてチケットの半券をもぎったのかまったくわからなかった。
防音扉を開き場内に入って唖然とした。右側の窓から西日が差し込み場内がとても明るいのだ。しかも座席は後部に八列から九列しか設けられておらず、それより前方はまるで学校のホールのように板ばりの床がむき出しとなっていて、白いテーブルクロスのかけられた大きな長方形のテーブルがいくつか置かれていた。これではとても映画を上映できるような状態ではない、そう思っているとまるで用務員のような場内係りの老人がスチール製の折りたたみ椅子を並べはじめながら、「ただいまより、運命的上映の始まり、始まりー」と大声で案内した。客はわたしのほか数名、それも老人ばかりで若い客は一人も見えない。おそらくわたしが最年少なのだろう。さきほどの国立劇場との落差を感じずにはいられなかった。