蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

沈迷勞働的人

2005年06月29日 03時36分52秒 | 太古の記憶
M電機東京工場内。計装関係子会社であるM制御株式会社の管理課事務室がある東部42棟の8階に、わたしはスーツ姿でおまけにコートまで着て訪れている。季節は秋も終わりに近く、外気はかなり冷え込んできていた。
その日はM制御株式会社に用件があって来たわけではなかったのだが、一度工場構内に入ってしまった以上、そこを出るには役職者から入館証に印をもらわなくてはならない。さもないと守衛所でトラブルとなることは目に見えていたので、わたしはとりあえず8階の管理課事務室に向かうことにした。M電機製のエレベータで8階まで上がると廊下で何人かの顔を見知った社員と出会った。わたしが頭をさげると相手も応じるのだが、皆なんだか気まずそうな風に見える。管理課事務室に入るとキャビネットの向こうのほうでS部長が何かの書類に目を通しているところだった。この人から印を貰うのが最適だったのだが、管理課には何の用事もなかったのでただ印だけを貰いにいくことも憚られた。
辺りを見まわすとちょうど管理課員のT嬢がやってきたので、わたしは彼女に印を押してもらうことにした。T嬢は昨年結婚したと聞いていたるどうも妊娠しているらしく顔色が優れず、わたしが三年前に初めて彼女にあったときと比べて容姿がかなり落ちていた。わたしが声をかけるよりも早くT嬢のほうから話かけてきたので押印の件を切り出そうとしたら、彼女はまたシステム障害が発生していると訴えてきた。なんでも作成されたレコードがまったく別のファイルに出力されているというのだ。それはわたしが作り上げた予算管理システムだった。普段であったら暗澹とした気分になってしまうところなのだが、このときばかり内心ほっとした。理由が何であろうともとにかくわたしがここにいる説明をつけることができるのだから。
すべての行為が堂々と容認されたような晴れやかな気分になり、わたしはT嬢にすぐに対応しますといって、さっそくデバッグ・ルームに向かうことにした。マシン・ルームとデバッグ・ルームは東部42棟とは別の建屋にある。いくつもの廊下と曲がり角と防火扉、目が痛くなるほど白い光を放つ無数の蛍光灯そしてアスファルト舗装された構内歩道を過ぎやっとのこと目的の場所にたどりついた。しかしデバッグ・ルームはまるで昨日引っ越してしまったばかりといった状態の、見事に空っぽな広々としたフロア―があるだけだった。
要するにマシン・ルームとデバッグ・ルームは他の場所に移転してしまっていたのである。この工場ではこのようなことは日常茶飯事だったのでわたしはさして驚きもしなかったが、そのような事情に疎い新入りの外注業者エンジニアたちは、不用になったLP用紙や今では紙くずとなったシステム仕様書が隅の方に積み上げられた室内を茫然とした面持ちでながめていた。わたしはいかにも先輩ぶって見栄を張り、つまり移転先は宣告承知という顔をして何事もなかったかのように泰然とそこを離れた。デバッグ・ルームの移転先はT嬢、いや今では姓もかわりH夫人となった彼女に尋ねればすぐにわかることだから。
わたしは、ふたたび気の遠くなるような道のりを東部42棟の8階にもどることにした。

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