蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

所有権委譲

2005年06月30日 06時50分46秒 | 古書
電車の中で本を読んでいる人は多い。よく見るとたいていナントカ図書館と印刷したシールが貼られている。
昨今本も高価となってしまい、たとえばハードカバー四六判の小説で千六百円以上ノンフィクションだと二千五百円を越えるのが普通だ。これでは少ない小遣いから書籍代まではとても支出できない。いきおい図書館の利用ということになるのは判る。しかしこれでは本が売れない。売れなければ出版業界が疲弊する。そうなれば本はますます高価になる。悲劇的悪循環に陥ってしまうのは目に見えている。そこでわたしはついに考えた。食料品と書籍にはすべからく消費税を課さない、これはかなりの妙案だと思うのですがどうでしょうか。食べ物が生きていく上で必要不可欠なように、知識だって人間にとって必要不可欠であるに違いないのだから。このままではますます知識の独占が加速してしまう。わたしは知識を独占する支配階級が無知な労働者をこき使うグロテスクな世の中なんて真っ平御免ですね。いやいや、いま書こうとしているのは知識「階級闘争」ではない。本の話だった。
わたしは図書館で本を借りたことはない。以前「簡編可巻舒」の回でも書いたのだけれども、なぜ図書館を利用しないかというと貸出し期間が限定されているからなので、あくまで自分のリズムで読みたいわたしにはこれが苦痛なのです。そしてもう一つ、これは「簡編可巻舒」では書かなかったのだけれども今回それを明かす。つまりどこの誰がいじったかわからないような本には指一本触れたくないからなのだ。賢明なる読者諸子はさっそくわたしのこの発言に仰天するに違いない。だってさんざっぱら古書がどうしたこうしたと好き勝手なことをいっておきながら、いまさら図書館の本に触れられないなどとぬかす奴があるものか。おっしゃる通り、わたしには一言もありません。しかしこれは嘘でも冗談でもない。手垢で黒ずんだ小口を見ただけで寒気がしてくるし、ましてそれがオヤジが指をなめなめ頁を繰った本だと知ればこれはもう卒倒ものだ。犬耳(読み止しの目印に頁の角を折り曲げておくこと)なんぞを見つけようものなら、熱した鏝で引き伸ばしてやりたくなる。これはもう理屈ではない。しかし、しかしです、古書店で購入した書籍にたいしては、そんな感情はいっさい起こらない。だからわたしの書架にはナンタラ大学図書館旧蔵書が何冊もある。黒っぽい本など図書館の蔵書以上に何人もの人々の手を経てきているはずなのに嫌悪感がまったくといってよいほど涌かない。古本屋が店の商品を消毒したり洗い張りしているといった話もいままで聞いたことがなし、そこの主人に超能力があって人の汚れを落としているって噂も知らぬ。そこでわたしは考えた。考えに考えて古書店と図書館の重要な違いに気づいた。気づいたとはちょっと大仰か。片やお金を払う、片やタダ。たしかにそうなのだがこれは重要なことではない。有料図書館だってあるから。
決定的なのは所有権が変わるということ。図書館ではあくまで借りるのであるのにひきかえ、古書店では本が店の主人の所有物からわたしの所有物となる。これはたいへんなことだ。他人には薄汚いガキでも自分の子供は宝物に見える。自分の所有物となった瞬間、変化が起こる。ゴキブリの齧り跡が金箔装飾に、フンでできた染みが透かし文様に、つまり穢れが聖なるものへと変貌するのだ。

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