蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

看書思人

2005年06月25日 07時27分44秒 | 新刊書
三島由紀夫関係本と澁澤龍彦関係本を買ってしまった。学術書でもないのに二冊で4800円というのはかなりの出費だと思った。思ったがそれでも買ってしまったのだから、書痴なのだ。
で、今回は澁澤龍彦本について。これは澁澤龍子のエッセイ。さっそく話を脇道に逸らしてしまうが、書店の棚を見渡すとこの「エッセイ」というのがやったらめったら目に付く。気軽な感想雑記程度の文章を「エッセイ」というが、いっぽう小論、試論のようなものもエッセイという。だからナントカ娘の書いた作文も「エッセイ」だし西田幾多郎の『善の研究』もエッセイなのだ。ちなみに『善の研究』のアンセルモ・マタイス先生訳によるスペイン語版題名は"Ensayo Sobre el Bien"(注1)である。ところが昨今ではエッセイといえば前者つまり気軽な感想雑記程度の文章が主流になってしまっていて、わたしはエッセイと名の着く本にたいして敬遠がちになっていた。だからこの『澁澤龍彦との日々』も腰巻に「感動の書き下ろしエッセイ」などとあったので買うのにちょっと躊躇いがあった。しかしそれでも買ってしまったのは、カバーデザインが上品で、おまけに出版元が白水社だったから。
読んでみて、買ってよかったと思った。たとえば次のような一節からは酒宴での澁澤の無邪気とそれを受け流す龍子夫人の暖かさが感じられる。
「わたしはひそかに失礼ながら「三馬鹿」と呼んでいたのですが、土方巽さん、加藤郁乎さんに澁澤がそろうと、もう手がつけられません。慈姑を薄切りにしておせんべいみたいに揚げろ(澁澤の好物)、あれを作れ、これを出せ、あげくはわたしに裸になれの逆立ちしろのと無理難題をふっかけてきます。相手は正気ではないのですから、下手に抵抗すると修羅場になりそうですので、ひたすら泣いてしまいました。」(注2)
わたしは澁澤を通して初めてサドやオカルトを知った。まだ子供だったので彼の文章から酷く回りくどい、衒学的なものいいをする人だと思ったが、読み慣れてくるとこれが結構端正な文章であるがわかってきた。例えば『サド復活』所収の「暴力と表現 あるいは自由の塔」冒頭、
「サドについて語ることは、語ること自体が逆説となることを免れない。サルトルの言うようにジュネが悪人として書いたとすれば、一方サドは、書いたものが悪そのものとなったところの何者かであって、現代の批評家はもしサドを支持するならば、この悪徳のアポロジストを問題とするより悪徳そのものを問題とした方が捷径ではないか―という、先ずこれが第一のパラドックスである。実際、サドを単純に賛美するとすれば、こういう筋違いが起こるのは当然すぎるほど当然である」(注3)などは、1959年とまだ若い頃の執筆なので晩年のものより生硬なところもあるけれど、それでも現今のアホな学者の論文などより、よほど上質だ。このような文章を紡ぎ出してきた人の日常を、恐らく澁澤本人は望まないであろうとしても、この龍子夫人の本から垣間見ることができる。

(注1) "KItaro Nishida:Ensayo Sobre el Bien" traduction de Anselmo Mataix, S.J.y Jose M. de Vera, S.J.Revista de Occidente, Madrid, 1963.
(注2)『澁澤龍彦との日々』72頁 澁澤龍子 白水社 2005年6月20日第2刷
(注3)『澁澤龍彦全集』第1巻115頁 河出書房新社 1993年5月20日初版第1刷