蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

勿謂今日不學而有來日

2005年06月23日 05時27分04秒 | 彷徉
体系としての哲学が成立したのはヘーゲルまでだとは、よくいわれるところであるけのだれども、そもそも体系だっていない哲学などあるのだろうか。少なくともWissenschaftとしてのPhilosophieであるかぎり体系立たないはずがない。もし体系立っていないとすれば、それはたんなる箴言の集積に過ぎない。そう思うんですね。
一般に誤解されているようなので、ここで明確にしておきたいのですが、哲学がWissenschaftである限り、方法と対象は最低限なくてはならないのであって、それでは方法論上の基礎理論とはなにかといえばこれが認識論であり、一方対象論上の基礎理論が存在論なんですね。だから、よく世間でいわれているような「人生とは何か」とか「愛とは何か」とか「真実とは何か」とか「善とは何か」とか「美とは何か」といった問いの立て方は、きわめてプリミティブな問いなので、これがすなわち哲学的な問いの立て方というわけではないということになる。ただ、本格的な認識論や存在論の議論はきわめて技術的な面があり、そっちの方面に関心がないとこれはけっこう退屈な世界なので、だから一般向けのいわゆる「哲学書」は読者の興味を繋ぎ止めておくために、比較的一般的な話題である「人生論」とか「真、善、美」などを話題とするわけです。
例えば、日本語訳でプラトンの著作を読んでプラトンの世界に興味を持った人が、それではというので勇躍大学院のプラトン購読ゼミを聞きにいったとしても、恐らく十分も経たぬうちぬ酔魔に襲われることとまず請合ってよい。おそらくそのゼミで議論されるのは古典ギリシア語原典の、多分Oxford Classical TextかあるいはL'association Guillaume Budéの仏語対訳版を使うのだろうが、その単語一語一語の文法的分析だろうと想像する。専門家の仕事とは門外漢から見るとまるで重箱の隅をつつくように些細な事柄にこだわって延々と議論を重ねる世界でしかない。しかしそのような膨大な「退屈」の中から、やっとプラトンのミュトスがわたしたちの元に「面白い」形でやってくることができるともいえるわけで、これはこれでまた大切な作業なのだ。
今日インターネットで二宮尊徳を検索していたら、学校時代に卒論の指導をしていただいたU先生のお名前に出くわした。脳溢血で四十代で亡くなってからすでに二十年以上になる。この先生がクリスチャンであったことを亡くなってから知った。かなり苦労して学校を出てドイツに留学したものの、当初は現地のドイツ語会話がまったくわからず恩師に泣きを入れたという伝説があった。「根を詰めて勉強したので歯ががたがたになってしまった」ともおっしゃっていた。若造であった当時のわたしはそんなことがあるもんかと思っていたが、いまではよく理解できる。指導熱心ゆえに怠け者の学生たち(わたしもその一人)からは嫌われていたが、いまではU先生のゼミに参加しなかったことを心底後悔している。