蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

恐怖感受性

2005年06月22日 02時41分23秒 | 彷徉
「或人、葛西とやらん釣に出しに、釣竿其他へ夥しく蚋といへる虫の立集まりしを、かたへに有りし老婆のいへる、「此辺へ人魂の落ちしならん。夫故に此むしの多く集まりぬる」といひしを、予が知れるもの、是もまた払暁に出て釣をせしが、人魂の飛来りてあたりなる草むらの内へ落ちぬ。「如何なるものや落ちし」と、其所へ至り草抔騒分け見しに、淡だちたる者ありて臭気も有りしが、間もなく蚋と成りて飛散りしよし。老婆の云ひしも偽ならずと、語りぬるなり」(注1)
旗本藤原守信こと根岸鎮衛が天明から文化というから1780年ころから1800年ころまでの約三十年に渡って書き続けた随筆集『耳嚢』から「人魂の事」を引用した。読んでわかるとおり、葛西の老婆が云っていた人魂が落ちた場所から蚋が発生するという話を自分も体験したとする知人の話を紹介しているのだが、鎮衛はここでその原因とか因果関係といった野暮ったいことについては一切ふれていない。この随筆集はべつに怪奇譚だけを蒐集しているわけではなく、その話題は世の中の諸事万端に及ぶ、読んでいてとても楽しい本だ。
平成の御世になって、事象を淡々と記述する根岸鎮衛のこの姿勢を受け継いだ本が出た。1990年に第一冊目が刊行された『新耳袋』(注2)。「あとがき」を読む限りこの時点では続刊の予定はなかったようだが、1998年に第二夜と第三夜、1999年に第四夜、その後毎年一巻ずつ刊行されて今年の第十夜で最終巻だという。平成の耳袋は不思議現象に限っていてエンターテイメントそのものなのだけれども、特にわたしの好きな話は第一冊目第二章第十三話の「電柱のうえにいるもの」。どんな話かはこの本を自分で読んで確かめてください。
むかしむかし夏になると、一家そろって外房の九十九里海岸へ泊りがけで何日間かでかけたものだ。いやべつにわたしが裕福な家庭の子息だったというのではない。母方の縁戚がC村にあったので、そこを訪れたというだけのことなのである。当時は本当になんにもないところで、一応海水浴場ではあったのだけれどもほとんどが近隣からやってくる人々で、今のように遠方から海水浴客がわんさかとやってくるといった状況は、当時は想像もしていなかった。もちろん海岸線の距離は九十九里もなかったがそれでも果てが見えないほど長く続く遠浅の浜辺と青い空に群がり立ち昇る入道雲、夜の漆黒の気味悪さと虫の喧しい鳴き声の充溢を今でも強烈に憶えている。
19・・年の夏だったが、その時はわたしの母親とわたしより年長の知り合いの子供たちがいたと思う。男子はわたしひとりだけだった。わたしたちはある農家の小さな小さな別棟を借りてそこに寝泊りしていた。夜の何時ごろだったか忘れてしまったが、それほど遅い時刻ではなかったと思う。月のない空に隙間なく星が輝いていた。母も含め皆が近所へ出ていってしまったのでわたしは縁側で帰ってくるのを待っていた。もちろん屋内の電燈はつけてあるから暗い中にいたわけではない。今でもよくわからないのだけれども、そのとき唐突に恐怖を感じた。恐怖する対象が存在しない恐怖。恐怖だけの恐怖。しかしこれは本当に怖かった。皆が戻ってくるまで十五分とかかっていなかったはずなのだが、わたしにはそれが一時間以上にも感じられた。後にも先にもあれほどの恐怖を感じたのはそのときだけである。

(注1)『耳嚢』中巻332頁 根岸鎮衛著 長谷川強校注 岩波文庫 1991年3月18日第1刷
(注2)『新耳袋』木原浩勝 中山市郎著 第一冊目は当初扶桑社から刊行されたが、後にメディアファクトリーから全巻が刊行されている。

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