蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

學校建築

2005年06月06日 06時01分39秒 | 彷徉
こどもの頃、わたしは東京都T区に住んでいた。六歳になって地元の小学校に入学した。もちろんわたしがそこを望んだわけではなく、行政が勝手にわたしをその小学校へ入学させるべくわたしの両親に通告してきたからだ。もともと集団行動の大嫌いなわたしは入学式の日になにが一番うれしかったかといえば、早々に帰宅できたことである。しかし翌日からはしっかりと四時限までの授業があり、尻の痛くなる木製の椅子に腰掛け続ける苦痛に耐えねばならなかった。今にして思えば昼飯食ったら帰れるのだから極楽状態だったわけだけれども、そこはやはり子供のこと、時間がやたらとゆっくり流れるように感じられたものだ。
三階建オイスター色の校舎は、当時のわたしの目からみても設備がかなり老朽化していた。鉄筋コンクリートの堅牢な造りではあったのだけれども、講堂裏の使われていないシャワー室や、冬場のストーブに給する石炭の置き場になってしまっていた地下のボイラー室。かつては全教室にスチーム暖房が入っていたが、その教室にいたっては照明器具さえ満足ではない状態だった。当然ながらトイレというトイレはとても使い物にならず、大きい方の用は帰宅するまでがまんしたものだ。このおかげでわたしは今やすっかり便秘になってしまった。
この建物は同潤会アパートと同じく関東大震災後の復興計画に基づいて建設されたもののひとつで、したがってわたしが子供の頃、東京の小学校校舎には似たようなものがそこいらじゅうにあったが、内部まで同じだったかどうかは確かめたことはない。わたしの通っていた小学校にかぎっていえば、当時ヨーロッパで流行っていたアール・デコの影響をうけていて、それはたとえば正面玄関の重厚な鉄枠でできたガラス扉の形態にはっきりと見て取れた。この扉だけを見ているとそれが日本の小学校だということを説明されなければ、パリか何処かのアパルトマンの扉だといわれてもまったく疑わないはずだ。階段教室形式の音楽室もわたしには新鮮に見えた。そして三ヶ所ある階段の木製の手摺、これはよかった。トープ色といったらよいのか、油を塗ったようにつやつやと照り輝く手摺はいまでも偶さか夢に見るくらい美しかった。
しかしわたしの記憶はこのあたりから曖昧になってくる。コルク張りの図書室があったと思っていたが、今回この文章を書くにあたって、この小学校の「創立百二十周年記念誌」を調べてみた。竣工当時の内部レイアウトを見ると図書室が一階になっている。わたしが通学していた当時その教室は工作室として使用されていた。わたしの記憶では図書室は二階か三階にあったはずなので、ということはわたしの記憶にある図書室は竣工当時のものではなかったことになる。
なにごとも調べてみないとわからないものだとつくづく思ったが、その校舎が今ではとんでもない馬鹿げた意匠のものに建てかえられてしまった。なんでこのような幼稚な建物でなくてはならないのだろう。べつに国会議事堂みたような校舎を建てる必要もないが、かといってこれでは幼稚園ではないか。「続続雨天郊遊」で建築物の権威についてふれたけれども、こんな愚民政策的な器の中で教育される生徒はたまったものではない。