蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

尼采哲學

2005年06月21日 06時12分46秒 | 彷徉
むかしむかし、わたしが学校に通っていたころ、ニーチェを読まなきゃ哲学を語れないといった雰囲気がまだ少し残っていた。そこでわたしも岩波文庫の『悲劇の誕生』を読んでみたのだが、正直なところなぜこの本が画期的なのかさっぱりわからなかった。
ギリシアの精神性、プラトンやアリストテレスに代表されるロゴスの支配する世界。明るい太陽のもとギュムナシオンで競技にいそしむ健康的な若者。シュムポシオンでの詩や討論競技、今流にいえばディベートということになるのだろうか。総じてギリシアは十九世紀まで西ヨーロッパ人にとってアルカディアであり、精神的理想郷だったようだ。
古典文献学者ニーチェはこれに対して、この本で「そうではないんだよなあ」といったわけである。だから画期的なのだ。ヨーロッパ人の精神的ハイマートであるアルカディアとしてのギリシャ、しかし現実のアルカディアは泰西名画にあるような羊飼いの少年が愁顔で夕暮れ迫る草原に佇んでいる、そんな牧歌的なところなどではない。からからに乾いた石ころだらけの不毛の地だという事実をたたきつけられたようなものである。今となってはそれほど突飛な主張であるとも感じられないのは、わたしたちがニーチェの言葉「神は死んだ」を聞いた後の世界に生きているからなのだ。大衆化したニーチェの箴言にすっかり慣れてしまったからなのですよ。もっともニーチェがこのような状況を目にしたならば恐らく卒倒してしまったに違いないと思う。大衆化こそニーチェのもっとも嫌ったものだから。わたしが教わった先生はニーチェを狂人であるとはっきり言っていたけれどもさらに、「時として狂人とて真実を語ることがある」ともいっていたっけなあ。
ニーチェの思想の中にÜberMenschというのがある。日本語にすると「ウルトラマン」。ニーチェのいうウルトラマンは永劫回帰する「生」を生き抜く強靭な精神力を持った者をさしていう。この永劫回帰ってのはそっくり同じ人生が永久に繰り返すってんだから、普通の人間にはとても耐えられないだろう。少なくともわたしには絶対に耐えられない。だからわたしはウルトラマンにはなれない。
ウルトラマンといえば実相寺昭雄監督、この人の担当したものは面白かった。あれはウルトラセブンのときだったか、ウルトラセブンとバルタン星人が江東区あたりの木造アパート二階の一室で丸い卓袱台をはさんで対峙するシーンは鮮烈だった。ガラス窓のそとからは夕日が差し込んでいたと思う。異星人との対論では明らかにウルトラセブンのほうが分が悪かった。いかにも実相時監督らし演出。
話をもどして(っていつもこんな展開だ)、ニーチェだった。ニーチェは今では専門家以外には誰も省みはしない。「誰も」という表現はちょっと言い過ぎかもしれないが、昔ほどの人気はない。さて十九世紀から二十世紀の初頭にかけて注目された天才的古典文献学者という評価はこれからも変わらないとしても、はたして哲学者としてこれからも評価されるのだろうか。そもそもニーチェは哲学者だったのだろうか。わたしは違うと思う。少なくともアフォリズムを連発するだけでは職業的哲学者とはいえない。

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