真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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(その二)ロバート・アルトマンの平らな街の猫と犬 傑作『ロング・グッドバイ』

2009-08-25 | ロバート・アルトマン




(その二)


映画『ロング・グッドバイ』でアルトマンは、レイモンド・チャンドラーが創造した50年代の英雄フィリップ・マーロウを、現代=70年代に移し変えてまるでハードボイルドの英雄らしからぬエリオット・グールドを配役している。初公開時にチャンドラー・ファンは激怒したが、実はその仕掛けにこそアルトマンの意図があった。

冒頭でマーロウは現代のロサンゼルスに眼覚める。アルトマンは本作のマーロウを「リップ・ヴァン・マーロウ」と呼ぶが、これはアメリカの浦島太郎とも言える「リップ・ヴァン・ウィンクル」をもじったもので、木こりのリップが森で居眠りから目覚めると時代が変わっていたという物語である。そんな「リップ・ヴァン・マーロウ」は猫に起こされるのだが、彼はこの時から最後までずっと無精ひげの寝ぼけ眼であり、映画そのものが寝起きの感覚というか、マーロウの酩酊した様子に同期した浮遊感覚が付きまとう。知らぬ間にタイムスリップしていることに気づかないまま、まるで夢遊病患者のごとく彷徨い、独り言を呟き続けるマーロウは、まるで夢と現実、過去と現在の狭間を彷徨っているかのようである。

1950年代からタイムスリップしたフィリップ・マーロウが彷徨う「73年のロサンゼルス」には無関心が支配している。60年代のカウンタカルチャーが敗北したあと、誰もが他人がどうなろうと知ったこっちゃないというような気分が蔓延しているのだ。アルトマンはマーロウが代表する旧価値と個人主義が蔓延する刹那的な現代を対比する。マーロウは時代遅れのヒーローで、ただ独り親友のテリーをかばい続けて、結果、複雑に捩じれた事件に巻き込まれていく。




アルトマンは何故、原作ファンの怒りを買ってでも現代に脚色したか。映画版『ロング・グッドバイ』の時代背景は70年代初頭。つまり「革命の60年代が終わったあとのアメリカ」である。60年代に爆発したカウンターカルチャーはウッドストックを頂点に、タカ派のリチャード・ニクソンが大統領に就任したことでひとつの終止符を打った。そうして始まった70年代のアメリカ社会は疲弊して無力感のなかで白けていた。そんな1973年のロサンゼルスのどこか投げやりな雰囲気のなかにアルトマンは旧価値を代表するヒーロー「フィリップ・マーロウ」を放り込む。「昔は良かった」、そういうノスタルジーからではない。そして過去と現在を対立させ、同時代を批評することで「古き良き時代」に「長いお別れ」を告げるためである。そんなマニアックで奇想天外に過ぎる試みが初公開時には理解されなかったのである。

アルトマンの「リップ・ヴァン・マーロウ」は、人と人が繋がっていた「過去」から「現代」へと迷い込んできた野良犬であり、個人主義と無関心が蔓延する現代を彷徨う「過去の人」である。それ示すのが入念に仕込まれたディテールの数々であり、アルトマンはたとえば、マーロウにクラシックカー、親友テリーには現代的なスポーツカーを愛用させる。リップ・ヴァン・マーロウはどこへ行っても浮いた存在で、理解しあえるのは、40年代のハリウッドスターの物真似ばかりしているお人好しの孤独な守衛や、アーネスト・ヘミングウェイのごときアル中で不能の作家だけである。彼らは皆、場違いな男たちで、時代の変化に戸惑うばかりの「負け犬」たちなのである。

(その一)に書いたように、映画の冒頭は「フレイ・フォー・ハリウッド(ハリウッド万歳)」のメロディが流れるなかに浮かび上がる「ハリウッド地図」である。つまりここに描かれるロサンゼルスはイコールでハリウッドである。そして登場人間たちも「ハリウッド人種」なのだ。本作の構造を単純化するとこうだ――探偵マーロウが現代のハリウッドを彷徨ったすえに難事件が解決するとラストもう一度「ハリウッド万歳」が聞こえてきてその円環を閉じる。この構造を通じてアルトマンは「夢のハリウッド」「無垢のアメリカ」への挽歌を歌っている。

そんなアルトマンが育ったのは大恐慌時代である。若き日に第二次大戦に従軍したが、戦勝国となったアメリカでは、米ソ冷戦、核戦争の恐怖、朝鮮戦争、赤狩りのパラノイアが国中に蔓延して、その性格を変えていった。
アルトマン世代が若き日に親しんだであろう「夢のハリウッド=アメリカの夢」もこの時代に廃れていく。しかし、いや、そもそも「夢」などはじめから存在しなかったのではないか? 俺たちは「アメリカの嘘」に騙されていただけではないのか? そんな不信と疑念が、たとえば、サム・ペキンパーら戦中派世代の頭を重くもたげはじめる。マーティン・ルーサー・キング牧師を筆頭とする黒人たちが公民権運動を開始し、ロックンロールが登場、ビート作家たちはアメリカのアンダーワールドを描き出し始めていた。

続く、60年代は若きケネディの大統領就任から幕を開くが、アメリカは冷戦を背景に、ベトナム戦争に首を突っ込み、キューバ危機を迎え、ついに大統領の暗殺を目撃することになる。中盤には次世代の学生たちの間からベトナム反戦の声が沸き起こり、時代は荒れに荒れていく。そんな時代背景のなかで戦中派アルトマンが世に問うたのが革新的な反戦ブラック・コメディ『M★A★S★H』(70)。これで時代の寵児となるが、このときすでに46歳。これで鮮やかにハリウッドの戦争映画の嘘を暴き出して笑いのめし、『ギャンブラー』(71)で古い西部劇に描かれた開拓神話を覆したあとに続けて発表した『ロング・グッドバイ』(73)では古いハードボイルドを現代のハリウッド周辺に移し変えて、かつてこの街で生まれた「映画」への「長いお別れ」を試みた。それは同時に、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったアルトマンの「俺のキャリアは“ハリウッドの死”から始まるのだ」という覚悟と決意の意思表示でもあったのである。



全体が白昼夢のような本作においてことに脳裏に焼きつくのはロサンゼルスのしっとりとした夜景である。作家ロジャー・ウェードの妻アイリーンが乗る車を追ってひた走るマーロウだが対向車に跳ねられて倒れる。遠のく意識に合わせて溶けていくフォーカス。その映像に重なる「ロング・グッドバイ」のメロディ……まるで映画が終わったかのような印象。おどけ者の迷探偵はここで哀れにも息絶えたのかもしれない。そう思えなくもない。実際はこのあとマーロウが病院で目覚める場面に繋がる。病室の窓から差し込む日の光が室内を白茶けて見せる。白衣姿のマーロウは「頭は大丈夫」などと呟きながら起き上がる。そのとき同室の隣には全身を包帯でぐるぐる巻きにされて顔も見えない重傷患者が寝ている。あの患者こそ実際のマーロウで、眠りから目覚めたマーロウは、幽体離脱したマーロウの姿かも知れない。瀕死の患者はマーロウに小さなハーモニカを託し、そこへ看護婦が入ってくるとマーロウはその患者を指して「彼が有名なフィリップ・マーロウ氏だ」と説明する。彼らしいおどけたジョークだが、しかしそのものずばりの言葉として真に受けて見るならちょっと映画の解釈が変わってくる。奇抜は想像だが、映画の冒頭に戻れば、本作はマーロウが猫に起こされて目覚める場面で始まり、車に跳ねられて暗転するところで一度終わる。続く「二度目の目覚め」からを「第二部」の始まりと考えることもできるのではないか。




以後、事件はあれよあれよと解決していく。真相が明らかにされ、マーロウは信じていたテリーに利用されていたことが分かる。彼はメキシコで生きており、自殺した作家ウェードの妻を愛人にして、彼女に遺産が入って満足だ、俺はすべてを手に入れたんだと言う。「俺は猫を失ったよ」と呟くマーロウに対してテリーは満足気な笑みを浮かべながら、「この気分は負け犬のお前には分かるまいな」と言いのける。原作ファンならテリーの言い草に唖然とするが、さらに「射殺場面」へと続く。それは、偽装死を装い実はのうのうと生きていたテリーに対する、車に跳ねられて死んでしまったマーロウの亡霊による「怒りの一撃」のように思えなくもない。

ラスト。メキシコの並木道を超望遠で捉えたショット。黄色いジープに乗ってテリーに会いにやってきたアイリーンとマーロウがすれ違う。「亡霊のマーロウ」は彼女を無視する。アイリーンは「いますれ違った男」を曖昧に振り向き、また走り去ると、「亡霊のマーロウ」は「包帯のマーロウ」から譲り受けたハーモニカを吹きながらおどけて、どこへともなく去ってゆくと、音楽が流れ出すとそれはあの冒頭にも流れた曲――バズビー・バークレーの往年のミュージカル映画『聖林ホテル』の主題歌――「ハリウッド万歳」が皮肉に歌い上げる「君もここでならスターになれる」。冗談じゃない、そんなアルトマンのため息が聞こえてくるような結末……そんな風にも捉えることが出来なくもないのではないか。

かつてのハリウッド映画が象徴した「栄光」や原作者チャンドラーが書いた英雄マーロウの「騎士道精神」。アルトマンはここでそれらが、1973年の現代においてとっくに死に絶えた価値観に過ぎないと宣言し、「長いお別れ」を告げようと試みた。そう捉えるのならば、おどけ者のごとく歩み去るあのマーロウのおどけた後ろ姿も――一見すれば親友を撃ち殺した割りに陽性に過ぎると映るかも知れないが――せめておどけて見せるほかの術がないからそのように振舞うのであり、だからそこに見て取るべきはマーロウの背中に滲じむ得も言われぬような諦念なのだ。アルトマンは自らの内に秘めた現代への失意をマーロウの背中に重ねながら描いていたに違いないのであり、であれば原作ファンを改悪と激怒させた大幅な設定変更も、すべてその感慨を描き出すために用意された計算に基づくものであったはずなのである。




話しが妄想的に脱線したので、ここで唐突に巻き戻す。錯綜し混沌としたアルトマン映画だから、そんな展開も許されるだろうという甘えからである。

『ロング・グッドバイ』という映画で最も強く印象に残る場面と言えば――誰もが語るように――冒頭数分間に渡るマーロウと飼い猫のやり取りだろう。猫は機嫌を損ねて家出してしまい、それきり出てこないが、ラスト、マーロウのセリフの中に再度登場する。あの「俺は猫を失ったよ」というセリフは、猫を探すのを止めて親友を取った失意を表してあまりある。だが、ここで言いたいのは、この映画、ちょっと奇妙に思えるほどに猫と犬が頻出する作品である、ということなのだ。猫は冒頭の一匹だけだが、あちこちにしつこいほど野良犬が登場してくる。よく考えてみればマーロウ役のエリオット・グールドだって犬顔である。彼扮する探偵の仕事は、飼い主たる依頼主の要請に従い人や土地の一部始終を犬のごとく嗅ぎ回ることであり、いわゆる調査の過程で危機をひょうひょうとすり抜けつつ多くの人と関わり、ついほだされて時に感情移入してしまうこともあるが、そこにマーロウのハードボイルドに徹っしきれぬ甘さがあり、その弱みにつけこんで利用したのが他ならぬ親友のテリーであった。

この映画に描かれるマーロウはチャンドラーが描いた「強い男」ではないが「優しい男」である。彼は人々を見つめ、おせっかいを焼く。猫のために深夜餌を買いに出かけ、隣人のためにブラウニー・ミックスのお使いもこなす。そんなマーロウを見ていると、探偵という職業が、悪に正義の鉄槌を下す仕事ではなく、何より人の世話焼きが仕事なのだと思えてもくる。人々の事情を知り尽くし、主人の意を汲み、行動する忠犬、それが探偵なのだと。アルトマンはここで、ハンフリー・ボガートらが主演した「ハードボイルド映画」が描いた「探偵像」の虚構を暴いており、「映画の探偵」を等身大で現実的なひとりの人間として解き放っている。しかし、等身大となった探偵のマーロウは、なんとうら寂しき男であるだろう。移り気な猫どもに振り回されたあげく用が済めば「ハイ、さようなら」とばかり、あとは赤の他人でしかない。独り残された「忠犬」は「野良犬」となってフラフラとあてどなくどこかへ歩み去るほかはない。映画『ロング・グッドバイ』は、そんな「猫的人間」と「犬的人間」の関係についての物語だとも言えるのである。

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劇中に登場するマーロウの以外の「犬的人間」の代表はスターリング・ヘイドン扮する作家ロジャー・ウェード。そして古典俳優の物真似ばかりしている門番、間の抜けたやくざの子分もそうだ。彼らは皆、野良犬であり、もの寂しくどこかみじめなその姿は、映像を始終徘徊している野良犬たちの姿と重なってみえる。

「猫的人間」はどうだろう。映画は、猫に振り回されたあげくに振られた犬たるマーロウの姿から幕を開けるが、順に隣人の女たちや刑事たち、アイリーンもヤクザの親分もべリンジャー医師も、そしてテりー・レノックスも、皆、気まぐれな猫的人間像である。彼らは揃いも揃って自分本位な移り気な性格で、その振る舞いに犬的人間どもは傷つけられているようだ。こうやって見ていくと映画『ロング・グッドバイ』は「猫にあこがれて裏切られる犬」の物語もしくは「自由に憧れてしかし自由には慣れないみじめな犬」たちの悲劇の物語のように見えてくる。探偵は自由業だが、主人に尽くす犬でしかない。そんないかにもアルトマン的な人間観察が浮かび上がってくるのだ。




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マーロウの哀れな野良犬キャラクターは、『ギャンブラー』の西部開拓者や『ボウイ&キーチ』の大恐慌ギャング、『ビッグアメリカン』の伝説の男バッファロー・ビル、『ポパイ』のポパイ、『名誉ある撤退』のニクソン、『ストリーマーズ』の古参兵士、『ゴッホ』のゴッホ兄弟や『カンザスシティ』の愛する人のために犯罪に手を染める白人女性などに通ずる、非常にアルトマン的な人物像である。遺作『今宵、フィッツジェラルド劇場で』にはマーロウを思わせる探偵もどきのユニークな警備主任が登場させていたが、彼らはみな浮世離れしていて、繊細なのに鈍感で、役立たずの道化のような存在だ。そんな彼ら彼女らが、生き馬の眼を抜くアメリカ社会を生き抜くことは難しいだろう。アルトマンは美男美女でなくこれといった特技を持たぬ「等身大の人々」を映画の主人公に据えることで「ハリウッド栄華」の「夢の世界」を破壊し「現実」の中に奪い返しているのだ。現在では珍しくない映画の作り方かも知れないが、70年代当時のメジャー映画としてはまだまだ珍しいものだった。
 その作法を極限に推し進めたのが『ナッシュビル』『ウエディング』『ショートカッツ』などの群像劇であり、彼一流の観察の眼が光った。アルトマンの群像世界において人と人は時と場所を共有しても基本的に他人に対して無関心である。会話はすれ違うばかりで他人なんかそっちのけで勝手にしゃべりまくるその世界ではコミュニケーションの成立などまれなことだ。誠意ある人間ほど傷つき、生き残ることもできないような、そんなまこといい加減な世界なのである。


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アルトマンは人間という生き物に宿命的な意思疎通の必要と困難のドラマを生涯に渡りスケッチし続けた。その世界は一見サラリとしていて、間が抜けていて時にひどくユーモラスなのだが、ふとそれが他人事でないと気付かされるとゾッと背筋を凍らせる。人間を猫と犬に見立てるそんなアルトマン一流の仕掛けがもっとも「映画的」な効果を上げて「日常」は異化することに成功したとき、彼の映画は僕たちが生きる世界の映し絵となる。人間がいかに奇妙で同時に平凡な存在で、いつも他人に関心を持ち、しかしそれがあくまで主観的な興味関心から出ることがなく、愛し愛されたり傷つけ傷つけたりしながら右往左往するばかりで、他者は永久に他者のままであり、自分の扱いすらもままならず、結局どう転んだところで自分本位の気まぐれから抜け出ることが出来ない。宿命的な孤独から逃れようと必死になって自らの妄想や幻想にしがみついて生き、そして死んでゆく儚い存在。アルトマン映画は、そんなやっかいで、だからこそ奇妙にいとおしい人間という生き物の生態観察なのだ。



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『ロング・グッドバイ』でアルトマンはチャンドラーが描いた人間の孤独をハリウッド=アメリカの死と重ねて映画化したが、いまひとつ原作となった映画作品があるのだ。キャロル・リードとグレアム・グリーンの『第三の男』はウィーンの街へ訪ねてきたアメリカ人がそこで親友の死を知る。彼の愛人に想いを寄せるうちに、やがて友の生存を確信するのだが、彼は戦後ヨーロッパの廃墟に暗躍する犯罪人になっていたという物語。戦争がもたらした精神風土の崩壊が、男たちの友情と男女の愛を切り裂いていく様を痛切にあぶりだした作品である。そのプロットはもちろん『ロング・グッドバイ』のラストシーンがこの『第三の男』へのオマージュなのは一目瞭然である。
そんな複雑な構造を持つ本作は、当時理解されなかった。いわば実験的でマニアックな作品であり、ある意味で難解とも言える。にも関わらず魅了される者があとを絶えないのは何故だろう。ヴィルモス・ジグモンド撮影のパステル画調の色彩とカメラの動作、アレンジを変えながら繰り返し演奏されるジョン・ウィリアムズの主題曲、ハワード・ホークスの『三つ数えろ』(これもチャンドラー原作)で知られるリー・ブラケットによる脚本の見事さが大きいが、何より、それらを統括するアルトマンの腕前に酔わされて抜けられなくなるからだろう。

マーロウ役のエリオット・グールドは彼の最高作。時代に取り残された捨て犬の哀しさと優しさを演じて完璧。入水自殺するアル中作家ウェイドに扮したスターリング・ヘイドンは赤狩り時代の裏切りの記憶により実際にアルコール依存症に苦しんでいたというが、粗暴な外見に隠した繊細な魂を体言して一世一代の名演となった。怪しげな医師役にヘンリー・ギブソン、ヤクザ役に映画監督マーク・ライデルの起用したこともユニーク。背の低い彼らが、背の高いグールドやヘイドンに脅威を与えるのである。「ニーナ&フレデリック」の歌手ニーナ・ヴァン・パラントを夫を裏切る妻役に、元ヤンキースの野球選手ジム・ボートンをテリー役に配したあたりにも素人を巧みに扱うことに長けたアルトマン演出の冴えが窺え、先日急逝したデヴィッド・キャラダインとアーノルド・シュワレツェネッガーまでもが顔を見せる。
映画の内容は哀しくて寂しいが、アルトマン映画の最大の何よりのご馳走とは、彼ら役者たちが披露する「生きた人間の振る舞い」であり、だから繰り返し再会したくなるのである。








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