真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

北沢夏音の『getback SUB!』のカバーが想わせた、さまざまなこと

2011-10-30 | 作家




北沢夏音さんによる70年代マガジンカルチャーへのオマージュは、
ピーター・ボグダノヴィッチとラリー・マクマートリーの
名作映画『ラスト・ショー』(71)とも通ずるような本なのだろうか。
実はまだ僕の手元にはないのだが、この表紙は、さわやかで、しかし同時に、どこか寂しい。

誰もがすぐザ・ビートルズのポール・マッカートニーの歌を連想するだろうタイトル。
その語感に込められているのは、
もう戻ることはないであろう友に、呼びかけた声の、あの少し気弱で切実な響きだろうか。

浅井慎平さんにょる、あの潮風の匂いがするような、
しかもそれが、〝カリフォルニアのそれ〟であるかのような、
心地よく、適度に、センチメンタルな海の写真。

ありふれた海のようにも見える。
いや、特に海に思い入れがない僕にとって、ほとんどの海は、
ただ水と空があるだけの、
底なしの孤独のなかへと引きづりこまれそうな、美しい不安でしかないのだが。

あのころ観た海と空が出てくる印象的な映画たちは、みな僕にそう感じさせた。
古くは『太陽がいっぱい』『冒険者たち』『気狂いピエロ』……
違う、それらよりも、やはり『ロンググッドバイ』の海だろう。
あの映画に登場する、老いて孤独な小説家が、暮らしていた白い家の向こうに拡がっていた、あの海と空。
または、『さすらいのカウボーイ』。
いまだ海を見たことがなく、目の前の川の流れをみつめながら、きっといつか海を見たいと、
そうつぶやきながら、しかし殺されてしまった、あの青年が夢想していたであろう海と空。

それは僕などが想像するより、もっともっと晴れやかな海のイメージであったかも知れないけど、
映画のなかに、その海の拡がりは、ついに最後まで登場してこなかった。

これらの映画を、撮影したのは、ヴィルモス・ジグモンドである。
浅井慎平さんの写真は、ジグモンドが撮影した映像と少し似た雰囲気がある。

白のさわやかさや、そのまぶしさ、潔癖さ……。
僕にとってそれは、現実を忘れてしまいたいと願う者の、夢の反映に思われる。

青は、この世で一番美しく、そして恐ろしい色である。
白と青は、僕には、底なしの色彩であり、
その底のなさに「さわやかさ」などゆうに越えた、深い哀しいばかりを感じとってしまうのである。

青や白は、最期のときにこそ相応しい色彩である。
死の哀しみの色……ホットではなく、クールな色彩なのである。

七〇年代の幕開け……その時間……それは「はじまり」ではなかった。
「長いお別れ」の「はじまり」であり、「終わり」の「はじまり」だったのではなかろうか。

過ぎ去りゆく時との、「別れ」を惜しみ、去りゆく友の靴音に耳をすます……。
やがてその音はいつか、幻想の音となって、ふとかかとを返し、徐々に近づく音を、耳のうちに響かせる。
戻ってくる、そう錯覚する。
しかし、いくら待てども、戻ってはこない。
もう二度とは戻らない。そうだ、あれは、頭のなかで響いただけの幻想の靴音に過ぎないのだ。

「長いお別れ」は、我に返るまでの、あの短くて「長い瞬間」を差している。
現実と幻想が混濁した、あの〝夢の流れ〟……。

僕にとって、忘れようともけっして忘れられない幻のような人物が、跋文のなかにいる。

この本の表紙は、著者たちの込めた想い以上に、うら寂しい。
その寂しさに抗うことはできない。
寂しさを受け入れた、その先にのみ、この書籍が夢想するであろう「未来」も、あるのだと思える。

繰り返すが、僕はまだ、「この本」を手にしてはいない。
大幅な加筆を加えられたとされる文章も、当然、読んではいない。

にも関わらず、
なにか得体の知れない感慨を沸き起こさずににおられない、そんなカバーデザインなのである。
その現物を何回か目にしたことのあるだけの「季刊SUB」という伝説の雑誌。
これもまた、同様の雰囲気を持ったデザインが、施されていたような、そんな記憶がある。
曖昧な記憶が……。

いまここに書いているのは、夢、幻に似た、ただの決め付け、思い込み、そんな感想文にすぎない。
つまり、僕のたったいまの気分、たったそれだけのことの、反映にすぎない。

本、そして映画、音楽のみならず、すべての物という物は、
人と似て、中身あるもの、外観と一体のものである。

読むごと、眺めるごとに、異なった顔を見せる、そんな生き物ようで生き物にあらずの、
そんな、奇妙な存在、想いのかたまりなのであり、
外見が、その中身を反映して、同時に―ーここが肝心なのだが――つねに裏切られる。

ときに豊かで、ときに退屈で、気ままな友人のような存在。
ただ、そこにどこかに居てくれればいい。
僕のあまえた願望や妄執、そのすべてを、ありのまま反映してくれる。
反映の反映、反映の、そのまた反映の……
それは、永遠に鳴り続くかと思われた、
あの幻の靴音のように、長いお別れのときを、僕に告げてくれているのである。



   
   

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