真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

【リンク更新!】『80年代アメリカ映画100』~番外リンク集編~まだある80年代傑作映画(渡部幻)

2012-03-03 | アメリカ映画100シリーズ(芸術新聞社)
80年代アメリカ映画100』(芸術新聞社より発売中)の「番外編」です
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ポール・シュレイダーの『ミシマ』は、三島由紀夫を素材にしたビジュアルアートとして優れている。石岡瑛子がシュレイダーにくどかれて担当した美術は映画史に残る偉業であり、カンヌ国際映画祭で芸術貢献賞を獲得した。フィリップ・グラスの音楽、緒形拳、沢田研二、烏丸せつ子、横尾忠則をはじめとする日本の豪華出演陣。シュレイダーは凝りに凝っており、割腹に到る現在をリアリズム調、三島の過去をモノクロ、小説の映像化部分を極度に様式化したスタイルで描きわけていく。そんな本作はその内容よりも視覚性の優位にこそ見るべきものがあり、その点でこれは映像の実験に意欲的な製作者コッポラの作品でもあると言えるだろう。しかし残念なことに三島夫人からの許諾を得ることができず日本での公開は見送られた。→「本編」(『80年代アメリカ映画100』に収録)

※『ミシマ』について――石岡瑛子。「わたしが『ミシマ』でやった仕事を、日本人の目で見て判断しえもらえないのは、本当に残念です。自分でこっそり映画を上映しようかとも思いましたが、右翼団体から脅迫されてしまって・・・三島夫人の抗議はばかげています。彼女は論理的でもなければ、およそ知的な女性とも言えません。まったくの主婦感覚で、言うことがまるで感情的なんです。自分がホモセクシュアルの男性と結婚していたと思われたくないんでしょうね。まったくばかげたことです。先日、とある文芸評論家と話したんですが、三島が自殺する前は、奥さんは彼の小説をまったく読んだこともなかったそうですよ」(『ラヴェンダー・スクリーン』より引用)




トラブル・イン・マインド』に限らずアラン・ルドルフがつくる映画はなんとも奇妙である。クリス・クリストファーソンが自らのキザな個性をパロディ化し、ジョン・ウォーターズ作品で有名な怪優ディヴァインと対決するという作品だが、そのとらえどころない「変さ」は、多分にキース・キャラダインが受け持ってる。ここでキースは真面目だった男が悪に染まり次第にパンクをさらにマンガにしたような男に変貌していく様を演じる。キースはルドルフ作品の個性の体現者だったが、現在ルドルフは彼に匹敵する体現者を見つけられず、低迷している。80年代の最もオリジナルな作家としてのルドルフの映像は(これも奇妙なかたちで)人工的かつ様式的な世界観を構築している。その世界の住人たる登場人物はみな揃いも揃ってどことなく間が抜けており、その抜け方からえもいわれぬ切なさが滲んだときに初めて「ルドルフ・ワールド」は完成する。かように正体のつかめない曖昧さがルドルフの身上だが、彼自身その個性をもてあましているようなところがあり、ここに師匠アルトマンとは異なる彼の弱点があるのではないか。おそらく内容面では『チューズ・ミー』が、視覚的には『トラブル・イン・マインド』が――栗田豊通の見事な撮影が手伝い――最も完成形に近づいた作品だと言えるだろう。




LA大捜査線/狼たちの街』は、低迷期に入ったウィリアム・フリードキンが久しぶりに放った起死回生のヴァイオレンス映画である。死につかれた狂犬のごとき刑事の異常な捜査手法を描いているが、その遠慮呵責ない描写で、北野武の『その男、凶暴につき』に多大な影響を与えた(ラストシーンもそっくりだ)。『フレンチ・コネクション』などドキュメンタリースタイルを最大の特長としたフリードキンが、ここでは撮影にロビー・ミューラーを迎えて、LAの景観を美しく切るとりながら、まばゆい陽光の下で行使される数々の暴力描写――執拗に繰り返される顔面破損描写――で観る者を圧倒するのである。ウィリアム・デフォーがアーティスティックな偽札犯を演じ、新鮮な悪役俳優の登場を印象付けた。




コットンクラブ』は、やはり低調だったフランシス・フォード・コッポラが「起死回生の一作」を狙った大作である。だが、「第二の『ゴッドファーザー』」を期待する人々からの評判は悪かった。しかしそのことは本作の名誉を傷つけるものではなく、むしろコッポラがいまだ新しい試みに挑戦し続けていたことの証明になっている。「コットンクラブ」は1920年代のハーレムに実在したクラブで、時のギャングやハリウッドスターたちが集まる文化拠点であり、70年代後半における「54」のような存在だった。コッポラはここに交錯する群像模様をミュージカル・スタイルで描きつつ、十八番の華麗な暴力描写を絡めていく。たしかにコッポラの野心は生煮えで、ドラマの要となる人種問題の描写など説得力が弱く、主演のリチャード・ギアも精彩を欠いている。見所は、実在のアイリッシュ・マフィア、ダッチ・シュルツに扮したジェームズ・レマーのあくの強い芝居と、グレゴリー・ハインズが「死のタップ」を披露するクライマックス・シーン。「タップ」と「殺し」が不気味にカットバックするこの場面でコッポラの天才がようやく息を吹き返し、流麗なロマンティシズムが画面に花開いていく。この絢爛たる映像の切れ味と全編を彩るジョン・バリー監修のジャズの数々を堪能できるだけで『コットンクラブ』には一見の価値があるだろう。




マイケル・チミノは超大作『天国の門』で老舗ユナテッド・アーティスツ社を倒産に追い込み、以後のハリウッドを骨抜きにした張本人と目され、再起不能をささやかれた。しかし、イタリアの大プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスがチミノの才能を買って『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』で復帰をとげるまでに、そう長い時間はかからなかった。チミノはアメリカのマイノリティがいかに苦渋を舐めてきたのかに関心を抱いてきたが、本作では、ポーランド系刑事(ミッキー・ローク)とチャイニーズ刑マフィア(ジョン・ローン)の抗争を描いて、相変わらない「アメリカへの嫌がらせ」を展開。この壮大な暴力絵巻は、よもや「アート」などというヤワを寄せつけぬ巨大な映像の力で観る者を圧倒する。アメリカに中国を再現するチャイナタウンの迷宮を、さらにオールセットで再現するという蛮行に、チミノの荒ぶる活動屋魂が炸裂するのである。以下、チミノのインタビュー記事から引用。
 「スタンリー・ホワイトにしても、ジョーイ・タイにしても、彼らは鉄道建設のために連れて来られた大勢の移民たちとは一味違った、よりアメリカ人らしい役柄を演じている。アメリカという国は、基本的には人種差別ができない国なのだ。というのも、アメリカは外国人が集まってできた国だからだ。いったい誰が純粋なアメリカ人といえるのだろうか?彼(ジョーイ・タイ)はスタンリーと同じ境遇にいる人間である。彼らは現代の戦士なのだ。興味を持った全く違うものに対して、全く違う行動を起こすのだ。そして、彼らは互いに立ち向かっていったのである。中国人はアメリカ人にとても似ているところがある。多様性という点において、彼らは全く同じである。中国人はズバ抜けて天分豊かな民族だ。彼らは働くことにおいて、限りない才能を持っている。そして、アメリカ人の文化のすべてを包み込んでしまうような芸術的な伝統も持っている。私は、アメリカに住む中国人は向こう一〇年くらいでこの国において大きな文化的影響を与えるようになるだろうと思う」キネマ旬報 NO928より.【日本版予告編】http://youtu.be/HZemMn574Hk

 

ケヴィン・レイノルズの『ファンダンゴ』は80年代に多数制作された「60年代回顧もの」の隠れた秀作である。そうしたなかの一本『再会と時』(ローレンス・カスダン)に出演しながらカットされてしまったケヴィン・コスナーがここでは主演をつとめる。タイトルの「ファンダンゴ」とは「バカ騒ぎ」のこと。本作では「60年代」そのもののことで、その終焉と向き合う青年たちを描いたロードムービーである。ベトナム戦争ただなかで大学を卒業しようとしてる仲間たち。そのうちの一人が結婚を目前に不安にかられているのを見とったコスナーが「最後のバカ騒ぎ」を提案、ドロップアウトの旅に出る。ラストの感傷も心地よい。2009年の傑作コメディ『ハングオーバー』は本作を下敷きにしていると思えるが、どうだろう。




90年代のアメリカ映画界を席巻した「インディーズ・ルネッサンス」。その前触れは80年代中盤にあり、コーエン兄弟の『ブラッドシンプル』、そしてガス・ヴァン・サントの『マラノーチェ』はその代表的な1本である。50年代のビート作家やアンディ・ウォーホルらのアヴァンギャルド映画、そしてコッポラの『ランブルフィッシュ』から影響を受けたガス・ヴァン・サントの原点がここにある。ニュークィア・シネマの代表作であり、先駆的な本作なくして、『ポイズン』のトッド・ヘインズ、『恍惚』のトム・ケイリン、『リビング・エンド』のグレッグ・アラキらの台頭はなかったかもしれない。




「ローリングストーン」誌の「80年代映画ベスト1」に選ばれた『レイジング・ブル』で頂点に立ったマーティン・スコセッシの隠れた傑作といえば『アフターアワーズ』を置いてほかにはない。本作でスコセッシは「インディーズ・シーン」に返り咲き、カンヌ国際映画祭で監督賞を獲得した。ヤッピーのコンピュータ・プログラマーが一夜の刺激を求めて、場違いなソーホー地区に迷い込み、味わうことになる神経衰弱ぎりぎり悪夢が、超高速の展開のなかに描かれる。80年代初頭のニューヨークのナイトライフが魅惑的に描写されて、さながら「もう一つの『タクシードライバー』」である。ミヒャエル・バルハウスの超絶テクニックが冴え渡りうなりをあげる撮影、ベートーベンからラテン音楽、ハードコアパンクに至る音楽のすべてがスコセッシ印。ソーホーをうごめく魑魅魍魎のアーティストたちや、ロザンナ・アークウェット、リンダ・フォレンティーノ、テリー・ガー、ヴァーナ・ブルームら個性派女優が演じるエキセントリックな女性像にいちいちリアリティがあり、彼女らに翻弄される主人公の滑稽さは、カフカをオーソン・ウェルズが映画化した『審判』を彷彿とさせる。




不眠に悩む都会人の姿はきわめて「80年代的」な風景でありカルチャーのひとつだったといえる。80年代最高のコメディ監督ジョン・ランディスの『眠れぬ夜のために』は、スコセッシの『アフターアワーズ』とともに「不眠症時代」を代表する作品である。スコセッシのNY型神経症的コメディと異なり、ランディスがLAを舞台に描いたのはボンヤリと頭のゆるい巻き込まれ型サスペンス・コメディである。主演は不眠症顔のジェフ・ゴールドブラム、謎の美女はミシェル・ファイファー。デヴィッド・ボウイ、ドン・シーゲルなどカメオ出演も豪華。こんな映画こそ座右に置いておいて「眠れぬ夜に」何の気なしにデッキにセットしたくなる。




80年代は50年代を超えるSFとホラー映画の全盛時代だったと言える。メジャーからマイナーまで膨大な量の傑作・駄作がつくられ、レンタルビデオの普及がその隆盛を後押ししたのである。『ダークスター』『エイリアン』『トータルリコール』の脚本で知られる奇才ダン・オバノンはこの時代に活躍した映画人のなかでもひと際印象に残る映画人のひとり。彼の監督作『バタリアン』は実に風変わりなゾンビ映画である。軍部が極秘に開発した化学薬品が事故により外に漏れて甦った死体=ゾンビはなんと「走る」のである。次々に喰われゾンビ化していく人々。真っ二つに割られた標本の犬やミイラ化した老婆がぴくぴくと動き出すナンセンスがイキイキと描かれてこれほど愉快な作品にはなかなかお目にかかれない。B級にこだわりA級を否定し続けた蝶ネクタイのホラー紳士オバノンだったが、残念なことに2009年この世を去った。

次回に続く。(渡部幻)

芸術新聞社の「アメリカ映画100シリーズ」

">『ゼロ年代アメリカ映画100』(渡部幻、佐野亨編)発売中

">『80年代アメリカ映画100』(北沢夏音監修、渡部幻主編)

">『90年代アメリカ映画100』(大場正明監修、佐野亨主編、渡部幻編集)3月発売


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