真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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増殖を続けるのに処理の追いつかない悪夢状況

2014-06-16 | 雑感


 現在、映画、文学、音楽、美術、漫画、雑誌もろもろの歴史に触れる機会は、減ったのか増えたのか。
 時が進み、歴史になるたび、必見作品が山積みになって、収集のつかない時代である。もろもろのアーカイブ状況が整い、充実すればするほどに、もっともっと知らねばならぬ、という強迫観念だけいや増していくのである、
 人によってはパンクしてしまうだけだろう。
 ハードルは上がる一方であり、作品がそうしたニーズに答えれば答えるほど、専門性が上がり、大衆性は失われていく。
 もはや不治の病ごとくだ。
 
 一回の映画鑑賞または読書が人に与える経験密度はどうだろう。
 例えば一本の映画が、一回の鑑賞で、一人の観客に残すインパクトは、1950年代と2010年代では比較にならないほどに軽いものになっていると思える。80もしくは90年代と今を比較しても与えられる喜びも痛みははるかに弱まっているように思えるのだがどうだろう。
 両親世代の映画への思い入れはいまと比較にならないと感じたことがある。
 80年代に2000席近いキャパの有楽座と日比谷映画で40~50年代の名作を再上映したとき、老人を含む白髪の観客で超満員で立ち見まで出ていた。そして終了後に耳が割れんばかりの拍手が沸き起こった。当時で40年ほど前の映画を想い続けて駆けつけた年老いた人々の熱気で場内は暑かった。映画がそんな熱狂を引き起こすことはもう起こりえないだろう。映画をめぐる状況の形が変わったからだが、ではそれでも熱狂したい人の想いはどう処理すればいいというのか。


 
 処理も何もないのだが、一回性の熱狂が失われた代わりに、物好きは繰り返し観ることで補っているかもしれない。デヴィッド・プレスキンのクローネンバーグ・インタビュー(柳下毅一郎訳)が面白かった。
 90年代初頭の取材(『裸のランチ』のとき)。
 プレスキン「この1ヶ月というもの、わたしはあなたの作品をすべて、2回ずつ、家でビデオで見直していましたが、そして何度もスタート、ストップを繰りかえせるし、『スキャナーズ』の頭爆発シーンを繰りかえし再生できるのはとてもいいものでしたが、あれは本当に美しい」
 クローネンバーグ「ああ、そうだとも」
 プレスキン「まるでキューブリックの、『博士の異常な愛情』の最後での原爆シーンのようでした。ですがそれでもわたしは映画館に行って、暗闇に座って、イメージが大きく投射され満たされ、宅急便からの電話なんかに邪魔されないほうがいい。わたしは浅くではなく、深く集中したいからです。(略)映画の力のひとつは、観客が、文学とは違い、時間をコントロールできないことにあるんです。文学では、われわれは立ち止まり、飛ばし、ページを戻ることができますが、それに対し映画は〝なされる〟ものです。そのせいで受け身のイメージ消費者という疑いを抱く人もいますが……」
 クローネンバーグはこれに対し、
 「だがビデオでは、繰りかえすが、興味を持てない場所は飛ばして、おもしろい場所だけに集中できる。これは本の好きな文章やシーンだけ読みかえし、退屈な章は飛ばしてしまうのと似ている。集中を増すことになるのか減ずるのかは、実際、大いに議論できるだろう。(略)」「今では映画を持つこともできる。そして思うが、究極的いんは、あるいは一度の体験と替えられないかもしれないが、だが10年、20年のうちには、20年間映画に触れつづけることができたら、自分の引き出しにあって、いつでも取りだして観ることができるならあるいは究極的には、深く関与することができるかもしれない。そして映画監督のコントロールがいくらか、責任がいくらか剥ぎとられることは、映画を観る者が長い時間のあいだに得る関与によって埋めあわされるだろう」


 
 まさに実現しているし、インターネットが加速させたと言えるが、しかしそもそも、本と違ってソフトは、20年後も持つのか。
 ビデオ、LD、DVD、ブルーレイと変わるたびにマニアは買い換え、そのたび自分のその作品への愛情を確認したりするという、ほとんどマゾヒスティックで変態的な喜びの世界へと突入している。
 それで楽しい人はいい(自分も知らぬ間にその一員だった)として、そうでない人には単に鬱陶しいだけだろう。メディアが変わるたびに過去のソフトは質の悪いものとして淘汰される運命にある。デッキが無くなれば観ることもできない。
 また市場原理により前メディアで売れなかった商品は次世代に移行もしてもらえない。
 映画はむかし所有できない光と影の幻だった。そこに愛しさもあった。
 やがて映画は「持つ」こともできる時代に入った。
 だが、その時代も終わりつつあるかもしれない。20年間も持ち続けてもらう夢は、クローネンバーグが『ビデオドローム』をつくった1982年から2002年あたりまでの20年について実現したと言える。だが、その後の20年はどうなるかわかない。
 所有する時代が終わり、その特権的快楽がなくなり、いつでもだれでもどこでも取り出せるようになれば、逆にいちいち一生懸命になって観る人も減ってしまうに違いない。
 そしてそれはビデオが普及したころからずっと言われてきたことの末期症状に過ぎないようにも思える。
 映画はいよいよ考古学的な世界に突入し、新作も常に過去の歴史の参照をうながすようにつくられる。この20年すでにそうなってきた。
 かつて映画一本の一回性の重みは、一回性の人生の重みであり、生と死の比喩でもあったが、いま映画ファンは墓堀り人の役割を担いつつ、映画のゾンビ化の片棒を担ぐしかないのである。
 「映画」がこれからもなくなることはないだろうが、それはかつて見知った「映画」とは違う、別物であるに違いない。
 なんともはやである。




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