真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

【リンク更新!】 『80年代アメリカ映画100』~番外リンク集編~まだある80年代傑作映画(渡部幻)

2012-03-02 | アメリカ映画100シリーズ(芸術新聞社)
�1983~84年編
『80年代アメリカ映画』~番外リンク集編~まだある80年代傑作映画

1983



80年代の50~60年代初頭リバイバルは、当時に青春を過ごした世代が、社会人として振り返った感慨から生まれたものが多かったが、それを若年層が享受すると風俗的部分のみが受け継がれる傾向にあるものだ。ザ・シュレルズの62年の名曲と同じタイトルを持つ『ベイビー・イッツ・ユー』は、ノスタルジー・ブームに乗ったメジャー映画だが、時代の急速な変動に翻弄され、価値観がすれ違い別れていくカップルを描いて他とは異なる深みがあった。監督のジョン・セイルズは『セコーカスセブン』で60年代を学生運動に捧げた若者たちの10年後の感慨をほろ苦く描いたが、ここでは「あの時代」を再現。名手ハスケル・ウェクスラーによるパステル画調の撮影が美しい。主演のロザンナ・アークェットがニューヨーク派のミューズ的に活躍しはじめた頃の作品だが、彼女にこのあとマーティン・スコセッシの『アフターアワーズ』やスーザン・シーデルマンの『マドンナのスーザンを探して』などに出演。いわゆるハリウッド女優とは異なる都会的なセンスがキュートだった。




リック・ローゼンタールの『バッドボーイズ』はハードな不良少年映画である。80年代中盤に台頭するブラットパック俳優たちを輩出したコッポラの『アウトサイダー』の「甘さ」は微塵も見られない。ワイルド・ストリートを命を擦り減らしながら生きる少年たちを待ち受ける少年院の生活。クライマックスの凄絶なファイトシーンで、少年のニヒルな瞳から流れた涙が忘れがたい印象を残す。若きショーン・ペンの痩せた肉体ににじむ殺気とやるせなさ。そこに「破格の新人」を見出した者も多いだろう。




卒業白書』でトム・クルーズは本格的な注目を集めた。ごく平凡な高校生が両親の留守中に娼婦(レベッカ・デモーネイ)を呼び、意気投合して「リスキーなビジネス(Risky Business)」を始めるという物語。大人の観賞に耐える風刺コメディだが、その「ビジネス・センス」は「未来のヤッピー」の資格十分というわけだ。「おぼっちゃま」なクルーズがイキイキとし、レベッカ・デモーネイのお色気も評判になった。監督はポール・ブリックマン。タンジェリン・ドリームの音楽も「80年代的」だった。『バッドボーイズ』のショーン・ペンと『卒業白書』のクルーズは81年の『タップス』(ハロルド・ベッカー)で共演していたが、以後の映画界で最も対照的なキャリアを歩んでいく。




ジョン・カーペンターの『クリスティーン』は、『ハロウィン』『ザ・フォッグ』で好調の波に乗った彼が、満を持して挑んだスティーヴン・キングのホラー小説を映像化である。いじめられっ子の高校生が、ある日廃車場で出逢った「運命の彼女」。真っ赤なボディが悩ましい58年型のプリマスフューリー――「彼女」を引き取った少年は「クリスティーン」と名づける。次第に少年は豹変、静かな田舎町は殺戮の場となり、悲劇的な結末を迎えていく。シネマスコープを活かした美しい空間設計が、車と少年の歪んだ悲恋を盛り立て、50Sロックンロールが陽気に鳴り響くなか、カーペンター印のシンセサイザー・サウンドが不気味に重なる……そのクールなオリジナリティには抗いがたい魅惑がある。主演はキース・ゴードン。『殺しのドレス』ではデ・パルマの分身である天才コンピューター少年を演じた。のちに監督となり『チョコレート・ウォー』『マザーナイト』などの秀作を撮った。




スチュアート・ローゼンバーグの『悪の華/パッショネイト』は、いかにもニューヨーク的なストリート・フィルムである。名作『暴力脱獄』や『笑う警官/マジンガン・パニック』で知られるローゼンバーグは、ここでマーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』からの影響を隠さない。イタリア系のチンピラ青年たちを演じるのはミッキー・ロークとエリック・ロバーツ。ことにロバーツは若き日のロバート・デ・ニーロを彷彿とさせる怪演を披露し、ロークを食った。共演者も豪華で、ジェラルディン・ペイジ、バート・ヤング、トニー・ムサンテ、ダリル・ハンナが顔を揃える。『ミーン・ストリート』の鋭さ、深さには遥かに及ばない二番煎じだが、これはこれでなかなか捨てがたい味がある。




ジム・マクブライドの『ブレスレス』は、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』の大胆不敵なリメイクというより、盲目的なオマージュといった方が相応しい。ゴダールがアメリカのB級映画にオマージュを捧げたのをひっくり返してマクブライドはかの革命的傑作にオマージュを捧げたのである。同時代の多くの映画と同じくここにも50年代への目配せがあるが、マクブライドはジェリー・リー・ルイスのロックンロールにアメリカンコミック調の色彩設計とコマ割りのスタイルを映画に持ち込む試みを追求してユニークな成果を出している。これは90年代にクエンティン・タランティーノやハル・ハートリーがやったことの先駆けであり、悪評高い『ブレスレス』を評価を改めさせるひとつのポイントになるだろう。この早すぎた「ポップアート・フィルム」で主演を務めたのは、当時人気絶頂のアメリカ人リチャード・ギアとフランス人ヴァレリー・カプリスキー。もちろん、オリジナルのフランス人ジャン・ポール・ベルモンドとアメリカ人ジーン・セバーグのもじりである。




ジョン・バダムは80年代に安定した作品を連打したエンターテインメント監督だった。77年の『サタデーナイト・フィーバー』でブレイク、『この生命誰のもの』『ブルーサンダー』『ショート・サーキット』『アメリカン・フライヤーズ』『張り込み』『ハード・ウェイ』など多彩な作品を発表、なかでも『ウォーゲーム』は切れのいいSF青春スリラーである。マシュー・ブロデリックが好演するハッカー高校生が、偶然「世界全面核戦争」という「ゲーム」にアクセスして遊びはじめる。それは北アメリカ航空宇宙防衛司令部の「核戦争プログラム」であり、起動したコンピュターは米ソ全面核戦争の準備を着々と開始していく……。核戦争をゲームと重ねてキューブリックの『博士の異常な愛情』を思わせる風刺が効いて、勝者のいない「三目並べ」を効果的に使う終盤の盛り上げがユニークだった。




80年代のアメリカ映画界にはまだサム・ペキンパーがいたことが不思議なくらいだ。遺作となった『バイオレント・サタデー』はロバート・ラドラムのスパイ小説『オスターマンの週末』の映画化。時代の先端をいく「メディア監視」の恐怖を描いたスリラーで、ペキンパーの得意分野とはいえない。しかし奇妙なおもしろさがあるのもまた事実で、ルドガー・ハウアー、ジョン・ハート、バート・ランカスター、クレイグ・T・ネルソン、デニス・ホッパーなどキャストも異色の顔ぶれだった。トレードマークのスローモーションはおざなりな使い方だったが……。




ペキンパーやハル・アシュビーと比べれば晩年のボブ・フォッシーはまだ健在を感じさせた。遺作『スター80』は、『レニー・ブルース』などショービジネスの世界を描かせれば右に出るもののないフォッシーが、雑誌「プレイボーイ」の人気プレイメイト「ドロシー・ストラットン殺害事件」の顛末を描いた作品である。時代の「不穏」を巧みに捉えた力作で、観る者はこの悲劇の底に70年代の夢の終焉を感じとるだろう。ドロシー役に『マンハッタン』(ウディ・アレン)『マイライバル』のマリエル・ヘミングウェイ、彼女を殺害した恋人役に『キング・オブ・ジプシー』(フランク・ピアソン)『悪の華/パッショネイト』のエリック・ロバーツが扮した。


1984




ランブルフィッシュ』はフランシス・フォード・コッポラの実験精神精神が冴えた青春映画として忘れがたい一編である。(『80年代アメリカ映画100』の表紙に選出)。本作の夢幻的な視覚・音響スタイルは超大作『地獄の黙示録』と同一線上にあり、のちの『テトロ』などほとんど続編といっていい。これらを通じてコッポラは自らの内省的な側面を表現してきたが、その姿勢と手法が80~90年代のインディーズ作家たちに与えた影響は大きく、特にガス・ヴァン・サントの『マラノーチェ』『ドラッグストア・カウボーイ』などに顕著だった。マット・ディロン、ミッキー・ローク、デニス・ホッパーが家族を演じるが、ことにバイクボーイ役のロークの登場は衝撃的。トム・ウェイツ、ニコラス・ケイジ、クリス・ペン、ダイアン・レイン、ソフィア・コッポラらが脇をかため、いま見るとかなり豪華。ポリスのドラマー、スチュアート・コープランドの音楽もインパクトがある。前作『アウトサイダー』と同じスーザン・E・ヒントンのYA小説が原作だが、本作の方に「コッポラらしさ」が横溢している。ちなみに娘のソフィアが一番好きな父親の作品が本作だそうだ。




名誉ある撤退~ニクソンの夜』は、『ストリーマーズ』『わが心のジミー・ディーン』と続いたアルトマンの「16ミリ三部作」の最後の作品である。『ポパイ』で干されて以降、80年代のアルトマンは、舞台劇ばかり積極的に取り上げ、映画のミニマリズムに挑戦していた。『ナッシュビル』『ウエディング』などの群像劇で知られたが、『名誉ある撤退』では文字通りの「一人芝居」である。フィリップ・ベーカー・ホールがアルトマンの「天敵」リチャード。ニクソン大統領に扮し、ウォーターゲート事件発覚後の混乱のなかで大統領執務室に閉じこもり独りごとを語り続けるだけなのだが、奇妙な動作を続けるカメラワークで片時も飽きさせない。異色作中の異色作と言えるだろう。邦題は、ニクソンが不透明なベトナム戦争の終わらせ方に対する公約として語った「名誉ある撤退」から取られている。




アレックス・コックスは『レポマン』で、ローン未払いの車を回収する裏家業=レポマンとパンク青年オットーのエキセントリックな交流を描いた異色作をつくった。冒頭、イギー・ポップのテーマ曲とともにカリフォルニアの地図が映ると「ロスアラモス」がクローズアップになる。続いて、荒野をひた走る一台の車を止めた白バイ警官が謎の「白光」を浴びて骸骨になり、「Feelin'7-UP」を口ずさむオットー(エミリオ・エステベス)が登場する。ロスアラモスは45年アメリカ初の核実験地で、つまり「白光」は「原子力の光」なのである。政府機関から逃げ出した科学者は4人の宇宙人の死体を車に乗せて逃走。オットーらレポマンたちは知らぬ間に危険に接近していくが……。オックスフォードで政治を学び、UCLAで映画を学んだコックスの反体制スピリットが炸裂。ロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ』をベースとするこの確信犯的な超B級映画は、核戦争時代の80年代を語るときに欠かせないカルト・コメディとなった。自然光を人工的にみせる撮影はオランダ出身のロビー・ミューラー。『パリ、テキサス』(ヴィム・ヴェンダース)『L.A.大捜査線/狼たちの街』(ウィリアム・フリードキン)『ダウン・バイ・ロー』(ジム・ジャームッシュ)『サンタリア/魔界怨霊』(ジョン・シュレシンジャー)『バーフライ』(バーベット・シュローダー)など風景を異化する特有の眼差しで80年代のアメリカ映画を象徴するルックを生みだした。




80年代の「ニューヨーク・インディーズ」を牽引したのはジョン・セイルズである。『セコーカス・セブン』『リアンナ』『ベイビー・イッツ・ユー』に続く『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』は、そんなセイルズの代表作だ。スピルバーグの『E.T.』の脚本を依頼されるも社会派的に書き過ぎ却下された彼がつくった「非主流派のSF映画」。当然スピルバーグ的なSFXファンタジーではなく、ハーレムに「海から」やって来た黒人の宇宙人(ブラザー)は足の指が三本で、物を直す超能力を持つが、逃亡奴隷であり、白人二人組のバウンティハンターに追われている。 物言わぬブラザーがたどり着いたハーレムはかのコットンクラブで知られる黒人文化のメッカである。貧乏黒人ばかりが暮らすこの街にブラザーは溶け込み、白人ハンターは浮いているが、ここはアメリカなのだ……。オフビートなユーモアと鋭い社会批評にセイルズ一流のセンスが横溢。「ブラザー」は『E.T.』『シザーハンズ』(ティム・バートン)と並ぶ「新手のアウトサイダー」だった。これらの背景にあるのは共通して「差別」への問題意識である。なかでも『ブラザー』は黒人たちの連帯意識が痛快である。3本続けて観てみるとどうだろう。




ラヴ・ストリームス』は80年代につくられた「最も過激な作品」のひとつだといえる。『フェイシズ』『ハズバンズ』『こわれゆく女』『ミニーとモスコウィッツ』『オープニング・ナイト』『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』……ジョン・カサヴェテスがつくる映画ではつねに「感情」の表出が過剰である。本作でも、彼と妻のジーナ・ローランズ扮する兄妹が、感情的な行き場を失い、激情をぶつけ合い、形容しがたい「愛の流れ」なかに巻き込まれていく。2人が披露する禍々しい芝居、それを凝視するカメラ――シンプルな映画である。しかしそのシンプルさゆえに観る者は息詰まる荒波のなかへ放り込まれる。いよいよサービス過剰になっていく「ハリウッド映画」と、そのカウンターとしての「もうひとつのアメリカ映画」。カサヴェテスが巻いた種子がいよいよ育ちはじめていた。




ジョナサン・デミの『ストップ・メイキング・センス』は、ニューヨークのニューウェーヴ・バンド、トーキング・ヘッズのライブを捉えたドキュメンタリー映画の代表作。しかしその枠を越えて重要なインディーズ映画である。ロジャー・コーマン門下生のデミは、初期はバイオレンス・アクション、やがて『メルヴィンとハワード』などのコメディ作家として知られるようになった。その一方、ニューオーダーの「パーフェクト・キッス」などのPVで見事な腕を披露、本作では最盛期のトーキング・ヘッズのライブを記録した。『ブレードランナー』のジョーダン・クローネンウェスによる撮影は色彩が幻惑的で、デヴィッド・バーンの奇怪なパフォーマンスをつかんで離さない。観る者を巻き込む映画的な興奮は「痙攣」的。ウォドレーの『ウッドストック』、スコセッシの『ラストワルツ』と並ぶ音楽ドキュメンタリーの金字塔である。




フランケンウィニー』はティム・バートンがディズニー社でつくった短編だが、不気味かつ繊細で楽しいバートン・スタイルはすでに完成済み。愛犬を亡くした少年が、落雷の力により蘇生させようと試みる物語は、かの『フランケンシュタイン』へのオマージュである。少年役に『ネバーエンディング・ストーリー』(ウォルフガング・ペーターゼン)のバレット・オリバー。母親に扮したシェリー・デュバルは、ロバート・アルトマン(『ポパイ』)、ウディ・アレン(『アニー・ホール』)、テリー・ギリアム(『バンデットQ』)、スタンリー・キューブリック(『シャイニング』)と、異端児ばかりに愛された異能の女優。奇才バートンもまた早くも殿堂入りを果たすべく起用したのであろう。




ボディダブル』は、問題児ブライアン・デ・パルマが『殺しのドレス』『ミッドナイトクロス』に続いて手がけた風刺的なエロティックスリラーである。過激な暴力と性描写で映画表現を拡張すると同時に、非難さらされてきた彼は、次回作の主題を「80年代のポルノ映画業界」に定めた。クレイグ・ワッソン扮する売れない役者は幼い頃のトラウマで閉所恐怖症である。恋人の浮気を目撃し、オーディションからも落ちて、あげくに美女電動ドリル殺人事件を目撃してしまう。やがて主人公は魑魅魍魎うごめくポルノ業界に接近し、メラニー・グリフィスが魅力的に演じる気立てのいいポルノ女優に出会うが……。ソフトフォーカスの映像が印象的な前2本と異なり、ここでは『ファントム・オブ・パラダイス』に近いコミカルで下品な風刺スタイルである。またフランキー・ゴーズ・トゥ・リラックスの放送禁止曲「リラックス」が流れるシーンでは『サンセット大通り』などパロディスト・デ・パルマの面目躍如。




肉体の悪魔』『トミー』の鬼才ケン・ラッセルの『アルタード・ステーツ』に続くアメリカ映画『クライム・オブ・パッション』は背徳的かつ変態的な作品である。『2つの頭脳を持つ男』のキャスリーン・ターナーが「二つの顔を持つ女」を演じ、アンソニー・パーキンスが異常そのものの神父を演じる。スキャンダラスな性描写とブラックユーモアは、観る者をいやな気持ちにさせること請け合いである。同時期に公開されたデ・パルマの『ボディダブル』を超える問題作となり、自作が論争になることを期待したデ・パルマを失望させた。




OCとスティッグス/お笑い黙示録』はアルトマンのキャリア中、最も評判の悪い作品であると同時に、ほんの少しの熱狂的なファンを獲得している作品である。80年代は映画の客層が若者中心に偏り、膨大な「青春映画」が作られた。青春映画嫌いのアルトマンはそんな風潮にさからい、その下らなさを皮肉るために「下らない青春映画」を作ったのである。その意味でこれは戦争の下らなさを下らなく描いた『M★A★S★H』に近い。アルトマン一流の悪ふざけが炸裂したコメディであり、『地獄の黙示録』のパロディを演じるデニス・ホッパーの姿や、キング・サニー・アデの楽曲を楽しめる異色作である。川勝正幸は宝島社刊行の「このビデオを見ろ!」のなかで自身の「クリエイティヴの恩人」としてアルトマンの名を挙げているが、そのあまりにもねじれた根性ゆえに、これはかえって難解な作品となった。そんな本作が「早すぎた作品」である証拠は、のちに人気を博した『ビルとテッド』シリーズに多大な影響を与えていることからもうかがえる。




マリアの恋人』はソ連のアンドレイ・コンチャロフスキーによる秀作である。彼はソ連映画『ワーニャ叔父さん』で注目され、アメリカで黒澤明脚本の『暴走機関車』を撮ったことで知られるが、本作の美しさも捨てがたい。第二次大戦後のペンシルヴァニアを舞台に、戦争帰りのサヴェージが結婚したキンスキーがかつて彼が知っていた純情な娘ではなかったことを知るという物語。最も美しい頃のナスターシャ・キンスキー、ジョン・サヴェージ、キース・キャラダイン、ロバート・ミッチャム、ヴィンセント・スパノが名を連、加えて『バード★シット』『少年は虹を渡る/ハロルドとモード』のカルト俳優バッド・コートも顔を見せる。


次回に続く(渡部幻)。


芸術新聞社の「アメリカ映画100シリーズ」

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