ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「輪るピングドラム」無知と貧困が破滅に導く

2018-12-16 07:02:32 | アニメ


このアニメ作品の登場人物は子供たちがほとんどだけど、大人が見るととても胸が苦しくなるし、ならなければいけないと思う。

いつの時代も子供たちは世界の希望でエネルギーであるのだけど、あらゆる可能性を奪われてしまう子供たちがいる。文化は成長し科学も進化し続けているけどすべての子供を守り導くということはなかなかうまくできないのだ。飢えないようにご飯を食べさせ住む場所があり最低限の生活と教育が与えられるということだけでも難しい。子供はそれがないとすぐに弱ってしまうのは判っているはずなのに大人たちはそれができないでいる。
自分の子供だけを大事にするのが本能だから、というのならもう人間ではないのだね。

以下、ネタバレです。




前回観た「少女革命ウテナ」と本作は同じように「内容が難しい」と言われているみたいだけど、年を取っている女である自分にはどちらも痛いほど共感出来て理解できて辛いほどなのです。
(全部完全に理解できている、とまでは言えませんがわかりみすぎる、というような感情は湧いてくる)
「ウテナ」では少女の革命のために敵はある意味男性であったけど、「ピンドラ」は行き場のない子供たちの敵はなにもしようとしない、或いは酷い目に合わせる大人たちだ。
少女たちが男性の支配下にあることに疑問を持ち、自立するという革命を起こすことは大変な困難ではあるが、いつか成し遂げることができるかもしれない。
だけど子供たちが大人の支配下から(あるいは保護下から)逃れて生きていくのは無理なのだ。人間の子供は成長に時間がかかる。なんとか自分の身の周りのことができるにも10年近くかかるし生きていくための勉強をするにはさらに10年近くを要してしまう。20年ほども養育期間を必要としてしまう動物でその期間が短いほどストレスや精神的心理的空虚を抱え込み、もっと短かければ肉体も損なって死んでしまう。
陽毬・晶馬・冠葉の3人の子供たちはなんとか身の周りのことをできる程度には成長しているが自立できる年齢ではない。アニメではなく実際にこういう状態の兄弟が一軒家に住んでいることを想像するとその危うさを思い、何らかの庇護下に置こうとするだろう。
保護者のいない子供たちの境遇は過酷だ。生きていくことだけでも困難な状況になる。大人たちの育児放棄にあえば小さな命はたちまち消えてしまう。
選ばれなかった子供、という悲しい言葉。子供ブロイラーという恐ろしいシステム。子供たちは個々の意味なく選別されようが利用価値がなければ消滅するしかない。
子供たちが生まれてくる環境がどういうものなのかそれは誰も判らない。人はそれを運命と呼ぶ。申し分のない幸福な家庭に生まれてくる子供もいればそうでない子供もいる。
親の思想ひとつで子供の運命が決まる。親の檻に入れられ逃れることはできず、食事が与えられなければ飢えるしかない。教育が与えられなければ無知でいるしかない。親の愛をつなぎとめるためには従うしかない。そうしなければ生きていけない存在でしかないから。

子供たちは自分が持てる僅かな力を振り絞ってもなんとか生き抜こうとする。それがこの作品で叫ばれる「生存戦略」なわけで。もうだめだと、絶望しながらも「もっと生きたい」そして「生かせてあげたい」と願う。

「ピングドラム」とはなにか?
そのことを考えると色々なことが巡ってくる。
何故ピングドラムをリンゴに例えたのか。
リンゴ=運命の果実、それを二つに割る愛の力、割るが輪るにかかっている。輪るピングドラムはピングドラムを割ることができる優しさの愛なのだ。
リンゴ=ピングドラムは運命であり心臓の鼓動。それを差し出せる愛の力。
リンゴは知恵の象徴でもある。
ディケンズは「クリスマスキャロル」の中で幽霊がスクルージに痩せて醜い子供たちを見せる。男の子は無知を意味し、女の子は欠乏・貧困を意味している。幽霊は「特に男の子(無知)には気をつけねばならない。その額には破滅と書かれている」と言うのだ。
周囲がクリスマスで浮かれていても貧しい子供たちは飢えて痩せている。可愛いはずの子供たちはぞっとする醜さなのだ、とディケンズは描く。
無知であってはいけない。知恵は子供たちを生存させる。貧しく弱くても知恵を働かせて生き延びなければならないのだ。
愛、であるとともに知恵でもあり運命を受け入変化させ導く力を持つことが子供たちの生存戦略なのだとそれを分かち合わなければならないのだとこの物語は訴える。

最も弱い存在だった陽毬。よくぞそのピングドラムを受け取る力を出したね、と思う。あの時彼女が一度は拒否したそのリンゴを受け取ることができなければ、彼女はほんとうに消えていた。
生きる、その力は自分でしか出せない。生きたい、と思う力は自分が持てる最大の戦略なのだよね。
手塚治虫「ブラックジャック」で赤ちゃんが懸命に生きようとする話がある。そんな生きることへの願い・渇望、それだけが戦略なのだ。

そして大人たちはそんな子供たちを助けなければならないのじゃないか。
「クリスマスキャロル」でがめついスクルージが幽霊に悲惨な子供を見せられたのは作者ディケンズのそんな願いが込められていたのではないか。「お前があの子たちを救うことができるのだぞ」と。
無知と貧困は破滅へ導く、のだと。
それを救えるのはおまえなのだと。
そしてスクルージはすべての大人たちのことだと。
ディケンズは書いたのだ。


冠葉はその言葉通りに世界を破滅に導こうとした。
それを救ったのは「輪るピングドラム」では子供たちだったけども、大人たちはよくよく考えなければならない。そして行動しなければならないのだ。
この世界の子供たちを「無知と貧困」から救わねばならない、と。
高倉剣山たちが行った方法ではなく、子供たちを守る。
その方法を考え行うことが人間の生存戦略ではないんだろうか。


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