ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「ユリ熊嵐」は「魔法少女まどか☆マギカ」への挑戦状ではないか

2019-01-04 07:29:05 | アニメ


「ユリ熊嵐」見終えました。
前に見た2作品「少女革命ウテナ」「輪るピングドラム」と同じく噛み応えのある噛めば噛むほど複雑な味わいを楽しめる作品でありました。そしてこれで勝負だ!かかってこい!という戦いを挑まれる。幾原作品を見るためには血を流す覚悟がいるのです。
と同時にその戦いの甘美さに酔いしれてしまうのです。

さてタイトル「ユリ熊嵐」は「魔法少女まどか☆マギカ」の真逆を物語っていると私は感じました。本当をいうと「ユリ熊嵐」を考える際に激しく反発を感じた「まどマギ」を持ち出して比較しない方がよいかとも考えました。その比較をしなくても十分「ユリ熊嵐」は素晴らしい作品だと言えるのだし、と。
しかしこの比較は自分にとっては重要なものであると思いなおしてみました。

「魔法少女まどか☆マギカ」は2011年作品であり「ユリ熊嵐」は2015年作品です。「まどマギ」は高い評価を受けた人気作だったので幾原氏は当然知っているはずですし、「まどマギ」を見たはずだと思えます。

以下両作品のネタバレです。そして私は2作品に関わるエピソード・裏話などは知らない上で書いていきます。



何故この2作品を比較するのかと言うと私自身が「まどマギ」に反感を持ち、短い期間に続けて「ユリ熊嵐」を見たこともあり、その二つの作品が非常に似通った設定でありながらそこで語られるテーマ物語は真逆と言ってよいものではないかと感じたからです。

両作品はほぼ全編少女しか出てきません。そして同じように少しだけ大人の女性、母親と女性教師、そして男性が幾人かだけ登場します。
物語はほぼ少女関係と話ができる動物(というと両方とも少し違う存在です)の関係性で成り立っていて、そこには「友情」「好きだよ」という言葉や「友達だよ」というセリフがちりばめられ、しかもその関係が友情というよりは恋愛感情を思わせる、いわゆる「ユリ関係」(女生徒同士の愛情)を描いたものになっています。

これだけなら他にもごまんとあるかもしれませんがイメージするエピソードとしてアンデルセン「人魚姫」を用いていることは見逃せないことだと思うのです。
しかも後から作られたイクニ作品「ユリ熊嵐」では「まるで人魚姫だね」とセリフで念を押しています。これは用いたエピソードが人魚姫とはすぐに思えないものだったからでしょう。

しかし問題なのはその「人魚姫」をイメージするエピソードの違いです。

「まどマギ」ではなぜか「人魚姫」のモチーフが男女関係で語られます。全般少女同士の愛情を語る作品において何故この最も「美味しい話」を男女間で語ったのか。私はここが「まどマギ」が少女同士の愛情物語ではない、と感じる所以なのです。

「ユリ熊嵐」は少女のための少女の物語であるのに「まどマギ」は結局男目線を意識した少女を扱った物語だというところに強い反発を感じます。「まどマギ」の少女たちが少女同士で愛し合うのは見ている男たちの「他の男に犯されるくらいなら女の子同士でいちゃいちゃしていて欲しい」という願望のもとに作られた作品であると感じるのです。しかもなぜかそのいちゃいちゃは精神性というような深いものではなくセリフだけでのやり取りであり、少女たちは触れ合う程度でしかないのですね。まどマギ好きの男性たちはそこに良さを見ているのでしょうけど、それは男性たちの勝手な少女への抑圧であり「少女たちは触れ合うだけでいい。性欲など持ってほしくない」という願望であり、少女たちの本質を無視した残酷な押し付けだと私は思うのです。少女たちには少女たちの性があり、それは肉体を無視したものではないのです。

「まどマギ」は一見肉体的性的なものを描かない精神性の高い作品のようでいてそれは少女の性を無視し、そのうえで少女たちの幼い肉体は見る者・特に男性の目にさらされ喜ばれるように描かれています。
「ユリ熊嵐」は少女の性を強調して描かれタイトル通り「ユリ関係」である少女たちの友情と性欲をさらけ出すよう描きますがそれが男性向けのみではないと思えます。
「まどマギ」では少女たちが魔法というアイテムによって男性並みにバトルし、その敵は魔法少女がやがてなってしまうという魔女、という存在です。この設定がどうしても少女が年を取って醜くなったら敵になる、という比喩としか考えられません。しかし実際の年を取った女性たちは少女たちの敵ではなく経験を積んだ先輩であり少女たちを導き守りたいと思う存在です。しかし男性たちから見れば年を取った女性たちは若い女性特に少女に嫉妬し戦いを挑むけど醜いよね、と見えているのでしょう。そんな男たちの歪んだ視点で描いたアニメ作品がこんなに評価されたのは男性たちの多く(女性にも感化されてそう見てしまう人もいる)がそう思い願いたいからだと思うのです。

「ユリ熊嵐」の少女たちは魔法が使えません。少女たちが使うのは魔法ではない普通の銃で、しかも練習してもなかなか当たらず、少女たちの手は震えています。魔法であっというまに世界を変えてしまうようなことはできないのです。少女にそんな力はありません。(この部分、「まどマギ」では少女の力が世界を変える、と真逆になっています)
こちらの作品での敵は「透明な嵐」という比喩になっています。これは見る者が考えなければならないものです。学校内(もちろん世界・社会で)のいじめ、特に自分たちと違う存在を否定することに対して反対せず同調して自分を失ってしまうこと、を透明な嵐という敵とみなしています。
少女の敵は大人になって年を取り醜くなることから生じる魔力、ではなく、少女が自分の信じるもの、好きなものを大勢の他人と同調することで見失っていく心なのだと描いていきます。

イクニ作品「ユリ熊嵐」ははっきりと「まどマギ」に対して挑戦状を叩きつけたのではないかと私には思えました。

また別の角度で言えば「まどマギ」で「魔女」に当たるのが「ユリ熊嵐」の「熊」になるのです。これは「魔女」と「熊」が「性」を意味しているからです。また異質なものでもあります。
「まどマギ」では魔女を排して代わりの敵が登場する、という結末になりますが、「ユリ熊嵐」では少女紅羽が自ら熊になって大好きな銀子とキスをする、という結末を迎えます。

敵であった魔女を排除し新しい敵と戦い始めるという「魔法少女まどか☆マギカ」
敵であった熊に自らなって熊同士のユリとなる「ユリ熊嵐」


熊同士のユリ。


私にとっては「まどマギ」の主人公は透明な嵐によって透明な存在になったように思えます。


「まどマギ」における“まどか”と「ユリ熊嵐」における“すみか”が対となりますね。

“まどか”によって“ほむら”は新しい戦いを続け
“すみか”によって“くれは”は新しい愛を続けていきます。

私は愛を選びます。


少女に「お前には世界を変える力がある」と言ってその身を犠牲にさせ続ける「まどマギ」は男性たちの願望と呪いです。
少女にはそんな力はありません。そんな力を持つ必要もなくその言葉は詐欺です。

少女に「わたしは好きをあきらめない」と言わせ愛を全うさせた「ユリ熊嵐」は男性である幾原邦彦の願いと祈りです。

イクニ作品はどれもそうであったと思います。
少女たちに自分らしくあれ、と。
「ウテナ」も「輪るピングドラム」もそうでした。
少女たちに自分らしく成長すればいいのだと。

私もそう思います。














最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2020-02-28 15:25:55
自分の好きな作品の為に何かを下げて評価するのやめない?
返信する
>Unknownさんへ (ガエル)
2020-02-28 20:18:17
比較するのは考察するのにとても有効でありしかも面白いのでやめるわけにはいかないのです。
実に驚くべき発見があるのですよね。
返信する

コメントを投稿