渋谷の殺人事件に思う。人は生まれながらに崇高な精神を持っている。幼児が教えられることなく叱責を受けたときにその崇高な精神は見える。母親と父親の言葉に行動が制限される。女児と男児では、より男児がその行動が顕著である。父親の言葉に敏感なのだ。そのまま何年も経ち自我の確立が出来ても父親の言葉は精神のどこかで強力な作用をする。世間で言う権威を手に入れた人を親に持つ子は親の言葉が重いものだ。そこに追い討ちをかけたような言葉の暴力があればそれが身内といえども自我の許容枠からはみ出したときには大変な行動に出てしまう。今回の事件の真相はこんなことではなかったのではないだろうか。真相の報道はなかなか出来ないと思うが事件背後の精神は案外とこのような一見なんのことない言葉の問題のようなことと思う。
景気が上向いているようだが一般社会の闇にもこんな言葉のやり取りが日常的にある。傷付ける言葉のやり取りが許容範囲の間は何も問題が起きないが、いったんその範囲を超えると、とんでも無い事件が発生する。まさに今年の干支は猪年。猪突猛進。温かみの無い言葉が尖ったときその言葉はハートを射抜く力となりその報復として制御不能の暴力事件に発展する。そこには血縁も何も無い。そんな行動をするのも人間の不可解な側面である。
渋谷殺人事件は兄弟間の事件だが衝撃を与えた事件である。「絆」が無くなった事件として。
景気が上向いているようだが一般社会の闇にもこんな言葉のやり取りが日常的にある。傷付ける言葉のやり取りが許容範囲の間は何も問題が起きないが、いったんその範囲を超えると、とんでも無い事件が発生する。まさに今年の干支は猪年。猪突猛進。温かみの無い言葉が尖ったときその言葉はハートを射抜く力となりその報復として制御不能の暴力事件に発展する。そこには血縁も何も無い。そんな行動をするのも人間の不可解な側面である。
渋谷殺人事件は兄弟間の事件だが衝撃を与えた事件である。「絆」が無くなった事件として。