風色明媚

     ふうしょくめいび : 「二木一郎 日本画 ウェブサイトギャラリー」付属ブログ

筆がなくなる!

2007年11月07日 | 仕事場
筆は絵描きの大事な商売道具の一つ。
使い心地が制作中の気分を大きく左右するものです。
絵を描くということは、画面に絵具を置いていくという行為ですから
それを一手に担う筆の役割には重大なものがあります。

弘法は筆を選ばなかったようですが、お大師様とは程遠い私は筆を選ばざるを得ません。
若い頃はあまり頓着しませんでしたが、自分の技法が固まってくるにつれて
使いやすい筆と、そうではないものの区別が明快になってきました。
しかし、道具の選定は一筋縄ではいかないものです。
いい筆というのは万人の共通事項ではないのです。
名人の作った高級品だからといって自分にとって使いやすいとは限りません。
人によっては100円の筆が理想的な使い心地である可能性もあるのです。
自分に合った筆に出会うこと。
それは意外に難しいものなのです。

私は丸筆には特にこだわりはないのですが、多用する平筆と刷毛にはあります。
モノを創る人の中には、制作のための道具まで自分で作ってしまう人がたくさんいます。
使いやすい道具がないのなら自分で作る…というのは自然な結論です。
しかし、一から筆を作るのは専門的過ぎて一朝一夕にはできません。
絵描きは自分の使い易いように、自分で筆を改造することはあります。
しかし素人が改造するのですから、いつも成功するとは限りません。
専門の職人さんが作ったものの中から吟味した方が安心・確実です。
理想を言えば、希望を伝えて作ってもらうのが一番です。


数年前、他の画家が注文して作った平筆を、たまたま筆屋さんから試しに購入したことがありました。
使ってみたところ、その中の一本が大当たり。
私の技法にピッタリの使い勝手でした。
そこで試作として筆屋さんに同じような筆を何種類か特注で作ってもらいました。
しばらく使って改良点を見つけてから、本格的に作ってもらうつもりでした。
そして昨年、その内の一本を見本に添えて注文を出したのです。

ところが…。

間もなく見本の筆が手紙を添えて送り返されてきました。
「この筆を作った職人さんはリタイアしてしまい、申し訳ありませんが作れません。」

茫然自失とは正にこのことです。
筆は使っていけば毛が磨り減ってしまう運命にあります。
平筆は丸筆より永く使えますが、それでも必ず寿命があります。
今手元にあるこの筆は5本しかありません。
これが使えなくなったら…。


  
  愛用の平筆たち。

  見た目は普通の平筆と変わらないのですが
  画面に筆を置いた時、絵具が画面に降り過ぎないように
  長さの違う毛を組み合わせて、全体にやや長目で薄手に作られています。  



伝統技術の衰退が様々な分野で危惧されています。
画材の世界も同様です。
和紙・筆・絵具・ニカワ…。
どれをとっても専門の伝統技術がものをいう世界です。
しかし、それらの伝統技術が順調に継承・発展しているかと言えば
必ずしもそうとは言えないのが現状です。
それは製品を使う側、つまり私にも責任の一端があるのです。
時には使う側の意見や希望を伝えることが、作る側の奮起を促すことにもなるのです。
ご他聞にもれず、私も伝統技術の危機を知識としては理解していましたが
日常ではすっかり呑気に構えていました。
それまでは、このような危機に直面しないで過ごすことができたからです。

今まで対岸の火事を眺めていた私の頭上に
火の粉は、ついに川を飛び越えて降りかかってきたのでした。
ついに来て欲しくないものが来てしまった。

筆がなくなる!

せっかく素晴らしい筆に巡り合うことができたのに
このままでは、私の蜜月は束の間の夢で終わってしまいそうです。

筆屋さん!
これからは必ず後継者に技術の伝承をお願いしますね!

-------------- Ichiro Futatsugi.■

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コラム「風食明媚」第3話  折々のワイン 1 駅弁のワイン

2007年11月07日 | コラム「風食明媚」
コラム「風食明媚」は、かつてホームページに掲載していたものを加筆・修正したものです。
1980年代後半から1990年代前半にかけてのイタリア旅行での体験を元にした雑記集(全15話)です。
第2話 海外での話し方講座
第1話 トリュフの舞い散る皿

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首都ローマのスタツィオーネ・テェントラーレ(中央駅)はテルミニ駅だ。
イタリアの大都市の中央駅は大抵そうだと思うが、駅がいわゆる幹線上にはない。
幹線から引き込み線に枝分かれし、その先の行き止まりに駅がある。
ミラノ・チェントラーレ
フィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ
ヴェネチア・サンタルチア…
それらは皆そうだ。
ローマを通過する幹線上にはローマ・ティブルティーナという駅があり
テルミニ駅は、やはり引き込み線のように枝分かれした先にある。
つまり、ここで完全に行き止まりになっているのだ。

「始発駅」「終着駅」には特別の雰囲気がある。
東京駅や上野駅などもそういう駅ではあるが、すべての線路がそこで終わっているわけではない。
私のように地方から上京した者には、「始発駅」「終着駅」という感慨は強くあるのだが
完全にそこで行き止まりではないから、そういう想いも100%抱くことはできない。
テルミニ駅では「始発駅」「終着駅」という言葉が俄然リアリティを帯びてくる。


ここで列車を待っていたある日、昼食を買っておこうとホームをブラブラしていた。
屋台のような移動式売店を覗いたら、見覚えのある文字が目に止まった。
古代メソポタミアの楔形文字のような形だったが、それは明らかに漢字だった。

その文字は「駅弁」と読めた。
エキベン?

テルミニの「駅弁」を最初に見かけたのは1990年頃だったと思う。
「駅弁」と表示されたコーナーには、質素な紙袋がいくつか置いてあるだけだった。
食べ物と飲み物を適当に見繕って紙袋に詰めてあるらしい。
日本人旅行者が多いからなのか、漢字の珍しさに惹かれて書いてみただけなのかは分からない。
どこから「駅弁」という日本語を仕入れてきたのかと思いながら、包みを開けてみた。



イタリアを旅していて頭を悩ますことの一つが昼食である。
お腹は空いているが軽く済ませたい…こういう場合は選択肢が極端に狭くなる。
日本人は私も含めてそうしたい人が多いだろう。
蕎麦やうどんだけでいい…だからパスタ一皿だけでいい…と。
しかし、これが難題である。
一般のリストランテやトラットリアは最低限のコース料理を前提としている。
不可能ではないらしいのだが、パスタ一皿だけとは注文し難い。
少なくとも私はそう言い張る心臓は持っていない。
だから結局はバールでパン類を調達するしかない。



 ウンブリア州スペッロ近郊


紙袋を開けて、思わず口元がほころんだ。
中身はほぼ予想の通りだったからだ。
焼いたチキン、パン、サラダ…などと、お手軽な食べ物がセットされている。
バールのメニューと大差ないが、列車の中だから贅沢は言えない。

最後に袋の奥からテトラパックが一つ出てきた。
牛乳?…と条件反射のように思うのは私だけだろうか。

そういえば最近テトラパックを見かけなくなった。
紙パック入りの牛乳は、大きいものも小さいものも四角いものばかりになった。
私の世代の学校給食の牛乳は、最初はアルミのお椀に注がれた脱脂粉乳だった。
「豚の餌」と揶揄されていたものだった。
元々は家畜飼料用として輸入されていたものだから、本当の話なのだ。
それが、瓶入り、テトラパック入りと変わっていった。
テトラパックは、だいぶ永いこと続いたように記憶する。

イタリアにもあるんだな…と
私は無意識の内に、パックの文字の中に”Latte(牛乳)”という単語を探していた。

しかし、どこにも見当たらなかった。
その代わり”Vino Rosso”と控えめに書いてあった。

ヴィーノ・ロッソ(赤ワイン)!
そうだった…。

この時私は、うかつにも今自分がどこにいるのかを忘れていた。
軽食とは言え、食事をしながら牛乳を飲むようなお国柄ではなかった。

なるほど!
妙に納得し、ちょっぴり感動した。
ワイン大国イタリアにはテトラパック入りのワインまであるのだ。
テトラパック=牛乳という日本人的発想に苦笑いをしながら一口すすってみた。

悪くない!

またもや驚かされた。
予想を遥かに超える美味しさだったからだ。

テトラパック入りのワインに誰が期待するだろうか。
このワインはおそらくタダ同然の値段のはずだ。
たかが駅弁に添えられたテトラパック入りのワインである。
名も知られることのないワインなのだろう。
ワインは生活とは切り離せないものだから、イタリア人はワインに神経を使う。
とは言え、駅弁のワインにまでは気を使えない…。
イタリア人とてそう考えるに違いない。
そんな発想しかできない私は、いかにも貧しく浅はかだった。

たかが駅弁のワイン…。
されどワインはワイン!
痩せても枯れてもワインと名乗る以上、多少味は落ちても、絶対に本物のワインでなくてはならぬ!
テトラパックの中からイタリア人の叫びが聞こえてくるようだった。

ボトル詰めでこれより不味いものは日本にはたくさんある。
イタリアのワイン文化の底力が身にしみた経験だった。
文化は底辺からの支えがあって初めて成り立つことを改めて思い知らされた。


あの「駅弁」今もあるのだろうか。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

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コラム「風食明媚」第2話  海外での話し方講座

2007年11月07日 | コラム「風食明媚」
コラム「風食明媚」は、かつてホームページに掲載していたものを加筆・修正したものです。
1980年代後半から1990年代前半にかけてのイタリア旅行での体験を元にした雑記集(全15話)です。
第1話 トリュフの舞い散る皿

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コミュニケーションの基本は言葉である。
だが国内ならばともかく、海外ではそう簡単にはいかない。
言葉なんかできなくても何とかなるよ、と人は言うけれど。

最初の旅では、イタリア語の勉強を全くしなかった。
「ボン・ジョルノ」と「グラッツィエ」、本当にこれ位しか知らなかった。
数も数えることができない。
英語も全く自信のない典型的な日本人旅行者だ。

想像以上に不便さを感じ、2度目からは多少の勉強をした。
もちろん一夜漬け程度で不自由なく話せるはずはない。
今自分が何をしたいか相手に伝えるための例文を覚える程度で精一杯だ。
それでも僅かでも言葉を知っていると、気持ちはだいぶ軽くなるものだ。

そして一度でも通じた感動を味わうと
イタリア語をマスターしたかのような、身の程知らずな錯覚を抱くのは
私という人間の調子の良さと、浅ましさなのだろう。



 アッシジ、サンタ・マリア・マジョーレ聖堂付近


田舎街で美術館へ行く道が分からなくなった。
たまたま地図を持っておらず、誰かに聞くしかない。

「この近くに○○美術館はありますか? どう行けばいいですか?」

こういうのは旅行用会話集には必ず載っている例文だ。
是非覚えておきたい会話のランキングでは最高ランクの一つだ。
私もこの手の例文を重点的に覚えた。
本に付属のカセットテープ(古い話で恐縮ですが)で発音も確認している。
発音が悪いとなかなか通じないというのは、英語で何度か経験していた。

まずは心の中で反復して、言うべきことをしっかり確認する。
念のため会話集を片手に握り締め、通りがかりの人に声をかけた。

予定していた言葉はすべて言えた。
発音にも充分注意した。
相手も頷きながら聞いている。
どうやら通じているようだと安心した。

だが、これがまずかった!

私の質問を聞き終わるや、相手は待っていたかのように喋り始めた。
イタリア人としては早口ではなかったが、答えが予想以上に長いのだ。
私が期待した答えは…。
「ここをまっすぐ行く。二つ目の角を左。バールがあったら右へ行く。そこから100mだ」といった調子だ。
その程度の答えなら何とか翻訳できる知識はあった。
しかし、それらしい言葉は出てきていない。

相手の話はまだ続いている。
道順を教えるのに、なぜそんなに長々と話さなければならないのか。
しかもイタリア語が理解できるかどうかも知れない外国人に対してだ。


イタリア人は親切で話好き。
そういうことは、ガイドブックにも書いてある。
もしかしたらこの人は、この街の由来から始まって
美術館の作品解説まで話して聞かせてくれているのだろうか。
もしそうだとしたら誠に申し訳ない限りだ。
もっと正直に言えば、嬉しいけれど迷惑でもある。
私のイタリア語会話は基本的に一方通行なのだ。
言いたいことをとにかく言って
相手の答えを勘と気合で翻訳するしか仕方がないレベルなのだ。

念仏を聞く馬のように…。
私は呆然と立ち尽くすばかりだった。
とにかくこのままでは埒があかない。
せっかくの好意を裏切るつもりはないが、とりあえず口を挟んだ。

「すみません。私はイタリア語はよく判らないのですが…」
これも使い勝手のある例文として覚えておいたものだ。
私はまた精一杯滑らかに伝えた。

相手は怪訝そうな顔を見せた。
それでもまた、ひとしきり話してからようやく終えた。
何とか道順は理解できた。
「ご親切に、ありがとうございました」
私は複雑な気持ちでお礼を述べた。


これは大きな教訓であった。
私は出来る限り流暢なイタリア語に近づこうとした。
そうしないと通じないと考えたからである。
努力が実って通じたのはいいが、相手は私がイタリア語を話せると勘違いしてしまったようだ。
だからあれだけいろいろ話してきたのだ。

これ以来、私はスラスラ言える言葉でも意図的にたどたどしく話すように心掛けた。
会話集を相手に見せながら話すのも正解だろう。
『こいつはイタリア語ができないな』
それを相手に理解させることがまず大切である。

イタリア語が満足に話せないことを相手に正確に伝えるのは大切なことだ。
だが、「私はイタリア語が話せません」と流暢なイタリア語で喋ったら相手はどう思うか。
『ちゃんと話してるじゃないか。何を言ってるんだ?』
誤解と混乱を生むだけだ。


旅行者の中には徹頭徹尾日本語だけで押し通す猛者もいるらしい。
私も是非そういう心臓が欲しいものである。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

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コラム「風食明媚」第1話  トリュフの舞い散る皿

2007年11月07日 | コラム「風食明媚」
はじめに・・・

このコラム「風食明媚」は、ブログ開設以前にホームページに掲載していたものです。
全15話あり、加筆・修正の上、順々に掲載していきます。

これはイタリア取材中に感じたり体験したことを
ただ単純に、思いつくままに書き記しただけのものです。
一夜漬けのイタリア語を命綱に旅をした
心細げな普通の旅行者の、他愛のない旅行雑記に過ぎません。

名所案内でも、旨いものガイドでもありません。
ましてや私の絵画観といったようなものは
何も書いてありませんし、書くつもりもありません。

ひょっとすると
私が作品を描くための原動力らしきものが
あるいは含まれて…いないでしょうね、たぶん。
単なる雑文ですから。

これらは、1980年代後半から90年代半ばにかけての話です。

※ブログタイトルの「風色明媚」と、この記事「風食明媚」は一字違いです。
打ち間違いではありませんので、念のため。


**************************************



真冬の夜。
アッシジの石畳からは意外にも人通りが途絶えてしまう。
通行人が一人もいない。
この世界的な観光地でもある小さな街の昼間は、巡礼者の絶えない聖地そのままの賑わいなのだが
夜のあまりの変貌ぶりに、裏切られたような困惑すら覚えるほどだ。
猫さえも横切らない。
薄暗い最少限の街灯と夜風だけが道連れだ。
イタリア中部の丘陵都市の本来の姿とはこういうものなのだ。

時折家並みが途切れると、眼下に佇む新市街サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリの街灯りが一望できる。
道の街灯は過ぎ去っても、遠くの街明かりだけはいつまでもついてきてくれる。
新市街の街明かりの方を振り向くたびに、首筋に冷たい外気が容赦なく侵入する。
誰一人すれ違う人がいない真冬の暗い石畳の道では、冷えた夜風が一層冷たく感じられる。

そんな夜、リストランテ・ブーカ・ディ・サンフランチェスコという店にいた。

次の皿はパスタ。
タリアテッレ・アル・タルトゥーフォだ。
タルトゥーフォとはトリュフのことである。
トリュフの入った、きし麺状のパスタである。
それが季節の特別料理としてメニューにあった。

給仕人の運んできた皿からは、微塵切りのトリュフのいい香りが漂っている。
私はゆっくりフォークに手を伸ばそうとした…
その時だった。
給仕人がおもむろに何かを取り出し、皿の上に手をかざして動かし始めたのである。

皿の中に丸い薄切りが散り始めた。

トリュフだった。



  アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂の回廊


反射的に私は緊張した。
その瞬間まで、この料理に入っているトリュフは
ソースに混ぜ込んだ微塵切りだけだと思い込んでいたのだ。
それまで2度ほど食べたものは皆そうだったからだ。
薄切りを散らす食べ方もあることは、知識としては知っていたけれど…。

金箔を振りかけられても驚きはしない。
しかし、この得体の知れない風体をしたキノコは別格だ。
トリュフの価格が頭をよぎって青くなった。

先ほどメニューで確かめた値段は、本当にこの料理のものだったのか。
うっかり見間違えたのかもしれない。
不安と恐怖が一気に襲ってきた。
12000リラ( 当時の通貨はリラ。約1200円 )と書いてあったはずなのだが…。
ちゃんと値段を確かめたと確信したからこそ、意気揚々とオーダーできたのだ。

「トリュフトリュフと騒いでも、この値段ならたいしたことないじゃないか」

さすがに産地だけあって、私でさえ気楽にオーダーできる。
特別料理と言う割には安いな…とは感じたが
特別イコール高価という図式が必ずしも成立するとは限らない。

トリュフが散り始めた刹那、先ほどまでの余裕は瞬間冷凍された。
自信喪失、全身萎縮…。
放心状態の一歩手前といったところだ。
しかし、すでにキャンセルできる段階ではない。
今私の財布の中には数万円分のリラが入っているから、よもや足りないことはないだろう。

舞い散りながら増えていくトリュフを眺めつつ、私は覚悟を決めた。
明日から節約すれば何とかなるだろう、と。
そんな月並みな覚悟をした…またその時だった。
給仕人がこちらを振り向き、何も言わずに探るような顔をして手を止めた。
私は怯えた目を給仕人に向けた。

"トリュフの量は、これで充分か?"と、その顔に書いてあった。
その場の空気や人の表情を読めない私が、奇跡的にそれを読み取ることができたのだ。
こういう状況では五感が鋭くなるものである。

私は泣きそうになるのを堪えながら、努めて冷静に答えた。
「バスタ、グラッツィエ(充分です)」


トリュフの香りが私の心を鎮めてくれた。
追加された薄切りは2枚や3枚ではない。
至福の一皿だった。
バターの風味が加わって、トリュフの特色に厚みが増したその味は何とも心地良かった。
私は束の間の官能の世界に酔いしれた。
やっぱりトリュフは素晴らしい!
無用な動揺は消え去り、私はゆっくりと堪能することができた。

レシートにはイタリア人独特の癖のある数字で、ちゃんと12000リラと書いてあった。



世界三大珍味という言葉は、つとに有名である。
フォアグラとキャビア、それにトリュフ。
これらは日常の私とは無縁な高級食材である。

この内、私はフォアグラが苦手である。
肉好き脂身好きなのに、なぜかフォアグラだけは味がきつくて完食できないのだ。
キャビアは好きである。
が、サメの卵にあまり執着がないのは山国育ちだからだろうか。

その点トリュフは大好きである。
いつも秋になるとトリュフの姿と香りが気になってくる。
しかし、日本ではオーダーする度胸はない。

イタリアのキノコといえば、ポルチーニが筆頭だろうか。
オボリという摩訶不思議なキノコもある。
『香りマツタケ、味シメジ』に倣うなら
香りトリュフ、味ポルチーニといったところだろう。

イタリアはトリュフ大国であり、アッシジのあるウンブリア州は代表的な産地の一つである。
もちろん品質によって価格には大きな格差がある。
貴重な白トリュフなどは、めったに口にできない。
今まで私が白トリュフを口にできたのは一回だけ、しかも自腹ではない。
普通の黒トリュフでも、上質のものはやっぱり高い。
しかし並みの黒トリュフだったら尻込みするほど高嶺の花ではないのだ。
この地域では比較的安価で食べさせてくれるのがうれしい限りだ。

私は初めて食べるまで、トリュフというものは内部まで黒い塊だと思い込んでいた。
フランス料理の写真に写っているのは、決まって黒い炭の欠片のような色ばかりだからだ。
確かに表面は黒っぽいが、中身は白トリュフかと勘違いするほど淡い色なのには驚いた。
ひょっとして、フランス産はイタリア産より色黒なのだろうか。

重ねて言うが、日本ではオーダーする度胸はない。
そしてイタリアでも、軽々しく「タルトゥーフォ・ビアンコ(白トリュフ)」とオーダーしてはいけない。

トリュフは白くなるが、顔色は本当に青くなるし、財布の中身は一瞬にして透明になってしまうからだ。


-------------- Ichiro Futatsugi.■


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