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GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

THE W 2022ファイナリスト決定。

2022-12-09 23:56:24 | お笑い考

 Aマッソ・エルフ・河邑ミク・さとなかほがらか・スパイク・TEAM BANANA・天才ピアニスト・にぼしいわし・フタリシズカかりこる・紅しょうが・ヨネダ2000・爛々

 あまり毎年ファイナリストが、変わり映えせんよな、"層が薄いのか、それだけ実力があるんか"・・・エルフは、東京進出後即か。ある意味主張・信念というかブレなさは、あるからな!河邑は、THE Wでは初ファイナリスト、R-1や歌ネタ王(ピンではなかった)は、あるけど。さとなかほがらかは、全く知らん。スパイク~にぼしいわしは、常連か最低1回は、ファイナリストになってる存在。かりこるは、フタリシズカのネタを考えてる方で、期待が持てますね!普段は、男女コンビやで。どうあがいてもこの大会には、コンビでは出られへんからな(大汗)ピンネタは、どうなんでしょう?紅しょうがは、予選審査員に貢物でも送ってるんかい?って言うぐらい毎年選ばれてるなぁ・・・ヨネダ2000の早すぎる出世よ!そう言えば去年も出てたな(汗)今年は勝負の年やな、敢えてボカして言うけど、8日後にもっと大きい大会の決勝進出者やからなぁ。過密日程で大変やろうけど、THE Wは練習の場所ぐらいの気持ちでやったら、ダブル優勝も夢やないかもな。爛々は、知名度が上がりつつあるよなぁ。Aマッソか紅しょうがにそろそろ優勝してもらって卒業してもらわんと、新しい女性芸人や目新しい存在が、いつまで経っても上がつかえてて、出て来られへん・・・

 ついに月曜から土曜に昇格か!ただえさえ他の曜日や時間でも、気にする視聴率やけど、土曜のゴールデンってなったら、なおさらの事で(汗)もし今年も低視聴率やったら、あっさり今年で打ち切りになる可能性も、あるでなぁ・・・

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現役監督と全日本の投手コーチを兼務は、史上初!

2022-12-08 23:21:02 | 野球

 という意味では、近鉄出身らしい破天荒さと言うか(笑)吉井理人 ロッテピッチングコーディネーターが、一軍監督に就任する事になりました!が、彼は、今は来年行われるWBC・侍ジャパン代表の投手コーチもやってるんで、「ようその立場でロッテの監督を引き受けたなぁ・・・」と思ったけど、本人はきっぱりと というかあっさりと というか”今(の時代)は、リモート映像やらリモートで何とでもなるし、コーチとも綿密に情報交換も出来るから、何も心配してなく、問題無い”と意に介してないようです(大汗)2012年オフに就任を断った当時のソフトバンクの秋山監督と、凄く違うなぁ。まぁ個々人で思考が違うし、当時の秋山監督は"シーズンに集中したいし、現役監督が開幕前の大事な時期にWBCの監督をやるのは、現実的ではないし無理がある"と考えるのが、先ず普通やけど、吉井新監督は器が大きいなぁ!

 吉井監督は、1983年オフに近鉄に入団。入団後しばらくは苦戦していたが、1987年オフに仰木彬が監督に就任すると、"吉井、来年は良い所(場面)で使うからな"とフル回転で使う事を本人に宣言していた。"吉井監督の向こうっ気の強さというか強心臓・負けじ魂・反骨精神を買ってて、守護神向き"と見ていたそうです!もちろん投球・持ち球の良さ・才能も含めて!同年は2位躍進に大貢献し、34Sでセーブ王を獲得!ただ抜擢したのも仰木監督であるが、吉井監督は信頼は置かれてたものの、褒められる事は決して無かった(汗)むしろ挑発する様に批判さえしていた・・・そういった扱いに吉井監督はむしろ反発していて、言い返す事もあったが、仰木監督はむしろニヤッとした表情で"やんちゃ坊主やのぉ"と意に介さなかった。その真意は仰木監督逝去前に"どうして昔は、僕にあんな態度であんな事を言ってたんですか?"と訊いたら、"お前はカッカ、カッカ怒ってる時・燃えてる時の方が、ええピッチングするやろ。ええ投球を引き出す為にやったんや"と答えられた時に"このおっさん何だかんだ言うてるけど、ほんまによう見てんな!見透かされてるなと感心しましたよ(笑)"と証言してましたからね。ただ10.19の時を除いて(大汗)この時は、吉井は頭に血が上りすぎて、仰木監督はこれはイカンと思い、信頼は得られませんでしたが・・・翌年も背番号が36から11に変わりストッパーで、リーグ優勝には貢献したけど、セーブ王は獲れず、それにもはや怒りやわだかまりが頂点に達し・・・以前この記事で言及したけど・・・↓

昨今の低迷期をOB選手達は、どう感じてるんやろうね(汗)? - GRの戯れ言日記2 (goo.ne.jp)

 日シリでは、第5戦の原辰徳の満塁ホームランや最終の7戦の中畑清の引退ソロホームラン以外は、好投を見せるが、本人曰く"そこまで本気・真剣ではなかった"そう・・・というのも自身への評価や扱いの悪さに怒りが溜まりまくってたし、チーム全体にもどこかでリーグ優勝しただけで燃え尽きて満足してたし、日本シリーズはあくまで付け足し・おまけであったし、"それにまたチームの年齢層も若いし、いつでも優勝出来る・日本シリーズに出られる・日本一になれると本気で思ってましたから"と・・・第1戦に登板した時も9回に3点差あった為、"僕に出番は無いと思ってましたよ、でもテレビに出るのは好きですからね(笑)"と余裕の発言!この事もまた書く機会があったら、書きたいと思います・・・翌年の1990年は、野茂英雄が入団し、背番号11も1年でまた変更されるけど、21になったんは本人も屈辱ではなくむしろ故郷・和歌山の大先輩・尊敬する東尾修と同じ背番号で今回のロッテの監督でも付ける事となった。同年は、15S。ただ翌年の91年からは、低迷・・・仰木監督時代、吉井は、札幌の「ビール園」で"ビール一気飲みで一番早くに飲み干した投手が、明日の先発投手"という賭けで、下戸やのに無理して必死になって飲んで先発投手の座を勝ち取った(元々先発志望やし)というエピソードもある。この話が、最近金村氏が投手から遊撃手になってるのは、何故や?・・・1993年に本格的に先発に転向。ただ草魂監督との折り合いが悪く(というか良い投手なんて、佐野重樹ぐらいしかおらんかったぞ、とは言うものの、佐野氏も影で悪口を言うてたけど・・・)、低迷は脱し数字的にはまずまずの成績(93年は5勝も防御率は良く、94年は7勝も防御率は悪化した・・・)を収めていた。1995年の開幕前にヤクルトへトレード。これは近鉄主導のトレードで、吉井はやや構想外であった・・・ルーキーイヤーから活躍してたが、やや抜け球で危険球騒動で自信喪失気味やった、環境や気分が変われば、復活するやろうという目論見でどうしても欲しかった西村龍次とのトレードで。ただこのトレードは、近鉄側は大失敗!西村は、不穏な空気・停滞気味のチームの雰囲気にのまれ、全く活躍出来ず・・・1998年にダイエーで復活し、カムバック賞を受賞したけど、実はダイエーでもこの1年だけやったけどね(大汗)対する吉井は、野村IDとも合い、ヤクルトで大活躍!1995・97年の日本一に貢献!!最終年の97年には、自己最多の13勝を挙げる!

 翌1998年は、FAでメジャーへ移籍。5年在籍し、まあまあの活躍を見せる。2003年に日本球界のオリックスに移籍!本人も反省してるけど、チーム内にメジャー風を吹かせすぎたし、自身もあまり活躍出来ず・・・2004年オフに球団合併もあり、戦力外通告を受けるも、再度就任した仰木監督が生前葬の際に"オリックスの球団社長は、おいででしょうか?給料は私が払いますんで、吉井をまた何とか獲ってくれませんか?"と訴えかけたし、翌年の春季キャンプに参加させテストを受けさせる!大きな戦力としては考えてないけど、こういうベテランの取り組む姿勢を他の選手も見て欲しいし、"へこたれたらあかんぞ、へこたれたら。(あいつみたいに)こうやって何度でも(人生は)チャレンジ出来るんやからな"という姿勢を見せる為でもあった。テスト合格し、背番号77を勝ち取った!だけでなく、古巣・ヤクルト相手の神宮での交流戦で久々の勝利を挙げたのを皮切りに6勝を挙げた!ただ前半に飛ばしすぎたのか、終盤は失速(汗)チームも最下位から4位に上がったものの、オフには仰木監督が逝去・・・翌年以降は、あまり勝ち星に恵まれず。2007年の開幕前に島田紳助のバラエティー特番に一瞬巨人の選手が数人テレビ画面に映り、大沢あかねらが色めき立つも、"この番組では、さすがに巨人の選手は出せません、代わりにオリックスの選手の皆さんでーす!"とかなり軽く扱われました、悪かったな不人気・地味なチームで(怒)!その時に一番テレビカメラに長時間ズームされたんが、吉井監督でした(苦笑)ただこの時がピークか、シーズン途中にロッテへトレード・・・同年引退。意外と、通算防御率はあまり良くない(NPB:3.86、MLB:4.62)んですが・・・

 直後に近鉄時代の同僚・梨田新監督率いる日本ハムの一軍投手コーチに就任!同時に真喜志康永 コーチも就任した事に週ベで豊田氏が、"直ぐ安易にこういう近鉄時代のいてまえ色に染めちゃうんだよね、北海道にいきなりいてまえ精神を植え付けても合わんよ・・・"と苦言を呈した事が合ってたのか、前年の優勝から3位に転落・・・ただ翌年は、同じ首脳でリーグ優勝!さらに投手陣は、3位に落ちた2008年から良化してたから、吉井コーチの手腕は評価された。さらに2009年は、守護神のマイケル・中村が抜けてるにも拘らず、優勝したから。ただ梨田監督との仲は、あまり良好ではなかったという噂も・・・立場が上の人に対してでも、正しい事は正しいとはっきりと意見するあたりは、名指導者と言われる所以である!ダルビッシュの師匠の1人でもある。2013・14年は、解説者。2015年はソフトバンク投手コーチ。2016年からは、再び日ハム。日本一に貢献。2019年にロッテの一軍投手コーチに就任。佐々木朗希の育成プランを一任される、実績はご存知の通り!ただ今年は、現場にはあまり関われず、曖昧なピッチングコディネーターという立場やった(汗)

 井口監督のフロントも予期せぬ辞任により、急遽用意されたような監督の立場やけど、近鉄の残り香が残ってるのは、ええ事やし、めちゃくちゃ頑張っていただきたいですなっ!

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ネーミングライツの影響力が、どれほどあるんか?

2022-12-04 21:57:20 | 野球

「楽天生命パーク宮城」が、来季から"楽天モバイルパーク宮城"となる事が、決まりました。楽天スマホが、拡大しつつあるし絶好のタイミングやな。ただ他球団に疎い野球ファンからは、正式な名前を覚えてもらえんやろうし、僕なんかは現在名で言う癖がちゃんとあるけど、覚えてもらう為にネーミングライツってあるんやが、浸透度って結局どのぐらいになるんやろ(汗)?1年以上経って、ようやく少し根付くぐらいかな?

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無題

2022-12-04 00:00:53 | 野球

 上野(日)をオリが、獲得しました。育成選手やけど、これもトライアウトがキッカケで!西巻(ロ)もDeNAが、獲得。皆さん「12球団合同獲トライアウト」の存在意義や疑問を持ちすぎたか、今年は各球団考え直して、役立ってるな!ほんまに欲しけりゃ、事前交渉や建前だけの入団テストを受けさせてるって意見が大半を占めてたけど、本来の意義に戻りつつあるかもな、あと反対やけど、一応現役ドラフトもこれからあるし・・・話を戻すと、"トライアウトは、元々各球団の戦力外通告の時期(日付)が、各球団で統一されてなく、バラバラで行われるから、その頃にはもう各球団の入団テストが終了してるケースが相次いだ(特にその被害を受けたのが、当時西武やった平塚克洋)為、それを防ぐ為にメジャーに倣って始められたもの"やったんやけど。

 それとソイロ・アルモンテが、再入団で2020年以来の中日に復帰です!スイッチヒッターで器用な選手やったけど、打率優先で長打力はほぼ年々低下気味やったんが気掛かりやけど、誰でもええから打てる選手が欲しいやろうから(大汗)


 P.S 下の無題の記事で過去に尾仲と沼田のヤクルト獲得を既に書いてたのに、また書いてたのに気付いて今は削除してます・・・失礼致しました!!何を書いたんか、最近覚えてなくて、フェイスブックに比べ一筆入魂でこのブログを書いてるとか言うてる割には、最近は気持ちも入ってなく、一応書く前に過去の記事を遡るんですけど、気付かずに見落としてましたな。やはり戯れ言か・・・

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最期まで分からなかった男・・・

2022-12-03 09:30:51 | 野球

 どう呈してというか書いて良いか分からず(言葉が見付からず)&睡魔に負けたりネタが多くて、ずっと書けずじまいでしたが、村田兆治 氏が、亡くなられました!が、死因が判らず、謎の死・不自然な死に方やったらしいでなぁ・・・火元や火の気がなく、逃げようとした・苦しんだという様子も無く、座ったまま見付かったっていいますし(涙)兆治さんの性格上、真夜中であり付近に燃え移る可能性もあり他人を巻き込むような事は、性格上先ずしない!であろうから、自身で自宅を着火して自殺を図ったとも思えんので、ますます謎ばかりやったなぁ(大汗)やはり先の空港でのトラブル・逮捕と全く無関係や無さそうやけど、いくら言った事で帰って来ないし、死人に口無しとはよく言ったもので・・・一本気な性格が、あの事件を自身の性格から自分を許せんかったんやろか?行き違いもあったやろうし離島の子ども達もそこまで気にしてなかったやろうし、釈放もされてる訳やから、そこまで気にするほどの事やなかったと思うんやけどなぁ(号泣)

 兆治さんは、1967年オフにドライチで福山電波工高(現:近大付属広島高校福山校)から東京に入団。入団後数年は、球威はあるものの制球難でプロの壁にぶち当たる(汗)ある日、得津高広が就寝中に兆治さんが起こして"先輩、見付けましたよ。プロで通用する投球フォームを!本当に通用するかどうか、見てください"とやって見せたのが、代名詞である「マサカリ投法」である。得津氏は、浴衣姿で披露されてもと思ったようで、直ぐに答えは出せんかったようですが(汗)失礼ながら、後年僕が夕方のスポーツニュースで初めて兆治さんのフォームを観た時は、思わず笑ってしまいました・・・何をフラフラしとんねんな(笑)!と・・・ただそのあと結構威力のあるボールが、来たんで面食らいましたけどね。しかも200勝を達成してる投手やとは、知らずに(謝)披露時も"なにダンスを踊ってんだ(笑)"と揶揄されたようですな(大汗)2年目に球団名がロッテとなった1969年に頭角を現す、この時点ではまだマサカリ投法ではない。マサカリ完成後の1971年に12勝を挙げローテに食い込む。1974年には、日本一に貢献!!日シリでは、クローザーとして君臨、MVPに輝く!!翌年は、主に救援投手として活躍(という事は、カネやん監督は、兆治さんの適性を先発やなく救援投手として観てたんか?・汗)、先発もやったけど、救援での出番の方がやや多かった(汗)1981年には、開幕11連勝。19勝を挙げ、最多勝に輝く!手強い一方で、暴投も多く1976年~79年まで4年連続で2桁暴投を記録(大汗)通算148暴投は、未だ日本記録(2位もノーコンと言われた石井一久)・・・1982年~84年は、肘の故障により成績が思わしくなくなる・・・特に83年は、リハビリに費やし、シーズンを棒に振った・・滝行やあらゆる治療や針治療などに取り組むも、一向に良くならず、左ひじの腱を右肘に移植する手術を決断する!"例え失敗や術後のリハビリが上手く行かなくても、自身が先行例になれれば良い"とも考えた末での大決断であった!!今回の事でヤフコメで初めて知った事なんやけど、最初に日本人選手で「トミー・ジョン手術」をしたんは、彼ではなく同僚の三井雅晴(ロッテ)やったんですね!先駆者はてっきり兆治さんやと思ってましたが、僕もまだまだ勉強不足ですなぁ(大汗)ただ"当時は、肘にメスを入れる事自体がタブー"で、復帰した例は見当たらんかった訳やから、黎明期というか初期段階には違いないな!さすがの兆治さんでも、心が折れそうに何回もなったが、1985年に開幕からローテに復帰&復活!!!さすがに故障前の様に中4日や5日では、投げれんという事で週1日登板の先駆者となった。それで毎週日曜日に登板するから、"サンデー兆治"と呼ばれ、彼も期待に応え勝利を積み重ねた!人気を博し、中年の星や諦めない心を国民に与えた。カムバック賞も受賞!これを機にそこだけを切り取って、昨今の投手が週1登板の中6日になりがちなんやけどね(大汗)1989年には、最優秀防御率を獲得!引退試合は、1990年10/13の川崎球場での対西武戦で行われたが、直球は140km台後半を記録し、フォークの切れも落ちてなかったが、「みんなからは勿体ないと随分言われた。自身でもまだまだ勝てる(やれる)自信はあった。でも先発完投し、年間2桁勝てるか(勝ち続けられるかどうか)となるとどうか?というね。それが私には、(一番)大事だったから」というのも頑固一徹というか美学やったんやろう!「それは(全試合完投で2桁勝てなければ)村田兆治ではないんです」とも言ってましたしね!引退試合は、5回コールドゲームで変則的な完封勝利となった訳やけど、本人は「神が降りた日だった。」と感慨深かったそう。一方で屁理屈やけど、「人生先発完投」がモットーやったけど、チーム事情でクローザーをやってた時期もあったからね(苦笑)

 まぁフォークボールを習得するにあたって、ボールを指と指の間に挟んで、紐でグルグル巻きに縛って寝床に入った・引退後でもビール瓶を指と指の間に挟んで、鍛えてたしショーとしてもそのままコップに注ぎこむなどして「指を鍛えた」んは、ここに書かんでも有名すぎる話やが(汗)引退後は、NHK解説者。1995年には、王監督に誘われる形で、ダイエーの一軍投手に就任!元々は古葉監督路線で組閣してた為、殆どの首脳陣が広島OBであったが、唯一と言って良い外部というかよそ者というか外様招聘(もっとも球団はダイエーホークスであり、王監督も兆治さんも他のコーチ陣といい、ほぼ外様内閣と言って良かったものでしたが・汗)でしたが、それだけ期待されてたんでしょう!ただあまり成果を挙げたとはいえず(打線も広い福岡ドームで苦戦し)、兆治さんもラストイヤーの1997年に心臓発作で離脱した時もあった・・・翌年から2015年までは、再びNHKの解説者。始球式でも度々140km以上を記録!2005年には、野球殿堂入り!受賞の際も"まだまだ若輩者ですが・・・"とどこまでもストイック(大汗)その辺も夫人から"昭和生まれの明治男"と呼ばれる所以でもあったわな。

 2008年には、「離島甲子園」開催を立ち上げる!僕は"甲子園て付くぐらいやから、てっきり高校野球やと思ってました(甲子園予選とは、別の大会で)が、中学野球やった"んですな・・・今回亡くなるまで、知りませんでした(謝)ほんまに僕の方こそ、若輩者ですなぁ・・・離島の凄まじく厳しい環境を身をもって知ったから、放っておけなくてと立派やったな!!その子どもたちに"プロとは、こういうものだ!"っていうのを見せるには、自身がしっかりとし実力を見せ付けねばならないという事でトレーニングを怠らなかったそうやわ!頭が、下がるばかりやな!!その中学野球というのが、軟式か硬式かは、判りませんが・・・また名コンビ・名バッテリーと言われた捕手の袴田英利 氏は、よく"兆治さんの投球をノーサインで受けてた"という証言をしてるけど、実際は本人のもっと突っ込んだ発言によると"サインを出して兆治さんは頷くけど、性格上捕手の出したサインに首を振りたくないから、異なるボールを投げて来た時もあった(から気を抜けず、大変だった)"から「実質ノーサイン」というのが、真相やそうです!氏が最後の所属球団となったロッテでの同僚の張本氏は、"ストレートとフォークの2種類しか球種がなくて、200勝以上勝ったようなもの"と言われてるな!同じ様な投手は、カネやんと200勝やなくてセーブやけど、大魔神ぐらいかな?・・・あと掴み所が無いというか真意が解らんというのは、兆治さんはフォークに自信というか誇りを持ってたけど、晩年は"ボールを浅い握りで投げるフォークで当時は、そういう言い方はしなかったけど「スプリット」を投じていた"のは、信念に反するしスプリットを多投してた当時のマー君とご自身に対して"あんなのインチキ(ボール)だよ"と本人も認めてたけど、"でも現役生活を長くする為・プロで生き残る為には、そうせざる(スプリットで投げる)を得なかった・・・"と言ってましたけどね、不本意でしたでしょうけど。現役ラストイヤーに10勝を挙げても辞めるような人の信念や意志に反してたでしょうし、心苦しかったでしょうね・・・

 完投しか認めないと言いながら救援もやってた・落ちる力の弱いフォーク(スプリット)・人生というマウンドから簡単には降りてはイカンと言いながらあっさりとこの世を去ってしまったといった具合に最期までこのかたの信条は分からなかったけど、野球界に偉大な貢献や記録を残した事は、間違いありませんでした!!ありがとうございました!通算成績は、試604 215勝177敗33S 防3.24 でした。お悔やみ申し上げます(涙)

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