という意味では、近鉄出身らしい破天荒さと言うか(笑)吉井理人 ロッテピッチングコーディネーターが、一軍監督に就任する事になりました!が、彼は、今は来年行われるWBC・侍ジャパン代表の投手コーチもやってるんで、「ようその立場でロッテの監督を引き受けたなぁ・・・」と思ったけど、本人はきっぱりと というかあっさりと というか”今(の時代)は、リモート映像やらリモートで何とでもなるし、コーチとも綿密に情報交換も出来るから、何も心配してなく、問題無い”と意に介してないようです(大汗)2012年オフに就任を断った当時のソフトバンクの秋山監督と、凄く違うなぁ。まぁ個々人で思考が違うし、当時の秋山監督は"シーズンに集中したいし、現役監督が開幕前の大事な時期にWBCの監督をやるのは、現実的ではないし無理がある"と考えるのが、先ず普通やけど、吉井新監督は器が大きいなぁ!
吉井監督は、1983年オフに近鉄に入団。入団後しばらくは苦戦していたが、1987年オフに仰木彬が監督に就任すると、"吉井、来年は良い所(場面)で使うからな"とフル回転で使う事を本人に宣言していた。"吉井監督の向こうっ気の強さというか強心臓・負けじ魂・反骨精神を買ってて、守護神向き"と見ていたそうです!もちろん投球・持ち球の良さ・才能も含めて!同年は2位躍進に大貢献し、34Sでセーブ王を獲得!ただ抜擢したのも仰木監督であるが、吉井監督は信頼は置かれてたものの、褒められる事は決して無かった(汗)むしろ挑発する様に批判さえしていた・・・そういった扱いに吉井監督はむしろ反発していて、言い返す事もあったが、仰木監督はむしろニヤッとした表情で"やんちゃ坊主やのぉ"と意に介さなかった。その真意は仰木監督逝去前に"どうして昔は、僕にあんな態度であんな事を言ってたんですか?"と訊いたら、"お前はカッカ、カッカ怒ってる時・燃えてる時の方が、ええピッチングするやろ。ええ投球を引き出す為にやったんや"と答えられた時に"このおっさん何だかんだ言うてるけど、ほんまによう見てんな!見透かされてるなと感心しましたよ(笑)"と証言してましたからね。ただ10.19の時を除いて(大汗)この時は、吉井は頭に血が上りすぎて、仰木監督はこれはイカンと思い、信頼は得られませんでしたが・・・翌年も背番号が36から11に変わりストッパーで、リーグ優勝には貢献したけど、セーブ王は獲れず、それにもはや怒りやわだかまりが頂点に達し・・・以前この記事で言及したけど・・・↓
昨今の低迷期をOB選手達は、どう感じてるんやろうね(汗)? - GRの戯れ言日記2 (goo.ne.jp)
日シリでは、第5戦の原辰徳の満塁ホームランや最終の7戦の中畑清の引退ソロホームラン以外は、好投を見せるが、本人曰く"そこまで本気・真剣ではなかった"そう・・・というのも自身への評価や扱いの悪さに怒りが溜まりまくってたし、チーム全体にもどこかでリーグ優勝しただけで燃え尽きて満足してたし、日本シリーズはあくまで付け足し・おまけであったし、"それにまたチームの年齢層も若いし、いつでも優勝出来る・日本シリーズに出られる・日本一になれると本気で思ってましたから"と・・・第1戦に登板した時も9回に3点差あった為、"僕に出番は無いと思ってましたよ、でもテレビに出るのは好きですからね(笑)"と余裕の発言!この事もまた書く機会があったら、書きたいと思います・・・翌年の1990年は、野茂英雄が入団し、背番号11も1年でまた変更されるけど、21になったんは本人も屈辱ではなくむしろ故郷・和歌山の大先輩・尊敬する東尾修と同じ背番号で今回のロッテの監督でも付ける事となった。同年は、15S。ただ翌年の91年からは、低迷・・・仰木監督時代、吉井は、札幌の「ビール園」で"ビール一気飲みで一番早くに飲み干した投手が、明日の先発投手"という賭けで、下戸やのに無理して必死になって飲んで先発投手の座を勝ち取った(元々先発志望やし)というエピソードもある。この話が、最近金村氏が投手から遊撃手になってるのは、何故や?・・・1993年に本格的に先発に転向。ただ草魂監督との折り合いが悪く(というか良い投手なんて、佐野重樹ぐらいしかおらんかったぞ、とは言うものの、佐野氏も影で悪口を言うてたけど・・・)、低迷は脱し数字的にはまずまずの成績(93年は5勝も防御率は良く、94年は7勝も防御率は悪化した・・・)を収めていた。1995年の開幕前にヤクルトへトレード。これは近鉄主導のトレードで、吉井はやや構想外であった・・・ルーキーイヤーから活躍してたが、やや抜け球で危険球騒動で自信喪失気味やった、環境や気分が変われば、復活するやろうという目論見でどうしても欲しかった西村龍次とのトレードで。ただこのトレードは、近鉄側は大失敗!西村は、不穏な空気・停滞気味のチームの雰囲気にのまれ、全く活躍出来ず・・・1998年にダイエーで復活し、カムバック賞を受賞したけど、実はダイエーでもこの1年だけやったけどね(大汗)対する吉井は、野村IDとも合い、ヤクルトで大活躍!1995・97年の日本一に貢献!!最終年の97年には、自己最多の13勝を挙げる!
翌1998年は、FAでメジャーへ移籍。5年在籍し、まあまあの活躍を見せる。2003年に日本球界のオリックスに移籍!本人も反省してるけど、チーム内にメジャー風を吹かせすぎたし、自身もあまり活躍出来ず・・・2004年オフに球団合併もあり、戦力外通告を受けるも、再度就任した仰木監督が生前葬の際に"オリックスの球団社長は、おいででしょうか?給料は私が払いますんで、吉井をまた何とか獲ってくれませんか?"と訴えかけたし、翌年の春季キャンプに参加させテストを受けさせる!大きな戦力としては考えてないけど、こういうベテランの取り組む姿勢を他の選手も見て欲しいし、"へこたれたらあかんぞ、へこたれたら。(あいつみたいに)こうやって何度でも(人生は)チャレンジ出来るんやからな"という姿勢を見せる為でもあった。テスト合格し、背番号77を勝ち取った!だけでなく、古巣・ヤクルト相手の神宮での交流戦で久々の勝利を挙げたのを皮切りに6勝を挙げた!ただ前半に飛ばしすぎたのか、終盤は失速(汗)チームも最下位から4位に上がったものの、オフには仰木監督が逝去・・・翌年以降は、あまり勝ち星に恵まれず。2007年の開幕前に島田紳助のバラエティー特番に一瞬巨人の選手が数人テレビ画面に映り、大沢あかねらが色めき立つも、"この番組では、さすがに巨人の選手は出せません、代わりにオリックスの選手の皆さんでーす!"とかなり軽く扱われました、悪かったな不人気・地味なチームで(怒)!その時に一番テレビカメラに長時間ズームされたんが、吉井監督でした(苦笑)ただこの時がピークか、シーズン途中にロッテへトレード・・・同年引退。意外と、通算防御率はあまり良くない(NPB:3.86、MLB:4.62)んですが・・・
直後に近鉄時代の同僚・梨田新監督率いる日本ハムの一軍投手コーチに就任!同時に真喜志康永 コーチも就任した事に週ベで豊田氏が、"直ぐ安易にこういう近鉄時代のいてまえ色に染めちゃうんだよね、北海道にいきなりいてまえ精神を植え付けても合わんよ・・・"と苦言を呈した事が合ってたのか、前年の優勝から3位に転落・・・ただ翌年は、同じ首脳でリーグ優勝!さらに投手陣は、3位に落ちた2008年から良化してたから、吉井コーチの手腕は評価された。さらに2009年は、守護神のマイケル・中村が抜けてるにも拘らず、優勝したから。ただ梨田監督との仲は、あまり良好ではなかったという噂も・・・立場が上の人に対してでも、正しい事は正しいとはっきりと意見するあたりは、名指導者と言われる所以である!ダルビッシュの師匠の1人でもある。2013・14年は、解説者。2015年はソフトバンク投手コーチ。2016年からは、再び日ハム。日本一に貢献。2019年にロッテの一軍投手コーチに就任。佐々木朗希の育成プランを一任される、実績はご存知の通り!ただ今年は、現場にはあまり関われず、曖昧なピッチングコディネーターという立場やった(汗)
井口監督のフロントも予期せぬ辞任により、急遽用意されたような監督の立場やけど、近鉄の残り香が残ってるのは、ええ事やし、めちゃくちゃ頑張っていただきたいですなっ!