GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

そう居るもんやない

2017-06-29 22:05:37 | 野球

 25(日)にまたしても"リベンジ"という気にはならんかったけど、前回1点差で落ちてるんで再受験して来ました、野球知識検定2級を。「前回よりも、出来が悪い」(号泣)!!問題集内は、「現代野球の祖」のアレキサンダー・カートライト考案のルールは?を記述式で答えさせる問題で"ニッカー・ボッカー・ルール"やったか"ニッカ・ボッカー・ルール"やったか忘れてしまいました、これ以外は正解。ただ!問題集外からの問題が難しく(汗)"唯一のミクロネシア連邦チューク諸島出身で毎日や高橋でプレーした投手は?"という問題は、答えは"相沢進"(毎日―高橋・トンボ・高橋)でしたが、問題文は、高橋の前は、「東映」って書いてあったような・・・どっちにしろ知らん問題・答えで僕は、最初適当でも書けば部分点をくれるかも知れんし、「スタンレー橋本」と書きましたが、スタンレー橋本(東映―大洋)は野手やから違うなぁと思い、終了直前に投手でハーフっぽい・日系っぽい名前を思い出し"ビル西田"と書きなおしましたが、ビル西田(西田亨)は投手でしたが、巨人―東映―大毎―国鉄やし、ミクロネシア連邦出身やないんで不正解・・・夏の高校野球大会で戦前、台湾代表にも関わらず準優勝した高校名は?は、テストが終わってから気付いたんですが"かの高校"か何かやと思い出しましたが、正解は"かのう高校"でした、書いてたら、△はくれたかも、白紙で出したからなぁ(か○○っていうのは、うっすら記憶にありました、去年の交流戦甲子園で永瀬正敏が、始球式でこの高校を舞台にした映画の宣伝に来たから)・・・△をくれるというのは、この検定でのルールでもあるんですが、実は闇?で司会兼試験監督のかたに1問誤字を見付けて、それを指摘したんですよ!その際に「この間違いを指摘したから、合格扱いにしてくれませんかねぇ?前回1点差で落ちてるだけに、いい加減そろそろ解放して欲しい・・・」と嘆き頼んだら、"もし不正解でも、△をたくさん出しときましょう。フルネームを判らなくても、苗字だけでも書いておいてください"とワンポイントアドバイスをもらったりしたんですよね、そういった「経緯」から来たんですよね(汗)あと1問は、"野球に造詣が深く芥川賞受賞者は?"という問題でしたが、"井上ひさし"しか出て来ずしかもひさしかどうかも記憶が曖昧で何故か久と漢字で書いてまいました(涙)ただこれも終了してから思い出したんが、"丸谷才一"でしたね・・・でもWiki見たら、丸谷氏は芥川賞受賞者というより受賞者候補って書いてましたけどね(汗)"井上ひさしにしろ丸谷才一にしろ、豊田元老と親交があり、週べの豊田さんのコラムに何度か登場した人物なんで、週べを読んでたら、分かる問題でした"な(涙)これは正解出来てたかも!前回出た"○○球場は、メジャーの何球場を参考にして造られたか?"は、せっかく覚えたけど、出ませんでした(困)甲子園・藤井寺の他にもナゴヤ・東京スタジアム(東京球場)[1962~1972年まで大毎・東京・ロッテオリオンズの本拠地。1977年閉場]も覚えたのに・・・試験監督は、左のサイドスロー投手で中継ぎ・先発投手で名を馳せた元関テレ・ラジオ大阪の解説者、プロ野球ニュースに関テレのスタジオから出演もしてた「口ヒゲ」村田辰美(現役時代は、近鉄―大洋)氏でした!口ヒゲは、まだ生やしたままでした(笑)生やした理由は、やはり日本人は童顔なんで、外国人選手になめられたくなく"威嚇"の為やったそうです。僕が質問したのは、"近鉄と大洋の球団の体質の違いは?"でしたが、"意外に大洋は遅れてるな、元々僕は大洋のファンでしたが、近鉄とてユニフォームは業者に出して翌日には、クリーニングされて届いてたもんですが、大洋はバブル期の当時、未だにおばちゃんが手洗いでしかも金も取られたから、ガッカリしましたね、セ・リーグでこれかよ!と"と。クイズは、"村田さんは、1974年のドラフト2位で近鉄から指名されましたが、その時1番くじを引き当ていの一番に指名出来た近鉄でしたが、その時のドラフト1位は福井保夫(松下電機)でしたが、2番くじで阪急のドラフト1位は、誰だったか?"は超簡単な問題でしたなぁ、答えはもちろん同じ松下電機の山口高志!世に言う近鉄の"ためらい指名"ですな(汗)近鉄が高志を指名せんかった理由も知ってますよ、"(山口に払う)金が無かったからだけ"でしょ、有名な話!あと"村田さんは、1986・87年の開幕投手でしたが、87年は他のチームで大事件・大きな記録が途切れました、それは何?"これも簡単なクイズでしたなぁ(笑)答えは"阪急の山田久志の12年連続開幕投手が、途切れた"でしょ。輪をかけて村田さんが、"じゃあ、誰が投げた?"と言いましたが、これも簡単!佐藤義則 やろ。挙手して当てられた人が、村田さんに「よう知ってるなぁ」とおっしゃてましたが、どの本にも書いてある事。あとは、大体難しいクイズでしたね(汗)ただ僕が、サインボールを当てたクイズは、当てずっぽうでしたけどね(汗)村田さん本人曰く"その答えはゼロではないけど、不正解"と言われましたが、出題側は既にその答えでクイズを作っていたので、儲け儲け(アカンベー)。"村田さんの投球フォームは、誰の投球フォームを参考にしたか?"は、当時の左のサイド(アンダー)って言ったら、"ピンクレディーの『サウスポー』のモデルになった"永射保しかおらんでしょう!真相は"不調の年に腕を下げてキャッチボールをしていたら、キャッチボール相手の有田修三さんが、村田!お前横から投げた方が、良いボールの回転してるぞと言われて、変更したというもの"やそうです。ただこの話をして僕がボールを受け取った後、やはり司会のかたが"ただ、その永射さんが、昨日亡くなったんですよね・・・"と話し出し村田さんはそれを知らず"嘘でしょ!そうだったんですか、知らなかったですね"という流れになりましたね。司会のかたは"たもっちゃん、たもっ(たもつ)ちゃん"と呼んでましたね。そんなに親交もあって、深い間柄やったんかい。

 その永射保 氏が、亡くなられました・・・初めてこの名前を知った高2の時は、"えいしゃほ さん"やと思ってましたが、そんな名前無いわな(汗)永射氏は、高卒でプロ入りした広島では活躍出来ませんでしたが、1974年に太平洋へ移籍。中継ぎとして起用されたが結果を出せず苦しむ。山田久志のフォームを研究、踏み込む足をインステップにして、ワンテンポタイミングを遅らせるフォーム改造に4年を掛けて成功。1976年から一軍に定着し、翌年には先発の一角として9勝をあげる。その後は貴重な左のリリーフ投手として起用され、ローテーションの谷間では先発もこなす。「左のサイドハンド(アンダースローと書かれることもある)」という流麗かつ特異な投げ方から、左殺しとして活躍。広岡監督時代は左のワンポイントエースとして、1982年、1983年、1985年と3度のリーグ優勝に貢献。1983年の巨人との日本シリーズでは5試合に登板、第6戦ではワンポイントリリーフながら勝利投手となり日本一に貢献。1985年の阪神との日本シリーズでも1勝を挙げた。1987年に大洋に移籍、1989年にダイエーに移籍し、1990年に現役引退。19年間の現役生活にピリオドを打った。歴代3位となる566試合のリリーフ登板を記録、年間リーグ最多登板試合を4回記録している。西武時代は特に、ピンチで相手主軸を一人抑えて流れを引き戻すことも多く、「史上最強のワンポイント」との呼び声もある。引退後は福岡県でスナック「サウスポー」を営む一方、マスターズリーグにも福岡ドンタクズの選手として参加していた。また、リトルリーグ「小郡リトルシニア」の監督を務めたり、筑後・佐賀を放送エリアとするドリームスFMで『スクランブル交差点』という番組を担当したり、佐賀県の運送会社「株式会社大運」の顧問を務めるなど地元筑後を中心に幅広く活動していました。特に西武時代は、4000打数以上では、未だ最高打率打者のレロン・リー(ロッテ)や「サモアの怪人」のトニー・ソレイタ(日本ハム)は、彼を嫌がり、リーは右打席に立ったほど、勝負を避けていたし、永射氏も"愛猫に「ソレイタ」・「リー」と名付けるぐらい"他の投手なら強打者と恐れる選手を得意としていた(大笑)上記の通りサウスポーのモデルにもなりました。左の横手投げも野球知識検定2級取得者もそう居るもんやない(炎)!僕も自選の「歴代バイプレーヤーベストナイン」に左の中継ぎ投手で"永射保"の名を挙げた事があります!通算成績は、試606 44勝37敗21S 防4.11 でした。合掌です(涙)

 あと今週発売(7/10号)の週べのP.70の「ボ共」のページで"きっといる"の最初のネタ(=一番最初に掲載されてるネタ)は、僕が書いたネタです。優秀賞もMVPも貰えんかったんは、ベタすぎるけど、出した事も忘れるぐらいで、久し振りな事やったなぁ!

コメント (2)
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