GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

ドラスティックな形

2016-11-14 19:05:19 | 野球

 日本一になっても"さらなる飛躍や活性化を図る為のトレード"なんでしょう吉川投手・石川慎吾外野手(共に日)⇔大田内・外野手・公文投手(共に巨)[驚]!!パッと見「日ハムの方が、損なトレード」ですが、やはりハムとしては陽の退団への伏線というか備え(出て行っても良いように)やったんと岡の目途が経ったから、"右の外野手の強打者は、これ以上要らん"と思ったんでしょう!"大田が、化けるかも知れん"しという事で・・・ただ吉川は、2012年度最多勝&MVPで今季も守護神に回ってからおかしなったけど、それは不向きやっただけで7勝を挙げてるんですよ!!このチームは、いつも思い切った事をやるもんなぁ(汗)各球団トレードが減ってるんは、"育成選手とかの増大で必要性が、減って来たから"らしいけど、「相変わらずこの2チームは、動くよなぁ」・・・にしてもこの2球団間のトレード、多すぎ(汗)かつては同じ球場を使ってただけあって「蜜月の関係」なんですなぁ(笑)
 それと今さらながら辻初彦 中日一軍作戦兼守備コーチが、現役時代を過ごした西武の新監督に就任!!辻監督は現役時代は、1983年オフに西武に入団。ルーキーイヤーの1984年は、新人ながら41試合に出場し、その内29試合は三塁手、4試合は二塁手だった。オフに二塁手のレギュラーだった山崎裕之が引退し、遊撃手には石毛宏典、一塁手には三塁手兼任のスティーブ・オンティベロス(西武)や片平晋作、三塁手には秋山幸二がいたため、チーム方針で辻は二塁手を目指す事になった。プロ2年目の1985年には出場した110試合中90試合で二塁手を務め、出場機会は大幅に増えました。1986年は二塁手として全試合に出場し、初めてゴールデングラブ賞とベストナインに選出された。日本シリーズでは第1戦の7回に二盗と三盗を成功させ、シリーズ史上6人目となる1イニング2盗塁を達成した。1987年は、以前伊原監督就任の際に書いた巨人と戦った日本シリーズ第6戦では8回裏2アウトから安打で出塁し、続く秋山幸二がセンター前ヒットを放つと、捕球したウォーレン・クロマティの緩慢な返球と、中継に入った川相昌弘が打者走者の二塁進塁を警戒して三塁側が死角になった事に乗じて、一気に一塁から生還して駄目押しのホームを踏んだ「伝説のプレーの主役」を演じている(燃)→http://forever545kb.hatenablog.com/entry/2013/10/23/213900また優勝目前の9回表2アウトの場面ではタイムをかけ、泣いていた一塁手の清原和博を慰めている。1988年から7年連続して二塁手でゴールデングラブ賞を受賞し、1990年まで3年間連続で全試合出場を果たした。1989年には初の3割を達成する。1990年の日本シリーズでは第1戦から3試合連続で一番打者としての第1打席に安打で出塁し、いずれも得点に結びついて、4連勝での日本一に大きく貢献し(第4戦も一番打者としての第1打席に四球で出塁)、優秀選手賞を獲得した。 1991年オフには年俸が1億1100万円となり、初めて1億円の大台を超えた。1992年の日本シリーズ最終戦では、7回裏一死満塁の一打出ればヤクルトが勝ち越す場面で、杉浦享の放った強烈なゴロを捕り本塁で広沢克己を補殺。大ピンチを救うプレーで日本一に貢献した。1993年は腰痛で出遅れたチームも4月は低調だったが、上半身の力を抜き下半身でタイミングを取るような打撃フォームにした事もあり、初の打撃タイトルとなる首位打者を獲得。こうしてチームと共に円熟期を迎えたが、1995年には腰痛もあって前半戦の出場機会が減り、成績も低迷した。当時2億円(推定)の高年俸がネックとなった事や、若返りを図るチーム事情から戦力外通告を受けた。現役続行を希望して自由契約となった。1996年からは、ヤクルト監督の野村克也とロッテGMの広岡達朗から、それぞれ入団を誘われた。先に声を掛けられていた事と野村の下で野球を勉強したい気持ちからヤクルトへの入団を決めた移籍1年目の1996年はキャンプから若手と同じメニューをこなし、オープン戦にも2月25日の初戦から出場した。しかし疲労等からオープン戦の打率は.227と低調で、更に4月7日には対横浜戦の試合前の練習で右手人差し指を骨折してしまった。復帰した5月10日の対中日戦で猛打賞を記録すると以後は安打を量産する。規定打席には達しないながらも6月上旬には4割近い打率で、オールスターにも出場した。後半戦規定打席到達後は徐々に打率を下げ、自己最高の.333を記録するものの7厘差でアロンゾ・パウエルに及ばず、セ・パ両リーグでの首位打者はならなかった。1997年は再び首位打者争いを目指し好調なスタート切り、序盤こそ打撃成績ベストテン圏内に名を連ねていたものの、体力の衰えもあり下降線をたどり、スタメン出場機会が減った夏場以降は代打なども経験しつつ、若手選手をサポートする役割も担った。 1998年には一塁手を4試合務めて12年ぶりに二塁手以外の守備に就いたほか、打数は少ないものの打率.304と代打の切り札的存在だった。 1999年はキャンプで左肩を痛め、その後も左わき腹や左太もも等の故障が続いてプロ入り以来最少の17試合出場に終わり、同年限りで引退した。
 引退後は2000年から2年間ヤクルトで二軍守備・走塁コーチを担当した。2002年からは横浜で一軍守備・走塁コーチを2年間務め(かつての師である森監督の勧誘もあったであろう)、二塁手の種田仁(中日―横浜―西武)や遊撃手の石井琢朗の控えだった内川聖一の守備などを鍛えた。しかし、チーム全体では失策数が大幅に増え、2年連続で最下位に低迷した。翌2004年は二軍打撃コーチに転身。2005年からは、野球解説者・野球評論家を務めました。2006年には、2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表内野守備・走塁コーチ(三塁ベースコーチ)を務めた。大会期間中はノックだけでなく打撃投手等も行っていた。同年オフに中日の二軍監督に就任。2007年には就任1年目にしてウエスタン・リーグ優勝とファーム日本選手権制覇を果たす。2009年もファーム日本選手権を制覇した。2010年は一軍の総合コーチに異動し、監督の落合博満を支えた。2011年シーズン途中からは笘篠誠治(現役時代は、西武)に代わって三塁ベースコーチも担当した。2011年シーズン終了をもって落合内閣退陣及び契約満了により中日を退団。2012年からは再び解説者。2013年オフに一軍内野守備・走塁コーチとして中日に復帰しました。
 まぁこのチームの守備面の強化は急務で特に"内野守備の強化は、急務"ですからなぁ(涙)ただ田邊前監督と同時代に二遊間を組んでた選手が、次の監督とは、あんまり色としては、変わらんよなぁ(汗)まぁ"田邊と辻とでは、現役時代の守備力には、かなり差があった気もします"が・・・意外?と"首脳陣としては、パ・リーグのチームでの就任"は、初!なんですなぁ(驚)ヤクルトに行ってからは、セ・リーグのチームでしかコーチをしてなかったんですなぁ(汗)それもやや遺恨のある"西武に復帰"とは、やはり育ててもらった恩があるんでしょうなぁ!ちょっと楽しみな監督の誕生ですなぁ!!

コメント
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