GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

大島・平田残留で追い風になるか!?

2016-11-15 23:57:59 | 野球

 これもまた遅れで中日は、森繁和 監督代行・ヘッドコーチの正式に監督就任となりました!森監督の現役時代は、1978年のオフ西武に入団しました。1979年はルーキーながら先発陣の一角を占めるが、チームが最下位に沈んだ事もあり、5勝16敗に終わる。しかし2年目からはコンスタントに二桁勝利を記録し、「西武投手陣の中心」となる。
1982年は開幕投手に起用されるが、その後4試合結果が出ず、リリーフ転向。シーズン途中からリリーフとして西武の所沢市移転後の初優勝に貢献。中日との日本シリーズでも3試合に登板した。1983年には5勝5敗34セーブ(34セーブは当時の日本記録)の成績で最優秀救援投手を受賞。巨人との日本シリーズでは第4戦でセーブを記録した。その後は怪我に苦しみ徐々に成績が低下、1988年限りで現役引退。
 引退後は、1989年~1991年まで西武二軍投手コーチを務め、1992年からはロッテ監督へ就任した八木沢荘六の後を受け一軍投手コーチへ就任。1998年シーズン途中、投手陣の低迷の責任を取らされ二軍へ配置転換となり、1999年に退団。2000年~2001年までは日本ハムの一軍投手コーチを務めたが2年連続でチーム防御率5位と低迷した。2002年からは森祇晶に請われ横浜の一軍投手コーチへ就任。2003年まで務めたが、チーム防御率4.09(リーグ5位)と4.80(リーグ最下位)と低迷。日本ハムと横浜の両球団で投手陣が不振に陥り最下位に沈んだ。2004年からは中日の監督に就任した落合博満からの要請を受け中日の投手コーチに就任。2009年まで中日の一軍バッテリーチーフコーチを務め、2010年にヘッドコーチへと昇格し4度のリーグ優勝、1度の日本一に貢献し、2011年に落合内閣終了と共に退団。2012年~2013年は野球解説者・野球評論家を務めた。2014年から中日に再入閣。なお、2014年から2015年までは監督の谷繁元信が選手兼任だったため、谷繁が選手として出場した場合は森が監督代行を務めていた。2016年から谷繁が専任監督になった為、ヘッドコーチに専念する事となったが、チームの成績不振が改善できず優勝争いにも加われなかった為、谷繁が休養となった同年8月9日から再び監督代行となった。
 63歳シーズンにして自身初の監督就任となり、監督初就任時の年齢としては2012年にオフに58歳で監督初就任した中畑清を超え、史上最年長となりますなぁ(驚)というか、中日は"シゲさん休養後森代行になってからの勝率が、シゲさんの時よりも下がってますが"(少怒)「これではあまり意味無いし、あんまり変わらん」やろぉ・・・森監督自身"次の人に良い形で引き継ぎたい"ってそれは"自身は繋ぎ役で短命だ"って言ってるようなもんで、多分クッション役程度で短命で終わるんでしょうなぁ(汗)やはり落合GMの「日ハム時代の兄貴弟分関係」の"小笠原道大 二軍監督の一軍昇格"が、本命なんかなぁ・・・さらに僕としては、日ハム・横浜時代に若手投手を育てられなかった手腕というか失敗が、頭をもたげた時があっ(略)ですが(汗)ただタイトル通りほぼ抜けると思われてた2人が、残留する事になった点では、もしかしたらもしかするんか!?
 それと楽天の球場名が、来季から"koboパーク宮城"となり、「スタジアムという概念を取っ払い」ました(→球場は野球を観に来る所だけでなく、テーマパークに行くという感覚の場所であると)[汗]

コメント
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