富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

女人追憶 第五部

2011-04-03 23:50:07 | 女人追憶

小学館 初版:昭和62年5月
※集英社文庫版では 「自然の流れの巻」と副題あり


しばらく荒川さんネタに頼ってきて、まあ、そっちのほうが有意義だと思って読書をサボってきましたが、
四部を読み終えたのはいつだったかとブログを読み返してみたら、「メリークリスマス」だって!!
これではいけない。ちょっとペースアップして七部まで読まなくては。
荒川さんも発表の場を持ったことですし、しっかりやります。

 

さて、この巻でも真吾はいろいろな女性と交歓を繰り広げるわけだが、男と女と性に対する真吾の独り言はいつもと同じ。うるさすぎるほどだ。

そこで一つの疑問。『女人追憶』は、官能小説として知られているが、果たして本当に官能小説なのだろうか。
確かに話の大半は男女のそういう行為だ。でも、直接的・刺激的な表現のなさは、作者の単なる美意識なのだろうか。

雪子、ちえ、松美、明美、英子、鈴子、そして、妙子。
さまざまな女性が登場し、それぞれに人格的な特徴はいちおうあるが、結局は性的な“反応”と、真吾をどのような“女の目”で見ているか、が関心事であり、女性たちはテストパターンのサンプルのようなもの。

男は愛していない女と関係できる。男は愛している女がいても、ほかの女と関係できる。
でも、やっぱり一人の女に特別な感情を持つことがある。
男の生理と女の情感については結局は相容れない部分があり、だからこそ男女の悩みは尽きないのだろうが、
宮崎真吾の独り言は、その答えを必死で出そうとする、誰もが行っているであろう行為なのではないか。

つまり、「人はなぜ生きるのか」という命題のごとく、永遠に答えの出ない(おれは、なぜこんなことをしているのか)という問いに真吾は向き合っているようだ。

文中には真吾のカッコ書きの独り言のほかに、作者の価値観が現れた短文がぽろぽろ盛り込まれている。
作者は数々の恋愛論を発表しているが、
もしかして、『女人追憶』は、その延長で記された富島健夫の性愛論の集大成なのではないか、と今回読書していて感じた。


そして、芸者の松美が不能になった中年の「いいさん」に復讐する場面は、“官能小説”としてはどうなのだろうか。
「富島作品には中年の性を書いた官能小説はない」とは荒川さんの受け売りだが、確かに、いいさんには枯れた男の魅力もなにもない。みじめで哀れなだけだ。
このエピソードは松美を通じて、女の復讐心を表現したものかもしれないが、それだけではなくて、やはり性は「エネルギーの消費」であり、若さの特権なのだという作者の価値観も表れているように思える。

ところで真吾は、いいさんに「ウグイスの谷渡り」で傷つけられた様子を順序立てて説明する松美に対し、
「えらいなあ。よくそこまで自分を客観視することができるものだ」という。
これは女は情に溺れやすいという逆説なのだろうか。


もう一つ気になったのは、刺激を得る方法として、いつも第三者をからませている。
おなじみの3Pやスワップ。今回は行為を他人に見せるエピソードがいくつかあった。
ふたりで行う性の追求はあくまでノーマルであり、SMなどの変態行為には発展しない(「SMファン」掲載の「背徳の部屋」はどうなのだろう)。

“他の男”と関係を持った明美を真吾が“噛む”シーンがでてきたが、それも、明美への“嫉妬”という“サービス”であった。
そういうことにはあまり興味がないようだ。浴びたり、呑んだりするだけで十分だということか。
ただ、意外に妙子が一番性的な遊戯にめざめていくような気がする。真吾に露骨な言葉を言わせようとしたり。恥ずかしながらも、性に対する好奇心を見せつつある。
女の顔を覗かせ、二人の関係に少しずつ入り込んでいく、妙子の母のこれからも気になる。

また、五部はみな“よろこび”を知った女性ばかりのせいか(雪子すら!)、どの女性にも妖しさがあふれている。
そして、鈴子が痛々しい。

「ごめんなさい。あたしは今、わがままを言っているだけなの。だから、だまって聞いていて」
「うん」
「東京へ行って、あなたの近くに住んで、あなたの下着を洗濯して……」
「……」

こんな傷つけ方をしてはいけない。


さて、真吾が明美との関係を続けることを「貴重な適齢期を侵食している」と考えたり、「女にとって大切なのは結婚」という言葉があったりするのは、やはり作者が古い価値観を持っているからだろう。

他にも、詩を書く者へのちょっとした皮肉?や、「恋愛論」にもあった、女は「なぐる」ではなくて「たたく」という言葉を使うこと。「湯上りの女の匂いは、洗髪してはじめて効果がある」「宇野千代も山田五十鈴も、つぎつぎに男を変えて大きくなった」など、細かなところにおもしろさが見えた。

学生運動については、
「うちの大学の場合は、ほとんど無関係だわ。社会主義とか人民とかに無関心。自分のことだけ考えているの」
コバルトシリーズでは逆に関心を持った人物が登場しているが、この作品では、これで思う存分性に没頭することができるということか。

真吾が帰省した時の体操の先生の台詞には、こうある。
「学生が身を持ちくずすのは酒と女だと思っていたが、そうじゃないな。勉強も何もしないのはもちろんいかん。そのつぎが学生運動だ。きみも深入りはするなよ。いいか。田舎出のやつほど、純情だから過激になりやすい。大都会で育った連中はちゃっかりしていて、結局はかしこく振舞う。そんな連中に踊らされるんじゃないぞ」


第二部の「エピソード」で出てきた高瀬と道代夫婦とのやりとりは、富島作品特有の青春のにおいも感じる。
ラストの章は「二人の母」。思わずくすっと笑ってしまう終わり方だった。

しかし、“たたずまい”や“内部反応”ばかりが“追憶”されては、女もたまったものではないな。

2011年4月3日読了