新春…まあ、旧正月ってことでおゆるしを。
ようやく実現したこの企画。『富島健夫書誌』の存在を知ったその時から、私の頭の中にあったものです。
このブログの読者なら(きっと!)ご存じ、荒川佳洋さんは、十代のころから富島作品に接しておられる富島健夫研究家で、
2009年には富島作品や年譜を纏めた『富島健夫書誌』を発行されています。
リアルタイムで作品に接してこられた荒川さんの、時代の空気あふれる臨場感、そして、作家 富島健夫に対する深い洞察と愛情に満ちたお話をお楽しみいただければと思います。
第1回目のインタビューは2011年1月25日(水) 都内某所にて行われました。その様子を数回に分けてお伝えします。
インタビューは今後とも継続する予定です。
では、どーぞ!
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―今日はよろしくお願いします。ずっとこれやりたかったんですよ。
まずは基本的なことから、荒川さんと富島健夫の出会いについて聞かせてください。
残念ながら覚えてないんだよね。当時ぼくは純文学を読んでた少年だったんですが、どういうきっかけだったか、富島健夫を読んですごく熱中した。
―青春文庫でしょうか?
だと思うんだよね。いきなり「小説ジュニア」とか読んだとは思えない(笑)。ただぼくが中学生の時に書いた小説のなかに、もしかしてこの当時富島を読んでたのかなっていうのはある。昭和41年、学研から青春文庫全5巻が刊行されるんですが、ぼくがそれを読んだのは42年になってから。これがはっきりしてるのは、朝日新聞に本探しのコーナーがあって、ぼくはそこに投書して、青春文庫から漏れた富島の初版本や、座談会の載っている「文学界」などを集めたことがあるんです。それが67年の朝日に載ってることを書誌の編集中に偶然に発見しているから。
一番初めに読んだのは多分「燃ゆる頬」だと思う。「燃ゆる頬」は青春文庫でね。強烈に印象に残っているのは、ぼくがすごい熱を出して、その熱が冷めたとき寝床の中で読んでたのを覚えてる。まさに「燃ゆる頬」だ、って思いながら(笑)。で、すごく感動したの。
―そして富島健夫に熱中した。
うん。その頃、大江健三郎とか遠藤周作、椎名麟三なんかを同じように熱中して読んでたんだけど、富島に対しても彼らと隔てを感じなかった。傾向は違うけど、これも文学だと思っていた。富島が石原慎太郎、小田実、有吉佐和子たちと座談会に出ていることなんか、富島自筆の略年譜にも出てこない。ぼくがそれをどうして知ったのか謎ですが、そういうことを調べあげるくらい1年たらずの間に夢中になったということですね。
これは富島健夫って小説家にどれだけ魅力があったかってことなんだけど、ほんとに好きで、熱中するだけじゃなくて、富島の小説に出てくる主人公の男の子のようになろうと自己確立をめざした。まあ失敗しましたが(笑)。自分の人生観まで影響を受けたんです。
―具体的はどんなところに?
一番強烈な体験だったのは、1968年くらいから、17~18歳の時に学生運動にすごく刺激を受けてね。その時に富島健夫を読んでる少年っていうのは、なんていうのか、富島ふう人生観にすごく支配されてるの。だから学生運動に刺激されていても、一直線に飛び込めない。
学生運動っていうのは、基本的には人民のため民衆のためにとか、正義のためでもいいんだけど、そういうカテゴリーの中で考えられる世界なのに、富島を読んでる少年は、自分のため、個人のためっていうふうに思ってしまう。小説世界がそうなの。ぼくはけっきょく18から学生運動にかかわってゆくんだけど、富島的な個人主義観をどう克服するかということでは葛藤がありました。富島健夫にそれほど心酔していたということだよね。
荒川さんをチラみせ。
「恋と少年」だったかな、戦後、食料不足でヤミ米を食べないと飢え死にするような状況になって、それでもヤミ米を買うことを自分の職業として禁じた判事さんの話があるの。実話ですけどね。まあこの判事さんは偉い人だったんだけど、それで餓死するわけ。そのことが新聞に載った時、富島はニヒリズムっていうか、シニカルな反応をするんだよね。「彼は買うか買わないかを選べる立場で買わないことを選択した。それは彼の個人的な名誉欲や美学であり、そのために死んだんだ」って。その時富島一家は食うや食わずやの状況で、一日一日を生きるのが大変な時期を過ごしていたわけだから、「結局は選べたんじゃないか」って。飢え死にしたのも結局はその人の自己満足なんじゃないかって感じるような少年だったんです、富島少年は。
同じ「恋と少年」に、おぼれた子供を助けようとして死んだ先生のことが書いてあるんだけど、それだって結局は自分の職業意識による自己満足だって。すごく極端なの。人間の中にある正義を信用しないのね。ぼくは今は、類的存在としての人間を信じていますが、つまり普段は卑小な存在であるんだけど、ある場面では、自分の命を捨てても他者を救おうとすることが人間の崇高さとしてはあって、それがなければ歴史の変革のなんてものはないんです。富島は中国革命の「長征」を賛美してるから、こういう人生観は次第に訂正されていっただろうと思いますが…。
―そのニヒリズムは敗戦の体験からでしょうか。
そう。戦争が終わった時に自分たちが教えられてきたことが全部嘘だったっていう感覚を富島は死ぬまで引きずってるから。判事の話も自己犠牲をした先生の話も、新聞などが書きたてるその種の美談というものに、戦時中の軍国美談にだまされた少年は、もう騙されないぞ、という反発心もあったんでしょうね。
軍国主義を叩き込まれてきた少年は、敗戦を境にして百八十度転換した民主主義教育にとまどい、かつての軍国教師たちが民主主義を口にしだしたその豹変ぶりに、大人のみにくさを見てしまう。いままで教えられてきたことはすべて嘘だった、だからこれから教えられることも嘘でないという保証はないんだという、その感覚っていうのは、今でいうと、小学校にナイフを持った少年が飛び込んできて殺人事件が起こるとか、その時に子供たちは心的外傷を受けるじゃない。今ではその傷をケアする人がいるけど、おそらく富島たちが受けた傷っていうのはそういうケアを必要とする種類のものだったんだろうね。小学校の殺人事件なんかの比ではない、大きな体験だったんだから。でもそんな時代じゃないし、そういう傷を負って大人になると、みんながみんなじゃないだろうけど、死ぬまでそれを持ち続ける。富島はこれを「内臓をやられる」というふうに表現しています。
この料理を食べるのが私の仕事です。
富島は「文壇付き合いはしなかった」って書くんだけど、実際に深く付き合った友人はいない。生島治郎、画家の小林秀美とか仲が良かった友達はいないわけじゃないけど、ゴルフの友達とか同窓とかね。すごく友達って感覚が希薄なの。
富島の朝鮮時代にはいっぱい友達がいるんだけど、「生命の山河」の静ちゃんを含めてね。敗戦時にみんなバラバラになって、そこで友達って関係が破裂してなくなっちゃう。朝鮮からの命からがらの引揚げという体験は、国家でさえ一瞬にして壊れる。生まれ故郷が異国になってしまう。母校が廃校になり、みんな自力で引き上げなければならなくなる。その感覚は、友達は作っても壊れるもの、永続性がなく、結局はみんな散り散りになってしまうっていう一種のトラウマになったんじゃないかな。
ふみさんが書いてた「燃ゆる頬」の青春文庫の広告だけど、“青年の燃えるエネルギーを、愛に、友情に託してうたいあげる哀切のドラマ”ってありましたが、富島は基本的には友情をテーマにして小説は書いていない。青春小説の基本テーマはかつても今も異性愛と友情なのにね。それっぽい場面はあるけどね。親友って言葉を使ったことは一度もないし、友情に対する思い入れの浅さっていうか、淡泊な部分がある。だから作品でも友情問題についてはあまり書かない。「恋か友情か」など友情のついたタイトルの小説はふたつみっつあるけどね。でも、一過性のそのときどきの付き合いって感じでしょう。
唯一友情っぽいものを感じるのは、「錦が丘恋歌」の中に病身の少年が出てきて、主人公がお見舞いに行くんだけど、その少年に対しては確かに友情のようなものを感じる。実在の人物らしいんだけどね。
作品読んでると同人雑誌仲間とかいろいろ出てきて和気あいあいと宴を繰り広げたり、ケンカの仲裁に入ったりしてやってるんだけど、全編にわたって友情を感じる作品はないですね。多分敗戦時のトラウマなんじゃないかと思う。
つづく
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今、気づきましたが、ちょうど去年の今日、このブログを開設したんですね。
1周年企画ともいえます。みなさん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。