春 夏 秋 冬

めぐり来る 春夏秋 麗しき 大和し護れ 民草いとえ 
          

ブログ休止のお知らせ

このブログの表題に入れた短歌の、春夏秋冬の中の冬の字が、誰かによって削られて、修正不能になって久しいのですが、昨日から編集画面までが、誰かにいじられたようで、出す事が出来なくなっています。 この記事作成画面も、何時使用不能になるかもしれない状況にありますので、 春夏秋冬はこの記事をもって、しばらく休ませていただく事にしました。(2010年3月) * * * * * * *  Fc2ブログに不祥事が起き、広告主が引き上げたそうです。 Fc2は何時終了になるか予断を許さない状況かと思い、 気になる過去記事を少しずつ、こちらのブログに写す事にしました。(2015・4・24)

蹂躙されるのに慣らされていた時代の話

2009年06月13日 13時42分09秒 | 思想信条
今日六月十三日は、私の姉の命日です。
1953年 昭和28年の事だから、もう50年以上も前の事になります。
その年の3月に父の転勤で広島から長崎に移転してきたばかりの時の事でした。

姉が盲腸を拗らせて、急遽タクシーを呼んでお医者さんに向かっている時、
父は知り合いの人に何処が良い病院か聞いて、その病院に行くつもりでいたのだそうです。
それが車中で姉が余りに痛がるものだから動転してしまって、父は「何処でもよいから一番近いお医者さんに行って下さい。」とタクシーの運転手さんに言っていたそうです。

運の悪い時は運の悪いもので、そのタクシーが通りかかっていた道のすぐそばに、
長崎市では悪評で有名な藪医殿の医院が有ったのでした。

尚その上、運の悪い事にその日は、そのお医者さんが市会議員に立候補するために、後援者を集めて演説会を開く予定の日で、予定時間も迫っている時だったのです。

しかし現実に苦しんでいる患者を、拒否するわけにも行かなかったのでしょう、仕方なく手術を始めてくれたのは良いのですが、
姉の盲腸は、藪医のそのお医者さんには手の施しようの無い状態になっていたのでした。

その手術が終わった時、「ぐじゃぐじゃになってたから、仕方ないからそのまま縫い合わせておいた。」とそのお医者さんが身内の人に言っている話を、偶然母は聞いてしまったのだそうです。
お医者さんはその後、大急ぎで予定の演説会場に走られたらしく、
何の追加の手当てを受けさせて貰うことも無く、その夜姉は亡くなってしまったのでした。

2~3年後に、兄が盲腸になって、別の病院で手術してもらった時、
話を聞かれたそこのお医者さんが
「今時どんなに手遅れになっていたとしても、盲腸で死なせるなど、医者とは言えない。」と呆れておられたそうです。

姉の手術をしたお医者さんは、自分の手に負えない病人を、誰か別の人に頼むのは沽券にかかわる事だったので、そのまま死を待たせたのでしょうか?
それとも一刻も早く、選挙の演説会に出向きたかったのでしょうか?
姉は見殺しにされたのでした。

此処で不思議なのは、母が無責任なお医者さんの話を聞いていながら、
そのまま黙って姉に付き添っていた事です。
二十年以上経って、母に思い出話としてこの話を聞かされた時には、どうしてそのまま放っていたのかと、呆れて母を詰ったものでしたが、
当時の素人は、お医者さんがそうされたという事は、そうする以外になかいのかと、諦めてしまうものだったのかも知れないという気がしてきています。

その後のような世相の時代だったら、
そのお医者さんを訴えて、訴訟沙汰にしていたような事例だったのかもしれませんが、戦後十年にも満たなかったその頃にはまだ
訴訟沙汰を起こすなどという発想も無い時代でした。

その後医療事故が相次いで話題になるようになってからは、
勿論酷い医療ミスも多かったのでしょうが、
お医者さんにとって不可抗力のような事例さえも、訴訟沙汰に持ち込む人が出たりして、人の生き死にに係るお仕事のお医者さんにとって、大変な時代になってしまったようです。

戦時中は人権無視が当たり前のようになっていて、何でも我慢するしかないと諦める事になれさせられていた母の時代の人にしたら、有る意味権力者のお医者さんの判断は絶対で、従うしかない事だったのでしょう。

今権利意識が行き渡るようになって、お上の命令は絶対だった昔が、恋しくなっている、自分をお上と思っている人も多いのかもしれませんね。
でもお医者さんに対しては兎も角、
民主主義国の主人は国民なのですから、
公務員は公務員であるという事を、公務員に忘れさせないようにして、
国民が不当に我慢させられる事のない、健全な社会を守って行きたいですね。