住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く時折々の思いを語る

ものわかりのいい人ではいけない

2012年02月05日 11時54分31秒 | 世間話
今、私たちのまわりには30才40才になっても結婚しない人、結婚しても子供を産まない人が結構いるだろう。そして親たちも、「困ったわ」と言いながら、本人の問題だからと余り口やかましくも言わないという親が多いのではないか。夫婦共に仕事をしていたら子供も作らない方が良いからと、また子供がいたら自分の時間もなくなると作らずにいるという夫婦も多い。

また、立派な息子娘がいるのに、老後は子供たちの世話にならない、迷惑を掛けたくないという人たちも多い。そういう世の中の風潮、 時代の流れなのだと言われるとそんなものかと済ましてしまいがちであろう。みんなそうよと言って済ましてしまう人も多い。世の中、誠にものわかりのいい人で溢れている。そんな風に思えるのだ。

果たして本当に結婚しない、子供を作らないということでいいのだろうか。と、本当は誰もが真剣に考えなくてはいけないのではないか。別に国の少子化対策に賛同して、ものを言っているわけではない。私たちは、人としてそれでいいのだろうか、と考えなくてはいけないと思うのである。

実は先日もある人と話をしていて、娘も息子もいるけれども二人とも結婚していないという。娘さんは「お母さん、私は自分のしたいことがあるのにどうして結婚したり、子供を産まなくてはいけないのかしら、そんなことしていたら自分の夢を実現できないじゃない」と言うので、それはあなたの人生だから好きにしなさいと言ったのだという。

また、息子は、「結婚なんて何でしなくてはいけないんだ、そんな面倒なことしないで自分一人自由気ままに生きていきたい」と言うのでそれもいいだろうと言ったとか。それでいて、ご自分のことは、「将来何があっても老後も娘息子の世話にはならないと決めている」という。それがあたかも立派な自立した人としてあたりまえだと言わんばかりの自信をもって言われているようにも感じた。

そこで私は、「本当にそれでいいと思っておられるのですか、みんな今しか見えてないんです、自分が歳を取ったとき、どんなことになるのか、まわりに今は友達が沢山いたとしても、みんながみんな結婚しない、子供がいないというわけではない、そんなとき自分だけ何もないと分かったとき、一人でいて歳を取ったときどれだけ寂しい思いがするのか想像できないだけではないですか。みんな結婚して大変な思いをして、子供産んで、何もかも自分のことを諦めて子供のために尽くす、そんなことを経てみんな大人になり、愛情というものが分かり、みんな生きていくっていうことが大変なことなんだと分かる。そうして人は成長していくものなんではないですか」思わず、こんなことを話していた。

どうして子供なんか産まなくてはいけないのかという娘や息子がいたら、なら、あなたを私は生まない方が良かったの、と聞くべきではないか。人は生まれてくるときから親にお世話をかけ、みんなまわりのお蔭で大きくなってきたはずなのに、自分が一人大きくなったように勘違いしている人が多すぎるのではないか。

自分がそうして大きくなるにはどれだけの人たちの手を煩わし、迷惑を掛け、いろいろ教えられ今があるということに気づかねばならない。生んだらそれっきりという他の動物と違う、人として大切に育てられ教育されて、今があるということを知るべきではないか。恵み、恩というものに気づかねばいけないのであろう。そして、そういうことにきちんと気づけて、はじめて人は人として心を成長させていけるものなのではないかと思うのである。

老後のお世話も、子供たちに大いに迷惑かけたらいいのではないか。そもそも、何で迷惑とかと言うのであろうか。余りよく機能していないのかもしれないが介護保険制度によるケアーもある、そうして出来る限り小さな時にお世話をしてくれた老親に恩返しをする絶好の機会として子供たちもなすべきであろうかと思う。みんな順繰りなのだから。みんな老人になるのだから、いずれ自分も世話を掛ける、だから自分の親の面倒を見るのは当然だと思うべきなのであろう。

ところで、今、私たちのまわりにはこうしたあたりまえのことを言う人が心細いほどいないと思うのである。みんなあたりさわりなく、事なかれ主義で、真綿に包んだようなことしか言わなくなったと感じる。なんでなのだろうか。世の中のこと、政治のこと、経済のこと、みんな新聞テレビを見て、それに流されてしまって、書いてあるとそのまま鵜呑みにしてしまう。時代はこうだとテレビで言うとそれが当然のことだと思ってしまう。新聞に書いてあるとみんなそんなものかと思ってしまう。はたしてそれでいいのだろうか。

おいおい、そんなことでいいのかという人が居ない。何を書いてるんだ、おかしなこと言っちゃいけないぜという思いをきちんと言うべきなのだ。私たちにとっての本当のこと、そんな事じゃダメだと言ってくれる大人がいなければいけない。苦口をたたく面倒なオヤジがいない世の中は平和でいいといって済ませられることではない。

そんな頑固で、きちんと世の中の風潮に対して一言言える人間が必要だと私は思う。みんな苦しんで大変な思いして、泣いて泣いて大きくなるんだ。我慢して我慢して耐えてやり遂げるから、やったー、よかったという感激があるんだと。苦しむから幸せが何かとわかる。大変な思いをするから人間が出来るんだと。こうしたあたりまえのことをきちんと言う国でありたいと思う。

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やさしい理趣経の話−9 常用経典の仏教私釈

2012年02月03日 18時25分06秒 | 仏教小話
第七段の概説

「ふぁあきぁあふぁんいっせいぶきろんじょらい・・・」と第七段が始まる。ここに「一切の戯論を無くした如来」とあるが、これは教主大日如来が世間の分別、見方を超越した如来・文殊師利菩薩として登場し教えを垂れるのである。

前段までの四段は、それぞれ教主大日如来の智慧を分担する阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の四人の如来が登場して、第二段で示した四つの平等の智慧とはいかなるものかを開示するものであった。そして、この第七段からの四段は、四人の菩薩が次々に姿を現されて、その智慧を獲得し、悟りの境地に至るにはどのようにしたらよいのか、その具体的な実践について説くのである。
 
その最初に登場する菩薩、文殊菩薩は智慧の仏として有名ではあるが、その智慧とは分別、煩悩を断ち切る智慧を意味する。私たちがものを考え判断する際の知識、情報はそれぞれに自己の目を通してその理解力によって捉えたものに過ぎない。だから、何かに悩んだり、人間関係に支障をきたすとき、また心とらわれるとき、私たちはそれぞれのこだわり、損得や名誉、メンツに振り回され、自己を主張して妄想し、自己を正当化し、自己弁護に戯れる。

それらは小さな個としての執着、妄想に他ならない。このように、およそ私たちの考え、計らいは自他にとらわれ、本質を捉えることなく、煩悩に振り回されている。そのことを戯論といい、そうした煩悩にとらわれた心を断ち切り、真実を観る智慧を持つ仏が文殊菩薩であり、だからこそ無戯論如来と言われるのである。

そして、第七段では、その文殊菩薩が説く教えを、「転字輪の般若理趣」であると提示する。転字輪とは、字輪を転じること。字輪とは、すべての根源を表す阿(ア)の字を転じ、その立場でこの世の一切を観るのである。が、ここでは特別に、文殊菩薩の真言にある五字輪を意味すると教えられている。

「(オン)・ア・ラ・ハ(パ)・シャ・ノウ(ナ)」という真言の中に表現されている五字である。この五字を転ずることを簡潔に述べるならば、すべての存在は移り変わり、美醜、清濁、長短、軽重など物事を比較、差別、批評する世間的なものの見方により私たちはこだわりや執着を生むのであるが、こうした見方を超越し、なんの差別もない永遠なる時間軸でものごとを観ていくことによって、すぐれた心の働きが生じ、真実の姿を開顕することが出来るとするのである。それは文殊の利剣によって諸々の戯論を払いつつ真実に近づいていく様に喩えられる。

三解脱門と光明

その教えを具体的に展開するならば、まず「諸法を空なり」と観よ、とあり、なぜなら「すべてのものは無自性であるから」と続く。自性がないとは、そのものが独立自存ではないということで、すべてのものが他によって他の影響によって生じ存在せしめられているということである。あらゆるものはそのようなあり方をしているのであるから、瞬間的に存在している仮の存在に過ぎないと観よというのである。

次に、「諸法は無相なり」と観よ、なぜなら「すべてのものは無相であるが故に」という。本来のあり方としてすべてのものが無相、つまりその特徴とするものなどないのだからそのように観なさいということ。

続いて、「諸法は無願なり」と観よ、「すべてのものは無願であるが故に」とある。これも本来すべてのものに無願、つまり目的などないのだからそのように素直に観なさいということ。

これら、空・無相・無願は、迷いから解放され涅槃に入ろうとする者が必ず通らねばならない解脱に至る三つの門と言われる。

私たちは見るもの聞くものすべてのものに接するとき、ものの出来具合、良し悪し、大小などその特徴を見て、そして、その働き、役割、目的などを見て、自分にとって好ましいものか、役に立つものか、利益になるものかと考え、そのものに関心を持ち、執着し、とらわれていくであろう。

甘い物が好きな人は、一つの饅頭を見るとき、それはどこの饅頭で、どのような物で造られ、どのような味のするものかを一瞬のうちに見て取る。そしてそれを手に入れ食べたいと思う。しかし、その好きなものでも食べすぎたら、その嗜好はにぶり、それでも食べ続ければ、様々な障害をきたすことになる。それこそ長くそのような習慣を続ければ糖尿病にもなるかもしれない。

そして、ひとたび病気になってから、その大好きな饅頭見るとき、その饅頭を食べたならば内臓に苦痛をもたらす、ないし病状を悪化させるとしたなら、まったくこれまでとは違う感覚で同じものを見ることになるであろう。自分にとって好ましいもの、好きなもの、とらわれるものに対して、そのような見方で、無感覚で、つまり、無相、無願に見ていけるならば、そのものの空なることにも通じて、諸々の戯論を廃していくことが出来るとするのである。

すべてのものは空なのだと、何もずっとそのものとして存続するものなどなく、みな移り変わり変遷していく。断定的、固定的な物の見方も、こだわりも、とらわれもなく物事を見ていくとき、そこにはすべてが清浄に光り輝くものとして姿を現す。だから、このあとに、「諸法は光明なり。般若の智慧は清浄なるが故に」と続くのである。すべてのものが光を放って存在することを見るとき、自と他の対立を越えた般若の智慧によってすべてのものが清らかなものとしてあることを観るからである。
 
文殊菩薩の心真言

以上の教えを説き終わり、文殊菩薩がこの教えを改めてもう一度重ねて明らかにするために、微笑まれた。そして、自分の利剣でもって一切の如来の教えを断ち切り、この般若波羅蜜多の最勝のすぐれた教えの真髄、すべてのものに阿字を配することで真実なる世界が明らかになる転字輪を意味する、真実なる心真言「アン」を唱えた。


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四国遍路行記−27

2012年02月01日 18時33分18秒 | 四国遍路行記
太山寺の通夜堂はこぎれいな二間ほどの建物だった。トイレと簡単な流しだけではあるが、電気ポットと急須も置かれていた。布団も押し入れを開ければあったのだろうが、いつもの寝袋を拡げて一畳分のスペースだけで事足りた。翌朝は熱いお茶を頂いて、本堂へ向かう。通夜堂から一度外に出て、手水鉢を使い振り向くと、石段の上に国の重要文化財の指定を受けている仁王門が聳えていた。

五十二番太山寺は、仏教にはじめて帰依された用明天皇の頃に、豊後の長者が高浜沖で難破したとき観音菩薩に救われ報恩のために一宇を建立したのが始まりと言わる。後に聖武天皇の勅願で行基菩薩が十一面観音像を刻み本尊にしたという。鎌倉末期の建築で県下最古の国宝本堂の正面厨子には、七体の十一面観音像が収められている。いずれも、後冷泉、後三条など歴代天皇の勅願で造られた1.5メートルもある御像で、すべて重要文化財に指定されている。

本堂外陣の土間で一人立って理趣経一巻。しんと静まりかえった厳かな贅沢な時間を感じる。外に出ると二、三人の地元の人たちの参詣と出会った。境内は小高い台地になっていて、そこからさらに少し石段を登ると大師堂がある。大師堂では心経一巻。大きな声で唱える。境内には現代を感じさせるものがない。古びた風情に時間が止まってしまったような空間の不思議を感じさせている。錆びて茶色くなった、寺内行事などを記した掲示板を眺めつつ、太山寺を後にする。

来た道を戻り国道に出る。国道を左に海を眺めながら北上する。北条の町を過ぎたあたりで山側の小道に入る。鎌大師と矢印があったためである。鎌大師は、小さな番外札所ではあるが、ここには妙絹さんという尼さんが居られると聞いて訪ねたかったのである。鎌大師は、弘法大師が巡錫の折、鎌をもって泣きながら草を刈る少年がいて訳を聞いたところ、疫病で姉が死に弟も死にそうだという。そこで大師は、その鎌で自分の像を刻み拝むように言ったところ、弟も村人たちも快癒したと言われ、そのご像を祀りお堂が出来たのだという。

しばらく山に入り進んでいくと大きな松の木があり真新しいお堂と庫裏が建っていた。知人が訪ねたときには底の抜けるような建物に居られたと聞いていたので数年のうちに何もかも建て替えられたようだった。お四国病にかかり、ある時期になると四国に行きたくなって気がつくと四国を歩いていましたと語る妙絹尼は当時七十才くらいか少しそれより若かったのであろうか。

上品な物腰で、昔からの知り合いのようにお茶をすすめて下さり、語られた。妙絹さんの遍路はすべて歩くのではなく、女一人旅ということもあり、離れたところへは電車があれば乗るしバスにも乗られながら、その他はなるべく歩いて遍路するというとても自然な遍路旅をされていたそうだ。それでいつの間にか縁あってここに住み着かれたのだとか。

それにしてもこの鎌大師を再興されたのはこの方の魅力、お四国への信仰がかなえさせてくれたものとも言えようか。インドで出会った知人の話をするとよく憶えておられて、自身も若いときにはパキスタンで日本企業の仕事をされていて、懐かしいインドの言葉をいくつか口にされていた。『人生は路上にあり』という、愛媛大学でお話をされた際の講演録を頂戴した。

鎌大師を昼前にはお暇して、山道からまた国道に戻り、ひたすら国道を進む。途中瓦の町菊間町を通り、ところどころ各地のお寺の佇まいなどを眺めながら、今治の町の入り口に位置する五十四番延命寺に着いたのは午後四時過ぎだった。延命寺も行基菩薩によって不動明王が刻まれて祀り開基されたお寺で、その頃は海上を見渡せる近見山山頂にあったという。弘仁年間に嵯峨天皇の勅願で弘法大師によって再興された際に、五十三番と同じ円明寺と号した。江戸時代まで同じ名前の札所が並んでいたのだが、五十四番当寺の俗称を明治以降名のるようになったのだとか。

大きな池が左に現れると、藤堂高虎が伊予二〇万石の居城として築城した今治城城門だったという山門が姿を現した。山門からサツキに囲まれた参道を進む。左側に土産物屋が入り賑やかな境内。正面には唐破風の大きな庇が印象的な本堂に参る。弘法大師再興の後も何度か兵火に焼かれ現在の地には享保十二年(1727)に再建を果たしているから三〇〇年ほどの建物だが、中も暗く威圧感を感じさせている。夕刻に差しかがっていることもあり、急いでお経を唱え、本堂左側の石段上の大師堂に参る。

今治に来たら以前から高野山別院を訪ねようと思っていたので、そそくさと延命寺を後に、遍路道へ。延命寺からは小高い墓地が両側に広がる道を通り、国道に出る。高野山今治別院は、次の札所五十五番南光坊のすぐ隣に位置していると聞いたので、とにかく遍路道を進む。民家や商店がなくなり、大きな木に囲まれた別宮神社が右側に見えてきた。境内を横切り、右側に南光坊を見ながら、別院へ。別院は鉄筋コンクリートの近代的な三階建ての本堂の建物と、 それと別に庫裏があり、幼稚園の建物も大きい。こちらには高野山専修学院の同期生が役僧をされていることもあって、突然の訪問にもかかわらず、歓待を受けたのだった。・・・・

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<救われるということ>

2012年01月29日 06時41分04秒 | 仏教小話
救われるということ

先月の仏教懇話会で、DVD『親鸞・白い道』(三國連太郎監督作品)を皆さんとともに拝見しました。今日では大きな宗派の開祖として祀りあげられている祖師ではありますが、そのどん底の生活ながら己の信じる教えを説き続けた生涯の、一時代を切り取った作品でした。

時代背景人間関係も繋がらないいままに見終わり消化不良ではありましたが、苦労された祖師があり今があることを忘れてはいけないのだと思えました。

鑑賞会の後に、「仏様を信じれば本当に救われるのでしょうか」と問われる方がありました。時間もかなり超過していたこともあり、きちんとお答えする間もなく終えてしまいましたが、この一ヶ月、ずっとそのことを考え続けていました。

仏様を信じるとはどんなことだろうか、救われるとはどんなことだろうかと考えました。漠然とそう思っているようにも思えますし、しかしそれは本当に切実な問題なのだろうと思えます。

仏様を信じるとは、仏様の何を信じるのでしょうか。仏様という存在でしょうか。仏様の慈悲心でしょうか。それともその教えでしょうか。

仏様というものに対する私たちの漠然とした思いは、もう少しはっきり言うとやはりそのお力、救って下さるであろうと思えるその働きということではないかと思います。仏様のそうしたやさしい心を信じるということであるならば、何もしなくても救って下さるのだろうか、どのようにしていたら仏様はお救い下さるのかと考えねばならないのではないかと思います。

また、仏様の教えを信じるということになれば、お釈迦様がどんなことをお話になられたのか、どんなことを私たちに願っているのかということを知らねばなりません。

お釈迦様は、この世の中はどういうものか、私たちが生きるとはどのようなことで、なぜそのような不安の中にあるのか、その心を安らかにするためにはどのように考え、どのようにしたらよいかということを教えられています。無常、縁起、四諦、十善などなど。

そして私たちに早く自分のところへ来ること、つまりは悟ることを願っています。日々少しずつでも研鑽し近づいてくるように願われています。

普通、私たちが何かを得ようと思ったら、金品なり、何かすることによって、実現する、かなえられるということになります。人に何かをお願いすることを考えても、それなりに筋を通し礼を尽くしてお願いするということが必要でしょう。

仏様に何かお願いする場合でも、やはり何か必要でしょう。お供えをしたり、お経を唱えたりということはだからこそなされるものなのだと思います。お経を唱え、教えを学び、一心にお唱えするところに心静まり、心清まる。

つまり信じるということは、そうした自らの心が改まる、清まる、変質することを伴うものなのだとも言えます。それこそが信じるということなのであろうかと思います。

それでは、救われるとは何でしょうか。どうなれば救われたと私たちは思えるのでしょうか。死後の救済ということでしょうか。死んでから仏様のところへいくということでしょうか。死後、仏国土にいけたら幸せでしょうか。仏様の世界とはどんなところなのでしょうか。浄土三部経にはきらびやかな荘厳世界が描かれていますが、私たちはそこへいけたら本当に幸せなのでしょうか。

仏の世界、それは悟りの境地のことだそうです。パラダイスのような、夢のような、何でも願い通りになるような快適な世界ではなく、逆に何もなくても憂いのない世界と表現した方がよいのだと思います。

それは心の次元の話ですから、仏様の世界というのはとても清らかで簡素な品行方正な厳粛な世界なのだろうと思います。私たちの心が想像する快適な世界と思ってしまうと少し違うのだと思います。仏様方にとって快適な世界なのでしょうから。

たとえば、今でも、ものすごく心を清らかなものにするために、山に入り修行を重ねる人たちがいます。スリランカやミャンマー、タイなどでは一日瞑想ばかりして、毎日毎日それだけの生活をされている人たちがいます。その人たちは何もなくても、瞑想して心が穏やかで静かな毎日が心地よいのです。一時的にそんな生活に憧れてその場にいれたとしても、一週間、一ヶ月が普通の人には眼界ではないでしょうか。

一生そこで、周りの人たちの供養を受けていられる人たちの心はどれだけ高次元のものなのか想像もつかないのです。仏様の世界とはそうした人たちよりもさらに心のレベルの高い人たちの世界だと思ったらよいのではないでしょうか。

ですから、簡単に仏様の世界にいきたい、安楽な世界にいきたいと思っても、ちょっと普通にいられるところではないと思った方がよいのではないかと思えます。それにかなう心を作らねばいられない、安易に立ち入ることが出来ないところとも言えるのではないでしょうか。

ですから、死後のことよりも、今いるこの世界で、私たちのこの居やすいところで、少しでも救われてあるようにした方がよいのかもしれません。今が不安でつらいならば、死後の世界もその不安のままにそれに相応しいところに身罷ることになります。

それでは今が安心できるようにするにはどうしたらよいのでしょうか。安心できるとはどういうことでしょうか。

安心とは、今のこの自分、そのままで良いと思えることではないかと思います。何の心配することもなく、憂えることもなく、苦しみもなく、不安もなく。満ち足りていると思えること。それは、とても難しいと思えるかもしれません。

誰にも不安があり、心配があり、憂いがあるものなのかもしれません。ですが、たとえ何かあったとしても、それで良い、そんなことがあっても当然だと、世の中とはそんなものですと思えるならば、それはそれで自分にとっては今の自分で良いのだと思えるのではないでしょうか。

逆に、何かあると、ちょっとでも不満なことがあると面白くない、つまらないと思ってしまったら、どんなことがあっても喜べず、幸せは永遠にやってきません。

お釈迦様がこの世の中は苦しみばかりですよと言われるように、大変なことばかりなんだと諦めて、何があっても、それで当然なんだと思えたら、何があってもその人はいつも平静な心でいられますし、そうした自分でいいんだとも思えるでしょう。

そして、少しでも、お経などを唱えたり、お釈迦様の教えを学んだり、日々の生活の中からその教えに得心がいく、そうしていろいろな人や者たちのお蔭で自分は生かされている、大きなそうした存在に自分は支えられているのだと思えるとき、心は清まり、心改まっている自分にも気づくことが出来るでしょう。そのとき、既にその人は救われてあるのではないでしょうか。

みんな誰もが、毎日大変なことばかりの世の中です。それでもやらなければ生きていけません。言いたいことが山ほどあっても、言ってどうなるものでもないのですから、いずれ何も思わないようになるでしょう。

何も思わず毎日頑張っている自分にこれでいいのだと思える。そうしてあるからこそ生かされている自分に気づく。今に満足し安心し、自分に納得する。死後のことにも思い煩うこともなく、そうして大切に一日一日を生きたらよいのだと思います。

それはそうそう簡単ではないのかもしれませんが、日々飽きずに、大変だとは思っても、嫌だと思わずにやり遂げている、そんな自分を誇らしく思え、そんな自分だからこそまた生かされているんだと思えるならば、それこそが救いなのではないでしょうか。そうして、その人はすでに仏様に救われてある自分に気づくことでしょう。

ですから、今こうしてあることがすでに救われているのだと思えるようでありたいものだと思うのであります。

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比叡山に参詣して思うこと

2011年12月10日 08時55分04秒 | 仏教小話
比叡山にお参りした。六年前から同行している古寺めぐりシリーズの第11回目として12月に入り、2回。これまで比叡山は根本中堂のある東塔ばかりと思っていた人も多く、この度のように横川エリアも西塔エリアもゆっくりとお参りすると受ける印象はまったく違う。広大な比叡山全体が延暦寺の寺領であり境内と言ってもいいだろう。回峰行者が歩く道がその中を走っているのであるから。

まず第一に私がこの度比叡山で感銘を受けたことは、俗化していないということだろう。勿論お堂の中にお守りや線香が置かれているのは仕方ないにしても、山内にはレストランが一軒あったくらいで、まったくと言って、商店やら飲食店などがない点だ。平安仏教として並び称される高野山は既に昔で言えば寺内町ができ、何から何まで一山の中でまかなえる状況であるのとは違っていた。比叡山は京都や大津市が控えており、クルマで下に降りようとすれば1時間もかからずに行けるという便利さがあるせいもあるだろう。この時期に参詣したからかもしれないが、しかし山内は静寂の中にある。そんな印象を受けた。

第二に、やはり行が生きてある、と言うことだろうか。一年や数ヶ月で修行道場を追い出される他の本山に比べ、未だに、伝教大師最澄上人の気概がそのままに息づいている。叡山学院があり、行院があり、山内寺院の住職には三年籠山行が科せられ、その上に好相行や、百日回峰。十二年の籠山行がある。叡山学院は二年制で教学を学び、行院は四度加行を60日で行う。

三年籠山行は、山内の草取りから、各お堂の諸役が科せられる。その間に90日間坐禅する常座三昧行や、やはり90日間ずっと歩いて念仏する常行三昧行がある。好相行は、一日3000回の礼拝行を仏が立ち現れるまで続けるという。回峰行は、毎日夜中の2時に無動寺谷から東塔・西塔・横川、そして日吉神社に至る行者道を30キロを6時間かけて歩き260箇所で祈願する。それを百日続ける。

十二年籠山行は、最澄上人の御廟やその前殿である浄土院に仕える侍真僧と千日回峰行とに分かれるという。御廟内には侍真僧しか入れない。心を込めて最澄上人がまだ生きてあられるという気持ちでお勤めされる。千日回峰は、既に百日を終えているので七年間で残り900日の回峰行をする。600日からは一日の行程が60キロになり、京都の市内を回る期間は84キロにまでなる。さらに700日に入るときに堂入りと言って九日間断食断水断眠で不動の真言を唱え続けるのだとか。この千日回峰行は今も一人の行者が行中であるという。途中で止めねばならないときには死ぬ覚悟でなされるというこの過酷な行が、現代にあっても未だに挑む行者が続いて存在するところに比叡山の有り難さがある。

第三には、教えの幅の広さだろう。大講堂に参ると、日本仏教を代表するお祖師方の御像を拝することが出来るようにここから多くの教えが巣立っていった。横川エリアにある恵心院は日本浄土教の発祥の地だ。恵心僧都源信がこの地で『往生要集』を書き、二五三昧会を組織した。念仏は法然さん親鸞さんと思う人も多いのかもしれないが、その元はやはり比叡山の地にある。高野山も奈良の諸大寺もかつては聖の力によって寄進がなされ諸堂が復興されたり維持されて来た。念仏聖が活躍した時代を考えれば、すべてのおおもとにこの地からの発信があったとも言えよう。禅宗もまた然り。栄西、道元という祖師方も常座三昧行を修す比叡山から下り一宗を開かれた。

第四に、分かりやすいメッセージがあるという事だろうか。一隅を照らす運動が展開されているが、国宝とは道心なり、誰でもが仏となれる、仏としての働きをなせという分かりやすいメッセージが発せられ、それがまた様々な展開を見せている。8月に毎年行われる世界宗教者サミットもその一つだ。広く世界に呼びかけ賛同を勝ち得て親交を結び世界の平和に向けてメッセージを発信しておられる。また現在の半田孝淳猊下が天台座主になられてからは、天台座主としてはじめて高野山に公式参拝され、また今年は石清水八幡宮で140年ぶりに放生会にご出仕なされた。他宗に先駆けての誠に幅の広い包容力ある半田猊下ならではの偉業に喝采したい。

ところで、『大法輪』今年7月号の巻頭法話には、延暦寺長瓩離瓮奪察璽犬掲載されている。「戦後教育により、自分のためばかりに生きる、世界は自分のためにあるという教育が日本の若者の心を占拠した」が、「他のため、社会のために生きよ、世界人類未来のために生きよ」と、それこそがお釈迦様も言われていることであり、菩薩の生き方だと言われる。

確かにその通りなのであろう。ではあるが、私には今ひとつ物足りない思いがするのである。ただ他のために生きよと言うだけではなく、それはどうしてか、何を意味するのかと諭さねばならないのではないかと思う。自分のこの人生は何のためにあるのか。仏教徒なら、人生とは少しでも悟りに向かって前進するためにあるのではないのか。他のために何事かをなすことはその悟りに向かう自分自身が徳を積み一歩でも近づく行為であり、つまりはそのまま自分のためでもある。そうして功徳ある他のためになされる行いこそが自分のためになり、現世で悟れないならばそれは来世のためにもなる。つまり今のこの自分ももちろんだが、生まれ変わった先でも自分のためになり、それはもちろん広く人類のためにもなり、社会のためにも良いことであり、未来のためなのだとしなければならないのではないか。

ここに私は日本仏教が今ひとつ教えが深まらない原因があると思える。死んだら皆仏と言ってしまうところに問題の発端がある。輪廻ということから逃げては仏教の教えは空疎なものになるであろう。誰もが仏になれるとするのはいかにしてなのかと問われねばならないだろう。何度も何度も生まれ変わってもそこに到達するまで少しずつでも前進していこうとするところにこそ、その可能性が見出されるとしてはいかがであろうか。

この度の震災に関して触れた箇所も、「苦しむ人々に思いを寄せ、共に涙する」ということで終わってしまっては、仏教の教えとしては片手落ちではあるまいか。それをどうとらえどう受け取ればよいのか、これからどう生きたらよいのかという方向へ教えが展開していかねばならないのに、その大事な部分が欠落している。スローガンだけでは人は納得しない。その原因の一つにこの問題があるように私には思える。それだけがこの度の比叡山参拝で残念に思われた点である。しかしそれはもちろん比叡山だけの問題ではない。日本仏教徒全体の問題としてこれから真摯に議論すべきであろうと思う。

それにしても、この度の比叡山参拝は、心から本当にお参りさせていただきよかった、ありがたかったと思えた。比叡山は素晴らしいお山です。企画された倉敷観光金森氏並びに同行のご参加された皆様に感謝します。


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日本の古寺めぐりシリーズ第11弾 比叡山延暦寺三塔巡り

2011年11月25日 14時23分18秒 | 「日本の古寺めぐりシリーズ」
来月1日と6日に比叡山にお参りする。このシリーズ始まってからの念願の寺院でもある。各宗派沢山のお寺にお参りしてきたが、やはり日本仏教の母山と言われる比叡山に参らずには話が始まらない。これからも参詣を続ける上でも意味ある今回の古寺めぐりとなるはずである。比叡山の概略をここで振り返ってみたい。

比叡山延暦寺

延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。山号の比叡山は、叡山(えいざん)と呼ばれ、平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称される。「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。

百人一首や愚管抄の著者で有名な慈円は、九条兼実の弟で天台座主になり、親鸞聖人の得度の師でもあるが、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と詠んだ。それは比叡山延暦寺が、世界の平和や人々の平安を祈り、かつ国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからである。

また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた琵琶湖を擁し、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地であり、このような美しい自然の中で、1200年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されている。

歴史

比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であり「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていた。東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄和尚(766〜822)である。

最澄
最澄は、俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた。15歳の宝亀11年(781)、近江国分寺の僧・行表のもとで出家得度、最澄と名乗る。20歳の延暦4年(786)、奈良の東大寺で具足戒を受け、官僧となった。

青年最澄は奈良の大寺院での地位を求めず、自らの出生祈願を父親がなした比叡山にこもって修行と経典研究に没頭した。最澄は数ある経典の中で法華経の教えが最高のものと考え、中国の天台大師智據覆舛)の著述になる「法華三大部」(法華玄義、法華文句、摩訶止観)を研究した。

延暦7年(789)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後弘仁14年(824)のことであった。

時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に盛んになった。この頃最澄は皇室の仏事に執行する「内供奉十禅師」の一人となる。

延暦21年(803)、最澄は還学生として、延暦23年(805)、遣唐使船で唐に渡る。最澄は、天台山に向かい、天台大師智據覆舛)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。

また、帰朝間際に、越州(紹興)の龍興寺で順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えたのが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合仏教学問所としての性格を持っていた。後に延暦寺から各宗の宗祖を輩出した因がここにある。

大乗戒壇の設立
延暦25年(806)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけた念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧の養成を可能とすることになる。

最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏することができるとしたので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。

最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じ、比叡山で後進の指導に当たらせ、また日本各地で仏教界の指導者として活動させたいと主張した。大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可された。

大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。慈覚大師円仁(794 - 864)と智証大師円珍(814 - 891)は唐に留学し多くの仏典を将来、天台密教の発展に尽くした。

しかし、のちに比叡山の僧は円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになる。正暦4年(993)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、山門派(円仁派、延暦寺)と寺門派(円珍派、園城寺)は対立抗争し、抗争に参加し武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。

円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)が延暦寺中興の祖として知られる。火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。

また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。

比叡山で修行した著名な宗祖としては、法然、日本の浄土宗の開祖。栄西、日本の臨済宗の開祖。慈円、歴史書「愚管抄」の作者、天台座主。道元、日本の曹洞宗の開祖。親鸞、浄土真宗の開祖。日蓮、日蓮宗の開祖がある。

武装化
その後、延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。

延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿をかついで強訴するという手段により、時の権力者に対し自らの言い分を通した。また、祇園社(今の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下にあった。1070年には祇園社は鴨川の東側の広大な領地を所有し、朝廷権力から承認された無縁所となっている。

このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力とは治外法権となり、一種の独立した状態であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び、南都北嶺と言われた。

武家との確執
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教(よしのり)である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗して将軍となって後は比叡山と対立。永享7年(143)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首。

これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺したと言われる。同年8月、将軍義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置したという。

なお、義教は延暦寺の制圧に一時的には成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化していった。戦国時代に入っても延暦寺は独立した状態を維持していたが、明応8年(1499)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。

また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持って立ちはだかることが天下統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き払った。

これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が焼け死んだ。この叡山炎上は、京の街からも比叡山が燃え上がる光景がよく見えたとと言われる。また、記録によれば、この時多くの居ないはずの女、子供が逃げだしたとされているが、これは山麓の坂本の諸堂も炎上したため町屋に住む人々が皆逃げた光景からいわれたものとも言われる。

信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。しかし、家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、皇室から座主を迎え法親王として江戸寛永寺に滞在するなど天台宗の宗務の実権は江戸に移った。

現代
昭和62年(1987)8月3日、8月4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦猊下の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。

平成10年には、私のインドの師ベンガル仏教会総長ダルマパル師が招待され、開会に先立ち三帰五戒をパーリ語でお唱えになった。このあとダルマパル師は、東京浅草の浅草寺にお参りになり、そこで私も合流し、普段は入れない伝法院で貫首様と現天台座主半田猊下ともご一緒に親しくお茶席に侍ることが出来た。

半田猊下はいつもにこやかに和やかな雰囲気を醸し出されていたことを記憶している。平成21年には高野山に天台座主としてはじめて参詣され松長高野山管長とも親交を温められているばかりか、今年9月15日には石清水八幡宮の放生会に140年ぶりで導師をお勤めになられ僧侶が出仕した法要をなされている。誠に懐の大きな天台座主らしい座主様である。そんなところからも今回の比叡山参詣は私にとっても誠に感慨深い参詣となるはずである。

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やさしい理趣経の話−8 常用経典の仏教私釈

2011年10月24日 19時10分05秒 | 仏教小話
第六段の概説

「ふぁあきぁあふぁんとくいっせいじょらいちいんじょらい・・・」と第六段が始まる。ここに「一切如来の智印を得たまえる如来」とあるが、教主大日如来が、そのはからいによる慈悲と智慧による実践教化の部分を象徴する如来・不空成就如来として登場する。

第二段にて、完全な覚りを展開して四つの平等の智慧に分けたが、第六段では、その中のそ粟犬魑澆仕事を円満に成就させる智慧とはいかなるものかを開示している。

第五段では、どんなものにも価値を見出し、適材適所に活用されればすべてのものがかけがえのない宝となる智慧(平等性智)を明らかにした。それは等しくすべての生き物たちを養い培うものとして無限の価値となって輝きだす。

そこでこの第六段では、それらがどのような活動を為すべきかを説くのである。「一切如来の智印加持の般若理趣」とあり、智印とは如来の心から湧き出る様々な身口意の働きを意味する。加持とは仏の大悲心と衆生の信心の寄り添うことによって仏の不可思議な力が発現されることをいう。

仏教で行いと言うとき、それは身体による行いと口でなす言葉によってなされる行い、そして心の中でいろいろと考え思うことも行いとされる。これら凡夫の行いを三業というのに対して、仏の身口意の行いを三密という。

凡夫が仏にならい善い行いを心がけつつ、仏の側も慈悲を垂れて衆生を救う働きかけがあるならばそこに三密相応の不可思議な加持感応が起こり、衆生全体が共に働き努力して自他ともに悟りの世界に向かって精進していくことが出来る。第六段は、このようにすべてのものたちの心を成長させ育むための実際の活動に関する智慧(成所作智)を説くのである。

お釈迦様のお悟りになった境地のことを阿羅漢果という。阿羅漢という最高の悟りを獲得した人は、自分のためには為すべき事は何もないのだという。そこで無為とも無学とも言われ、もはや悟りのために学ぶべき事はないという。当然ながら悪事をなすことはなく、たとえ善い行為を行っても来世に繋がる業にはならないと言われる。しかし、唯一、世の中の人々を教え導く仕事のみ残されているのである。

お釈迦様は縁ある衆生すべてに対して分け隔てなく教えを垂れた。外道と言われる異教徒たちに対しても、どんなに攻撃的な問答に対しても、落ち着いた心のまま、その人が良くあるように教え諭された。その人が一歩でも悟りに近づくことを願って、教え導かれたのである。

四種の印

そうした仏の他に教え教化して共に悟りの世界に導く慈悲の心に応えるべく、凡夫である私たちはどうあればよいのであろうか。お釈迦様の私たちへ向けられた心にふさわしい働きとは何か、それを説くのが、次なる四種の印の教えである。

まず、「一切如来の身印を持すれば一切如来の身を為す」とある。身印を持するとは、自らのためにではなく、仏のように他を悟らしめ、他を救わんがために奉仕して働くということ。そうすれば自ずと一切如来の身を得ているのと同じ事なのだというのである。

次に、「一切如来の語印を持すれば一切如来の法を得る」とあるが、これは、今日のように様々な情報が乱れ飛び、流言飛語、異端邪説が横行する世の中にあっても、縁ある人々を正しい教えに導き、仏のように他の者のためのみに真摯に教えを説くことで、一切如来の正法を体得することが出来るというのである。

そして、「一切如来の心印を持すれば一切如来の三摩地を證す」とあるが、これは、人々を仏の教えに導くためには様々な障害、困難が待ち構えているけれども、堅忍不抜の心でそれらを克服して人々を正法に導くことで、自らも三摩地つまり悟りを證することができるというのである。

さらに、「一切如来の金剛印を持すれば一切如来の身口意業の最勝の悉地を成就す」とある。金剛の印とは身口意の仏の働きが一体となって自在の活動を為すことで人々を救うこと。それがダイヤモンド(金剛)のような堅固な智慧の働きとなることで、最も勝れた悟りを成し遂げることができるというのである。

仏のように働く、仏のように法を説く、人々を救うと言っても、それはそう簡単なことではないだろう。しかし、何事もそれを理想として少しでも真似て馴染み、なりきることによって本物に近づいていくものなのではないか。

私なども、法事の後の法話など、はじめは自ら何を言わんとしていたのかさえも分からなくなることを繰り返しつつも、こらえて学び思惟しつつ何度も説き続けることで、徐々にその真意が伝わるようにもなるであろう。何事もひるんだり、飽きたり、へこたれることなく、お釈迦様の衆生に対する眼差しに応えて、自らを奮励督励し続けることが必要なのであろう。

第六段の功徳

この段も、教えを聞く菩薩衆の代表である金剛手菩薩に呼びかけ功徳が説かれる。この教えを聞き受け取り、思索するならば、すべてに自在となり智慧とその働きと果徳を得ることができる。さらには、仏の身口意とそれらを一体とした妙果を得ることで無上なる正しき悟りをすみやかに証得するという。

「即身成仏」とも言われるが、それは、この身このまますぐに成仏するというような簡単なことではないであろう。大切なことは、この身において、将来ではなく来世でなく今を大切に、すべてのものたちの最高の幸せのために努力することがそのまま悟りに繋がっているのだと受け取ってはいかがかと思う。

金剛拳菩薩の心真言

そして最後に改めて、世尊大日如来が不空成就如来から娑婆世界での姿として金剛拳菩薩に変化されて、仏と衆生の心と行いが一つになる瞑想に入られた。

そしてその教えを自らの姿に現そうとされて、法悦の微笑をたたえ、左右の手に金剛拳をつくり左は仰げて腹の前に置き右はその上に覆いしかも着けずに重ねる三摩耶の印を結んで、真実なる心真言「アーハ」を唱えた。


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四国遍路行記−26

2011年10月19日 18時59分59秒 | 四国遍路行記
石手寺に到着したのは10時過ぎ頃だったろうか。駐車場そして仲見世入口あたりから大勢の人で賑わっている。その流れに入り51番石手寺に参拝する。もとは聖武天皇勅願寺で安養寺と言った。後に行基菩薩が薬師如来を彫刻して本尊としたというが、その後弘法大師が巡錫。そして、現寺号の由来はよく知られるように、寛平四年(892)に道後湯築城主河野息利(こうのやすとし)の子息の開かぬ左手を安養寺住持が加持して開かせたところ「衛門三郎再来」と書いた石を握っていたことから改号された。

土産物や昔懐かしい玩具類を置いた店など楽しい仲見世を通り過ぎると、大きな仁王さんの立つ国宝の門が姿を現す。お遍路さんや観光で参る人も多く、また地元信者さんも混じって人が行き交う中、正面の本堂に到達する。鰐口を勢いよく叩く参詣者の横で理趣経を唱える。落ち着かない気持ちを抑えつけるように先を急ぐ。そんな姿を見ている人もあるのか、袖の中に手が入りお接待を何人かから頂戴する。お礼も言えず、ただ会釈する。

そこから右手奥に進み、大師堂を参ってから、ビルマの仏像を祀ったパゴダへ。その途中坂道を降りるところに「雲照律師供養塔」と陰刻された大きな石碑があった。明治の傑僧・釈雲照律師(1827-1909)はここ石手寺において松山十善支会を催されていた。十善会とは、江戸時代の高僧慈雲尊者(1718-1804)が十善の教えは「人となる道」であると説かれ、その教えを継承する雲照律師が近代の世で十善を広めんがために、当初久邇宮殿下を上首と仰ぎ、通仏教で国民道徳の復興を目的に設立された一つの道徳的教会組織である。この碑は賑々しく沢山の稚児行列をもって催行された雲照律師三回忌法要の折に建立されたものであった。

それからその日特別に、庫裏の前に陳列されていたので、衛門三郎の名の入った石も拝見した。後から知ったのだが、その日は旧の4月8日で、茶堂前で甘茶の接待を受けた。どうりで参詣者が多いはずだった。そのあと二時間ほど参道の入り口付近で托鉢をさせていただいた。持参していた鉄鉢ならぬ木製の小さな鉢に入りきれないくらいの賽銭を頂戴した。

そして、石手寺を後にして温泉街に入り、道後温泉本館の神の湯に入る。着替えをしているとあちこちからねぎらいの声を掛けられる。石の湯槽につかる。しみじみ道後の湯は肌にいいと感じた。お湯からあがり衣を着ていると、またお接待を頂戴する。草鞋を履いて歩き出すと心持ち身体も軽くなったように思えた。心も軽やかに温泉街を歩いていくと、通りの右側に山頭火が晩年を過ごした一草庵があった。ぐるりと庵の周りを回ってみる。小さな家だが、管理が行き届いていて、窓から位牌や使われていた笠、鉄鉢などが見えるように並べられていた。

一草庵を出て、すぐに歩き出す。国道へ出て、また左に続く遍路道を入る。次の札所52番は太山寺だが、道の途中先に53番円明寺に札を打つ。もとは和気西山の海岸に位置し、七堂伽藍を備えた大伽藍だったという。戦国時代兵火に焼かれ江戸初期に須賀重久によって現在地に再建を果たした。本堂の厨子に貼られた銅板の収め札が有名である。慶安3年(1650)江戸で材木商として巨万の富を築いた樋口平太夫家次翁が奉納したもので、家次翁は京都の五智山蓮華寺を再興したことでも知られている。

余談ではあるが、この蓮華寺とは、江戸時代の学僧・曇寂(1674-1742)が住持した寺であり、曇寂は備後出身。草戸明王院で出家し、京都五智山に宗学を学び住持となり、明王院をも兼務した。弟子に備中寶島寺に晋住する梵学の大家で寛政の三書僧と言われる寂厳がある。なお、曇寂は経疏・事相に亘る沢山の著作を残しているが、備後國分寺には明王院現住曇寂書の「備後國々分寺鐘銘併序」が伝えられている。

夕刻を迎えていたので本尊阿弥陀如来を拝して、急ぎ太山寺に歩く。山門をくぐったのに、延々と参道が続く。坂道にさしかかり、民家も軒を連ねる道を進むとやっと右手に寺務所が見えた。お参り前なのに恐縮するが暗くなりかかっていたので、この日は寺務所手前の通夜堂にお世話になることにした。

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『般若心経』は何を私たちに訴えかけているのか

2011年10月13日 18時49分59秒 | 仏教小話
今回、大法輪の特集記事執筆の依頼を受けて、『般若心経』について改めて深く勉強する機会を得た。そして、夜寝静まってから、突然心経の深秘かと思われるような内容が頭にひらめき、夜中に起きだして書き取ったこともあった。

心経全体が、お釈迦様の瞑想中の一瞬のひらめきを書き取った陀羅尼(真言)だと解釈すると、一字一句解説するよりもその大まかな展開を捉えるべきなのではないか。悟りの究極において、それまで行じてきた教説をたよりに悟りの階梯を進み、完全に清らかな状態に至るために、つまり最終的な悟りに至るために、完璧に自己を捨てる、私がいるということを諦める、ということを観自在菩薩と舎利弗尊者二人の対話として表現したものではないか、などということが頭に浮かんできたりもした。

今心経を受持し、読誦し、また写経する私たちにとって大切なことは、この心経の呪術的とも言える功徳とは何かと考えるべきでなのではないかと思う。読誦し書写する私たち自身がその心経が教えられている意味内容から救われ、また多くの人たちが救われて、はじめてその功徳、力があると言えるのではないか。

心経が、私たちが今を生きる大切なことを教えてくれていてこそ大きな力になる。だからこそ今誰もが求めている、今をいかに受け入れ生きるべきか、それをこそ心経は説いていると解釈してはいかがかと思うのである。
 
「毎日マントラ(真言)を唱えたり、諸尊を観想したりしても、それだけで根本的な無知に対処することは出来ない」(『ダライラマ般若心経入門』春秋社刊より)このように、チベット仏教の最高指導者であるダライラマ法王もアメリカ各地での講演で述べておられる。

周りのものを眺めるとき、それらを実在するもの、実際の出来事としてではなく空という物事の真のありようで、空というものの存在の仕方で見ていく。その、ものの見方を身につけていくことが大切なのだと言われる。

庭先の雑草も、何年前の種か分からずとも、種がそこに風で飛ばされ存在する原因があり、土壌と気温と湿度の条件が調えば発芽し、私たちを悩ませる。そして、その場所が庭先ではなく、家の裏なら何とも思わないのかもしれない。

そのような他のものによる原因と条件によって存在する。そのものだけで生まれ存在しているのでなく、すべて他に依存しあっている。そのようなあり方を空という。

そんなことはあたりまえのことだと思われるかもしれない。しかし、自分も空なのだと言われて、それがどんなことか頭で分かっても、なかなか本当に、そう思いきれるものではない。たとえば、自分や家族が大病と診断されたとき、自分の家や財産が津波に流されたとき、なんの動揺もせずに他人事で居られるだろうか。

すべてのものを空として見切る。深い瞑想状態の中で本当に空としてみられるようになると、すべてのものに対する価値、こだわり、レッテル、好悪など見えてこないのだという。
  
こうした空なるものの見方を理解するためにはその基礎となるお釈迦様の教説も必要であろう。心経に網羅された段階を踏まえて進まねばならない。戒を守り正しい生活によって健康となり心清まりその法を聞き、仏教の物の見方、自分とは何で、この世とはいかなるものか。そして禅を修して思索し、さらにそれを繰り返し行じることで般若の智慧はその人格となるという。

お釈迦様の根本教説について少し見てみよう。五蘊は、私とは何であるか、それは心と体という形あるものとがあわさったものだということだろう。

十二処十八界は、神のような普遍的な存在、絶対者を立てることなく、身近な周りの分析から、仏教徒の世界観を把握する手立てとして説かれたものだ。

十二因縁は、六道の中に輪廻を繰り返し苦しみに至る私たちの心のその原因と結果を解明し、悟りに至る逆のプロセスによって悟りに至る仏教徒の歩み方を明らかにする。

四聖諦は、現実を直視してその因果を見きわめ、私たちの生きる目標とは何か、どう生きればよいかを明らかにした教えである。

そして心経では、観自在菩薩のように、すべてのものが空であると、究極のもののあり方を既に直接的に体験している心には、それらのことはあてはまらないと述べるに過ぎない。

それなのに、般若心経に関する通俗的な解説には必ずといって、このお釈迦様の教説を小乗仏教と貶め大乗仏教を金科玉条の如くに推奨し、単に真言を唱えるだけでよいとする説き方が横行した。そして、あたかも何か唱えることが仏教の実践であるかのような錯覚を与えてしまった。それは余りにも乱暴な説き方であったと言えよう。

こうして心経はお釈迦様の教説を否定し、大乗の教えが勝れていると、我が国において長い間、それを是認称賛したかのように受け取られ、それが為に日本仏教として、仏教の基本的な教えが説けなくなってしまったのではないか。日本仏教に禍根を残したとも言えよう。

何度も繰り返すようではあるが、心経は観自在菩薩の境地を開陳したものであり、凡夫である我々は、まずは、本来のお釈迦様の教説一つ一つをおろそかにすることなく、それらによって仏教の物の見方、歩み方を学び瞑想して、そうして空を体得しつつ、悟りを人生の最終目標として、一歩一歩着実にしっかりと努力する必要がある。

そして、心経はそこに向かって前進せよ、疾くつとめよと、仏教徒のあるべき生き方を指し示し、督励した教えなのであろう。

私たちを取り巻く環境は、過酷である。沢山の苦しみ、困難、災難、災害多い人生ではあるけれども、何かあったとき、いやすべては空なのだ、こうあるべくしてあったのだ、家族、家、財産は死ぬるときもってはいけない。悟りへの前進こそ来世への土産なのである。つまり本当に求めるべきものは悟りなのだと言い切り、それをこそ求めて生きよ、と強く私たちを押し出してくれるのが、この心経なのではないかと思うのである。


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般若心経とは何か

2011年09月18日 19時26分51秒 | 仏教小話
今心経を受持し、読誦し、また写経する私たちにとって大切なことは、この心経の呪術的とも言える功徳とは何かと考えるべきであろう。読誦し書写する私たち自身がその心経が教えられている意味内容から救われ、また多くの人たちが救われて、はじめてその効果、力があると言えるのではないか。心経が、私たちが今を生きる大切なことを教えていてこそ大きな力になる。だからこそ今誰もが求めている、今をいかに受け入れ生きるべきか、それをこそ心経は説いていると解釈すべきなのであろう。
 
ただ真言を唱えても苦しみに対処できない。周りのものを実在するもの、実際の出来事としてではなく空という事物の真のありようを、空というものの存在の仕方で見ていく。その、ものの見方を身につけていくことが大切なのであろう。空なるものの見方を理解するためにはその基礎となる釈迦の教説も必要であろう。真言だけに功力があるわけではない。心経に網羅された法を一つ一つ吟味し読誦するために心経の本文がある。

ただ、お釈迦様の瞑想中の一瞬のひらめきを書き取った陀羅尼だと解釈すると一字一句解説するよりもその大まかな展開を捉えるべきなのかもしれない。悟りの究極において、それまで行じてきた教説をたよりに悟りの階梯を進み、完全に清らかな状態に至るために、最終的に完全に自己を捨てる、私がいるということを諦める、ということを観音菩薩と舎利弗尊者二人の対話として表現したものではないかとも思える。

観音菩薩の境地に至るための大乗の教えと修行を通して、その基盤には仏陀の教説があることを考えれば、当然のことながら凡夫に過ぎない我々はその基本から歩み出さねばならない。仏教の物の見方、自分とは何で、この世とはいかなるものか。それも知らずに単に真言を唱えるだけでよいとするのは余りにも乱暴な説き方であろう。

最後に説かれる真言が最上の修行とされることによって、あたかも何か唱えることが仏教の実践であるかのような錯覚を与えてしまったのではないか。日本仏教に禍根を残したとも言える。結果的に鎌倉新仏教の一部は唱えるだけでよいと説かれるようになった。これだけでよいと説く仏教は本来のものではない。

心経は、仏教徒の物の見方、考え方、歩み方を指導し、悟りへ疾くつとめよと、早く悟れと奨励する教えではないかと私は考えている。煩悩を滅するためには少しずつ順序立てて滅するために多くの段階を踏まえて進まねばならない。戒を守り正しい生活によって健康となり心清まりその法を聞き、禅を修して思索し、さらにそれを繰り返し行じることで般若の智慧はその人格となるという。

この身体また形あるものがどのように生じ、どのように存在しているのかと探求すれば、それ自身で生まれ出たわけでもなく、そのものだけで存在しているのでもない空なるものと発見する。周りの存在のあり方を観察すればそれはみな他に依存した空なるものだと気づく。つまり、この身体や形あるものの究極のあり方は空そのものであり、空だからこそすべてのものは存在することができる。

釈迦の根本教説である五蘊十二処十八界十二因縁四諦の教えが登場するが、これらは仏教徒なら誰もが理解すべき仏教的な物の見方を教えている。五蘊は、私とは何であるか、ということだ。十二処十八界は、神のような普遍的な存在、絶対者を立てることなく、身近な周りの分析から、仏教徒の世界観を把握する手立てとして説かれたものだ。

十二因縁は、刺激に反応し苦しみに至る私たちの心のその原因と結果を解明し人生とは何かを明らかにし、悟りに至る逆のプロセスによって悟りに至る仏教徒の歩み方を明らかにする。四諦は、現実を直視してその因果を見きわめ、私たちの生きる目標とは何か、どう生きればよいかを明らかにした教えである。

そして心経では、それらも空という究極のもののあり方を直接的に体験している心には存在しないと述べるに過ぎない。それなのに、通俗的な解説には必ずといってこのくだりを、お釈迦様の教説を小乗仏教と貶め大乗仏教を金科玉条の如くに推奨しているとする説き方が横行した。

こうして心経は仏陀の教説を否定し、あたかも大乗の教えが勝れていると、我が国において長い間、それを是認称賛したかのように受け取られ、それが為にかえって日本仏教から仏教の根幹たる教えが失われたのではないか。

心経は観音菩薩の境地を述べたものに過ぎない。凡夫である我々は、まず、本来のお釈迦様の教説一つ一つをおろそかにすることなく、それらによって仏教の物の見方、歩み方を学び、そして空を体得しつつ、悟りを人生の最終目標として、一歩一歩着実にしっかりと努力せよ、そこに向かって前進せよ、疾くつとめよと、仏教徒のあるべき生き方を指し示し督励した教えが、般若心経なのであろう。このように私は思い受持したいと思っている。


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