春 夏 秋 冬

めぐり来る 春夏秋 麗しき 大和し護れ 民草いとえ 
          

ブログ休止のお知らせ

このブログの表題に入れた短歌の、春夏秋冬の中の冬の字が、誰かによって削られて、修正不能になって久しいのですが、昨日から編集画面までが、誰かにいじられたようで、出す事が出来なくなっています。 この記事作成画面も、何時使用不能になるかもしれない状況にありますので、 春夏秋冬はこの記事をもって、しばらく休ませていただく事にしました。(2010年3月) * * * * * * *  Fc2ブログに不祥事が起き、広告主が引き上げたそうです。 Fc2は何時終了になるか予断を許さない状況かと思い、 気になる過去記事を少しずつ、こちらのブログに写す事にしました。(2015・4・24)

国民年金法:改正案を閣議決定 

2009年01月30日 20時25分59秒 | 国内情報

国民年金法:改正案を閣議決定 
政府は30日、現行約37%の基礎年金の国庫負担割合を4月から2分の1に引き上げるため、国民年金法などの改正案を閣議決定した。必要な財源約2・3兆円は、09~10年度の2年間は埋蔵金の一種である財政投融資特別会計の金利変動準備金で賄い、11年度以降は消費税増税を想定した「税制の抜本的改革」で充当する。ただ、11年度からの税率アップができない場合に備え、臨時の法制・財政上の措置によって2分の1を維持できる内容となっている。
毎日新聞 2009年1月30日 東京夕刊


私は40年間かけ続けた、国民年金を来月から受け取れることになっている。
閣議決定がどれほどの重みがあるのかは知らないけれど、当分は頂けるのかなという気がして、ちょっと嬉しかった。

インドなどは、65%が25歳以下の人だそうで、この経済危機の影響も殆どないという話だけれど、
日本は業績悪化企業が次々と名乗りを上げて、雇用がどんどん減っている。
2011年までに景気が回復したら消費税を挙げるとの事だけれど、景気は回復できるのだろうか?
それに消費税は食料品にはかけないようにしたり、
昔のようにぜいたく品にはちょっと高率の物品税にして、お金を持っている人から、多く出してもらうシステムにするべきなのではないだろうか。

こんな状態のままにしておいたら、娘を含む今の若い人たちの今後、及び老後はどういうことになるのかと心配でならない。

久しぶりに雨(1月末にしては暖かい雨)

弱い者いじめの構図

2009年01月29日 16時57分19秒 | 思想信条
自民党政権のうちに、野党が反対しそうな問題はどんどん決めていけとの
アメリカからの命令によるのかもしれないけれど、
一昔前だったら何日間も国会が空転していたに違いないような問題が、
次々と国民にろくに説明もしないまま決定されて行っている。

今朝のニュースショーの話題は、麻生総理が小泉構造改革と一線を引くと明言したことを、郵政選挙で民意を得て決定されたものなのにと、
麻生総理の事を例によって、こてんこてんに貶めていた。
郵政選挙の時にはだまされて、小泉一派に投票した人が多数あったのは事実だけれど、その反省から一昨年の参議院選挙では、与党がぼろ負けしたのだから、
今の民意は、小泉構造改革に反対のものであると思える。
民意を言うのであるならば、速やかに総選挙をしてから言うのならともかく、
虎の子の3分の2議決権にしがみついて、民意に反することを次々に決めて行っている人たちが、都合の良い時だけ民意をかざして、反対意見を封じ込めようとしているのは見苦しい限りである。

そしてこんなに問題山積の今日なのに、
朝青龍がモンゴルに帰国したのがけしからんと、日本には何一つ問題にすることがないかのようなのんきな話題に、力を入れているのだった。
負けたら引退だと、手ぐすね引いて待っていた朝青龍が、
案に相違して優勝したので面白くなかったのか、
優勝を決めた時、思わずガッツポーズしたのが、横綱の品位にかかわるの何のと、海老沢氏がけちをつけていた。
そんな人の気持ちの全然分からない、思いやり皆無の海老沢氏の方が、
日本の国技の審議会委員としての品位に欠けると、私には思えるのだけれど・・・・・
それに朝青龍のおかげで大相撲に関心が集まり、
どれだけの人が朝青龍見たさに、両国国技館に足を運んだかを考えたら、
日本人力士がだらしない時に、相撲を盛り上げてくれた恩人とも言えるようなものなのに、あんなあしらいをするから、
朝青龍はふるさとが恋しくてならなくなって、大急ぎで帰国してしまったのではないだろうか?
相手を苦しめておいて、そのストレスから逃げ出したら、
又々けしからんと言って、マスコミを動員して総攻撃とは!
今の横綱審議会の委員たちは、いじめっ子中学生のような感じにさえ見えてくる。

ソマリア沖の海賊がけしからんと、一方的にソマリアだけが悪いように言って、
政府は憲法無視、法律無視で自衛隊を海外派遣しようとしているけれど、
昨日の記事にejnewsさんがコメントを下さったところによると、諸外国の無法な行いの所為で、ソマリアの人たちは漁も出来なくなって、
生きるためにやむを得ず、海賊行為をするようになったのではないかと思われる。

(ejnewsさんのコメントの一部を引用)
ソマリアの海賊問題は元々イタリア等のゴミ処理業者がソマリア沖で工業廃棄物不法投棄を始め、核物質や放射線廃棄物が大量に含まれていてソマリア沖漁場が汚染され多くのソマリア人が病気になり、其の外に日本も含まれていると思いますがアジアからの遠洋漁業船団の漁場侵略で地元の漁民が漁場を失い、彼等が生活のために海賊になったのだそうです。ソマリアは長い戦乱で政府が機能してないので外国の違法行為に対処できない事が原因の様です。と言う事で海賊には70%以上のソマリア人の支持があるそうです。私には海上自衛隊を送るより援助資金を送った方が安上がり、効果的、日本の評判も良くなると思えるのですが、なんだか裏がありそうですね。
こんないきさつが有るのに、外国人を殺傷することを、日本国憲法が許すようなことになったら、日本も侵略国の仲間入りと言うことになってしまうのではないだろうか?
憲法改悪をたくらんでいる人たちは、海賊と言う言葉で、
全面的にソマリア人だけが悪いように印象操作して、
こういう悪い人間が世界にはうようよいるのだから、
世界の秩序維持のために日本も軍隊を派遣できるようにならなければ、無責任のそしりを受けることになる、
とか何とか言う理屈をつけて、憲法改正論議を高めようと言うのではないかと心配になってくる。
ejnewsさんの言われるように、ソマリアに経済援助したほうが、弱いものいじめの罪を犯すことなく、しかも余程安上がりになるに違いないのだから、
平和憲法を擁する日本政府は、
「ソマリアを助けて、海賊行為を止めさせましょう。」と諸外国に働きかけるべきなのではないだろうか?

良い麻生さんと、?の麻生さん

2009年01月28日 16時30分23秒 | 政治
今日は重要なニュースの目白押しである。
下記のニュースは、小泉構造改革に対してやっと反対の立場を表明したもので、待たされた感は有るものの、
麻生さんに拍手を送りたい。

首相、施政方針演説 小泉改革路線と一線、小さな政府に疑問符 麻生太郎首相は施政方針演説で小泉純一郎元首相の改革路線と一線を画す姿勢を示した。社会保障財源のため消費税率引き上げをタブー視せず、安全網を軽んじる「小さな政府」志向に疑問符を付けた。選挙管理内閣を脱しようという意気込みが見えるが、9月までに必ずある次期衆院選で勝つシナリオを描けなければ画餅(がべい)に終わりかねない。



海自に準備を指示 ソマリア派遣で防衛相2009年1月28日 夕刊
 浜田靖一防衛相は二十八日午前、アフリカ・ソマリア沖の海賊対策として、現行の自衛隊法に基づく海上警備行動で海上自衛隊の護衛艦を派遣するため赤星慶治海上幕僚長らに準備を指示した。具体的な武器使用基準の策定など準備には一カ月程度かかるため、現地での活動開始は三月下旬以降になる見通し。

 これに先立ち、政府は首相官邸で安全保障会議を開催。麻生太郎首相が海自艦派遣を決断したと表明した。

 海警行動での護衛対象は日本船籍のほか、日本人や日本の貨物を運んだり、日本の海運事業者が運航する日本関連船舶。

 政府は今回の措置を当面の措置と位置付けており、これとは別に海賊対策の新法案を三月にも国会に提出、成立を目指す。

 浜田氏は二十八日午前、防衛省内で記者団に「あくまでも新法を整備した上で対応することが基本。法整備作業の加速化が不可欠だ」と述べた。


自衛隊の海外派兵は憲法違反になると言うのに、その上法整備もしないで、どうしてそんなに急いで海自艦派遣を強行せねばならないのだろうか?
自民党はもうそんなに長くないかもしれないのに、無理して急ぐこともなかろうにと思ってしまう。
小泉構造改革に対して反対の立場で、政治のひずみ部分を修正するだけにしておかれたら、支持率も上がったかもしれないのに・・・・・

グアム移転 協定締結へ/日本の財政支出が柱
米軍再編で外務省方針 今国会に承認案

 【東京】外務省は二十七日、在日米軍再編に盛り込まれた在沖米海兵隊のグアム移転事業について、(1)日本側の財政支出(2)資金の米側による適正使用―を柱とした協定を米政府と締結する方針を決めた。二月上旬にも協定に署名し、承認案を今国会に提出。国会承認を得て発効する運びだが、同事業は日本側の財政支出が高額であることなどから、野党議員から批判が集中しており、今後の国会審議が注目される。
 海兵隊のグアム移転事業をめぐっては日米両政府が二〇〇六年四月、移転費総額百二億七千万ドル(約九千百四十億円)のうち、日本側が59%にあたる六十億九千万ドル(上限)を負担することで合意している。
 外務省がこの時期に、承認案を国会に提出する背景には、〇九年度からグアムでの事業が本格化し、今後も数年にわたり日本側が財政支出をしていく見通しとなったことがある。
 協定を交わす法的義務はないが、同省条約課は「国民の税金を外国に出す以上、相手国が適正に使うことを法的に縛ることは当然やるべきことだ」と意義を強調している。
 ただ同事業で日本側は、家族住宅や電力・上下水道などのインフラなどの整備で費用を負担することを想定しているが、厳しい財政状況下で米軍関連施設に税金を支出することには根強い異論がある。特に家族住宅をめぐっては、防衛省は一戸あたりの平均単価が六十一万ドルに上るとしているが、民主党など野党からは「高価すぎる」などの厳しい批判が上がっている。
 協定の承認案が国会に提出されれば、同問題が再燃するのは避けられず、審議の長期化も予想される。


駐留中の米軍が移転する時、ヨーロッパやその他のたいていの国々では、
移転費用を持つことは殆ど無かったと聞く。
今回の米軍海兵隊の移転も、日本にとどまる必要がなくなったから、
本当は米軍の都合で引き上げると言うのに、
グアム島での海兵隊員の宿舎まで、財政危機の日本が持つ約束になっていると言う。
それも宿舎一戸当たりの予算が6000万円も見積もられていると言うのだから、呆れてしまう。
これも小泉政権の時、アメリカの求めるものなら、何でも言いなりに出す方針の小泉総理の下、
安請合いされたのが原因なのだから、
現在は事情が変わったからと言って、再交渉しても良いのではないだろうか?

こんな事に税金を湯水のごとく使いながら、
財政赤字だから消費税を上げて、福祉に回しますと言っても、
その消費税を又アメリカに貢献させられて、
三度も四たびも消費税アップが求められるとしたら、庶民としてはたまったものではないと思ってしまう。

今日は布団干し日和だった

築地市場、豊洲移転問題に思う

2009年01月27日 17時34分44秒 | 国内情報

「築地」移転:予定地の発がん性物質濃度、公表の115倍
築地市場と移転予定地 東京都中央卸売市場築地市場の移転予定地である豊洲地区(江東区)の土壌から昨年、発がん性物質「ベンゾ(a)ピレン」が公表値の115倍の濃度で検出されていたことが分かった。都は当時、汚染対策を検討するため公開で開いていた専門家会議にこの結果を報告しておらず、「情報隠し」との批判を招きそうだ。

 都によると当初、予定地から土壌1キログラム当たり最大5.1ミリグラムのベンゾ(a)ピレンが検出され、07年11月に専門家会議で公表。詳しく調査するよう指摘されたため、民間業者に改めて調査を委託した。その結果、当初報告された最大値の115倍に当たる590ミリグラムが検出され、業者側は08年6月、都に報告書を提出。しかし都は専門家会議では報告せず、会議終了後の同11月になってから委員に電子メールで報告したという。

 都中央卸売市場の担当者は「ベンゾ(a)ピレンは専門家会議の調査対象になっていなかったため、報告書の記載に気づくのが遅れた。情報隠しではない。専門家からは健康に影響が出る値ではないと聞いている」と釈明している。

 ベンゾ(a)ピレンはディーゼル車の排ガスなどに含まれる化学物質。環境基準は設定されていないが、健康リスクが高いと指摘されている。豊洲地区の移転予定地では基準値の4万倍以上のベンゼンなどが検出され、都は586億円かけて汚染を除去し、14年末の開場を目指す方針を明らかにしている。【江畑佳明】


発がん性物質濃度が、公表の115倍も有ったと分かったそうである。
この事を当初は隠して専門家会議をやり、後で電子メールでメンバーに報告するなど、
手の込んだ誤魔化しをやっていたようである。
汚染した土壌の除去費用も、最初1000億円と言っていたものを、586億円と言いなおしているけれど、費用を安くした分、除去作業をいい加減にしないと約束したとしても、
どうしてそれを言葉通りに信用できるのだろうか?

都民の台所と言われる築地市場を、発がん性物質(毒)の存在さえ115分の1に誤魔化そうとする態度は、どう見ても都民の健康を最優先している者の態度とはとても思えない。

「都は10年度、除去工事に着手、14年末の新市場開業を目指す。」と言う方針だそうだけれど、
ここまで深刻な問題が出ているのに、こんなにも大急ぎで、あくまでも豊洲移転を強行するつもりなのだろうか?
こんな事を東京都民は、黙って見ているだけなのだろうか?
当然、都知事のリコール運動にならなければならに様な、緊急事態だと、部外者の私にも思えるのだけれど・・・・・

のち

イギリスの金融危機

2009年01月25日 21時18分01秒 | 海外情報
田中宇さんが「イギリスの崩壊」と言う記事を書いておられる。
イラク戦争の失敗と今回の金融危機、そしてその後始末の失敗などで、
今イギリスはアメリカ以上に、にっちもさっちも行かない状態に置かれているらしい。
その所為かどうかは,分からないのだけれど、
今朝の朝日新聞の一面トップに、イスラエル軍が、ガザでやった悪事のことが、現地のパレスチナ人の立場で、詳しく載せられていた。
この情報は以前あるブログで見て知っていたのだけれど、新聞やテレビなどのマスコミでの報道では、無かった様に思う。
強制退避先を砲撃30人死亡 重大事件と国連非難の報道等で、
110人の人をひとつの家に押し込めて、爆撃したと言う残虐極まりないもの等であった。
1月9日に起きたことを、25日に朝日新聞が取り上げたと言うことには、何か意味があるのかもしれない。

田中さんはもう一つ気になることを書いておられた。
イギリスの非常に優秀な諜報機関M16が、うごめくかもしれないと言うもので、
シティが潰れても、MI6が健在なら、英国は新たな策動によって、自国の繁栄と、自国好みの国際政治体制を維持するかもしれない。(たとえば日本人の中国敵視を煽り、日本を中国と戦争させて東アジアの経済台頭と多極化を潰すとか)
と言うものであった。

世界金融危機とは、金融の危機だけでなく、あらゆる政治的な危機をも想定しておかねば、酷い目に合わされるかもしれないということなのかもしれない。

私たち日本人は”載せられて”戦争になど巻き込まれないように、
これからしばらくは、特に用心をせねばならない時なのではないかと思った。

今日も快晴で、時折風花が舞う寒い1日だった。

柏崎刈羽原発:7号機耐震解析 保安院が「妥当」 と判断

2009年01月24日 16時54分40秒 | 原発・エネルギー問題

柏崎刈羽原発:7号機耐震解析 保安院が「妥当」
 07年7月の新潟県中越沖地震で被災した東京電力柏崎刈羽原発7号機(新潟県)で、東電が耐震上重要な原発建屋などの安全性は確保できるとした解析について、経済産業省原子力安全・保安院は23日、「妥当」とする報告書をまとめた。東電が想定した揺れは原発直下の岩盤上で最大1209ガル(ガルは加速度の単位)としている。今後、複数の機器を組み合わせて作動させる「系統機能試験」などを経て国や地元自治体の了解が得られれば、同原発(全7基)で地震後初の運転再開となる。【河内敏康】


今回の判断が妥当だったのかどうかは、素人の私には判断の仕様がないけれど、
地元の人にしたらどんなにか不安なことだろう。
経済産業省がそうかどうかは知らないけれど、
国土交通省の滋賀県大戸川ダムの場合は、
ダムを造らせようと、「洪水の恐れがある。」と言いながら、
ダム建設にに地元が反対して、「ダムでなくても堤防を」と言っているのに、
堤防建設については何もしてくれないで、将来何時かダムを造れることになった時のために、
現地事務所をそのまま残すと言うだけで、洪水対策は何も無しである。

本当に洪水の危険があるのだったら、のんきにダム建設ができる時など、
待ってはおられないはずなのに、
ずっと費用も安く上がるはずの堤防を、造ろうとは決してしないようである。

つまり洪水が来て国民が困ることになるかどうか等、そんなことはどうでもいのであって、国交省にとっての最大の関心事は、莫大な予算を使う工事をして私腹を肥やしたいだけなのである。と言うようなご都合主義の姿勢を見せられていると、経済産業省も同じではないかとつい疑いたくなってくる。

原子力発電所の安全が確認されたと言う判断の動機は、
電力会社がいつまでも操業できないと困るから、(そう言って泣きつかれたから)
「絶対安全なんて誰にもわかる分けないに決まっている。」と言うのが本音なのだけれど、(袖の下も貰っている事だし)良い加減のところで「ゴーサインを出さざるを得ないではないか!」
と言うのが、経済産業省としての立場なのではないかと言う疑いを禁じえないのである。

もし原発事故が起きたらどんな被害が出るか?
地元の者は逃れようがないと言うことを、真剣に考えていたら、
安全宣言など出来る判断ではないのではなかろうか?

やっぱり原子力発電をこの地震国で、いつまでも続けるのはやめにするべきなのではないだろうか。

今日は非常に寒かったけれど、久しぶりの快晴

世界大不況を歓呼の声で迎える人たち

2009年01月23日 13時25分04秒 | 思想信条
晴耕雨読さんの「世界同時大不況」を歓呼の声を持って迎える人たちを読んで、この記事はエンロン破綻の時のことを扱っておられるのだけれど、
この度の麻生総理言われるところの100年に一度の世界的金融危機についても、同じ事が言えるのではないかと、その卓見に感心させられた。

小泉元総理に騙された人々の項目の中に、私のような種類の者もちゃんと入っていたのが、面白くもあった。

日本にオバマのような指導者をと、うらやましがる向きもあるようだけれど、
小泉総理の指導力と言って、もてはやしていたけれど、実態は巧妙に国民を操るための仕組みでしかなかったのが分かったのだから、
もう強力な指導力を持った個人に期待するのは、よしたほうが良いのではないかと思われる。

もっと理性的に、国民にとって良い事か、悪いことかを個々に検証し、
以前自民党が唱えていたように「是々非々」で行くのが一番なのではないかと思う。(尤もこの「是々非々」を唱えていた時の自民党が、本心でそうしようとしていたかどうかは私は知らないのだけれど・・・・・)

私たち国民は、もうそろそろ、右翼だとか左翼だとかにこだわらないで、
実質的にものを考えるようにならないと、いつまでたっても操られ続けることになるのではないだろうか?

日本人は日本人であって、アメリカ人でもなければ、中国人でもないのだから、
どちらの国のやっていることであっても、良いことは良いし、
悪いことは悪いと、当たり前のことを当たり前に、感じることこそ、
日本に道を誤らせないために、必要不可欠の事なのではないだろうか?

日本には世界的不況によって、儲けを掠め取れるほどの大金持ちは、
現在のところいないということである。
トヨタがそれを狙っていたのかもしれないけれど、そんな欲を掻いていたら、
豊臣秀吉の「明」の国王になる夢のように、
種々の罪を重ねた挙句に、結局滅びてしまうことになるのではないだろうか。
トヨタの社長も日本人であることを思い出されて、これからの日本が立ち行く道を誠実に考えて、力を尽くしてくださったならば、
それがトヨタの生き延びる道にもなるのではないかと思うのだけど・・・・・

国民を苦しめて、自社だけ超え太っても、
ついには外国の超弩級の金融資本に飲み込まれ、
自国民からも恨まれる最悪の結果が待っているだけではないだろうか?

今日は久しぶりに日差しがさしてきた。

オバマ大統領就任演説

2009年01月21日 17時33分57秒 | 海外情報
昨夜と言うか今朝未明にアメリカ大統領の就任式があった。
夜中まで起きて見るつもりはなかったのだけれど、
たまたま目が覚めたのが丁度午前2時で、オバマさんの演説の時間だったので、
すでに始まってはいたけれど、大部分を見ることができたのだった。

静かな語り口で、アメリカ人ならきっと心にしみただろうなと感じられる様な、
すばらしい演説で、真夜中の何時もなら白川夜船の時間なのに、
眠気の襲う事等もなく最後まで、聞かせてもらった。
いろいろ良いフレーズが有ったのだけれど、一部引用してみたい。

政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく、機能しているかどうかだ。家庭が人並みの収入を得られるよう仕事を見つけ、威厳をもって引退できるよう助けているかどうかだ。

 答えが「イエス」の施策は継続する。「ノー」の施策は廃止する。公金を預かる我々は、説明責任を果たさなければならない。適切に支出し、悪い習慣を改め、誰からも見えるように業務を行う。それによって初めて、国民と政府の間の重要な信頼を回復できる。

 市場が正しいか悪いかも、我々にとっての問題ではない。富を生み出し、自由を拡大する市場の力は比肩するものがない。だが、今回の金融危機は、注意深い監視がなされなければ、市場は制御不能になり、豊かな者のみを優遇する国は長く繁栄することはできないことを我々に気付かせた。
(引用終わり)
これはそのまま日本の政治家に言ってもらいたい言葉でもある。
アメリカの真似をしてここまで、国を疲弊させたのだから当然のことながら、
悪い方だけまねるのではなく、
改善への取り組みも又真似てもらいたいものである。

尤もオバマ大統領就任式の最中、アメリカの株価はどんどん下がって行ったそうだから、オバマでは大儲けできそうに無いと財界は思っているのかもしれない。
財界がオバマに協力しなかったり、邪魔をする恐れも有るから、
ただの理想論に終わる場合もあるのだろうけれど・・・・・

でも黒人大統領を出さなかったら、暴動の恐れさえあると思われたからこそ、財界はオバマ氏を応援したのだろうから、少しは協力するかも知れない。

少なくとも「テロとの戦い」をスローガンに掲げる大統領よりはましになるかもしれないとの期待を、日本人の私さえ抱かされたのだった。



今日は大寒

2009年01月20日 20時26分16秒 | 国内情報
今日は大寒、1年で一番寒い日のはずだけれど、今日は比較的寒さは厳しくなくて、今週末24~25日が厳しい寒さになるだろうとの天気予報でした。
この冬はやると危惧されていた、インフルエンザは、兵庫大阪の多数の学級閉鎖以外は、それほどの猛威にならなかったようで何よりでした。
我が家も幸いにして、誰も罹っていませんのでやれやれです。
全国各地でタミフルの耐性ウィルスも発見されていますが、
この冬はやっているのはA香港型で、タミフルが効くそうです。
酷い流行になどならずに、このまま春になることが祈られます。

(引用)
タミフル効かないインフルエンザ拡大
2008年1月18日付 
 インフルエンザ治療薬のタミフルが効かないウイルス(耐性ウイルス)が、広がりをみせています。厚生労働省が調べた11都道府県すべてで、耐性ウイルスが見つかりました。集まったAソ連型ウイルスのサンプル35株のうち、34株が耐性ウイルスでした。
 今回、耐性ウイルスが確認されたのは北海道、宮城、千葉、東京、静岡、三重、滋賀、大阪、兵庫、広島、山口。今の季節に流行しているのは、主にA香港型。耐性ウイルスは見つかっていないので、タミフルは効くとみられます。
 今シーズンはすでに大阪や兵庫などの一部で流行警報、東京でも流行注意報が出ました。1月10日までの学級閉鎖(累計)は、兵庫で166学級、大阪で153学級と、全国でも飛びぬけています。(朝日学生新聞社)




国会再開

2009年01月19日 13時57分47秒 | 思想信条

国会再開、定額給付金が焦点
19日午前、参院予算委員会で2兆円規模の定額給付金を含んだ2008年度第2次補正予算案の質疑が始まった。野党3党の提出した定額給付金部分を削除した修正案の質疑に入った。麻生首相は消費税引き上げについて「11年度まで景気を引き上げ、財政の健全化と行政改革を行い中福祉・中負担を目指す」と述べた。11年度からの税制引き上げを改めて確認した。

 また金融危機について「景気対策はしっかりやらないと、日本経済は失速する」と語り「経済対策は切れ目ない対応をしていく」と話した。野党の反発で参院での審議入りが遅れており、政府・与党は2次補正と関連法案について23日の本会議で一括成立を目指す構えである。


今朝参議院でも第2次補正予算の審議が始まったようである。
国会中継をテレビで見ていたら、自民党の椎名某氏が麻生総理への質問に質問していた。
その中でちょっと気になった言葉が有った。
「・・・・・20日にオバマ政権が発足しますが、新しい日米関係についての総理の決意をおうかがいしたい。」
外国とどう付き合うかについての、考えを聞きたいというのではなく、
「決意」を聞きたいと言われるのである。

麻生総理の回答は「今まで通り・・・・・」というもので特別に取り立てて言うほどの事も無かったけれど、
或外国とこれからどう付き合っていくつもりか、その決意を聞きたいと、
総理大臣に国会で質問する人の、真意を聞きたいという感じがしたのだった。

決意を聞きたいでは「開戦か、従属かどちらにするんだ」と聞いているような感じさえ受ける。
国際間の付き合いは、そんな白か黒ではなく、
程よく協調し、程よく自国の利益も主張し、末永く仲良く付き合っていけるよう配慮することなのではないかと、私は思っていたので、
「どう付き合っていくつもりか、決意を伺いたい」という言葉には非常に違和感を感じたのだった。

これまでは首根っこを押さえられっぱなしだったかもしれないけれど、
新大統領の下では、日米間もこれまでとはチェンジして、
日本側にも主体性の有る外交を心がけてほしいものである。


西松裏金事件

2009年01月18日 14時50分10秒 | 司法問題
西松裏金事件 献金偽装、海外リベートなど3つの疑惑 
海外から裏金を持ち込んだとして元副社長らが外為法違反容疑で逮捕された準大手ゼネコンの西松建設。東京地検特捜部の捜査の過程で、同社OBが設立した政治団体の献金偽装疑惑、海外高官へのリベート疑惑、原子力発電所を巡る受注工作の疑惑が浮上。過去10年間で10億円以上の裏金がつくられたとされ、こうした利権体質にもメスが入るか注目される。

 外為法違反容疑で逮捕された元副社長、藤巻恵次容疑者(68)ら4人の逮捕容疑は、2006―07年に海外でつくった裏金のうち計7000万円を税関に無届けで国内に持ち込んだ疑い。(引用終わり)

西松建設は主に原子力発電所建設についての受注に力を入れていると、テレビのニュースでも言っていた。
国土をどこまで荒らすかもしれないし、
30年したら使い物にならなくなり、
その無害化のために又30年間ものホローが必要となる、
採算が会わず電力会社にとっても本音では造りたくないらしいと聞いたことがあるが、
そんな原子力発電所を、どうして住民の必死の反対を何十年もかけて、
力技で押し殺してまで、行政は造らせたがるのだろうと不思議でならなかったが、
ここにも大きな賄賂が関わっていたものの様である。

一度事故が起きたら、近隣いったいがどれほどの被害をこうむるかもわからないくらいに重大な事故となるのが分っていながら、
県は違うとは言っても琵琶湖の近くの福井県に、何基もの原発を造っただけではなお足らないかのように、
事もあろうに瀬戸内海の入り口の美しい島を埋め立てて、原発を造らせようとしている。
それも上関町の住民に25年間も働きかけ続け、町会議員12人の(賛否8:4)採決で、瀬戸内海の住民の運命を左右するかもしれない決定を下したのであった。

原発は大きな事故が起きなくても、少量の放射能漏れは防ぎようがないというのに、電気の消費量を抑える取り組みをするどころか、
テレビコマーシャルで流してまでオール電化を推進させて、
「電気が必要だから原子力発電所は致し方ない。」と強引に原子力発電所を造らせつづけようとしている。

これは30年位したら、機能的に使い物にならなくなるとわかっていて、洪水対策にとダムを強引に作らせ続けようとしているのと好一対である。
ダム建設も地元の反対があったら凍結という形で計画はいつまでも残しておき、
政治状況が変わったら持ち出すというやり方で、一度計画を立てたら何十年かかっても、地元がどんなに迷惑しようとお構いなしで、
しかも地元の請願という形を整えて、強引に造らせてきている。

滋賀県の大戸川ダムも、嘉田知事の信念を持った活動により、このたびは取りやめにはなったけれど、国交省はまだまだ諦めてはおらず、凍結という形で残し、現地事務所も残しておくらしい。
洪水の危険があるというのに、政府よりの大津市長ははダム建設が見送られたら、堤防建設を請願してもよさそうなものなのに、あくまでもダム建設を要望し、嘉田知事を非難している。

ついに県議会がダム建設に反対の議決をしたというのに、大津市が堤防建設の要望をしたという話は、一向に聞こえてこない。
目片大津市長は、住民が洪水になって危険な目に会うかもしれないと心配していたにしては、堤防建設を求めないというのはどういうことなのだろう?
「語るに落ちる」とはこの事なのだろうか?

今回の西松建設裏金事件は、政治の腐敗を物語る象徴的な事件であったと私には感じられた。




天災 人災

2009年01月17日 17時30分25秒 | 思想信条
今日1月17日は14年前、阪神淡路大震災の起きた日である。
1月12日に14歳あまりで死んでしまった、我が家の犬ポチはまだ生後3ヶ月位の時であった。
子犬の時ほかの動物のような鳴き方をする犬があるということは、一般に知られていることらしいけれど、ポチを飼うまでそんな事想像もしたことがなかったのだけれど、
子犬の時ポチは「ぴよぴよ」と鳴いていたのである。
地震の時ポチは怖がって、いつもにもまして「ぴよぴよ」を連発させていた。

我が家は揺れに驚いただけで、実害は無かったのだけれど、主人の従姉弟の家は神戸の灘区で、家も倒壊してしまった。
息子夫婦は2階に寝ていて、怪我も無く屋外に出られたのだけれど、八十数歳だった主人の従姉弟は1階で寝ていて、1階はぐじゃぐじゃになって生き埋めになるところだったが、洋服ダンスで体がすっぽりと包み込まれて命拾いをされた。
しかしその時足を強く打っていたのが悪化して、2年後に亡くなってしまった。

2年後に亡くなった人は震災死者の数には入れられていないだろうけれど、
震災が元で死を早めた人も多いのかもしれない。

2年後にその従姉弟のお葬式に神戸に行ったとき、表面上はもうほとんど震災を感じさせないようにまで復興していることに驚いたことが思い出される。

神戸は戦時中も米軍に焼夷弾を落とされて、焼け野原にされている。
私の主人は小学校を卒業し、但馬への疎開から帰ったばかりの時に、この震災に家を焼かれ逃げ惑った経験を持っている。

先日再放送ながら、広島、長崎の原爆投下に、製造段階から深くかかわっていたアメリカの元軍人を、原爆投下後50年の広島に招いた時のことが放送されていた。

広島で被災した老婦人が広島の被害状況を紹介した後、
その元軍人に「酷いことをして悪かった。」と言って貰おうと色々語りかけておられたけれど、
その元軍人の言い分は、絶対に変わらなかった。
曰く 
日本は真珠湾攻撃で多数のアメリカ軍人を殺した。
日本人の民間人を殺したと言っても、民間人にも責任が無いというわけではない。
民間人が同意したから日本政府は戦争を仕掛けてきたのだから、
「原爆を落として、(民間人が巻き込まれたとしても)悪かったとは思わない。」というような事を言っておられた。

民間人を殺すことは、国際法ではどうなっているのだろうか?
アメリカ人は皆こういう考え方なのだろうか?
「力及ばず政府の戦争に反対し得なかったら、どんな報復を受けても仕方ないという覚悟をせねばならない。」とアメリカ人は、皆肝に銘じているのだろうか?

49対51でも多数決の民主主義は、51の方を国民の総意と見る。
郵政選挙で自民党は3分の2の議席を得たけれど、得票数は民主党との差は僅差であったということである。

これが戦争をするかどうかの選挙であったとしたら・・・・
それでも広島、長崎の原爆被害者全員が、全国の都市の焼死したり、焼け出されたりした住人全員が、当然の罰を受けただけと言うことなのだろうか?

戦争は何としても阻止せねばならないことだと、肝に銘じたい





人生の目的は自分のドラマを生きる事

2009年01月16日 13時20分26秒 | 日常徒然
チャップリンが語る愛の世界
私の人生観宗教観に書いたのだけれど、
人間がこの世に生まれてきたのは、あらかじめ自分で想定した人物として、人生ドラマを演じるのが目的だったのではないかと思うようになったのは、
私の淡い初恋の相手、彼とのかかわり方に元を発している。
二人共老齢に達し、若い方々の参考の為ここにそのあらましを書いても良い時期に来ているのかもしれないと思い、恥さらしだけど書かせてもらうことにした。

私が初めて彼の名前を知ったのは、私が2年生で転入学した福岡の高校で、
新しい高校にやっと慣れかけてきた5月のことであった。
この高校の毎年春に行われる文化祭で、クラスメートに勧められて文芸部の文集を買った。
その文芸部発行の文集に彼の創作「遺言」という短編小説が載せられていた。
創作「遺言」を読んだ後、何故か私の目には、
作者の名前に後光がさしているように見え始めた。
後光というと神がかりのようであるが、
名前の周りに燐光のようなものが、見えるようになったのだった。
2年生の3学期、初めて彼と出会う頃まで、
その燐光の様なものはずっと感じられていたのだった。
友人にページを開いて、名前の部分が光って見えないか尋ねたら、
その友人に「変な事を言う」というような目で見られたものだったが・・・・・

「遺言」の舞台は戦国時代の宗像大宮司家。
かの有名な下克上の人陶氏におびやかされる戦国大名の家の物語。
主君を殺害した陶氏の血を引く亡君の落とし胤に後を継がせて、
主家の存続を図ることにした家老の悲劇の物語。

小説の主人公で宗像家家老の久秀は主君を陶氏に暗殺され、跡目を誰にすべきか迷いに迷っていた。
今は亡き主君の未亡人菊姫に婿をとるべきだと言う意見が大勢を占めていたからだった。
それでは主家は陶氏に滅ぼされてしまうだろうと思うと久秀は其れにも賛成できないが、
菊姫の父は久秀にとって恩人であった。
迷いに迷った挙句に久秀は主家存続の為遂に決心して、恩人の娘・まだうら若く美しい女性菊姫を、自分の手にかけたのだった。
菊姫が生きている限りお家騒動が続くと見たからだった。
久秀はその後すぐ、主君の未亡人を殺した責任を取って切腹する。
死を前に久秀は自分の息子に遺言を残した。
その遺言には「武士をやめて僧侶となって静かに暮らせ」とあったという。

作者の名前に燐光を見ることとなったのは、その戦国の世の悲劇が私をうっとりとさせたからなのだろうか?

秋の文集にも彼の創作作品が載っていた。
宇治拾遺物語から題材をとった、のどかな話が数編描かれていた。
その時私は、どういう意味かはわからないが、「この中にあの人は居ない」という気がしたものだった。
そして秋の文集に載った彼の名前も、私の目には春の文集の時と同じように、燐光に包まれているように見えたのだった。

私は彼に会えるかもしれないという希望もあって、誘われるままに文芸部に入部していた。
2年生の3学期、大学の入試が済んだ頃始めて彼は私の前(文芸部の部室)に現れた。
彼が部室に入ってきたのは、
私が部室の入り口近くで、後輩の男子とはさみ将棋をしていた時だった。

「ここを行ったら良い」と笑いながら、彼は私の相方(後輩の男子)の駒を進めていた。
それが私にとって彼との始めての出会いであった。
その時私は思わず立ち上がっていた。

その時彼を前にして、私は幻影を見ていた。
最初は静かだったのが、だんだんと人が増えていく感じがした。
そして遂に大勢の人々の気配が感じられるようになってきた。
大勢の人々が、彼の事を讃えている様だった。
そのざわめきの中で私は、
「とうとうあの人は私の手の届かない所に行ってしまわれた」と寂しく感じていたのだった。

その幻影は、私にはずいぶん長い物語のような気がしていたけれど、
それは、もしかしたら、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。
はさみ将棋の相方の後輩の男子が、
「早く行って」とせかす声で、われに返ったとき、
将棋の駒を進めながら笑っていた彼の笑い声が、まだ続いていたような気がする。
後輩の男子との挟み将棋を、早々に終わらせたとき、
彼は部室を出て行くところであった。
彼が部室を出て行った後、興奮した私は文芸部員のだれかれかまわずに
「あの人が○○さん?」と聞いていたのだった。

その後大学が始まるまで、彼はしばしば文芸部の部室を訪れるようになっていた。
文芸部では「随筆日誌」というノートがあって、部員の誰でもそのノートに書きたい事を書き込めるようになっていた。
彼との出合いの後、私の書いた文に対して彼は感想とか返事とかと思えることを、いつも書いて下さるようになっていた。

高校を卒業して大学生になっても、彼は時々文芸部を訪れてくれていた。
しかし、二人の関係は文芸部員と、先輩の文芸部員の域を出ることはなかった。
その頃の私にとって彼は、自分と同等に考えることなどできない、雲の上の人のように崇拝する憧れの先輩だったのだから・・・・・

ある日学校から帰ろうとしている私を、彼が追いかけてきてくれて、校門の近くで一緒になったことがあった。
高校の前の大通りを始めて並んで歩いた時、
これから彼とこの大通りを何時までも歩いていけるのかと思うと、
その大通りが光輝いて見え、私の心は希望に満ちる思いであった。

それなのにいつもの曲がり角に来た時私は、
「私はこちらですから」と言って、彼に別れを告げていた。
私は彼に引き止められるのを期待していたのに,引き止めて貰えなかった事にがっかりしていたのだが・・・・・
その曲がり角を行ったすぐの所にあった、おうどん屋さんの屋号がそのときの私の胸には堪えた。
いつもは気にしたことのなかったその屋号
黒田節の歌詞から取った、その屋号は「想夫恋」であった。

その小路を過ぎると、国鉄の線路沿いの道に出る。
線路を右に見ると道の左手には、高く長い塀が続いていて中ほどに通用口があった。
そこに小さく社名が書いてあったが、その会社名は「大日本窒素」、今思うと此れも私の運命を暗示していたものだったのだろう。
何となく暗い雰囲気の塀であったが・・・・・

翌年私は高校を卒業して信託銀行に就職していた。
仕事にも幾らか慣れてきたある夏の夕方、仕事帰りの私は市電を降りて家への道、大日本窒素と鉄道にはさまれた高校時の通学路と交差している道を通って、踏み切りを渡ろうとしている時、
反対方向からやはり踏み切りを渡ろうとしていた彼と偶然出会った事がある。
二人は只会釈するのみで、お互いに踏み切りを反対方向に進み、言葉を交わす事もなかったのだった。

それから間もなくの10月、私の家は大阪に転居した。
幸いにして信託銀行が大阪支店への転勤をさせてくれたので、私は引き続き銀行勤務を続ける事が出来た。
その年の暮れ、住まいが遠くなったという気楽さもあって、私は思い切って彼に手紙を出したのだった。
すぐに返事が来て、二人の間に文通が始まった。
しかし話題が政治の話になると、二人の意見はどうしても真反対のものになってしまい、
私は短気にも、彼に絶交を申し入れてしまったのだった。

その後何年かして彼は、弁護士として今水俣病訴訟に取り組んでいる
「勝訴の日まで頑張るつもりです」と、
私に葉書を寄越してくださった。
「私も水俣に行ってお手伝いしたい」と書きたかったのだけれど、
私にはどうしても決心がつかなかった。
水俣病にかかった人が訴訟などしたら,
闘争的な精神から心が更に乱れて、
病状は更に悪化するのではないかという、
精神絶対主義的な思想に当時の私は、かなり偏っていたからだった。

今の私は、肉体は精神の影響を多分に受けるけれど、
肉体の材料が物質である以上、自然の状態と著しく違う環境におかれたら、
精神だけでは補いきれない場合もあるという考え方になっているのだが・・・・・

水俣病訴訟の裁判が、枚方地方裁判所で出張裁判をした事があった。
当時大阪府下に住んでいたので、何年か前からその日を楽しみに待っていたので、私はその裁判を傍聴に出かけた。
裁判所の小部屋で、私は彼と何年ぶりかで再会したのだった。
言葉は余り交わす事は出来なかったのだけれど、
又しても夢か現か分からない様な、不思議な気分になる出会いであった。

午後からの裁判に備えて、昼食を外で取って裁判所に向かっている時、
「怨」という字を書いた幟旗を掲げた一団が、私を追い越して裁判所の方に向かっていた。
私はその「怨」の字を見たとき、心が暗くなっていた。
その私を偶々道の向こうから見ておられた彼の目と、私の翳った目が会った。
彼は何も言わずに裁判所の方に行ってしまわれた。
心なしか、彼の目も暗く沈んでいるように思われた。

法廷は地方裁判所で小さな部屋なのに、
傍聴人が大勢でとても傍聴は出来ないかとガッカリしていたら、
奇跡的なと言いたいような事が起きた。
裁判所の職員が大勢の傍聴希望者に向かって、
「後2人・・・・」と言って、ある女性と私を指名してくれたのだった。

後で知ったのだけれど、その女性は水俣病を追いかけている有名な写真家であった。
その写真家を傍聴させてあげるために、
偶々傍にいた私はカムフラージュとして利用されたのではないかと思う。
そういう事情で、私は最後の2人の中のもう一人に選んでもらって、
物凄い競争率を突破して裁判の傍聴を許されたのだった。

法廷の中はほぼ満員で、皆が私達を振り返っていた。
最後の一人として私が法廷に入った時、心配そうに振り返っていたる彼と目が合って、私もほっとして笑みが出て、図らずも二人は微笑み交わしているという構図が出来ていた。
その時法廷内にざわめきの様なものが起きたような気がした。
裁判長もほんの一瞬、目をぱちくりさせられたのが印象に残っている。
流石にほんの一瞬であったが・・・・・

枚方の出張裁判は2日掛りで、翌日は朝からの法廷であった。
朝から行くには自分の家(豊中)からはちょっと遠いので、
私は高槻にある兄の家に一泊させてもらった。
その時兄嫁に「お隣の奥さんのお兄さんが、今隣に来ておられるのだけれど、会って見ない?」と、
私はお見合いを勧められた。

私はそれ処ではない気持ちだったので、
あっさりと断ってしまったが、
後で聞くとそのお隣の奥さんのお兄さんも、同じように断られたという話であった。

翌日出張裁判が終わってから、弁護団の人たちが帰えられるとき、
傍聴者達も一緒に、長い行列を作って帰途に着いていた。
暫く一緒に進んでいたら、踏み切りに差し掛かった。

私の帰り道はその踏切を渡らずに、横に行かねばならなかったので、
そこで彼とは碌に別れの言葉も交わせないまま、私は一行と別れた。
又踏み切りで分かれる事になったな~と、私は不思議な感じがしたのだったが・・・・・

それから数年後、急に思い立って水俣の事務所を尋ねたとき、
彼はちょうど熊本に行くところだった言われて、
熊本まで車で送ってあげようと申し出て下さった。

彼の車で私は最初で最後のデイトをした事になる。
熊本に行く途中立ち寄った海岸で車を降りて海を見せてもらった。
水俣病の事を色々と教えてもらった。
彼は海の向こうに見える島をさして、「恋路島」と島の名も教えてくれた。

「難波より はるばる来ぬる恋路島 水俣の海は厳しかりけり」

熊本までのドライブは楽しかったけれど、
山肌を切り開いた崖の道を走っている時
「ここでハンドルを切ったら崖から、落ちて一緒に死ねるかもしれない」と心に悪魔が囁いていたのを覚えている。

私は悪魔の言う事を無視する事が出来て、無事熊本についた。
レストランで夕食をご馳走になったり、夜の熊本城に案内してもらっているうちに夜はふけて、
熊本駅に着いたときにはもう10時近くになっていた。
切符売り場の窓口で彼が尋ねてくれたとき売り子さんが、
大阪行きの切符は最後の一枚になっていると言われた。
「このまま帰りますか?」との彼の問いに、
帰るのが当然のことと思っていた私は、
ちょっといぶかりながら、大阪行きの切符を買ったのだった。

一旦は大阪の家に帰ってきたのだけれど、
「このまま帰りますか?」と彼に聞かれた事が気にかかり、
私は家に帰り着いたその日、再び水俣を指して汽車に乗ってしまっていたのだった。

水俣の彼の事務所には、灯りがともっていなかったので、留守である事はすぐ分かった。
その上私にはそこがもう、もぬけの殻になっているような気がした。
それでも私はそのまま、そこを立ち去りがたく、
事務所の前にある公園のベンチで一人夜を明かす事にした。

3月の末だったと思うが、その夜はちっとも寒くはなかった。
満開の桜が美しく咲き乱れており、空には朧月がかかる美しい夜であった。
太田垣蓮月尼の「宿貸さぬ 人の辛さを情けにて 朧月夜の 花の下臥し」そのままの夜であった。

翌朝駅のそばを通った時、水俣病訴訟勝訴記念式典がその日熊本の会館であるというポスターに始めて気がついた。
彼が「このまま帰りますか?」と聞かれたのは、私がこの式典に出るために、遠路はるばる熊本県までやって来たと思っておられたからなのだという事が、やっと分かった。

私は熊本の会場に行って、途中からではあったが式典に参加する事ができた。
式典が終わって彼に近づく機会があった時、そっと彼の背広の裾に触れた私の手を、
彼は反射的に振り払っていた。
がっかりしなかったわけではないけれど、来るべきものが来たという気もしていた。

その時私は久秀に殺された菊姫になって、”「遺言」の巻き”が成就したような気がしていた。
でも表の心はつれれない彼のしぐさに、打ちひしがれていたのだったが・・・・・

その3年後の8月、偶々読んだ芥川龍之介の短編集の、「芋粥」と「六の宮の姫君」に、
私は人生を感じた様である。
「芋粥」からは、長年私が憧れていたものは、
芋粥の中の主人公にとっての、芋粥と同じようなものなのかも知れないという思いであった。
「六の宮の姫君」では、「こんな事をしていたら私もこの六の宮の姫君のようになってしまう」という思いであった。

その年の9月になって私は、出雲大社にお参りに行きたくなった。
両親には「出雲大社に行きたい」というのが気恥ずかしくて、
秋吉台に行きたいと言って旅行に出た。

往路瀬戸内海の島に住む伯母の家に一泊させてもらった。
伯母の家の二階6畳の部屋には、
従兄の奥さんがやっているブランド店で売るために買い集めたものだったのだが、
ウエディングドレスが部屋一杯にハンガーにかけてあった。

山口県では東萩駅前で宿をとる事にした。
東萩駅前で「駅に近い民宿に泊まりたい」と言う私の希望を受けて、
案内所の人が「どうせ駄目だと思うけれど・・・・」と言いながら、
その民宿に電話をしてくれた時、
「え!あるんですか?」と、吃驚したように、その案内係の人が言っておられた事が印象に残っている。

台風7号襲来予報がなかったら、とても予約なしで泊まれる宿ではなかったらしい人気の民宿「雀のお宿」に、
幸運にも私は泊まる事が出来たのだった。
私の泊めて貰った部屋は増築したばかりの部屋で、電灯も私が部屋に入ってから取り付けに来られた位で、
新築ほやほやの部屋であった。

この旅行で秋吉台や秋芳洞、萩の松下村塾後、高杉晋作の実家後等を見て、
私は予定通り出雲大社にお参りした。
出雲大社で拝殿に立ち参拝しようと手を合わせたとき、
宮の奥から突然太鼓の音が響いてきたのには、ちょっと驚いた。
そして、驚くと共にこれは何かの啓示なのかも知れないという期待感を持たせられたのだった。

予定ではその日のうちに帰り着くはずであったが、
台風7号の為に電車は徐行運転になり、岡山駅に着いたときには終電もなくなる時間になっていたらしく、
私達乗客は臨時の新幹線で大阪まで運んでもらった。

大阪駅から阪急電車の梅田駅に着いたとき、
最終電車を告げる「蛍の光」の曲が流れていた。
私が家に帰りついたときには、もう日付が変わっていた。

翌朝と言っても日付としたら、私が出雲大社から帰りついたその日に、
高槻市に住む兄の所からお見合いを勧める電話が掛かって来た。

何から何まで私の縁談を寿いでいるような事続きの後、
私は9月半ば過ぎに現在の夫と見合いをしたのだった。
それは枚方の水俣病訴訟出張裁判の時に、
兄嫁から会って見ないかと言われていた、
お隣の奥さんのお兄さんである。

今度は何故か二人共、素直に見合いに応じて、高槻の駅前で見合いをした。
見合いをして2ヵ月半後には、二人は結婚式を挙げていた。
枚方の出張裁判の時に、二人が共に見合いを断っていなかったら、
この縁は成立しなかっただろうと思うと、不思議な気がする。

結婚後最初の住まいは滋賀県甲賀郡水口町(現在の甲賀市)であった。
水俣に嫁けなかったから、水口の住人となら結婚しようと思って、結婚を承知したというわけではなかった。
見合いのときには滋賀県の人とは聞いていても、詳しい住所を知ったのは婚約が成立してからであった。

結婚して間もない頃の話に、夫がまだ二十代の頃、何かの占いをしたら「40過ぎるまで結婚できないだろう」という卦た事が出た事があったのだそうである。
嫌な卦だと思ったが、結局40を過ぎるまで結婚出来ないで来たという。

その話を聞いたとき、私たち夫婦は初めから結婚する運命にあったのかもしれないと思った。
夫は私の人生ドラマに付き合った分けではなかろうが、
丁度私のドラマが完結するのと期を一にして、
夫のドラマも次のステージにシフトしていたのだろう。
だから二人揃って最初の見合いを断っていたのだろう。

件の高校の先輩の彼と結婚する予定は、私の人生ドラマの中には全然なかったから、
二人の仲が近づきそうになると、
私は自分から変な事をして、
彼から離れて行ってしまっていたのだろうと思われる。
今思うと、彼にとって私は理解に苦しむ様な事をしばしばやらかしている、
変な女だった事だろう。
色々と分けの分からない思いで、彼の心を悩ませたりしたのかもしれない。
彼を苦しめる意図など全然無かったとは言え、申し訳ないことであった。

私たち夫婦は三十代半近くと四十代半近くになって結婚したのだけれど、
何とか子供にも恵まれ、遅ればせながら、私も世間並みの幸せな人生を送る事ができてきた。
そして夫の定年を期に、私達は大津市内に転居することになった。

この家に移ってきて後、私は図らずも自分が宇治周囲物語の世界に入っている事を知った。
今の私の家のあるところは大津市とは言っても、京都府との県境に位置する辺鄙極まりない土地である。
しかし私はここが宇治市と接する土地であるという事は、移り住んでしばらくするまで、全然気がつかないでいたのだった。
私達がここに新しい住まいを決めたのは偶々であって、
宇治の周囲に位置するところを選んで移り住んだわけではなかった。

今の家に移り住んで数年後、水俣病訴訟が勝訴20年を迎えたというマスコミの報道があった。
昔、文通をしていた頃、彼の手紙に或俳句が書いてあった。
大学の俳句部で選ばれたのだそうであった。
その時私は名前だけで住所は書かないまま、
彼にその俳句を主題にした葉書を書いた。
何故住所を伏せたのか?
やっぱり夫に対して疚しい思いがあったからかもしれないが・・・・・

その葉書は私にしては全然滞りなくすらすらと書けた。
文字数や文字の大きさも過不足なく、文面がぴったりと葉書に嵌った。
まるで前世からこの文面を書くことが決まっていたかのように・・・・・

その葉書の文面は今でも諳んずる事が出来る。
夏草の波やわらかに碑文字読む(貴句拝借)
新聞で水俣病訴訟が勝訴から20年になると知りました。
長い間ご苦労様でございました。
私は今宇治周囲物語の世界にいます。
文字が違いますって?
私は今滋賀県で、山ひとつ向こうは宇治というところに、
定年後の夫とまだ中学生の娘と三人 長閑に暮らしています。
あの二つの作品は私にとって青春の記念碑となっています。

此の葉書を書く事を私(私の魂)はドラマの完結と、当初から計画していたのではないかという気がしている。

これで私の人生ドラマの前半は終わったが、
宇治周囲物語の中で幸せに暮らす私のドラマの、残りの部分は現在進行中である。
この幸せな現在を作ってくださった夫に、私は深く感謝している。
そして、私の人生ドラマのもう一方の役を担ってくださった彼にも、
とても感謝している。

これらは総て、私の人生ドラマであって、
夫にも彼にも、それぞれの人生ドラマがあったことだろう。
それらの中では私も、その素材の一部であっただけであったことだろうが・・・・・

私の人生ドラマは、多分生まれ出る時の私が
”恋の至極は忍ぶ恋に御座候”という葉隠れの恋物語をやってみたかったからのものではないかと思う。
その相手役にと心積もりしていた彼であったから、
彼の名前を知った時、私の目に彼の名前が輝いて見えていたのではないかと思われる。
それにしても、私はなんと見映えのする相手役を、得ることが出来たことだろう!
彼の人生は「遺言」の久秀のように、悲惨な人生ではなかったけれど、
弱い者の味方として彼は一生初志を貫徹しておられる。

あらゆる意味で彼には只感謝あるのみである。

人生は行き詰ったからと言って、捨てては勿体ないというのが、私がこの記事を書いた理由であり、言いたかった事である。。
行き詰った時、次のステップは始まりかけているのかもしれないではないか。
総ての人が所謂「幸せな人生」になるとは限らないと思う。
人生の目的は人それぞれだから、その人なりの目的を遂げたとき、最悪の場合例え苦しみながら死ぬ事になったとしても、その人は生き抜いたという達成感に満たされるのではないだろうか?
死ぬべきときが来たら必ず死はやってくる。
慌てて自分から死を選ばないほうがよい。
苦しいからと言ってこの世から逃げ出したりしたら、もう少しで達成できたかもしれない人生の目的を果たせない事になってしまうかもしれない。
失恋した寂しさから自殺などしていたら、迷いは晴れないままで、心の平安を得る事はできなかったと思う。
自殺したら輪廻転生を繰り返す事になると教えられているが、
それは途中止めになったドラマのやり直しを、自分自身がもう一度次の世で遣りたくなるからではないだろうか?

それぞれの好みによって、人生ドラマに悲劇を選んだり喜劇を選んだりと色々だろう。
そのドラマは現在の自分の想像を超えた展開になっているはずである。
そして、その展開をこなす能力は自分に備わっているはずである。
自信喪失になったり絶望しそうになる事もあるかもしれないが、
過ぎてみたら、それらはそのドラマに彩を添えるものとなるだろう。

神仏の分身同士である兄弟姉妹(人類)への愛を忘れず、誠実に生きてさえいたら、
人生ドラマはきっと最良の展開をしてくれるだろうと、私は信じている。
神仏を信じる事と自分を信じることは同じ事である。
それが私の信仰であると言えるのかもしれない。

イスラエルの戦争と和平

2009年01月12日 13時00分29秒 | 記録しておきたいもの
田中宇さんの記事を記録しておきます。

イスラエルの戦争と和平     2008年9月9日  田中 宇

 1967年6月に起きた第3次中東戦争(六日戦争)は、画期的な戦争だった。イスラエルが、エジプト、ヨルダン、シリアの3カ国に先制攻撃をしかけ、わずか6日間の戦争で、エジプトからガザとシナイ半島を、ヨルダンからヨルダン川西岸地域を、シリアからゴラン高原を奪取し、現在まで続く占領体制の始まりとなった。

 イスラエルはこの戦争まで、1947年に国連が決議したパレスチナ分割案のイスラエル側の地域に限定して統治していた。しかし、この戦争でイスラエルは従来の戦略を打破し、アラブの土地を奪取していく拡張戦略に転換したと考えられている。

 しかし実は、六日戦争当時にイスラエル政府が考えていたことは、それとは全く逆の戦略だったかもしれない。イスラエルの元大統領であるハイム・ヘルツォーク(Chaim Herzog)は、1989年に出版した回顧録の中で、六日戦争の停戦からわずか10日後の67年6月19日に、イスラエル政府は、戦争相手だったエジプト・シリアとの平和条約を結ぶことができた場合、戦争によって両国から奪取占領したシナイ半島とゴラン高原を返還するという決議を、秘密裏に閣議決定したと書いている。(関連記事)

(この秘密閣議決定は、別のサイトでも事実として紹介されている)

 六日戦争を起こしたのはイスラエルである。開戦した理由はアラブ側との対立の積み重ねであり、決定的な事由がない。しかも、停戦直後に、早々とエジプト・シリアとの和平を前提に、占領地の返還を秘密閣議決定していたとなれば、イスラエルは、最初からエジプト・シリアと和平する目的で、和平材料として占領地を獲得するために先制攻撃の短期戦を起こした疑いが強い。

▼アラブとイスラエルの対立を扇動したイギリス

 和平するつもりなら、戦争などせず、最初からエジプトとシリアに、和平しましょうと直接に提案すれば良いではないか、と思う人が多いだろう。しかしイスラエルは、アラブ側に和平提案できる状況になかった。

 イスラエルは1948年、イギリスの植民地(国際連盟の委任統治領)だったパレスチナの西側4分の1の地域で建国した。中東全域を支配していた英は、中東の各勢力をできるだけ分割し、相互に敵対状態を永続させることで、外部から支配している英が漁夫の利を得て仲裁役に立てる均衡戦略(バランス・オブ・パワー)を採っていた。

 その一環として、英はユダヤ人国家の領土が大きくなりすぎないよう、パレスチナの東半分(ヨルダン川東岸)でアラブ人の国王(ハーシム家)に建国を許し、トランスヨルダン(今のヨルダン)を作った。さらに、トランスヨルダンとイスラエルの間には、1947年の国連決議などによって、パレスチナ人の国家建設が予約された。欧州の国際政治の舞台裏で長く活躍し、国家運営の技能に長けたユダヤ人に広大なパレスチナ全土を与えたら、英を中東から追い出すほど強いイスラエル国家が建設されると恐れ、英はイスラエルの領土をできるだけ小さくしたのだろう。

 加えて、英はアラブ側にイスラエル敵視の感情を植え付けた。英は、第二次大戦でアラブ諸国がドイツの味方をしないよう、アラブが夢見る「民族統合」のための組織「アラブ連盟」(アラブ諸国の連合体)を1945年に作ってやったが、その後約60年のアラブ連盟の歴史を見ると、米英に都合の良いように分裂され続けている。アラブ連盟は、英の傀儡組織と疑われるが、同時に同連盟は、イスラエルを強く敵視する組織であり続けてきた。

 1948年のイスラエル建国時に、イスラエルに宣戦布告したのはアラブ連盟だったし、1979年にイスラエルと和解したエジプトは、連盟から除名された(10年後に復帰した)。英(米の軍産英複合体)は、アラブ連盟を使って、アラブとイスラエルとの永続的対立を維持してきたといえる。覇権国によって作られた敵対構造の中で、イスラエルがアラブに和解を提案しても、拒絶されるだけだった。

▼英のスエズ以東撤退との関係

 英米覇権からやられっぱなしのアラブ諸国の為政者には「戦力こそ正義」と考える風潮があった。シリアとエジプトという、イスラエルの南北に位置する有力なアラブ2国の領土をイスラエルが戦争で剥奪し、その後、土地を返還するから和平しよう、と提案することは、イスラエルが優位に立ちつつ和平を実現するための、効果的な戦略だった。

 この「戦争による和平戦略」が1967年という時期に行われたことも、私は意味を感じる。67年は、英がスエズ運河以東(キプロスより東)の全地域からの撤退を行っている年だった。スエズ以東からの英軍撤退は、68年におおむね完了した。

 英は第2次大戦後も大英帝国を維持していたが、60年代の国内経済不振の中、アジアからすべての軍隊を引き揚げる方針を決定し、撤退を実施した(グルカ兵を除く)。撤退の準備としてマレーシアなど英植民地は独立し、東南アジアでは67年にアメリカ主導でASEANが作られた。ペルシャ湾岸諸国ではこの時期、通貨の英ポンドに対するペッグ(為替連動)が終わり、代わりに米ドルへのペッグとなった。71年にはシンガポールにあった英軍の極東司令部が廃止され、アジアは英覇権下から米覇権下への移行が完了した。代わりに英は欧州とのつながりを強め、73年にEC(欧州共同体)に加盟した。

 この英の戦略転換は、世界的に重要な節目だったが、米英は覇権の移転を人々に知られたくなかったらしく、関連するすべての動きは、深い意味づけが表明されないまま実施された。英から米への覇権移転が始まった第二次大戦時に「覇権移転は25年かけて行う」といった米英密約があり、それに沿って挙行されたのかもしれない。1956年のスエズ動乱(エジプトがスエズ運河を国有化し、英が仏イスラエルを誘って国有化を阻止しようとしたが、米がエジプトの肩を持ち、英は敗退した)の失敗も、スエズ以東からの英撤退と関係ある。

(余談だが、英軍の最東端の拠点となった地中海のキプロス島では、63年にトルコ系とギリシャ系の対立が扇動され、島内の南北分断が固定化されていき、紛争仲裁の名目で、英軍が国連軍の看板を掲げ、国連の資金援助を受けて駐留し続ける体制が作られた。キプロスは、中東からトルコ、ロシア、バルカン方面の電波傍受や有事即応ができる要衝の島である。昨年から、トルコとギリシャがキプロス問題で急速に歩み寄っているが、これはブッシュ政権の自滅的過激策によって米英覇権体制が崩壊し、英の支配力が低下したことと関係がありそうだ)

 1968年の英撤退は、それまで英覇権下にあったイスラエルとアラブにとって大事件だった。英から覇権を引き継ぐ米は「民族自決」を推奨していた。アラブ連盟は64年、パレスチナ人に、イスラエルと戦って民族自決を勝ち取るための組織としてPLO(パレスチナ解放機構)を作らせた。PLOの後見人はエジプトだった。アラファトらが率いるPLOのゲリラ部隊は、西岸やヨルダンを拠点に「パレスチナ解放」のための対イスラエルのゲリラ戦をやり出した。

 イスラエルとアラブとの恒久的な敵対を扇動してきたイギリスが中東から撤退することは、イスラエルにとって、アラブとの和解のチャンスだった。この機会を逃してアラブとの敵対が放置されると、PLOなどパレスチナ人によるゲリラ活動が活発化し、イスラエルの国家存続を脅かしかねなかった。そこで、英がスエズ以東から撤退していく1967年に、イスラエルは六日戦争を起こし、その後に予定されていた和平の取引材料としてのシナイとゴランを獲得した。

▼米中枢の暗闘開始と六日戦争

 しかし、その後の展開は、イスラエル政府が思っていたようにならなかった。前出のヘルツォーク元大統領によると、イスラエル政府は、エジプトとシリアが和平を結ぶなら占領地を返すという提案を、アメリカ経由でエジプト・シリアに伝えることにした。だが、アメリカはイスラエルからの依頼を受けたものの、エジプトとシリアにこの話を伝えなかった。ヘルツォークは、その理由を明らかにしていない。

 当時の米政府は、ケネディ暗殺後に昇格・再選された民主党ジョンソン政権で、米中枢は軍産複合体が強かった。米政府がイスラエルの和平提案をエジプト・シリアに伝えなかったのなら、おそらくそのことと関係ある。ケネディは、キューバ危機の解決策としてソ連との対話を開始し、冷戦を終わらせようとしたために、危機感を持った軍産複合体によって63年に暗殺されたと考えられ、後継のジョンソンは、軍産複合体に操られる傾向が強くなっていた。

 イスラエル秘密閣議決定から2カ月後の67年8月、アラブ連盟は首脳会議を開き「イスラエルと和平しない、交渉しない。イスラエル国家を承認しない」という「3つのノー」の方針を決議した。エジプトとシリアは、奪われた領土の返還を望んでいたが、イスラエルの意志を米から伝えられていなかったこともあり、イスラエル敵視の傾向が強いアラブ連盟に流された。イスラエルは同年10月、和平と占領地の交換提案を放棄した。

 六日戦争に負けた側のエジプトでは、全アラブの英雄だったナセル大統領が、敗戦直後の67年6月、惨敗の責任をとって辞任を表明した。しかし、アラブ全土で100万人以上が街頭に繰り出し、ナセルに辞任を撤回し、イスラエルと戦い続けるよう求めた。ナセルは辞められなくなり、エジプト軍はその後3年間にわたって停戦ライン(スエズ運河)から低強度でイスラエルを攻撃し続け、何とか軍事力を向上させようと、ソ連に頼る傾向を強めた。形として、これは中東への冷戦構造の波及だった。

 すでにこの時期、アメリカでは、冷戦を終わらせる準備が始まっていた。ヘンリー・キッシンジャーによると、もしケネディが1963年に暗殺されなかったら、1964年の米大統領選挙に共和党からネルソン・ロックフェラー(ニューヨーク州知事)が立候補し、そこにキッシンジャーも入閣する予定になっていた。ケネディが暗殺されたため、64年の選挙は民主党のジョンソン(ケネディ政権の副大統領)が圧勝し、事前に負けるとわかっていたのでロックフェラーは出馬しなかった。(関連記事)

 キッシンジャーは、次の68年の選挙で勝った共和党ニクソン政権に入閣し、中国との関係を劇的に改善し、ソ連との関係も和解方向に持ち込み、事実上、冷戦終結への道筋をつけた。ケネディが暗殺されず、ロックフェラーが大統領になっていたら、冷戦終結の始まりは1964-67年に早まっていただろう。ロックフェラー家は、中国に投資して儲けたい「多極主義」の勢力である。

 そもそもケネディ自身、冷戦を終わらせようとして軍産複合体に暗殺されている。米政界では60年代前半から、冷戦を終わらせようとする(多極主義的な)動きと、冷戦の永続を画策する軍産英複合体との暗闘が激化していた。この暗闘はおそらく、すでに述べた60年代後半のイギリスの衰退とスエズ以東撤退、英から米への覇権移転の完了と関係している。英の力が失われたので、米では、かつてヤルタ体制を作って世界を多極化しようとした多極主義の勢力が盛り返し、ロックフェラーやキッシンジャーが出てきたのだろう。

 そんな中でイスラエルは、英衰退のすきを突いてアラブと和平しようと六日戦争を起こしたが、米中枢の暗闘の中でイスラエルの戦略は無効化され、逆にその後エジプトがソ連寄りになり、米寄りのイスラエルとの間で長期戦になりそうな雲行きとなった。

▼英雄になりたいサダトに「戦勝」を贈呈

 しかしこの流れは、1969年にニクソンとキッシンジャーの政権ができたことで一転した。ニクソン政権は、ジョンソン政権が無視したイスラエルの和平提案を復活し、1970年にロジャース案としてアラブ側に提案した。同時期に米政府はソ連との対話を強めていたので、ソ連もアラブ和平に乗り、2万人もいた駐エジプト軍事顧問団を72年に撤収した(表向きはエジプトが追い出したということになっている)。

 エジプトのナセル大統領は米のロジャース案を受諾し、アラブ連盟としてイスラエルと和解する話を進めていたが、その最中の70年9月、ナセルは過労で急死してしまった。後継には副大統領だったサダトが昇格したが、それまで英雄ナセルの操り人形としか見られていなかったサダトには、権威が全くなかった。英雄ナセルが「イスラエルと和解しよう」と言うなら、アラブ民衆は納得しただろうが、サダトが同じことを提唱しても「アラブ団結の裏切り者」としか見られなかった。サダトは「イスラエルともう一度戦争して勝つ」という方針を掲げざるを得なかった。ロジャーズ案は棚上げされた。

 事態は冷戦派の勝ちとなるかに見えたが、ここでイスラエルは、驚くべき秘密の奇策を挙行した。それは「イスラエルに勝ってナセルのような英雄になりたい」と熱望するサダトに「戦勝」を贈呈すること、イスラエルがわざと負ける戦争をやることだった。こうして起きたのが1973年の第4次中東戦争(ヨームキップール戦争)だった。

 公式な歴史では、この戦争は、何も仕事をしてはいけないユダヤ教の大休日でイスラエル社会全体が休みに入る「贖罪日」(ヨームキップール)を狙ってエジプトとシリアの軍隊が奇襲をかけ、成功した戦争とされている。

 しかし、イスラエル側は、アラブ側が攻撃してくる前夜には攻撃を察知していた。イスラエルのマスコミは、シリア軍が国境に進軍していると報じていた。攻撃を受ける6時間前には、閣議でイスラエル側からの先制攻撃の必要性について議論し、軍首脳は、アラブ側からの攻撃が間近だと言って先制攻撃を主張したが、ゴルダ・メイア首相は、先制攻撃はアメリカを怒らせるので駄目だと却下した。その直後、メイアの判断を補強するかのように、キッシンジャー米大統領顧問から「先制攻撃するな」と連絡が入った。

 イスラエル軍が先制攻撃していたら、第4次中東戦争はイスラエルの勝ちになっていただろうが、メイア首相が先制攻撃を却下したためイスラエルは負け、停戦後のエジプトとの交渉でシナイ半島を返還した。その後の両国は和平に向けて話を進め、77年にはサダトがイスラエルを訪問し、78年には米の仲裁で正式に和解した(キャンプ・デービッド合意)。メイアは、イスラエル政界の右派から「エジプトと和平するために、奇襲を知りながら先制攻撃案を却下した」と非難され、戦争から半年後に辞任した。

▼チェイニーはメイアの逆張り

 エジプトのサダトは、戦争の半年前から「イスラエルと戦争して勝つ」と公言しており、イスラエル側が大休日だからやられてしまったという話は茶番である。サダトは、70-71年にはソ連に接近したが、72年にはソ連と仲違いし、アメリカに接近し始めている。おそらく、この時にはすでに、メイアとサダト、それからキッシンジャーの間で「イスラエルはちょっとエジプトに勝たせてやり、サダトはそれで面子を立て、イスラエルと和解する」という談合ができていたと推測される。

 サダトはこの戦争によって念願の英雄となり、開戦日はエジプトとシリアで「戦勝記念日」となった。しかしサダトは、その後イスラエルと和解したため世論の激怒を受け、イスラエルとの国交回復から2年後の81年に暗殺された。イスラエルとの恒久敵対を維持する「軍産英複合体のエージェント」であるアラブ連盟は、イスラエルと和解したエジプトを除名した。「アラブの盟主」だったエジプトにあったアラブ連盟の本部は、チュニジアに移転した。

 イスラエルでは、67年の六日戦争後、建国以来の与党である労働党(マパイ)の政府が、占領地の返還と引き替えにアラブとの和解を目指したのに対し、政界の右派勢力は、占領地の返還に反対し、返還を阻止するため、政府が禁止した占領地への入植運動を拡大した。この動きは米のユダヤ人社会に波及し、従来の左派的な米ユダヤ政治運動とは全く異質な、右派的なユダヤ政治運動が出てきた。右派は70年代に米の軍産複合体と結託して米議会を動かす強い政治勢力となり、批判者に「ユダヤ人差別」「親ナチス」のレッテルを貼って黙らせつつ、80年代のレーガン政権や、今のブッシュ政権を牛耳り、ネオコンの過激な国際戦略を展開した。

 米政界でのイスラエル右派の台頭は、イスラエル本体に逆波及し、1973年にはいくつかの右派政党が結集してリクードとなり、77年の選挙で労働党を破って与党になり、中道左派勢力は建国以来初めて下野した。

 ゴルダ・メイアによる、73年のヨームキップール戦争の意図的な敗北を通じたエジプトとの和解戦略は、米イスラエルの政界で好戦的な右派勢力が拡大し続ける中で、何とかアラブ側と和解してイスラエルの安定を確保しようとする中道派の対抗戦略として行われた。

 メイアは、外務大臣をつとめた後、いったん66年に68歳で政界からリタイアしていたが、六日戦争後に請われて政界に復帰し、69年に首相となった。彼女の首相としての最大の任務はエジプトとの和平であり、ヨームキップール戦争でわざと負けて悪者扱いされ、辞職させられることを予期しつつ、任務をこなしたのだろう。彼女は首相を辞任した4年後に80歳で死去したが、中道派のユダヤ人の間では今も英雄である。(関連記事)

 メイア同様に、意図的に負けて悪者になりつつ、軍産複合体の戦略を「やりすぎ」によって破綻させる任務を、まさに今こなしていると思われるのがアメリカのチェイニー副大統領である。彼はユダヤ人ではないが、側近にはネオコンなどユダヤ人が多く、ユダヤ的な政治手法が身についているのだろう。チェイニーがやっていることは、今は戦争ばかりだが、長期的には軍産複合体の世界支配を破綻させ、世界を安定させる。

 ただし、メイアはイスラエルを右派の乗っ取りから守るために動いたのに対し、チェイニーは右派に乗っ取られたイスラエルを潰すために動いている。今のイスラエル政界では、次期首相と目されるツィピィ・リブニ外相が、メイアの跡を継ぐ、イスラエルを守る女性指導者として期待されている。チェイニー対リブニの暗闘の結果が、今後の世界体制を決めるとも言える。

▼鈍重なシリア

 イスラエルは、1967年の六日戦争で獲得した占領地を返還しつつアラブと和解していく戦略だったが、占領地のうち返還されたのはエジプトのシナイ半島だけだ。それも、79年の国交回復後、米イスラエルでは右派の力が強くなり、エジプトとイスラエルは国交再断絶寸前の冷たい関係が続いている。

 ゴラン高原を奪われたシリアは、英雄好きの派手で軽薄なエジプトとは対照的に、目立たず安定を重視する鈍重な独裁のアサド父子の政権がずっと続き「やらせの戦勝」もない代わり、イスラエルとの和解や領土の返還もないまま、今に至っている。

 イスラエルの中道派は、米イスラエルの右派にずっと阻止されつつ、今でも「ゴラン高原を返還する代わりにシリアと和平し、相互不可侵の約束をする」という戦略を何とか実現したいと考えている。米政府が妨害するので、最近ではサルコジのフランスや、ロシアに仲裁を頼んでいる。9月3日には、サルコジが米制裁を無視してシリアを訪問したし、8月末にはシリア大統領とイスラエル首相が相次いでモスクワを訪問している。(関連記事その1、その2)

 今回の記事は、レーガン政権前までしか詳述できなかった。ここからは早回しである。この後、81年に就任したレーガン政権は、軍産複合体に牛耳られており、最初はソ連を「悪の帝国」と呼び、イスラエルを巻き込んでレバノンに侵攻した。だが、政権内には隠れ多極主義者が多くいたようで、政権末期には冷戦を終わらせ、88年にはアラファトをチュニジアからガザに移転させ、ヨルダンに西岸を放棄させ、アラブ連盟にエジプトを復帰させて、93年のオスロ合意(パレスチナ国家建設合意)への布石を敷いた。

 このレーガン政権の大転換が、どのようなからくりで起きたのか、私には今一つわかっていない。95年のイラン・コントラ事件によって政権内の右派が外されたことにより、キッシンジャー以来の中道派(現実主義派)が台頭し、冷戦終結・中東和平となったのではないかとの仮説を以前に考えた。だが「新レーガン主義」を自称していた現ブッシュ政権の流れから逆類推すると、現政権と同様に、最初から「やりすぎ」によって軍産複合体の戦略を破綻させ、冷戦を終わらせる隠れた戦略があったのかもしれない。
    (引用終り)

今日午後1時 ポチが逝きました。


『善良な市民の政治についての無関心の支払う代償は悪人によって支配されると言う事だ。』プラトン

2009年01月11日 17時33分07秒 | 思想信条
マスコミに載らない海外記事さんの「ガザ危機についてのブッシュへの手紙に次のような一節が有ります。
このガザ破壊に反対のデモをした、予備兵も含む、何千人ものイスラエル人は、明らかにレビー氏に同意しています。しかしながら、彼らの勇気あせる態度は、イスラエルによる、国際的な報道機関差し止めの為、自社記者をガザに入らることさえできないアメリカのマスコミには届いていません。

イスラエルにも反戦デモをする人が何千人も有るのだと知りました。
その事を知ってい書いたわけではなかったのですが、

英語日本語ニュースさんのワルシャワゲットー。ガザゲットー、のコメント欄に私は次のようなコメントを入れていました。
(引用)
イスラエルの歴史を見ると、哀れにも思えます。
何度もパレスティナと和解を試みていたのに、アメリカやイギリスが邪魔して、結果イスラエルの好戦的な人が国を牛耳って、50年戦争をして、悪名を定着させられる事になったと言う歴史を田中宇さんが嘗て検証しておられましたが、そういう事情が有っても、やってしまったことは取り返しがつかず、責任はイスラエル人皆にかけられる事でしょう。

日本がもし中国か韓国と戦闘状態になって、アメリカの応援で戦争推進派が牛耳る戦争をしたとし、アメリカやイギリスその他の国々の軍事産業を儲けさせ続ける為に、泥沼の戦争となり、止めたくても色々な手を遣ってやめさせてもらえないようになっていたとしたらどんなかと想像するだに恐ろしい気がします。
イスラエルの普通の国民も、アメリカの一般の国民と同じように、
又被害者なのではないでしょうか?
   (引用終り)
これに対して、英語日本語ニュースさんは、プラトンの次の言葉を引用しておられたのが印象に残りました。
『善良な市民の政治についての無関心の支払う代償は悪人によって支配されると言う事だ。』プラトン
日本人は「リホーム詐欺」のような小泉改革なるものにに騙されて、今酷い目に合わされています。
政治に無関心でなくても、騙されても酷い目に会うことも有るようです。
これからどんな騙しをかけてくるか分かりませんが、
精一杯騙されないように用心しながら、
私達の権利である選挙権は確実に行使して、
悪人に良いようにされる国にさせないようにせねばと、改めて思いました。