春 夏 秋 冬

めぐり来る 春夏秋 麗しき 大和し護れ 民草いとえ 
          

ブログ休止のお知らせ

このブログの表題に入れた短歌の、春夏秋冬の中の冬の字が、誰かによって削られて、修正不能になって久しいのですが、昨日から編集画面までが、誰かにいじられたようで、出す事が出来なくなっています。 この記事作成画面も、何時使用不能になるかもしれない状況にありますので、 春夏秋冬はこの記事をもって、しばらく休ませていただく事にしました。(2010年3月) * * * * * * *  Fc2ブログに不祥事が起き、広告主が引き上げたそうです。 Fc2は何時終了になるか予断を許さない状況かと思い、 気になる過去記事を少しずつ、こちらのブログに写す事にしました。(2015・4・24)

桜の開花

2015年04月01日 17時37分03秒 | 日常徒然
昨日は桜の花が突然咲き出した感じだった。
実際は桜の花は3月29日頃からボツボツ開き始めていたらしいけれど、開花と言えるかどうか微妙なくらいの数の花しか開いてはいなかった。
それが昨日31日に、急に気温が上がって一気に花開いたのだった。

今日4月1日は一日中雨だったが、
桜はまだ4~5部咲き程度だから、散る恐れはないようである。
咲き始めて間もない今日の桜は、雨の中でも美しく、
匂うが如くと言いたくなる位に奇麗だった。

明日は少し晴れるそうだけれど、その後はずっと雨が続く予想だから、
毎年行っている近所の公園でのお花見に、明日行かなかったら、
今年はお花見が出来ないかも知れない。
でも地面は今日一日中降った雨で可也湿っているだろうから、
お花見が出来る状態ではないかも知れない。

あと何年、お花見が出来るか知れないけれど・・・・・

中秋の名月

2014年09月09日 16時10分00秒 | 日常徒然
今日は重陽の節句
そして昨夜は中秋の名月であった。
昨夜の中秋の名月は素晴らしい天気に恵まれていた。
月の色は黄色の濃いときと白っぽい時とあるが、
昨夜の満月は黄色の濃い、満月らしい満月であった。
お月さんの中で兎が餅つきをしていると言われているが、
そう言われたらそう見えないこともないね~と言いながら、
家族で月を見て、その明るさ美しさを堪能させてもらった。

真夜中(午前2時ごろ)に目覚めた時も、空は相変わらず晴れ渡っており、
煌々と照る満月に、あたり一面が照らされて、
大げさに言えば、まるで昼のように明るい月夜であった。

「又見んと思いし時の秋だにも 今宵の月に寝られやわする」という道元禅師最後のお歌が思い出される。
このお歌を読まれたのは道元禅師が70歳の時だったそうで、
父が70歳になった時、この歌をしきりに口ずさみ、自分の年齢に感激している風だったが、
いつの間にか私もその70歳になっている。

70歳の時に見る明月が、こんなに素晴らしいものであった事に、私も感激しきりである。

中秋の名月

2013年09月19日 07時25分27秒 | 日常徒然
今日は中秋の名月です。
昨夜の夜半過ぎ(日づけは今日)目が覚めたとき、障子を通した外の明るさに驚きました。
常日頃でも街灯で室内に豆電球をつけて寝る必要がないほど明るいのですが、
満月の明るさはそれを更に超えるものでした。
満月も月によっては、夜半でも横になっていても見えていたのに、
昨夜の満月は中天高く上っていて、窓から顔を覗かせなければ、月の姿を見ることが出来ませんでした。
月が中天に昇ったとき、その高度に差があるのかどうか、自信がなくて、
検索してみましたら、南中時の高さは一定ではないという事が分かりました。
月の公転軌道面と地球の公転軌道面の関係についての質問への答えに
月の公転軌道面と地球の公転軌道面は、5°ちょっと傾いています。地球の自転軸から見ると、地軸の傾きが加わるので最大で約 28.5°傾くことになり、その分だけ南中時の月の高度が上下しています。
という答えがありました。どうやら気の所為ではなかったようです。

日本の彼方此方に洪水を齎した台風18号の通過した地域全域では、台風の後3日連続で快晴となっているようです。
大雨で洪水被害を受けられた地域では、復旧作業に大変だと思いますが、この晴天はせめてもの慰めになっているのではないでしょうか。
然しながら、床上までが水に浸かったら、畳も家具も滅茶苦茶になるのですから、本当に気が重いことだろうと、想像するだけでも気が重くなります。

それにしても、この台風18号の齎した雨が、中国大陸に行っていたら、水不足で苦しんでいる中国の人々にとっては、恵みの雨となったでしょうのに、
中国に行かないで日本列島を縦断して大雨となり、日本は洪水に苦しんでいます。

以前には中国大陸に行っていた雨が、日本列島で降るようになって、中国も日本も苦しんでいます。
自然への感謝を忘れて自然を侮り、したい放題してきた人類は、
自然への畏敬の念を思い出して、
これからは自然を大切にせねばならないという事なのではないでしょうか?

雨の前のグランドゴルフ

2013年05月19日 15時54分49秒 | 日常徒然
このところ毎日五月晴れのお天気が続いていたが、
午後からとうとう雨になった。

午前中私は、町内会開催のグランドゴルフ大会に参加した。
回覧板で参加者を募っても、応募者が全然ないので困った役員さんに、頼み込まれての出場であったが、結構楽しかった。

午前中はずっと曇り空で、5月に行われる屋外競技にはもってこいのお天気だった。
12時半ごろ大会は終了し、家に帰り着いたのは1時少し前だったが、
家に帰り着いて10分位した頃から、可也強い雨が降り出した。

陽射しに悩まされる事もなく、雨に会う事もなく、
最も望ましいお天気に恵まれたグランドゴルフ大会は、
時折新緑の山を愛でながら和やかに終了した。

2011年3月11日の東日本大震災で、津波で家を流された人、
福島第一原発の過酷事故で、住み慣れた家に住めなくなった人。
被災地の苦境を知らないわけではないのに、
そして、本当にお気の毒な事と、心から同情している筈なのに、
大部分の日本人がしばしば被災地のことを忘れて、自分達日本人は昔どおりに、幸せな国民であると思っているような気がする。
(申し訳ない限りだけれど、私の心の内にも、暢気な部分があると思う。)

その上、破綻しかけている財政の下、金融資本に大盤振る舞いしている安倍政権の、アベノミクス政策により、日本の財政破綻は避けられないという話は嘘ではないと思う。
又安倍政権は戦争迄画策しているのも事実のようである。
こんな無茶苦茶な政権が、次の参議院選挙でも勝つだろうと言うのが、大方の分析である。

普通なら日本がこんな状況にあると分かったら、
居ても立ってもいられなくなる筈であるのに、
私は暢気にグランドゴルフ大会に出て、
何事もない時のように、単純に競技を楽しんでいたのだった。

私が鈍感すぎるのだろうか?
それとも、人はお尻に火がつくまで、ぴんと来ない生き物なのだろうか?

人生の目的は自分のドラマを生きる事

2012年09月20日 13時11分27秒 | 日常徒然
チャップリンが語る愛の世界
私の人生観宗教観に書いたのだけれど、
人間がこの世に生まれてきたのは、あらかじめ自分で想定した人物として、人生ドラマを演じるのが目的だったのではないかと思うようになったのは、
私の淡い初恋の相手、彼とのかかわり方に元を発している。
二人共老齢に達し、若い方々の参考の為ここにそのあらましを書いても良い時期に来ているのかもしれないと思い、恥さらしだけど書かせてもらうことにした。

私が初めて彼の名前を知ったのは、私が2年生で転入学した福岡の高校で、
新しい高校にやっと慣れかけてきた5月のことであった。
この高校の毎年春に行われる文化祭で、クラスメートに勧められて文芸部の文集を買った。
その文芸部発行の文集に彼の創作「遺言」という短編小説が載せられていた。
創作「遺言」を読んだ後、何故か私の目には、
作者の名前に後光がさしているように見え始めた。
後光というと神がかりのようであるが、
名前の周りに燐光のようなものが、見えるようになったのだった。
2年生の3学期、初めて彼と出会う頃まで、
その燐光の様なものはずっと感じられていたのだった。
友人にページを開いて、名前の部分が光って見えないか尋ねたら、
その友人に「変な事を言う」というような目で見られたものだったが・・・・・

「遺言」の舞台は戦国時代の宗像大宮司家。
かの有名な下克上の人陶氏におびやかされる戦国大名の家の物語。
主君を殺害した陶氏の血を引く亡君の落とし胤に後を継がせて、
主家の存続を図ることにした家老の悲劇の物語。

小説の主人公で宗像家家老の久秀は主君を陶氏に暗殺され、跡目を誰にすべきか迷いに迷っていた。
今は亡き主君の未亡人菊姫に婿をとるべきだと言う意見が大勢を占めていたからだった。
それでは主家は陶氏に滅ぼされてしまうだろうと思うと久秀は其れにも賛成できないが、
菊姫の父は久秀にとって恩人であった。
迷いに迷った挙句に久秀は主家存続の為遂に決心して、恩人の娘・まだうら若く美しい女性菊姫を、自分の手にかけたのだった。
菊姫が生きている限りお家騒動が続くと見たからだった。
久秀はその後すぐ、主君の未亡人を殺した責任を取って切腹する。
死を前に久秀は自分の息子に遺言を残した。
その遺言には「武士をやめて僧侶となって静かに暮らせ」とあったという。

作者の名前に燐光を見ることとなったのは、その戦国の世の悲劇が私をうっとりとさせたからなのだろうか?

秋の文集にも彼の創作作品が載っていた。
宇治拾遺物語から題材をとった、のどかな話が数編描かれていた。
その時私は、どういう意味かはわからないが、「この中にあの人は居ない」という気がしたものだった。
そして秋の文集に載った彼の名前も、私の目には春の文集の時と同じように、燐光に包まれているように見えたのだった。

私は彼に会えるかもしれないという希望もあって、誘われるままに文芸部に入部していた。
2年生の3学期、大学の入試が済んだ頃始めて彼は私の前(文芸部の部室)に現れた。
彼が部室に入ってきたのは、
私が部室の入り口近くで、後輩の男子とはさみ将棋をしていた時だった。

「ここを行ったら良い」と笑いながら、彼は私の相方(後輩の男子)の駒を進めていた。
それが私にとって彼との始めての出会いであった。
その時私は思わず立ち上がっていた。

その時彼を前にして、私は幻影を見ていた。
最初は静かだったのが、だんだんと人が増えていく感じがした。
そして遂に大勢の人々の気配が感じられるようになってきた。
大勢の人々が、彼の事を讃えている様だった。
そのざわめきの中で私は、
「とうとうあの人は私の手の届かない所に行ってしまわれた」と寂しく感じていたのだった。

その幻影は、私にはずいぶん長い物語のような気がしていたけれど、
それは、もしかしたら、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。
はさみ将棋の相方の後輩の男子が、
「早く行って」とせかす声で、われに返ったとき、
将棋の駒を進めながら笑っていた彼の笑い声が、まだ続いていたような気がする。
後輩の男子との挟み将棋を、早々に終わらせたとき、
彼は部室を出て行くところであった。
彼が部室を出て行った後、興奮した私は文芸部員のだれかれかまわずに
「あの人が○○さん?」と聞いていたのだった。

その後大学が始まるまで、彼はしばしば文芸部の部室を訪れるようになっていた。
文芸部では「随筆日誌」というノートがあって、部員の誰でもそのノートに書きたい事を書き込めるようになっていた。
彼との出合いの後、私の書いた文に対して彼は感想とか返事とかと思えることを、いつも書いて下さるようになっていた。

高校を卒業して大学生になっても、彼は時々文芸部を訪れてくれていた。
しかし、二人の関係は文芸部員と、先輩の文芸部員の域を出ることはなかった。
その頃の私にとって彼は、自分と同等に考えることなどできない、雲の上の人のように崇拝する憧れの先輩だったのだから・・・・・

ある日学校から帰ろうとしている私を、彼が追いかけてきてくれて、校門の近くで一緒になったことがあった。
高校の前の大通りを始めて並んで歩いた時、
これから彼とこの大通りを何時までも歩いていけるのかと思うと、
その大通りが光輝いて見え、私の心は希望に満ちる思いであった。

それなのにいつもの曲がり角に来た時私は、
「私はこちらですから」と言って、彼に別れを告げていた。
私は彼に引き止められるのを期待していたのに,引き止めて貰えなかった事にがっかりしていたのだが・・・・・
その曲がり角を行ったすぐの所にあった、おうどん屋さんの屋号がそのときの私の胸には堪えた。
いつもは気にしたことのなかったその屋号
黒田節の歌詞から取った、その屋号は「想夫恋」であった。

その小路を過ぎると、国鉄の線路沿いの道に出る。
線路を右に見ると道の左手には、高く長い塀が続いていて中ほどに通用口があった。
そこに小さく社名が書いてあったが、その会社名は「大日本窒素」、今思うと此れも私の運命を暗示していたものだったのだろう。
何となく暗い雰囲気の塀であったが・・・・・

翌年私は高校を卒業して信託銀行に就職していた。
仕事にも幾らか慣れてきたある夏の夕方、仕事帰りの私は市電を降りて家への道、大日本窒素と鉄道にはさまれた高校時の通学路と交差している道を通って、踏み切りを渡ろうとしている時、
反対方向からやはり踏み切りを渡ろうとしていた彼と偶然出会った事がある。
二人は只会釈するのみで、お互いに踏み切りを反対方向に進み、言葉を交わす事もなかったのだった。

それから間もなくの10月、私の家は大阪に転居した。
幸いにして信託銀行が大阪支店への転勤をさせてくれたので、私は引き続き銀行勤務を続ける事が出来た。
その年の暮れ、住まいが遠くなったという気楽さもあって、私は思い切って彼に手紙を出したのだった。
すぐに返事が来て、二人の間に文通が始まった。
しかし話題が政治の話になると、二人の意見はどうしても真反対のものになってしまい、
私は短気にも、彼に絶交を申し入れてしまったのだった。

その後何年かして彼は、弁護士として今水俣病訴訟に取り組んでいる
「勝訴の日まで頑張るつもりです」と、
私に葉書を寄越してくださった。
「私も水俣に行ってお手伝いしたい」と書きたかったのだけれど、
私にはどうしても決心がつかなかった。
水俣病にかかった人が訴訟などしたら,
闘争的な精神から心が更に乱れて、
病状は更に悪化するのではないかという、
精神絶対主義的な思想に当時の私は、かなり偏っていたからだった。

今の私は、肉体は精神の影響を多分に受けるけれど、
肉体の材料が物質である以上、自然の状態と著しく違う環境におかれたら、
精神だけでは補いきれない場合もあるという考え方になっているのだが・・・・・

水俣病訴訟の裁判が、枚方地方裁判所で出張裁判をした事があった。
当時大阪府下に住んでいたので、何年か前からその日を楽しみに待っていたので、私はその裁判を傍聴に出かけた。
裁判所の小部屋で、私は彼と何年ぶりかで再会したのだった。
言葉は余り交わす事は出来なかったのだけれど、
又しても夢か現か分からない様な、不思議な気分になる出会いであった。

午後からの裁判に備えて、昼食を外で取って裁判所に向かっている時、
「怨」という字を書いた幟旗を掲げた一団が、私を追い越して裁判所の方に向かっていた。
私はその「怨」の字を見たとき、心が暗くなっていた。
その私を偶々道の向こうから見ておられた彼の目と、私の翳った目が会った。
彼は何も言わずに裁判所の方に行ってしまわれた。
心なしか、彼の目も暗く沈んでいるように思われた。

法廷は地方裁判所で小さな部屋なのに、
傍聴人が大勢でとても傍聴は出来ないかとガッカリしていたら、
奇跡的なと言いたいような事が起きた。
裁判所の職員が大勢の傍聴希望者に向かって、
「後2人・・・・」と言って、ある女性と私を指名してくれたのだった。

後で知ったのだけれど、その女性は水俣病を追いかけている有名な写真家であった。
その写真家を傍聴させてあげるために、
偶々傍にいた私はカムフラージュとして利用されたのではないかと思う。
そういう事情で、私は最後の2人の中のもう一人に選んでもらって、
物凄い競争率を突破して裁判の傍聴を許されたのだった。

法廷の中はほぼ満員で、皆が私達を振り返っていた。
最後の一人として私が法廷に入った時、心配そうに振り返っていたる彼と目が合って、私もほっとして笑みが出て、図らずも二人は微笑み交わしているという構図が出来ていた。
その時法廷内にざわめきの様なものが起きたような気がした。
裁判長もほんの一瞬、目をぱちくりさせられたのが印象に残っている。
流石にほんの一瞬であったが・・・・・

枚方の出張裁判は2日掛りで、翌日は朝からの法廷であった。
朝から行くには自分の家(豊中)からはちょっと遠いので、
私は高槻にある兄の家に一泊させてもらった。
その時兄嫁に「お隣の奥さんのお兄さんが、今隣に来ておられるのだけれど、会って見ない?」と、
私はお見合いを勧められた。

私はそれ処ではない気持ちだったので、
あっさりと断ってしまったが、
後で聞くとそのお隣の奥さんのお兄さんも、同じように断られたという話であった。

翌日出張裁判が終わってから、弁護団の人たちが帰えられるとき、
傍聴者達も一緒に、長い行列を作って帰途に着いていた。
暫く一緒に進んでいたら、踏み切りに差し掛かった。

私の帰り道はその踏切を渡らずに、横に行かねばならなかったので、
そこで彼とは碌に別れの言葉も交わせないまま、私は一行と別れた。
又踏み切りで分かれる事になったな~と、私は不思議な感じがしたのだったが・・・・・

それから数年後、急に思い立って水俣の事務所を尋ねたとき、
彼はちょうど熊本に行くところだった言われて、
熊本まで車で送ってあげようと申し出て下さった。

彼の車で私は最初で最後のデイトをした事になる。
熊本に行く途中立ち寄った海岸で車を降りて海を見せてもらった。
水俣病の事を色々と教えてもらった。
彼は海の向こうに見える島をさして、「恋路島」と島の名も教えてくれた。

「難波より はるばる来ぬる恋路島 水俣の海は厳しかりけり」

熊本までのドライブは楽しかったけれど、
山肌を切り開いた崖の道を走っている時
「ここでハンドルを切ったら崖から、落ちて一緒に死ねるかもしれない」と心に悪魔が囁いていたのを覚えている。

私は悪魔の言う事を無視する事が出来て、無事熊本についた。
レストランで夕食をご馳走になったり、夜の熊本城に案内してもらっているうちに夜はふけて、
熊本駅に着いたときにはもう10時近くになっていた。
切符売り場の窓口で彼が尋ねてくれたとき売り子さんが、
大阪行きの切符は最後の一枚になっていると言われた。
「このまま帰りますか?」との彼の問いに、
帰るのが当然のことと思っていた私は、
ちょっといぶかりながら、大阪行きの切符を買ったのだった。

一旦は大阪の家に帰ってきたのだけれど、
「このまま帰りますか?」と彼に聞かれた事が気にかかり、
私は家に帰り着いたその日、再び水俣を指して汽車に乗ってしまっていたのだった。

水俣の彼の事務所には、灯りがともっていなかったので、留守である事はすぐ分かった。
その上私にはそこがもう、もぬけの殻になっているような気がした。
それでも私はそのまま、そこを立ち去りがたく、
事務所の前にある公園のベンチで一人夜を明かす事にした。

3月の末だったと思うが、その夜はちっとも寒くはなかった。
満開の桜が美しく咲き乱れており、空には朧月がかかる美しい夜であった。
太田垣蓮月尼の「宿貸さぬ 人の辛さを情けにて 朧月夜の 花の下臥し」そのままの夜であった。

翌朝駅のそばを通った時、水俣病訴訟勝訴記念式典がその日熊本の会館であるというポスターに始めて気がついた。
彼が「このまま帰りますか?」と聞かれたのは、私がこの式典に出るために、遠路はるばる熊本県までやって来たと思っておられたからなのだという事が、やっと分かった。

私は熊本の会場に行って、途中からではあったが式典に参加する事ができた。
式典が終わって彼に近づく機会があった時、そっと彼の背広の裾に触れた私の手を、
彼は反射的に振り払っていた。
がっかりしなかったわけではないけれど、来るべきものが来たという気もしていた。

その時私は久秀に殺された菊姫になって、”「遺言」の巻き”が成就したような気がしていた。
でも表の心はつれれない彼のしぐさに、打ちひしがれていたのだったが・・・・・

その3年後の8月、偶々読んだ芥川龍之介の短編集の、「芋粥」と「六の宮の姫君」に、
私は人生を感じた様である。
「芋粥」からは、長年私が憧れていたものは、
芋粥の中の主人公にとっての、芋粥と同じようなものなのかも知れないという思いであった。
「六の宮の姫君」では、「こんな事をしていたら私もこの六の宮の姫君のようになってしまう」という思いであった。

その年の9月になって私は、出雲大社にお参りに行きたくなった。
両親には「出雲大社に行きたい」というのが気恥ずかしくて、
秋吉台に行きたいと言って旅行に出た。

往路瀬戸内海の島に住む伯母の家に一泊させてもらった。
伯母の家の二階6畳の部屋には、
従兄の奥さんがやっているブランド店で売るために買い集めたものだったのだが、
ウエディングドレスが部屋一杯にハンガーにかけてあった。

山口県では東萩駅前で宿をとる事にした。
東萩駅前で「駅に近い民宿に泊まりたい」と言う私の希望を受けて、
案内所の人が「どうせ駄目だと思うけれど・・・・」と言いながら、
その民宿に電話をしてくれた時、
「え!あるんですか?」と、吃驚したように、その案内係の人が言っておられた事が印象に残っている。

台風7号襲来予報がなかったら、とても予約なしで泊まれる宿ではなかったらしい人気の民宿「雀のお宿」に、
幸運にも私は泊まる事が出来たのだった。
私の泊めて貰った部屋は増築したばかりの部屋で、電灯も私が部屋に入ってから取り付けに来られた位で、
新築ほやほやの部屋であった。

この旅行で秋吉台や秋芳洞、萩の松下村塾後、高杉晋作の実家後等を見て、
私は予定通り出雲大社にお参りした。
出雲大社で拝殿に立ち参拝しようと手を合わせたとき、
宮の奥から突然太鼓の音が響いてきたのには、ちょっと驚いた。
そして、驚くと共にこれは何かの啓示なのかも知れないという期待感を持たせられたのだった。

予定ではその日のうちに帰り着くはずであったが、
台風7号の為に電車は徐行運転になり、岡山駅に着いたときには終電もなくなる時間になっていたらしく、
私達乗客は臨時の新幹線で大阪まで運んでもらった。

大阪駅から阪急電車の梅田駅に着いたとき、
最終電車を告げる「蛍の光」の曲が流れていた。
私が家に帰りついたときには、もう日付が変わっていた。

翌朝と言っても日付としたら、私が出雲大社から帰りついたその日に、
高槻市に住む兄の所からお見合いを勧める電話が掛かって来た。

何から何まで私の縁談を寿いでいるような事続きの後、
私は9月半ば過ぎに現在の夫と見合いをしたのだった。
それは枚方の水俣病訴訟出張裁判の時に、
兄嫁から会って見ないかと言われていた、
お隣の奥さんのお兄さんである。

今度は何故か二人共、素直に見合いに応じて、高槻の駅前で見合いをした。
見合いをして2ヵ月半後には、二人は結婚式を挙げていた。
枚方の出張裁判の時に、二人が共に見合いを断っていなかったら、
この縁は成立しなかっただろうと思うと、不思議な気がする。

結婚後最初の住まいは滋賀県甲賀郡水口町(現在の甲賀市)であった。
水俣に嫁けなかったから、水口の住人となら結婚しようと思って、結婚を承知したというわけではなかった。
見合いのときには滋賀県の人とは聞いていても、詳しい住所を知ったのは婚約が成立してからであった。

結婚して間もない頃の話に、夫がまだ二十代の頃、何かの占いをしたら「40過ぎるまで結婚できないだろう」という卦た事が出た事があったのだそうである。
嫌な卦だと思ったが、結局40を過ぎるまで結婚出来ないで来たという。

その話を聞いたとき、私たち夫婦は初めから結婚する運命にあったのかもしれないと思った。
夫は私の人生ドラマに付き合った分けではなかろうが、
丁度私のドラマが完結するのと期を一にして、
夫のドラマも次のステージにシフトしていたのだろう。
だから二人揃って最初の見合いを断っていたのだろう。

件の高校の先輩の彼と結婚する予定は、私の人生ドラマの中には全然なかったから、
二人の仲が近づきそうになると、
私は自分から変な事をして、
彼から離れて行ってしまっていたのだろうと思われる。
今思うと、彼にとって私は理解に苦しむ様な事をしばしばやらかしている、
変な女だった事だろう。
色々と分けの分からない思いで、彼の心を悩ませたりしたのかもしれない。
彼を苦しめる意図など全然無かったとは言え、申し訳ないことであった。

私たち夫婦は三十代半近くと四十代半近くになって結婚したのだけれど、
何とか子供にも恵まれ、遅ればせながら、私も世間並みの幸せな人生を送る事ができてきた。
そして夫の定年を期に、私達は大津市内に転居することになった。

この家に移ってきて後、私は図らずも自分が宇治周囲物語の世界に入っている事を知った。
今の私の家のあるところは大津市とは言っても、京都府との県境に位置する辺鄙極まりない土地である。
しかし私はここが宇治市と接する土地であるという事は、移り住んでしばらくするまで、全然気がつかないでいたのだった。
私達がここに新しい住まいを決めたのは偶々であって、
宇治の周囲に位置するところを選んで移り住んだわけではなかった。

今の家に移り住んで数年後、水俣病訴訟が勝訴20年を迎えたというマスコミの報道があった。
昔、文通をしていた頃、彼の手紙に或俳句が書いてあった。
大学の俳句部で選ばれたのだそうであった。
その時私は名前だけで住所は書かないまま、
彼にその俳句を主題にした葉書を書いた。
何故住所を伏せたのか?
やっぱり夫に対して疚しい思いがあったからかもしれないが・・・・・

その葉書は私にしては全然滞りなくすらすらと書けた。
文字数や文字の大きさも過不足なく、文面がぴったりと葉書に嵌った。
まるで前世からこの文面を書くことが決まっていたかのように・・・・・

その葉書の文面は今でも諳んずる事が出来る。
夏草の波やわらかに碑文字読む(貴句拝借)
新聞で水俣病訴訟が勝訴から20年になると知りました。
長い間ご苦労様でございました。
私は今宇治周囲物語の世界にいます。
文字が違いますって?
私は今滋賀県で、山ひとつ向こうは宇治というところに、
定年後の夫とまだ中学生の娘と三人 長閑に暮らしています。
あの二つの作品は私にとって青春の記念碑となっています。
此の葉書を書く事を私(私の魂)はドラマの完結と、当初から計画していたのではないかという気がしている。

これで私の人生ドラマの前半は終わったが、
宇治周囲物語の中で幸せに暮らす私のドラマの、残りの部分は現在進行中である。
この幸せな現在を作ってくださった夫に、私は深く感謝している。
そして、私の人生ドラマのもう一方の役を担ってくださった彼にも、
とても感謝している。

これらは総て、私の人生ドラマであって、
夫にも彼にも、それぞれの人生ドラマがあったことだろう。
それらの中では私も、その素材の一部であっただけであったことだろうが・・・・・

私の人生ドラマは、多分生まれ出る時の私が
”恋の至極は忍ぶ恋に御座候”という葉隠れの恋物語をやってみたかったからのものではないかと思う。
その相手役にと心積もりしていた彼であったから、
彼の名前を知った時、私の目に彼の名前が輝いて見えていたのではないかと思われる。
それにしても、私はなんと見映えのする相手役を、得ることが出来たことだろう!
彼の人生は「遺言」の久秀のように、悲惨な人生ではなかったけれど、
弱い者の味方として彼は一生初志を貫徹しておられる。

あらゆる意味で彼には只感謝あるのみである。

人生は行き詰ったからと言って、捨てては勿体ないというのが、私がこの記事を書いた理由であり、言いたかった事である。。
行き詰った時、次のステップは始まりかけているのかもしれないではないか。
総ての人が所謂「幸せな人生」になるとは限らないと思う。
人生の目的は人それぞれだから、その人なりの目的を遂げたとき、最悪の場合例え苦しみながら死ぬ事になったとしても、その人は生き抜いたという達成感に満たされるのではないだろうか?
死ぬべきときが来たら必ず死はやってくる。
慌てて自分から死を選ばないほうがよい。
苦しいからと言ってこの世から逃げ出したりしたら、もう少しで達成できたかもしれない人生の目的を果たせない事になってしまうかもしれない。
失恋した寂しさから自殺などしていたら、迷いは晴れないままで、心の平安を得る事はできなかったと思う。
自殺したら輪廻転生を繰り返す事になると教えられているが、
それは途中止めになったドラマのやり直しを、自分自身がもう一度次の世で遣りたくなるからではないだろうか?

それぞれの好みによって、人生ドラマに悲劇を選んだり喜劇を選んだりと色々だろう。
そのドラマは現在の自分の想像を超えた展開になっているはずである。
そして、その展開をこなす能力は自分に備わっているはずである。
自信喪失になったり絶望しそうになる事もあるかもしれないが、
過ぎてみたら、それらはそのドラマに彩を添えるものとなるだろう。

神仏の分身同士である兄弟姉妹(人類)への愛を忘れず、誠実に生きてさえいたら、
人生ドラマはきっと最良の展開をしてくれるだろうと、私は信じている。
神仏を信じる事と自分を信じることは同じ事である。
それが私の信仰であると言えるのかもしれない。

[2012/05/11 15:00]

ブログ休止のお知らせ

2010年03月24日 14時51分34秒 | 日常徒然
(お知らせ)
このブログの表題に入れた短歌の、春夏秋冬の中の冬の字が、誰かによって削られて、修正不能になって久しいのですが、昨日から編集画面までが、誰かにいじられたようで、出す事が出来なくなっています。
この記事作成画面も、何時使用不能になるかもしれない状況にありますので、
春夏秋冬はこの記事をもって、しばらく休ませていただく事にしたいと思っています。
次からは、一旦やめたブログですが、dendrodiumを再開させていただこうかと思っていますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。(3月21日)


前の記事「原発について日米が共同声明」の最後に書いていたのですが、
見えにくいかと思いまして、独立した記事にさせていただきました。
どうか、今後とも宜しくお願い申し上げます。

暦の上では春だけど・・・・・

2010年02月08日 15時38分48秒 | 日常徒然
暦の上では春と言っても、今頃が一年で一番寒い季節なのだから、当然のことではあるのだけれど、毎日寒い。
今年の冬は例年以上に寒いのではないだろうか?
立春の日に北海道占冠で零下34.4度を記録したそうだし、新潟県のような豪雪地帯でも、連日の雪に苦しめられているそうである。
アメリカの東部首都圏でも記録的な豪雪だったと言う。
記録的な豪雪と言うから何メーターも積もったのかと、調べてみたら70センチくらいの事だった。それくらいの雪で交通が支障を来たすと聞いて、ちょっと意外であったが・・・・・

今日お買い物の途中で、信楽川に水鳥が多数泳いでいるのを見かけた。
信楽川でこんな光景を見るのは、20年近くこの地に住んでいるが始めての事であった。
鴨と思われる茶色の地味な鳥7~8羽の中に、鮮やかな緑色の頭に、白地に太目の縞模様の水鳥が一羽混じっていた。
その綺麗な鳥も他の水鳥と一緒に仲良く、川を上ったり下ったりしている。
あれは何の鳥なのかなと、ネットで検索してみたら、どちらもであることが分かった。
綺麗な鳥のほうは、もしかして鴛(おしどり)?と期待したのだけれど・・・・

寒いけれど、心和む景色でした。

2月11日追記
4日間雪が続いたアメリカ政府は4日間連続の休業で、ワシントン近郊の、レーガン空港の積雪が139・4cmで、史上最高となったそうです。

大寒のぽかぽか陽気

2010年01月20日 16時43分50秒 | 日常徒然

北野天満宮:ぽかぽか、早咲きの梅ほころぶ 受験生に春の予感 /京都 
学問の神様、菅原道真をまつる上京区の北野天満宮で、早咲きの梅がほころび始めている。受験シーズンを迎え、全国各地から合格祈願に訪れる受験生らに一足早い「春」の予感を感じさせている。

 天満宮には、道真が好んだとされる梅が、境内に約50種2000本植えられ、19日には約10本が数個から数百個の花をつけた。2月下旬には見ごろを迎え、ほのかに甘い香りを漂わせるという。
 京都地方気象台によると、この日の京都市内の最高気温は3月中旬並みの13・3度。ぽかぽか陽気に誘われて開いた白やピンクのかれんな花に、参拝客は足を止めて見入っていた。

今日は大寒の入り、
一年中で一番寒いはずの日である。
この大寒の日の日本列島は軒並み3月下旬から四月並みの陽気になった。
センター試験が終わる頃までは、酷い寒波に震え上がっていたのが嘘の様な陽気である。
大学受験の人達もひと山越えることができて、ある意味ほっとしておられるのかもしれない。
悲喜こもごもではあろうけれど・・・・・

九州ではもう雨が降っているそうであるが、近畿地方は今夜辺りから雨になると言う。
この暖かさと雨により、各地で雪崩注意報が出されている。
予報ではこの暖かさも明日か明後日までとなるそうであるから、
雪国では雪崩が起きたり、その又上に雪が積もったりということになったら、
危険なことになるのかもしれないが・・・・・

滋賀県の北部にはかなり積もったらしいけれど、滋賀県でも最南端の私の家の辺りには、
この冬 雪は全然降らなかった。
雪を喜ぶ小さな子供がいたら、雪も好いものかもしれないが、
大人に取っては積雪が無いのは、只有り難い限りである。

冬来たりなば春遠からじという言葉があるが、
寒い暖かいと言っている間に節分となり、本物の春ももう其処まで来ているのだろう。

ハイチやアフガニスタン パレスティナの人々に、穏やかな日々は何時来るのだろうか。
地震国だから何時大地震に見舞われる事になるか、計り知れないのだけれど、
現在の平和だけは何としても、ずっと守って行ってほしいものである。

成人の日

2010年01月11日 16時19分42秒 | 日常徒然
以前は成人の日は1月15日に決まっていたのが、小泉政権の時に第2月曜日に変えられて、毎年成人の日が違う日になるようになって、ちょっと戸惑ってしまうが、今日は成人の日であった。
今年も成人の日の集まりで、若者が荒れると言う事件が多発しているらしい。
今のように、学校を卒業しても就職も儘ならない状態にあると、荒れたくなる気持ちも分からないではない気がするけれど、折角の成人式に逮捕されるような事になっては、あまりにも悲惨な気がする。

今日は11日なので、例によって立木観音にお参りした。
3日の初詣に続いて今年2回目のお参りである。
今日はもう11日になっていると言うのに、3日と同じくらいの参拝者で、
大勢の人が鐘楼に続く石段に行列しておられたので、今日も鐘を突くのは諦める事にした。

帰り道石段をくだっていたら、まだ2~3歳位の小さい子供さんが、頑張って自分で登ってこられる姿が、次々に目に入ってきた。
全行程を自分で登られたのではないかもしれないけれど、
まだ1歳半と言う子供さんまで、頑張って上っておられたのには、驚いてしまった。
時々、大人に抱っこされてこられる子供さんも無いではないけれど、
大多数の子供さんが、子供にとっては相当高いはずの石段を、一
段一段頑張って登っておられる姿を見ると、日本の未来もそう捨てたものではないのかもしれないと、気持ちが明るくなってくる気がした。

昔の私達夫婦は娘がちょっと、しんどいと言ったらすぐに労わって、
夫などは特におんぶとか抱っことせがまれたら、すぐに「おんぶに抱っこ」の口だったので、
まだ小さな子供さんを励まして自分の足で登らせ、頑張る事を教えておられる親御さん達に、頭が下がる思いがした。
小さい時散々甘やかしておいて、大人になってから、とやかく言っても始まらないのに、ついぼやいてしまうが、
娘はむしろ被害者と言えるのかもしれないと思う。
必要以上に甘やかして来たことを、娘に対して申し訳なく思っているが・・・・・

あの小さな子供さんたちが、成人されるころの日本がどういう国になっているか?
どうか今より健全な国になっていますようにとひたすら祈られる。

寒中お見舞い申し上げます

2010年01月10日 16時15分08秒 | 日常徒然
この冬は暖冬になると予想されていたのに、厳し寒さが続きます。
「冬は寒き方が良く候」と誰かの文に有りましたが、本当に寒中らしい寒中になっています。
これだけ寒いと、地球温暖化が幾らかやわらげられるのではないかと、
儚い期待をしてしまいそうです。
でもこれはシベリア寒気団がヨーロッパやアメリカ東部中国韓国に懸るように、ゆがんで南下しているだけの事で、地球自体としては温暖化が緩んでいると言うわけではないのだそうですね。

でも今太陽の黒点が異常に少なく、地球は今寒冷期に有ると言う話も耳にします。
そう言えば何年か前には夏の最高気温が40度前後となる年が2~3年続き、これが段々エスカレートして行ったらどうなってしまうんだろうと心配した事がありましたが、
近年は夏の暑さが、その頃ほどには異常な高温を示さなくなっているようですね。

この寒さも私達の為には、喜ぶべき事なのかもしれません。
でもホームレスの人にとってはどんなにか厳しい寒さだろうと思います。
昨年末のニュースでは、インドのカイロで、屋外生活者が40人あまり凍死されたと言っていたのを聞いて驚いたものでした。
インドと言えば暑い国と言うイメージがありますので、冬そんなに寒くなるとは思いもかけないことだったからでした。
アメリカでの凍死のニュースは耳にしませんが、アメリカでもサブプライムローンで一旦手に入れた家を取り上げられ、路上生活を余儀なくさせられている人が多数有ると言うことでした。
アメリカ東部も厳しい寒さに襲われているそうですが・・・・・

年越し派遣村も期限付きだそうですから、これから行き場を持たない人が大勢でてくるのでしょうか?
今日のテレビでの政治の話の中で、「新自由主義では出来るだけ効率を良くして、人手を省いて業績を上げると言うことで、景気を良くしようとしていたけれど、
企業は従業員の頚を切れるけれど、政府は国民の頚を切ることはできないのだから・・・・」と言う意味のことを言っている人が有りました。

企業を運営している人も国民の一人なのだから、
企業が何の為に有るのかと言う事を、もう一度見直して、国民が資源や生産物等を仲良く分け合って、共に繁栄できるシステムが再構築できると良いのだけれどと思ったものでした。
昭和の終わりごろには日本人は「一億総中流」と言われたものでしたが、
「一億総中流社会」は、国民が浮かれているうちに、粉々に打ち砕かれてしまっています。
何とか元に戻したいものですね。

良いお年を

2009年12月22日 15時29分47秒 | 日常徒然
今日は一年で一番日が短い日 冬至です。
今日も朝から良く晴れてはいるのですが、相変わらず寒い一日でした。
でもこの寒さも緩み始めていると、天気予報では言っていました。
明日が天皇誕生日なので、滋賀県の公立小中学校では、今日が終業式だそうです。
明日から冬休み、いよいよお正月が近づいてきたと言う感じがします。
それもあってテンプレートをお正月バージョンにしたのですが、
実は私のパソコン、秋ごろからしばしば不調になって、突然動かなくなったり、消えてしまったりしていましたので、思い切って電器屋さんに修理を依頼しましたら、明日取りに来てくれる事になりました。
なにぶん年末ですので、年内の返却は難しいとのことで、年明けまでパソコンとお別れせねばならなくなりました。
という訳で、ちょっと早いのですが、お正月バージョンにしてしまったと言うわけです。

本年中は何かとお世話になりました。
どうか皆様 良いお年を。

師走の一日に

2009年12月01日 16時26分32秒 | 日常徒然
12月も小春日和の良好なお天気で始まった。
一日なので例によって立木観音に夫と二人でお参りした。
立木さんではもう障子の張替えを等の、お正月の支度を始めておられた。
12月の立木さんは忙しい。

お正月までには、750段ほどの石段の真ん中に付いている鉄製の手すりの錆を落として、毎年ペンキを塗り替えておられる。
初めて立木さんに登ったのは、もう18年も前のことだけれど、
その時から錆びていて、この手すりは何時まで持つだろうかと気になっていたが、大部分が18年間も持っている。
錆びかけた手すりでも、毎年毎年丁寧に手入れをしていたら、
こんなにも持つのかと感心させられている。
勿論部分的には、新しいものと取り替えられたところもあるけれど・・・・・

最近の学校などの公共建築物が、
ちょっと古くなったら惜しげもなく毀してしまって、
新しい校舎に立て替えるのを見たら、勿体ない限りで、
立木さんのこの精神を見習って欲しいと思われる。

しかし現代の経済は、人が古くなったものを捨てて、新しいものを買ってくれなくては、行き詰ってしまうように出来ているので、皆が古いものばかり使っていたら、逆に不景気で皆が困ってしまうことになる。

と言うことは経済システムそのものが、間違っていると言うことなのかもしれない。
CO2問題だけでなくだけでなく、
地下資源を今のまま目一杯掘り出していたら、
環境破壊をするし、
又その資源も使い尽くしてしまいかねない。
この先どうなるかと心配しながら、それでも、需要の落ち込みが不景気の原因であるから、雇用を創出して皆がもっと物を買うようにならなければ、
この不景気は脱出できないと言われている。

昔のように景気が良くなり、
「消費は美徳」とばかりに皆がどんどん消費するようになって、
昔のように景気が良くなったとしたら、
人類は本当に幸せになれるだろうか?

たちまち資源は其処を付き、地球は公害で息付く所もなくなるかもしれない。

今こそ本当の意味のワークシェアリングを導入して、
全員失業者無しで、仕事とお金を分け合って、
必要なものを必要なだけ作る工夫が出来たら、
或る人は死ぬほど働かされ、ある人は仕事が無くて生きていけないと言うようなことにもならず、
全員が余暇を楽しむ事ができる、素晴らしい世界が出来るだろうにと思うが、
既得権益に執着するのも、人間の本性であることを思えば、
組織替えなど土台無理と言うことなのかもしれない。

立木さんにお参りして帰り道の空に、
ふんわりとした白い雲、羊雲と言うのだろうか?
綺麗な青空を合間に見せて、綿雲が拡がっているのが、ことのほか美しく見えた。
羊雲は天気の崩れる標しでもあるとか・・・・・

山茶花の季節到来

2009年11月18日 14時27分56秒 | 日常徒然
昨日から気温が一段と下がってきて、真冬を思わせる寒い日となっている。
道路わきに植えられた、山茶花が赤い花を付けていた。
山茶花といえば
「山茶花山茶花咲いた道 焚き火焚き火だ落ち葉焚き・・・・・」と口ずさみたくなってくるが、山茶花は初冬を代表する花である様だ。

「其処までの 用事に出ての 時雨かな」と書かれた葉書を、掛け軸として表装したものを、父が何かのお礼にと昔知人から貰ったのが、今は我が家に有る。
その俳句の背景に、可憐な山茶花の花が描いてあった。

それは召集兵として戦地に居たその人に、隣組だった方が戦地見舞いとして下さった葉書だったのだそうで、
復員してから掛け軸に表装される程大事にしておられたものを、
父に下さったのであった。
楚々として美しい山茶花の花と、粋な俳句を何気なく書いて送れるその方に、
当時の日本人の素養の深さと、たしなみが感じられる。
昔の日本人には、こんな風流人が大勢居られたのかなと、ゆかしささえ憶えさせられる。

11月も終わりが近づき、年賀状を書かねばならない季節も、もうすぐだなと思うと、気が重くなってしまう私とは大違いである。
ささっと、人が関心するような絵がかけると、年賀状書きも楽しいだろうにな。

小春日和の午後

2009年11月09日 16時23分00秒 | 日常徒然
お昼過ぎに立木さんにお参りする為に、鹿跳橋(ししとび橋)を渡っている時、ふと空を見上げたら、雁がV字型の隊列を作って、南に向かって飛でいるのが見えた。雁はどうして空の上であんなに綺麗なV字型に並ぶ事ができるのだろう?
「雁が南に向かって飛んでいかあ」と言う有名なせりふを、私は思わずつぶやいていた。
二日前に立冬も過ぎたのに、一時よりはかえって暖かく感じられる昨日今日のお日和。
そう言えばこんな日を、小春日和と言うのだった。
通り道にコスモスの花も咲いていた。

このお天気も今日までで、今週のこれからの天気予報は、曇りや雨マークばかりのようだった。
オバマ大統領来日で今週の日本は、どんな1週間になるのかな?

今年は紅葉が早いようで、立木観音の参道の紅葉は、大部分はまだ緑が残ってはいるけれど、かなり赤くなったものも多数有った。
只毎年感じる事なのだけれど、紅葉の葉が昔はもっとしっとりとした感じだったのが、近年の紅葉は木に在るうちから、かさかさに乾いている感じなのである。
立木観音のある辺りは工場も無いから、公害と言うわけでもないかと思うのだけれど、
もしかしたら排気ガスが常に満ちているからかと考えてみて、
山上の紅葉もやっぱりかさかさになっていた事を思い出した。
まだ木についているのに、散って何日も経った落葉のような干からびた紅葉を見ると、ちょっと不安になってしまう。

しかしながら平和な日本で、穏やかな小春日和を満喫させて頂ける有り難さを、
今改めてかみ締めている。

ブッシュ冷え

2009年11月03日 16時04分22秒 | 日常徒然

各地で今秋一番の冷え込み 東京では木枯らし1号
 日本列島は3日、冬型の気圧配置と強い寒気が流れ込んだ影響で、各地でこの秋一番の冷え込みとなり、東北地方で初雪と初氷を観測した。

 気象庁は3日、東京(都心)で2日夜に最大瞬間風速16・4メートルを観測、冬の訪れを告げる「木枯らし1号」が吹いたと発表した。昨年より1日遅い。

 気象庁によると、最低気温は北海道旭川市で氷点下6・1度、仙台市で3・4度、大阪市で7・4度、鹿児島市で7・8度。各地でこの秋最低で、11月下旬~12月上旬並みの寒さとなった。

 盛岡や山形、新潟で平年よりも早い初雪が降ったほか、秋田で初氷、水戸で初霜を記録した。

 また福島県の磐梯山、群馬県の榛名山、浅間山で初冠雪を観測した。

2009/11/03 11:16 【共同通信


今日は日本列島全体に寒気が流れ込んだそうである。
滋賀県も朝から寒かったけれど、夕方になって益々寒くなってきたので、
とうとう炬燵を出そうと言うことになってしまった。
まだ立冬にもなっていない段階で、炬燵を出すのは我が家での一番早い冬仕様かもしれない。

東京も寒いと言うことだけれど、ブッシュへの抗議デモ、
季節はずれの寒さになって参加者の皆さん、
寒さに震えておられるのではないだろうか?
ブッシュ氏、全く迷惑な日に来られたものだ!

と言うより、ブッシュ氏の来日が、日本列島を凍えさせたのかな?
文化の日と言ったら例年は日本晴れの穏やかなお天気と相場が決まっていたものなのに・・・・・