今日六月十三日は、私の姉の命日です。
1953年 昭和28年の事だから、もう50年以上も前の事になります。
その年の3月に父の転勤で広島から長崎に移転してきたばかりの時の事でした。
姉が盲腸を拗らせて、急遽タクシーを呼んでお医者さんに向かっている時、
父は知り合いの人に何処が良い病院か聞いて、その病院に行くつもりでいたのだそうです。
それが車中で姉が余りに痛がるものだから動転してしまって、父は「何処でもよいから一番近いお医者さんに行って下さい。」とタクシーの運転手さんに言っていたそうです。
運の悪い時は運の悪いもので、そのタクシーが通りかかっていた道のすぐそばに、
長崎市では悪評で有名な藪医殿の医院が有ったのでした。
尚その上、運の悪い事にその日は、そのお医者さんが市会議員に立候補するために、後援者を集めて演説会を開く予定の日で、予定時間も迫っている時だったのです。
しかし現実に苦しんでいる患者を、拒否するわけにも行かなかったのでしょう、仕方なく手術を始めてくれたのは良いのですが、
姉の盲腸は、藪医のそのお医者さんには手の施しようの無い状態になっていたのでした。
その手術が終わった時、「ぐじゃぐじゃになってたから、仕方ないからそのまま縫い合わせておいた。」とそのお医者さんが身内の人に言っている話を、偶然母は聞いてしまったのだそうです。
お医者さんはその後、大急ぎで予定の演説会場に走られたらしく、
何の追加の手当てを受けさせて貰うことも無く、その夜姉は亡くなってしまったのでした。
2~3年後に、兄が盲腸になって、別の病院で手術してもらった時、
話を聞かれたそこのお医者さんが
「今時どんなに手遅れになっていたとしても、盲腸で死なせるなど、医者とは言えない。」と呆れておられたそうです。
姉の手術をしたお医者さんは、自分の手に負えない病人を、誰か別の人に頼むのは沽券にかかわる事だったので、そのまま死を待たせたのでしょうか?
それとも一刻も早く、選挙の演説会に出向きたかったのでしょうか?
姉は見殺しにされたのでした。
此処で不思議なのは、母が無責任なお医者さんの話を聞いていながら、
そのまま黙って姉に付き添っていた事です。
二十年以上経って、母に思い出話としてこの話を聞かされた時には、どうしてそのまま放っていたのかと、呆れて母を詰ったものでしたが、
当時の素人は、お医者さんがそうされたという事は、そうする以外になかいのかと、諦めてしまうものだったのかも知れないという気がしてきています。
その後のような世相の時代だったら、
そのお医者さんを訴えて、訴訟沙汰にしていたような事例だったのかもしれませんが、戦後十年にも満たなかったその頃にはまだ
訴訟沙汰を起こすなどという発想も無い時代でした。
その後医療事故が相次いで話題になるようになってからは、
勿論酷い医療ミスも多かったのでしょうが、
お医者さんにとって不可抗力のような事例さえも、訴訟沙汰に持ち込む人が出たりして、人の生き死にに係るお仕事のお医者さんにとって、大変な時代になってしまったようです。
戦時中は人権無視が当たり前のようになっていて、何でも我慢するしかないと諦める事になれさせられていた母の時代の人にしたら、有る意味権力者のお医者さんの判断は絶対で、従うしかない事だったのでしょう。
今権利意識が行き渡るようになって、お上の命令は絶対だった昔が、恋しくなっている、自分をお上と思っている人も多いのかもしれませんね。
でもお医者さんに対しては兎も角、
民主主義国の主人は国民なのですから、
公務員は公務員であるという事を、公務員に忘れさせないようにして、
国民が不当に我慢させられる事のない、健全な社会を守って行きたいですね。
1953年 昭和28年の事だから、もう50年以上も前の事になります。
その年の3月に父の転勤で広島から長崎に移転してきたばかりの時の事でした。
姉が盲腸を拗らせて、急遽タクシーを呼んでお医者さんに向かっている時、
父は知り合いの人に何処が良い病院か聞いて、その病院に行くつもりでいたのだそうです。
それが車中で姉が余りに痛がるものだから動転してしまって、父は「何処でもよいから一番近いお医者さんに行って下さい。」とタクシーの運転手さんに言っていたそうです。
運の悪い時は運の悪いもので、そのタクシーが通りかかっていた道のすぐそばに、
長崎市では悪評で有名な藪医殿の医院が有ったのでした。
尚その上、運の悪い事にその日は、そのお医者さんが市会議員に立候補するために、後援者を集めて演説会を開く予定の日で、予定時間も迫っている時だったのです。
しかし現実に苦しんでいる患者を、拒否するわけにも行かなかったのでしょう、仕方なく手術を始めてくれたのは良いのですが、
姉の盲腸は、藪医のそのお医者さんには手の施しようの無い状態になっていたのでした。
その手術が終わった時、「ぐじゃぐじゃになってたから、仕方ないからそのまま縫い合わせておいた。」とそのお医者さんが身内の人に言っている話を、偶然母は聞いてしまったのだそうです。
お医者さんはその後、大急ぎで予定の演説会場に走られたらしく、
何の追加の手当てを受けさせて貰うことも無く、その夜姉は亡くなってしまったのでした。
2~3年後に、兄が盲腸になって、別の病院で手術してもらった時、
話を聞かれたそこのお医者さんが
「今時どんなに手遅れになっていたとしても、盲腸で死なせるなど、医者とは言えない。」と呆れておられたそうです。
姉の手術をしたお医者さんは、自分の手に負えない病人を、誰か別の人に頼むのは沽券にかかわる事だったので、そのまま死を待たせたのでしょうか?
それとも一刻も早く、選挙の演説会に出向きたかったのでしょうか?
姉は見殺しにされたのでした。
此処で不思議なのは、母が無責任なお医者さんの話を聞いていながら、
そのまま黙って姉に付き添っていた事です。
二十年以上経って、母に思い出話としてこの話を聞かされた時には、どうしてそのまま放っていたのかと、呆れて母を詰ったものでしたが、
当時の素人は、お医者さんがそうされたという事は、そうする以外になかいのかと、諦めてしまうものだったのかも知れないという気がしてきています。
その後のような世相の時代だったら、
そのお医者さんを訴えて、訴訟沙汰にしていたような事例だったのかもしれませんが、戦後十年にも満たなかったその頃にはまだ
訴訟沙汰を起こすなどという発想も無い時代でした。
その後医療事故が相次いで話題になるようになってからは、
勿論酷い医療ミスも多かったのでしょうが、
お医者さんにとって不可抗力のような事例さえも、訴訟沙汰に持ち込む人が出たりして、人の生き死にに係るお仕事のお医者さんにとって、大変な時代になってしまったようです。
戦時中は人権無視が当たり前のようになっていて、何でも我慢するしかないと諦める事になれさせられていた母の時代の人にしたら、有る意味権力者のお医者さんの判断は絶対で、従うしかない事だったのでしょう。
今権利意識が行き渡るようになって、お上の命令は絶対だった昔が、恋しくなっている、自分をお上と思っている人も多いのかもしれませんね。
でもお医者さんに対しては兎も角、
民主主義国の主人は国民なのですから、
公務員は公務員であるという事を、公務員に忘れさせないようにして、
国民が不当に我慢させられる事のない、健全な社会を守って行きたいですね。
姉ももう一度生まれなおして、又成人しているかもしれませんが・・・・・
優しい姉で、今思うとまだ高校2年生、17歳のうら若き乙女だったのでした。(私は小学校4年生)
振り返ってみて、長く生きたものだな~と、今更ながらのように感じます。
私の生かして頂いた時代は日本人にとっては、良い時代だったのかも。
次の時代の人にも、出来るだけ良い時代として引き継ぎたいものです。
因みに私の妹が、1958年6月13日が誕生日です。
昭和28年に25を足して、53年と書いたつもりでした。今見直して見て始めて間違いに気がつきました。
教えてくださって有難うございます。
私の右下腹に、15cmくらいの傷があります。
盲腸の手術痕です。
若い頃、急に下腹が激痛に襲われました。
救急車を呼んで、近くの病院へ行こうとしました。
偶然、そこに居合わせた伯父が、
「多分、虫垂炎だろうが、下手な医者にかかると
命を落とすこともある」と言って、ある先生を紹介してくれました。
私の虫垂炎は、難手術で3時間もかかりました。
部分麻酔が切れて、手足を看護婦さんたちに押えられ、
「痛いよ~」と叫んでいたのが、昨日のようです。
こちらこそ勝手しまして申し訳ございませんでした。
盲腸に罹っても、運の良い人と、そうでない人の差は大きかったんですね。
私の連れ合いも、昭和23年に腹膜になっていた盲腸を、治してもらっています。
当時出たてのペニシリンの効果も有ったらしいですが・・・・・
姉の場合それより5年も後のことですのに、
姉はというより、我が家はあの時、余程運に見放されていたのかも知れません。
姉はいつも明るくやさしい人で、我が家の誰にとっても、光明を与えてくれる存在でした。
母の手伝いを喜んでするし、
弟妹の信頼も厚く、私にとって怖い存在だった兄も、姉にかかったら、従順そのものでした。
私たちと遊んでくれたり、工夫して服まで縫ってくれたりと、
私のような怠け者とは雲泥の違いの、良く出来た娘だったと今思い出しても感心するような人でした。
子供心にも私も残念でしたが、
両親にとっては、私の何倍もつらい出来事だっただろうと思います。
ひと昔前までは、医師会の力が強大で医者には文句を言えないような時代でした。手塚治虫の『ブラック・ジャック』でも、医師会とのアツレキの話が多くありました。
しかし、今は(治療以外で)医師の手に負えない患者、いわゆるモンスターペイシェントの出現で、医師と患者の立場が逆転してしまうことも多々ありますね。
しかし、両極端なそれらに共通して言えることは『無理が通れば道理引っ込む』ということです。
抗生物質の発明で、人の寿命が破格に延びました。
私の父は戦後の物のない時代に幼い妹二人を感染症で亡くしています。コレラだったか赤痢だったか、いずれも抗生剤が有効で、今の日本ではまず死ぬことの無い病気です。
しかし、寿命が延びても物質面で豊かになっても、果たしてそれに正比例して人の心も成長しているかといえば、甚だ疑問ですね。
本当に、
「無理が通れば道理引っ込む」ですね。
今のお医者さんに対する、モンスターペイシェントですか、そういう人の噂を聞くと、此れも無理な要求をごり押ししている様で、お医者さんが気の毒に思えることがしばしばです。
科学が進んでも、人間の進歩、幸せとは別物のようですね。
人間の寿命をいたずらに延ばしても、いつかは死ぬ時は来るのですから、人間らしく生きられる年齢に、自然に死んで行くというサイクルのままのほうが、人間自身にとっても返って幸せだったのかの知れません。
又今の世界は幼児が、最新兵器を管理しているような状態になっていて、危うい限りですね。
地球は神仏の幼年学校と言う事かも知れません。
幼年学校に、核兵器のような物が作れるような人間を生まれさせてしまったというのは、
天の配剤なのでしょうか?
それとも天が匙加減を間違えられたとか?
天が間違えたのでは、天という言葉の意味を成しませんね。
間違えるようでは、天ではありませんものね。
天の意志は何処にあるのか?
それとも天など初めから無かったのか?
でも無規範に出来たにしては、宇宙は余りにも整然としていますし・・・・
それは、小惑星等が地球に衝突或いは影響ある距離まで接近する可能性が出た場合、軌道を変更させるのに使うという方法で、これは今まで散々SFのネタ(ディープインパクトとか)にされてきましたが、全くの絵空事ではないのですね。
それでも、小天体の軌道を変えるのは大変なことで必ず上手く行くとも限らないのですが。
で、もしガイア(地球)に意志があるとしたら、そういう理由で人に核を持たせたのかもしれません。
なーんて、偶然の産物と考えるのが正気の考察ですけどね。
しかし、如何に核のエネルギーが強大でも、小さいとはいえ天体の軌道を変えるのはかなり難題らしいですけど。まず地球からある程度距離がないと軌道を変えても意味が無いので、そこまで人間が行かねばならないので、その辺からもう大変な訳です。
とりあえずヒトは愚かな個体ばかりではないですから、もっとヒトに対して希望を持つべきだと思います。
先日テレビで、地球が金星か火星に将来衝突するという話しをやっていました。
此れはかなり確実な事らしいのですが、
その時期が、確か30億年位後に起こるだろうという話なのでした。(年数の記憶はあいまいですが)
それは兎も角、
この世に何か意味が有るとしたら、
この世の危機的状況を、上手に回避させるという難事業をやり遂げるというプロジェクトに加わりたくて、生まれてきた魂も大勢あるかもしれませんね。
そういう魂にとっては、危機が無かったら生まれてくる意味もなかったということになるでしょうから・・・・・
この世は、只、所謂幸せを求めて生まれてきた者ばかりではないのかもしれないな~という気がします。
だからどんなにつらくても、自殺したらいけないということなのではないでしょうか。
「これから貴方にとって、この世に生まれてきた真の目的達成の時が近づいているのかもしれないのだから。」という訳で。
人それぞれの生まれてきた目的が違うから、
それぞれにとって好ましい事も違う事でしょう。
それらの期待に答える為に、このような複雑な世の中が、形作られていったのかもしれません。
だからお釈迦様の言われる
「山川草木国土悉皆成仏」というのはこの世の真実なのかもしれないとも思います。
なんて荒唐無稽な事ばかり言ってしまいました。