岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

春の味、土筆採り。

2006-03-12 14:38:44 | Weblog
春本番の写真を一枚。

大洲市菅田の肱川の近く。野原にもの凄い数の土筆(つくし)が生えていた。久々に食べたくなり、採って帰った。足の踏み場も無いくらいの生え方で、あたり一面にニョキニョキと。キリが無いので途中でやめたが、あまり採り過ぎると、後のハカマを取る作業が大変である。手の爪が真っ黒になって、まぁそれでも春の息吹を味わう食感は、何ものにも替えがたい。
今年は梅の花が遅く、我が家(西予市宇和町山田・標高230mほど)では、やっと八分咲き。松山の堀の内では、早くも桜が結構見ごろになりつつあるのに。季節の移ろいが、少しヘンである。

戦争遺産・改良ボート

2006-03-12 14:25:37 | ノスタルジー
実家の納屋に眠っているコレと、久しぶりに対面。

8日にアップした「ゼロ戦のフロート」というのが、これ。ボートに改造して、裏の中池(西山田集落の溜池)に浮かべて、使っていたもの。意外にも安定感は悪く、よくひっくり返っていた。何故なら、フロートは両翼の下に取り付けられ、上からの加重に対して支えるように出来ているので、それ自体の安定性は良くない。ましてや溜池はすり鉢状になった池なので、泳げないとアブナイ。持ち帰った父としてもそれは想定外のことだったかも知れない。

頭に貼ってある小さなプレートには、製造所「株式会社福岡精工所」、使用機種「零式一号観測機一型」と刻印されている。

「国家の品格」と経済。

2006-03-12 09:42:01 | まちづくり
民放、竹村健一の番組にあの藤原正彦氏が出演していた。以前このブログにも良書紹介④で取り上げた「国家の品格」の著者。

私が何故この本の書かれた内容にヴィビットに反応するか、というと、それは建物の保存と密接なつながりがある。
保内や八幡浜、あるいは宇和における様々な保存に関わり連戦連敗の中、いつも感じたある“壁”のことが書かれてあるからに他ならない。その“壁”とは、市場原理主義。
つまり、町並みや建物の保存の際にそれを説いていると、必ず言われるのが経済的な裏づけ。勿論、遺す以上はそうしたことが大切なのだが、概してそうした活用策を段取りしたり企画したりする時間余裕など無い中で、通常の保存問題は起きることがほとんど。その段階で慌てて保存を講じようとしても、個人の資力には限界があり、どうすることも出来ず、写真に撮ったり、せめて実測調査をする、ということになる。

そうした緊急性のある場合でなくとも、経済的価値について言及する人は多い。というよりも、「こんなものを遺してナンになるんゾ」というつれない物言い。その言葉が象徴するのは、金銭価値でしかモノを見れない人の人心の荒廃。
人には、感傷という名のセンチメンタリズムや、物を懐かしむ感情や、人であるからこその心の向け方があるのだが、そうしたことが何かさもメメしいことのように後ろへ追いやられる。そんなやり取りを、私は様々な場面で思い出すことが出来る。

そんな価値観の壁は、戦後教育や、経済というものの本質に、疑問を持つに至るわけだが、元々経済というのが「経世済民」の略であることを思うとき、現在のマネーゲームが本来あるべき経済ではないこともよく理解できる。文学部出身で経営・経済のことが分からない私に、かつて故人のA氏は経世済民の意味を教えてくれた。民を救済する世の中の道筋、それが経済であること。ある意味、世直しやまちづくりがそれに近い。経済は、決してマネーや相場のことではない。