岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

西園寺公の墓所。

2008-04-04 09:23:44 | 卯之町点描


現在の光教寺にある西園寺公の墓所。

この御廟は、昭和47年に、大洲から移転した墓石も納められるように改築されたもの。

西園寺公墓所よりの眺め、その二。

2007-12-22 01:52:58 | 卯之町点描


もう一度町並みを振り返ってみよう。

手前には、中町(なかのちょう)にあるメソジスト系の卯之町教会の尖塔。
中央の四角いビルは、NTT。右側の白い建物が西予市文化会館。

これら二つのビルの奥には、ここからは見えないが、肱川の上流である宇和川が右から左方向へと流れていて、その向こうにあるのが運動公園。かつての西園寺氏の館はそこにあった。
丁度、右側、紅葉の山すその向こうに光教寺谷と呼ばれる場所があり、元々光教寺はそこにあった。
町並みが形作られる段階でこちら側に移されたことが分かる。
実際に、手前右側には開明学校が続くのだが、そこはかつての光教寺境内地で、その石垣(開明学校への坂、光教寺参道)は川向こうの館跡から運ばれたと伝わっている。

西園寺公墓所②

2007-12-22 01:39:23 | 卯之町点描


西園寺公の墓所のかたわらに、この石碑が建っている。

石質は宇和島石(吉田以南に見られる石質)の大きなもので、昭和11年12月の刻字があり、71年前のこと。
碑文には、嘉禎二年(1236)から天正十五年(1587)に公廣卿が誅殺されるまでの西園寺氏について、350年にわたる事歴が刻まれている。
表題には「侯爵伊達宗彰閣下篆額」とあり、野村の郷土史家で伊予史談会創立者の一人西園寺源透翁の撰、田浪徳馬書となっている。

西園寺公墓所よりの眺め。

2007-12-22 01:06:42 | 卯之町点描


さて、あい前後して申し訳ないが、先日12月16日にアップした卯之町点描の“西園寺公御廟(ごびょう)”。
その続きです。

こうして振り返ると、卯之町の町並みの向こうには中世山城跡である黒瀬城が眺められる。この城を本城として松葉城時代を入れると、350年間も宇和を本拠に南予の覇者であった西園寺氏には、もう少し光が当てられてもいいように思う。
この光教寺裏の岡に上り、公廣卿の墓所が真っ直ぐに黒瀬城を望むように建てられている様は、ナニゴトかを我々に訴えかけているようにさえ感じられる。

チャート系の石垣  ②

2007-12-16 02:08:57 | 卯之町点描


反対側から見たところ。
角の石積みは、セオリー通りに長短を交互にした“算木積み”となっている。

因みに、この石垣の上は宇和聾学校の運動場になっているが、かつてはここに宇和町小学校があり、現在は米博物館として移築活用されている講堂と第二校舎は、元々この場所にあった。
この坪ヶ谷は、大師堂を初めとして、宇和教育の揺籃の地でもある。