岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

旧白石和太郎洋館、③

2007-03-29 11:03:04 | 建見楽学


また、今回の修復で嬉しいのは、ご覧の鉄柵の復元。
古写真によると、右隣に接する旧宇都宮壮十郎家(二宮医院、現在カイヅカイブキの垣根がある)と同様に、かつてはこうした洋風モダンな鉄柵が巡らされていて、戦時中の供出で撤去されていたもの。
まだ内部公開はされていないが、4月1日(日)には近くの琴平公園の「桜まつり」があり、その時には保内ボランティアガイドにより内部も公開されるらしい。

旧白石和太郎洋館、②

2007-03-29 10:52:56 | Weblog


今回の修復では、こちらの南側壁面が復元され、これまでのサイディング張りにアルミサッシュというナントモの雰囲気から面目を一新した。
縁の宇都宮家子孫の家にあった古写真から、復元可能になったとのこと。
そう言えば、亡くなった亀井ご夫妻や故宇都宮濱子さんから、左側白石本宅への通路がサンルーム状にガラス張りとなった屋根で、変わった造りだったとよく教わったことを思い出す。

旧白石和太郎洋館

2007-03-29 10:43:49 | 建見楽学


八幡浜市保内町川之石にある旧白石和太郎洋館の修復工事が完成した。
大峯銅山の経営や宇和紡績の後を受けた白石紡績など、地方企業家として活躍した白石家の洋館だが、平成6年に保内町により購入保存された。
小なりと言えども、明治30年代には建てられていたと目され、当時のこの地の先進性を物語る鄙には稀な名建築である。

戦後は「川之石ドレスメーカー女学院」として、旧東洋紡績の女工さんたちや近郷近在のうら若き乙女たちの殿堂でもあった。
20年近くも前、岡目八目が保内在住の折りには、ドレメ経営の故亀井ご夫妻から、当時の華やいだバザーなどの催しの話を楽しく伺った。

わらぐろ野外写真展、⑤

2007-03-29 01:29:19 | まちづくり


この写真は、「宇和わらぐろの会」上甲清会長のオリジナル藁クラフトの数々。

手前に並んだ“亀さん”が、今回の写真応募者全員への参加賞。
そして“ミニわらぐろ”が特選の方へのプレゼント景品。
準特選の方二名には、飛び鶴と亀のセット。
鶴や亀のシッポは、いずれも昨秋収穫された古代米(赤米)が使用されている。

飛び鶴は、目下「かまぼこ板の絵展」で有名な「ギャラリーしろかわ」から注文があり、日夜会長が製作に余念が無い。
150羽ほどの展示企画となるらしい。

わらぐろ野外写真展、③

2007-03-29 01:09:17 | まちづくり


この“わらぐろ”を作れる年齢層は大体60歳代以上くらい。50代の私には作れない。いや、正確には作ろうとしているが、まだ満足なものが出来ない。
つまり、数ヵ月後に解体するとバレるのだが、中に水が入っていて、藁が使い物にならない。形も、大きさも、中身の積み上げ方も、熟練の技を必要とする。
建物の基本と同じで、雨仕舞いが何より大切な気候風土が生んだ造形である。

わらぐろ野外写真展、②

2007-03-29 01:02:06 | まちづくり


一応、念のための説明をすると、“わらぐろ”は、稲刈り後に稲木干しした後、米を脱穀し、それから藁を積み上げたもの。全国でその名と形が地域によって皆違う。
わらぐろ文化圏は、四国と大体広島・岡山あたりまで。九州は“わらこづみ”だし、東北は“ニオ”とか“ニョ”。

わらぐろ野外写真展

2007-03-29 00:54:15 | まちづくり


3月24・25の両日、「宇和わらぐろの会」主催の『わらぐろ野外写真展』を開催。
初日は雨だったので、仕方なく石城(いわき)公民館の屋内展示で行ったが、それでも雨中にわざわざ観に来られた方々も居て、実にありがたいことだった。
翌朝の天候も実に微妙な雲行きだったが、天気予報を信じて野外展示を決断。会場が“田んぼ”だけに、足元に気をもんだが、やっと午後になって晴れ間となりホッと胸をなでおろす。
幸いに、翌26日の愛媛新聞に記事が掲載された。

元々は、宇和のアマチュアカメラマンでもある兵頭あつやす氏が最初に始められたのが、この“わらぐろ”に写真を掛けるという野外写真展。
今回は、四国中央市や東中予からも含めて62点の応募があり、お陰で、会場に来て頂いた方にはテーマとなった「農村風景」の多様な視点を楽しんで頂けた。
天候不順のために客足はそれほど伸びなかったが、継続は力なりで、来年も頑張って実施したいもの。

末永家、⑦

2007-03-28 19:45:04 | 建見楽学


屋内の一室に置かれた末永四郎平氏の胸像。
県の近代和風建築調査における、建築家花岡直樹氏の記述によると、末永四郎平は、西宇和郡日土村兵頭治郎の長男として文久二(1862)年に生まれる。
やがて13歳で親戚にあたる末永家に来て商業に従事。明治31(1898)年に末永家に入籍し末永四郎平と改名。代々続く回漕業を継ぎ、銀行・木材会社・商船会社などの経営に携わり、地方企業家として名を成す。
昭和10年に急逝した西村兵太郎町長の後を受けて町長となる。