昭和40年代、フォークソング全盛でした。吉田拓郎・井上陽水が人気。ちょっとマイナー路線には岡林信康に遠藤健治、グループでは、かぐや姫とかフォーククルセダーズ・・中学2年頃でしたか・・友達がギターを弾いているのを見て"かっこいい"(俺も弾けたらいいなぁ)友人のA君は吉田拓郎の【旅の宿】とか、あの名曲で誰もが最初は弾くだろう【禁じられた遊び】を弾いたのです・・『お前もギター、やってみたら?ジャカジャカ(コードのストローク)で最初はええねん。AmとCとEm・・あ、。Fが鳴るようにうなったら、まずは合格!!』そんな難しくないなら・・と。新聞配達で稼いだお金で買うことにしたのです。親??そんなの買ってくれるわけないのは分かっていたので。『ギター買う時。俺、ついていったる!』友人の言葉で背中を押され、まずは香里園のダイエー内にある楽器とレコードを売ってる店へと行きました。ギターといってもピンからキリまで・・中学生の私には何万円もするものは買えません・・すると友人が『お!ギブソン、置いたある・・これ、ええ音するねんで!!』そこえ目を向けるとガラスショーケースに陳列されているギター・・なんと10万円以上・・『ギブソン??って』尋ねる私に『メイドインUSAで有名なメーカーなんや。プロとか使ってる・・ここには無いけどマーチンD45って70万もするんやで!』私は驚きました。(え?木でできた楽器やん・・70・・)月16800円の新聞少年には、ほど遠い金額です。『こんなん特別や・・初心者は、ホレ・・ここに並んでるのんがええで』そこはガラスも何もなく現物のギターが陳列されおり下は10000円前後から30000円くらいが主流です。『俺のギターは15000円くらいやったらしい・・アニキがヤマキのええのん買ったから、兄貴の使ってたギター、貰ってん。』なんとラッキーな奴・・と思いながら見ていると『試し弾きした方が、ホンマはええねんけど・・お前、弾かれへんもんな・・』確かに・・もう見た目で選ぶしかありません。結局、12000円のアリアというメーカーのを選び、オマケとして音叉とカポタスト、ビニール製のギターケースをつけてもらったのです。
中学の卒業式を終えると高校の入学式まで約1か月・・長い春休み♪時間を持て余すと人間、ロクな事になりません。ある日、数人で友人の家で溜まっていると・・そのうちの一人が『パチンコ行けへん??』一瞬、(は?)と思いました。18歳未満お断りエリアでございます(゜Д゜)すると・・あとのメンバーが『行こ♪行こ♪』ということになりまして・・チャリ(自転車)で京坂香里園駅まで行きました。駅前には何件ものパチンコ屋が軒を連ね今と違い、軍艦マーチやら威勢の良い音楽が店内に大きく」な音で流れています。そのBGMに負けず劣らずチーン!ジャラジャラ・・あちこちでパチンコ台の音や店内アナウンスが入って、とにかく煩い・・・ひとまず100円で玉を買うと・・となりに居た友人が『100円なんかで勝てるわけないやん・・500円は買わな!』当時のパチンコは電動式でなくまだ、バネ式のレバーの手動式・・中学生の自分としては店員さんに、みつかることの方が気になって仕方ありませんでしたが友人たちは、おかまいなし(´・ω・`)ひとまず友人の言う通り500円・・中学生の私にとっては大金でした。当時、喫茶店でのコーヒー1杯180円、タバコ・・セブンスターが100円の時代です。清水の舞台から飛び降りり気分で100円硬貨を5枚・・投入した・・結果、アッというまに玉はなくなり500円がパァーΣ(゜Д゜)私は台を離れもう一人の友人のところに行くと?な・・なんと出ているんです。ニヤニヤしながら台の受け皿に手を置きながら右手はリズミカルに打っています・・『お前・・凄いやん!!』『たまたまや!!あ1また来た!』当時はまだフィーバーすらありませんが天穴に入ると台の下の部分の左右のチューリップが開き、中心から下のところには横に広い塵取りみたいな受け皿がパカッと開いて、それらに吸い込まれるように玉が入るんです。球がいくつも入るとチューリップもそこも、パカパカ開いたり閉じたり・・下の受け皿は、あーーっと言う間にイッパイになって、いわゆる【ドル箱】が必要になりました。・・横で、ただただ呆然とみていた私も気づけば隣に、あとの友人達も見ています。『ごっついなぁ~』その後・・交換カウンターに持っていくと『あんたら・・18歳?』カウンターの女性に聞かれ、一瞬、ドキッとしましたが玉を出した友人は何ともない顔で『はい・・』と答えると少し疑ったような顔でカウンターの女性は球を機械に流し込んだのでした。カウンターで受け取ったのは蝶の標本と墨・・『これ?なんや?』私が聞くと『これがカネに変わるんや。こっち来てみ』友人と店の外に行くと小さな建物があって中心に受け渡しする窓のようなものが・・そこへカウンターで受け取った景品を渡すと・・お金が・・『今日は俺が奢るワ!メシ行こうや』私たちはテンションも上がり、メシにコーヒー・・バッティングセンターと遊びまわったのです。この時は良かったのでrすが・・・
中学の時・・新聞配達をしている友人数人と、学校で・・『アイスクリーム盗りに行かへん?』一人の友人が言いました。『え?そんなん、したらアカンやろ?窃盗やで!』すると、もう一人の友人が『オモロイやん・・朝は人も少ないし・・丁度、M団地のパン屋のアイスクリームボックス鍵してへんしな!』私は正直、こんな事に巻き込まれたくなかったのですが・・『Y!お前も来るやろ?明日、朝刊配り終わったらM団地のスーパーPの前に集合や!』流れに負けてしまい私も行くことになったのです。翌朝、6時。いつもより早めに配り終えてM団地のスーパーPの前に行くと・・『遅いなぁ~!ほれ見てみ!あそこ!!』パン屋の店舗自体はシャッターが閉まっているのですがアイスクリーム冷蔵庫は路面に出たまま。ボックスの上部にはアルミ製の大きな蓋がしてsるものの鍵も鎖もされていません。私たち3人は、その蓋を開けると・・『おい!どうせやったらレディボーデンにしようや!』昭和40年代、アイスクリームの贅沢品と言えばレディボーデンです。当時、TVコマーシャルもしていて高価なアイスクリームでした。『俺、チョコと、そのピーチなんとかって・・書いてあるのんにする!!』やはり子供です。周りを顧みずワイワイ言いながらアイスクリームボックスからレディボーデンばかり・・各人取り出すと急に背後から『お前ら!何してんねや?』振り返ると・・牛乳配達の途中の おじさんが声をかけてきたのです。3人は振り返りざま、ただただ呆然としていると・・『それ・・アイスやな。そこから盗ったんやろ?お前ら!盗みしよったんか!?』私たち3人の顔からは血の気が引いてしまい言葉が出ません。牛乳配達のオジサンは『学校と親に言わなアカンな。中学生か?』ようやく事態を把握した私たちでした。友人の一人が『ごめんなさい!!もう、しません。親には言わんとって下さい。』もう半べそ状態で謝り始めると私も、もう一人の友人も牛乳配達のオジサンに謝りまくりました。オジサンは『ホンマにせぇへんな。えっと・・お前は読売新聞か・・ほんで、お前は朝日新聞を配ってるねんな。中学は●中やろ?あそこは真面目な生徒やと聞いてる・・もうホンマにせぇへんか?』念を押され私達は金輪際しないことを誓って、その場を許してもらい反省したのです。その時は・・・
平成25年6月16日 午後7時40分頃、私は仕事中に突然、首筋から異様な感じが走ったかと思うと頭が重くなり気分が悪く吐き気のような車酔いのような・・電話中だったのです呂律が回らなくなり、やあとの思いで『あと・・で・・かけ直しま・・ふ・・』そう言って受話器を置くのがやっと・・デスクにうなだれるも体を起こそうとしますが全く言うことがききませんでした。その時、私は【死】を意識し覚悟もしました・・あれから2年・・辛いリハビリを行い今では何とか杖を持って歩けるようにもなりましたが身体障害2級となり自宅療養をしています。この2年間、生きること。そして【死】を考えるようになりました。死・・自殺などは考えたことはありません。人は死んだらどうなるんだろう?幼い頃から思っていたことを、より深く考えるようになりました。あの世って存在するんだろうか??臨死体験って?多くのサイトを見ていくうちに私なりにですが死後、魂は存在する。と結論を出したのです。この世は魂の修行の場、この世には成熟度合いの違う魂を持った人間が混在するからこそ成長する・・あの世が無く死後、人が【無】になるのであれば、今を生きている価値がないと思うのです。あの世があり輪廻があると思った方が夢や希望も持てます。脳卒中を患い後遺症を持って失ったものも多くありますが得たものも多くあり、何よりも心を素直にしようと思えるようになれたのです。心の在り方を変えることや執着心が少なくなったせいか、死への恐怖も少なくなりました。母は67歳、父は75歳で他界しましたが私は現在55歳。あと10年~20年の余命・・20年前の35歳当時を振り返ると、あっと言う間の20年でした。人生、長いようで短いですが、最近、思うことはお金・地位・名誉・物への執着を残る余命の間に無くしていくことかなぁ。と。20年前の35歳当時は少しでも出世して多くの収入を得たい、少しでも多くの部下を持ちたい、人より良いものを身に着け高級車に乗りたい、人が羨む場所に住みたい・・ギラギラしてました。若い時は、それでよかったんだ。でも死んだら、何も持っていくことはできません。年を重ねるとは、どういうことか少しだけ分かったような気がします。若い頃は夢や将来のことを描きますが年を重ねると想い出ばかり・・今、望んでいることは穏やかに日々を妻と二人、暮らせれば充分。できることなら・・もう一度、海と山に囲まれた神戸に住みたいくらいかな。私の脳出血は脳の視床部なので手術はほぼ不可能、出血の度合いで死亡・・生きても後遺症の度合いは重い可能性が高いそうですが、今、こうして何とか日常生活を送れていることに感謝しつつも、あtの余生にまだ何か大きな人生の課題もあるかもしれません・・でも余生を身体障害2級の状態で生きていくこと自体、大きな課題でもあると思っています。こんな体になって毎日を愚痴り不満を口にし家族に重い空気を与える・・これも人生。体の状態を受け入れて人の優しさ、暖かさをかみしめながら生きるのも人生。与えられた環境や状態をどう乗り越えていくかは自分次第。神様から与えられた私の今世における人生コンセプト・・何となく感じてきました。これまで幾つかの挫折も味わいましたが2年前の脳出血、そして、その後遺症が一番、高いハードルとなって来たのかな??私一人では到底、乗り越えることはできません。脳卒中の高いハードルの後に波のようにハードルは押し寄せていますが、その波の上で妻も一緒にオールを持って乗り越えてくれています。何とか波に飲み込まれることなく来ているのも妻のおかげに他はありません。あとの人生、まだ家族のためにできること・・それを、やり遂げるために生きていきたいと思います。
友人の通う少林寺拳法の道場へ見学に行きました。ツキやケリは勿論ですが関節を使う技もあり実践的です。友人から『どうや?』と聞かれても即答は出来なかったのには自分の中で何かシックリこなかったんだと思います。暫く考えてみるうちに別の友人が『俺、空手やってるし、少林寺もええけど空手も見てみ?』その空手道場は私の出身小学校の体育館でやっていたのです。気軽な気持ちで見に行きました。まだ夕方の早い時間のためか、チビッコ達が可愛らしい声でエイ!とか言いながらカタの練習中でした、腰には緑色や紫の帯をしめています。『あの一番前の男の子見てみ。』友人が言う、その方向へ目を向けると腰には黒帯を締め、なんと、チビッコ達の前でカタの指導をしているではありませんか?勿論、師範も指導していますが、その黒帯の男の子のカタのキレの良さは素人の私にも【凄い!】と思わせるほどです。チビッコの練習が終わると友人が、師範の所へ私を連れて行き『こいつ、ツレなんですけど、見学させてやってください』師範は快諾してくれて『空手は護身術や。絶対に喧嘩は勿論、弱いモンイジメはアカン。相手が殴ってきたら避けるかとめる!殴り返したらアカン!それ。守れるか?守れるなら見学していき。それから、考えて返事くれたらええわ。』私は少林寺の道場では、ただ、茫然と見ていただけでしたが、ここでは見学前に心構えみたいなこと言われたのです。ヤンキー高校に行くことになった自分の心の中を見透かされたようでした。見学を終えて友人と帰りの道で『師範は厳しい人やけど
ちゃんと指導してくれる。他にも流派はあるけど、ここは正統派や、一緒に頑張れへんか?』この友人とは中学のクラブで仲良くなり、ギターとか音楽が好きな奴で私も下手くそながらギターをやり始めたのは、この友人の影響でした。そして空手も、この友人の薦めもあって入門したのです。
ちゃんと指導してくれる。他にも流派はあるけど、ここは正統派や、一緒に頑張れへんか?』この友人とは中学のクラブで仲良くなり、ギターとか音楽が好きな奴で私も下手くそながらギターをやり始めたのは、この友人の影響でした。そして空手も、この友人の薦めもあって入門したのです。