町工場 職人の声

職人と現場人間の想いを誰かに伝えたい!

月末の気苦労

2010年03月30日 | 職人仕事
町工場なのに月末の気苦労が多いなんて30年前に戻った気がします。
ほんの少しの仕事が続けば気苦労なんて無いのですけどね。
町工場の労働は単純労働とされているのですからこんな経済状況の

時にこそ頭脳労働の人達が解決方法を考え出すのが義務です。
何十年も頭脳労働と威張っているのに考えを出せないなんて首の上に
ついているのはカボチャかスイカなのかと言いたくなる。

お前達の頭には水しか詰まっていないのか? と叫びたい。

第二次世界大戦 34

2010年03月30日 | 日本近代史
アメリカの場合。

(1)http://www.youtube.com/watch?v=yK1R9JZcvEQ&feature=related

(2)http://www.youtube.com/watch?v=LqfM-nPQWrU&NR=1

(3)http://www.youtube.com/watch?v=vj0ZAT7V7_k&feature=related

(4)http://www.youtube.com/watch?v=4Y3O3npkgpY&feature=related

(5)http://www.youtube.com/watch?v=3VW7nBK61zU&feature=related

◎国民の多くは現状維持が国際的には良い選択と考えていたのでしょう
しかし国の指導層は違う考えを持っていたという事です。
しかしユダヤ人を助けて安心できる生活を与えるつもりは無かったのです。

第二次世界大戦 33

2010年03月29日 | 日本近代史
イタリアの場合。

(1)http://www.youtube.com/watch?v=QE56s6Cz0a4&feature=related

(2)http://www.youtube.com/watch?v=5o_5BVpcnXU&feature=related

(3)http://www.youtube.com/watch?v=pdWSLBnIEfk&NR=1

(4)http://www.youtube.com/watch?v=Tsj2Scbe8cA&feature=related

◎イタリアは国力の不足により他国の行動に影響を受けすぎてしまった
という事でしょうね。国際的な行動というのは難しいものです・・・

ログイン規制

2010年03月27日 | ブログ見物人
ここを見てくれるのは約100人ぐらいの若い人達だろうと思っています。
最近書いている様な内容だと反対者から嫌がらせを受ける事も在り得ます
ブログを閲覧停止にされる可能性も在るのです。

興味を持ってくれた人達へのお願いはコピーしての保存です。
先人から伝えられた事がわずかでも若人に伝われば満足できますから。
内容を利用するなら自由にどうぞ。

ログインがブロックされると色々と思い浮かぶものですね・・・

第二次世界大戦 32

2010年03月26日 | 日本近代史
日本がドイツとの同盟をした理由の一つに遅れている日本の
軍事技術分野をドイツの支援により発達させて世界に追いつく
という目的が在りました。内燃機関、航空機、電子機器、化学

など多数の分野で期待したのです。技術者達が派遣されましたが
ドイツ側からの協力は不十分なものでした。高速艇用エンジンに
ついて伝えられるのは図面を渡す事を断られたという事です。

技術者達は図面を記憶して学び持ち帰らなければ成らなかった。
日本では技術指導無しに製作に取り組んだと伝えられています
ドイツは日本に対して軍事技術の伝達に積極的では有りませんでした

日本軍によるユダヤ人保護政策がドイツには不満足だったのでしょう
もちろんこれだけが理由では無いと思いますが大きな政策の違いです
ユダヤ人だから保護したのではなく人道上そして日本的在るべき生き方

として困窮していた人々を救援したのですがドイツには不信を持たれた
という事です。日本軍の損得で言えばユダヤ人多数を殺害してドイツ
から出きるだけ早く技術導入したほうが大きな利益だったのです

日本軍は損得よりも日本精神を選んだと言えるでしょう。
それが敗戦に続くともこの道を選んだ軍人達をとても誇りに想います

第二次世界大戦 31

2010年03月25日 | 日本近代史
満州帝國と上海などに居住したユダヤ人達はその後、戦争下でも
保護されて戦後まで生存が出来たのです。悪名ばかりがはびこり
悪い軍隊の代名詞とまで呼ばれてきた関東軍の判断と選択なのです。

この時期に杉原氏は満州で関東軍との接触が在ったろうと思うのです。
ユダヤ人に対する軍の調査はヨーロッパ方面では不十分です
外交官からの広い情報を希望した事は容易に理解できます

軍の命令下となるのは断ったでしょうが関東軍全体の考えはおおよそ
理解していた事と思います。ユダヤ人を排斥する事はしないと。
日本軍がユダヤ人達を救援した事はソビエトも知っていたでしょう

日本が書類上ユダヤ人入国を認めれば現実に入国を許すだろうという
判断が可能だったのです。ドイツと日本に対する微妙な関係を考えて
日本のビザを持つならソビエト通過を認めてもドイツとの関係悪化は

避けられる。だからこそ日本のビザが実効性を持ったのです。
オトポールとは違い今度は日本が注視している。
酷寒の荒野へ追いやる事は出来なかったのでしょうね

杉原ビザの人達は満州帝國へ上海へアメリカへとそれぞれ進みましたが
貧しい人々は日本勢力圏内にとどまる以外に行き場は無かったのです。





第二次世界大戦 30

2010年03月23日 | 日本近代史
このような事件の場合にどんな決着が行われるかと言うと
違法入国を指導した人物の何人かの責任を追求して刑罰を
科す事が実行されます。大規模な事件の場合は死刑が普通に

予想されました。カウフマン博士が樋口司令官を尋ねたと
したら越境の責任者あるいは指導者達の死刑を何とか避けて
欲しいとの事であろうと思うのです。処罰無しを願うのは

当時の常識を大きく超える願いだから。また突然尋ねて軍隊の
司令官に会えるものでは有りません。以前から面識が在り信頼
が無ければ大事件の最中に民間人に会う筈が有りません。

生きる為に荒野をさまよう人々。救おうと手立てを尽くす同胞。
事件が自分の命令範囲で起きた時。救援を決断した司令官が居た。
越境者がこの事件で罪を問われて死刑が行われたとは聞いていません。

希望無く荒野をさまよう多数の人々に突然、食べ物と毛布が与えられ
人の住む地に導かれた事件なのです。ユダヤ人で無くても頭に浮かぶ
のはモーゼの奇跡。 ユダヤ人達が後日、事情を知った時に司令官の

決断と人物をどう感じたでしょう。 それは表されて現代に伝えらて
いるのです。 人道主義者でなくユダヤ民族功労者に記されているのは
理由が在り大切な想いが在るのです。金を与えたからでは無いのです。

モーゼの奇跡と比較出来るほどの功績。しかし伝えようとする者は少ない。

第二次世界大戦 29

2010年03月22日 | 日本近代史
ユダヤ人達はもちろん酷寒の荒野で歩くとは考えていませんでした。
持っていた限りの金品を使ってシベリア鉄道で日本海を目指したのです
苦痛の旅を続けてもう一息で日本海を見れる。希望が現実に成ると信じた。

突然列車は停止してユダヤ人達はほぼ全員が降ろされました。そこは
酷寒の荒野です。この先はシベリア鉄道の利用はさせないと通告されたのです。
戻る事も進む事も許されません。列車は去り残されたユダヤ人達には

防寒具はもとより毛布もテントも在りません。とどまれば確実な凍死です。
ソビエトによる援助は世界の国と同じで何一つ在りません。
わずかな可能性として満州帝国に入りユダヤ人同胞の援助に頼る以外に

方法は無い。しかし徒歩で進むには余りにも距離が遠く生きてたどり着ける
者は数える程に成るだろう。寒さは余りにも厳しいが進む以外に無いのです。
後ろにはソビエトの銃口が前方には荒野、そして日本軍が国境を守ります。

ほとんどは日本のビザを持たず違法に国境を集団で越えるのです。
世界の常識で考えれば日本軍から銃撃を受け殺されるのが当然なのです
ソビエトと満州の国境は両軍により厳重に警戒されているので発見される

のは確実。ソビエトとしてはユダヤ人問題を抱えたくは無かったのでしょう
日本でも受け入れの確約は出さずに世界中が受け入れないのですから。
出した答えは全員を凍死させる事だったと思います。ソビエト領内でも

かまわないが満州帝国領内ならソビエトは無関係と主張できます。
日本としても気づかないうちに進入したユダヤ人が多数凍死したと発表
しても責任を問われる事は全く無いのです。世界中の国がしてきた対応なので

外交的には最適の選択と言えたのです。外務省としてはユダヤ人凍死は無問題。
ユダヤ人達は希望ではなく他に方法が無いから進み続けたのです。
凍死するにしてもせめて同胞の居る満州帝国領土内でと考えたかも知れません。

そして疲れ果てた人々は国境を越えた時点で日本軍に発見された。
来るのは銃撃か見放されての凍死だろうと覚悟した事でしょう
もし日本軍による特別の関与が無ければそうなったはずなのです

信頼関係が確立していた事が素早い救援を可能としたのです。
軍隊の行動は軍事機密であり特に国境では秘密とされました。
なので救援が宣伝される事は在りませんでした。


第二次世界大戦 28

2010年03月21日 | 日本近代史
今はオトポール事件として呼ばれるユダヤ人救援と同じかは不明です。

樋口司令官とユダヤ人救援について敗戦から数年後に伝えられた状況です。
ソビエトとの国境を偵察していた日本軍偵察機から大集団が人里離れた
荒野を徒歩で満州側に侵入しており進入が続いているとの第一報が入る。

報告に対して直ちに付近の日本軍は偵察隊を現地に急行させた。
国境偵察を強化する為に偵察機を通常より多数離陸させ監視を強化。
進入地点には数時間置きに偵察機を向けて特別に監視した。

やがて到着した偵察隊から報告が入る。進入集団に車両は無く武器を携帯
せず野戦装備も持たない。集団はソビエト軍では無いと確認された。
続いての報告で集団の統制は取れておらず小集団が多数、越境している

状態である事。以後報告は詳細に及びテントを一つも持たない事。毛布
を持つ者もほとんど居ない事。着の身着のままで水も食料も持たぬ事。
歩き続けて体力の限界にありこれ以上は自力では移動できない事。

この集団はユダヤ人である可能性が高い事などが軍司令部に報告された。
現地部隊の指揮官より対処方法についての命令を求められた司令部は現地に
とどまり報告続行を指示すると共に指揮下の連隊に命令を発した。

現地は零下数十度、酷寒の満州荒野であり防寒具も毛布もテントも無ければ
兵隊でも数時間で凍死する条件で在る事。徒歩により体力が衰え食料も無け
れば間違いなく多数の死者が出る事。国境の近くで起きている事態なので

対処を誤ればソビエト軍との軍事衝突の発生が懸念去れる事。
多くの条件が考慮された命令は連隊のテントを複数提供して設置する事。
連隊内の毛布を集めて現地に送る事。命令を受けた小隊は数台のトラックで

現地に急行した。しかし多人数の為に毛布は不足し進入も続いている事が
報告。司令部は他の連隊に連絡、毛布の提供を受けて現地に補給した。
現地で手当て出来ない重傷者は大連の病院に移送が命令され実行された。

現地からは軍隊の輸送力で数箇所の避難所に移送された。
この間に日本大使館の外交部に連絡するものの緊急の対処で救援する事に
ついて難色を示された。日本の外交部としてはユダヤ人救援を実施する

事での諸外国との軋轢を避けたいという考えだったのでしょう。
当時はイギリス、アメリカもユダヤ人に対しては排斥政策なのですから。
数千人数万人とも伝えられる侵入者ですが数十人の死者で済んだようです

これは数時間以内に救援対処した日本軍の功績です。
この時の指揮を取ったのが樋口司令官と伝えられていました。

進入地点は原野のど真ん中であり酷寒の大地。救援が無ければ全員が死亡する。
ユダヤ人達はなぜこんな場所で毛布も防寒具も持たずに違法に国境を越えたのか?