町工場 職人の声

職人と現場人間の想いを誰かに伝えたい!

ピラミッド 2

2018年10月15日 | 歴史

ピラミッド建設は大工事なのは間違いない。
近代の大工事と言えば鉄道や道路やダム工事。
これらの建設は分割し同時並行で建設を進める、
これを工区方式とか工区区分とよぶよね。
ピラミッドも工区方式で建設されたと判断するのは
妥当で自然な考えの流れと想う。

およそ下から3分の1までは周囲全部から石を積み上げるのが効率的。分担をするなら外周担当と内部担当の二つに分けるだけで良い。
高さの中央部分を建設する時は外周担当は内部螺旋
通路を作りながら外周部を建設。
同時に中央担当は王の間などの設計構造を作りながら中央部を高くしていく。
中間部建設担当は重量石材、王の間の天上石等を
積みあげて行く平面の上に持ち上げ使用する高さ
まで上げる。

重量軽減の間を作る頃に、螺旋通路出口は同じくらいの高さに達する。中間部建設担当により螺旋出口
と中央部を結ぶ場所は平面の作業空間を得られる。
たとえば幅20メートル通路が出口から中央部まで。
中間部建設担当が積みあげると同時に中央部担当と
外周部担当が共同して上部3ぶんの1を積みあげる。
上部に使う石材は螺旋通路で運び上げる。

つまり下から3ぶんの1ぐらいでは建設終了まで全周
から石を積み上げて設置場所まで移動させていく。
石を地上から持ちあげる場所で最後まで残るのが辺の中央部4カ所。ここは測定基準点を置かれた場所。

キャップストーンを最後に積んだという説は変だ。
頂上は重要な建設基準点であり測定の要。
中心部を10~20メートル積んだ頂上にキャップ石
を置き、地上から修正しながら正確な位置に固定。
以後は地上と頂上を基準に周囲に石を積んで行く。
そして上から3ぶんの1が完成する。
次に中間の部分が完成。
最後に下3ぶんの1を積み上げれば全体が完成する。

ピラミッドは上から順次作られたのだ。
下から仕上げたら上に石を運ぶのに苦労すだけ。

伝説に残る、石が空を移動したというのは螺旋出口
から中央まで高い場所を運んだ事の意味である。
空と言う訳が間違いで見上げる程高い場所の意味。
6階建の屋上を物が移動する様子を空を移動と表現。

積みあげ自体は、テコと材木とロープで充分だよ。
2トン長方形の石を自分で動かせば誰でも納得する。
私は安全から50センチ上げたら水平移動を選ぶ。

建設は平面において3工区、高度において3工区。
これに石切り場と現場への輸送という区分で管理。

 


ピラミッドの建設 1

2018年10月12日 | 歴史

建設方法を謎だと言う馬鹿を笑おうじゃないか。

首の上に在るのはスイカかかぼちゃなのかい?少し教えるから脳細胞を動かしな・・・

2.5トンぐらいの場合。

道板を進行方向に敷く、板に直角に丸太の反割を固定する。横倒しの梯子見たいにするんだ。これを木道と呼ぶんだよ。ソリを作って石を乗せたら、重油を木道に塗って引っ張り後ろからてこで押すとわずかな力で簡単に動く。戦後の日本で山奥から荷を出すのに使ったのを木馬と呼ぶ。

60トンの場合。

木道の丸太が潰れてしまうので道板をしっかり固定し重油を塗る。ソリの底面を平面にし上に乗せたら前から引っ張り後ろからてこで押す。左右からずれ防止のロープで調整。ロープは難しいからソリの左右にずれ防止の丸太を付けて木道の左右に杭を打ち込んでいたかもね? 重油を絶やさず平面と平面で移動を続ける。アジプトの絵に壺から重油をソリの前に注いでるの判るだろ。これで数百トンを運べるんだよ。

持ちあげる作業の基本はシーソーで現代の人力作業と同じ。ちょっと検索したけどシーソー作業は出て無いね。つまり現場作業はそれほどまで馬鹿にされてる証拠だ。

数百トンの石像を運んでいた当時に60トンで困るはず無い。馬鹿は斜面で高さを上げると言うけれど斜面作業は大危険。重心の移動がどれ程の危険と事故を呼ぶか判らん馬鹿阿呆。重量物移動の基本は上下移動と平面移動を分離する事。これで危険を減らし作業効率を上げられる。上下移動班が作業の時は平面移動班の体を休ませる。平面移動班が作業の時は上下移動班を休ませる。 重量物移動を連続でしたら数日で体が壊れてしまうだろう。

2.5トンを沢山積むなら周囲の数十カ所で作業すれば良い。
効率的方法を採用するのは今も昔も現場の常識。
石の左右にロープをかけて上に設置した左右のてこ棒で
10~20センチ交互にシーソーしながら石の高さを上げてから
丸太をころにして平面移動する。
この方法を使えば石の数倍の高さに苦労無く上げられる。
馬鹿の動画に平面を敷き詰めてから上の面も敷き詰めるのが
在るけど、本当に馬鹿だよね・・・
そんな方法では作業空間が狭くなるばかりで作業は進まない。
周囲から在る程度の高さまでは敷き詰めても効率は落ちない。
作業空間を広くとれるからね。

その後は中心を維持しながら中央部や部屋と通路を積みあげる。
王の間天上の60トンの石を上げる作業空間は広かったと言う事。
階段ピラミッドの様に建設したと想う。
高くなると石が小さく成るのは一度に上げる高さを石の4~5倍
にする為だろう、作業効率も上がる。
中央と外周部を積みあげて行く、その間は作業空間として使う。
重量物移動に広い作業空間を用意すると効率と安全性は高まる。
子供の砂積みでは無いんだから、単純に集めて積むはず無いんだ。
作業空間が充分なら60トンの石も予備を含めて上げておける。
失敗した石は砕いて用意しておいた間隙に放り込む。
石を降ろす方が作業として難しいからだ。

王の間の壁は精密と聞く。
建設に日を要する、けど周囲との同時建設なら慌てる必要は無い。
外周の積みあげや60トンの石を持ちあげる作業をするんだから。
通路が星に正確に指向するように建設するのも可能だ。
それは星を使いながら積みあげて行く事を出来るから。
つまり内部の基準点から出来た外周の出口を通し星を見れるから。
視線を通せる状態で建設したのは当然と想う。
高い部分だけは外周内部のトンネルで石を運んで積みあげた。
もちろんその前に中央と外周の間の作業空間につながる場所も
石を積む。最後に残った作業空間に石を放り込んで間隙を詰める。

王の間や通路に照明に使った松明の煤が無いというけれど、
明るい所で積んで行くなら照明は必要ない。

重量物移動の基本、垂直上昇と水平移動を分けて作業する事を
考慮し考えると建設方法が想い浮かんで来る。


便所文明 5

2016年04月13日 | 歴史

糞尿文明から土器文明に変化できた理由を考えると・・・
糞尿や糞尿入り内臓を食べていた状況における親しみとは何か?
硬さや形態を糞と同じように扱える泥や粘土に親しんだ事は充分に推測できる

子供たちが泥や粘土で遊び、喜ぶのは糞尿文明より続く深い感情なのだ
糞尿文明が火を扱えるように成った時、糞と粘土を火にさらしたと推測する
粘土の上に糞を乗せ温めた・・・暖かいほうが消化が良いから

粘土から糞がこぼれないようにサラ状にしただろう、そして素焼きのサラが出来た
糞以外の肉や木の実を乗せるのに長年月は要しなかったろう
サラ状から椀上に変化し食料の量が増え、いつしか糞食は忘れられていった・・・

原生人類はなぜ生き残ったのか?  強力なあごと体力の人類は滅びた
人類は弱すぎたので動物や他人類の糞を食べるしか無かったのだ
糞の栄養を吸収する事で脳の発達が進み土器を生み出した・・・

 


便所文明 4

2016年03月30日 | 歴史

便所文明の全段階、糞尿文明について考える・・・
多くの点が動物に近いと容易に想像できる、つまり生物的行動の文化と成る
動物の代表として犬を取り上げる

普通に犬を飼うと食糞を喜んでするものだ・・・清潔や不潔は考えず・・・
生物の合理性で考えると自然で有効な生存行動と判断できる
糞の中には未吸収の養分が豊富に在る、いくつかの説では30~60%の養分とも

これらがかなり消化された状態で含まれてるのが糞なのだ
野生に近いと栄養不足への対応が生死を分かつ
慢性的な栄養不足なら食糞は真に最適な生存行動と言える

これは人間に対しても当然に言える事である
食人しなければ生存出来ない世界に有っては食糞は通常の行為であろう
肉食動物の多くは食糞し内臓を喰うのを優先する

状況次第で肉を喰わず内臓だけを喰う、別に内臓の栄養を考えてる訳じゃない
生存の食糞、それを包んでいる内臓ごと喰うというのが真相であろう
糞尿文明の特徴が食糞と内臓喰いに有るとする説は当然と思う

糞尿文明においては糞の善し悪しが行動を決める主要な要素である
戦いは糞の奪い合い、つまり糞の所有権の争いなのである
糞の量を争い、良質な糞、おいしい糞について争うのだ

社会の指導者とはより良い糞を提供する事が出来る者。
肉食動物の多くは狩りの際、糞を嗅ぎながら追いかける、同時に糞の質を判断してるのだ
夏にうるさい蚊だっておいしい血の方を吸う・・・

人間がおいしい糞を求めて集団で動き始めるのは当然である
教科書でいう文明人を野蛮人が襲うというが理由が釈然としない
ろくな文化を持たない野蛮人がどうして?わざわざ?遠方を襲う?

人間社会にも最初に糞尿文明が起こったとすれば説明が付く
野蛮人が襲った理由とは何か? それは自分達の誰よりもおいしい糞を出す集団だから。
最初の争いは最大の価値で有るおいしい糞をめぐって行われた、と。

現実に犬の食糞でも争いが起きるのだから・・・
人間も最初は糞を喰う場所で争った、と。


便所文明3

2016年03月29日 | 歴史

ネット世界で広まってる朝鮮半島の糞尿都市を笑う、だが・・・
大勢が憧れたアメリカ文明の状況はどうであったのか?
およそ100年前までのアメリカの生活状況は・・・

下水は建設されつつ有ったがほとんどは海や湖や川への垂れ流し
そういう場所で魚を取り洗濯し飲用水としての暮らしがあった
楽しく素敵な海水浴~  すぐ傍らには垂れ流し下水管から大量の糞尿が・・・

海岸近くの広い海水の色が変色するほどの糞尿の海・・・
そういう場所で海水浴をしていたんだよね
さすがに何とかするべきと下水管を1~2キロ海へ伸ばした、が

垂れ流しは続いた・・・海水浴も続いた・・・
下水処理施設の建設が実現したのは数十年昔の事
糞尿文明から便所文明に変わるのは莫大な資金と労力を要すのだ

韓国や北朝鮮とアメリカの対立を疑問に思わない日本人は考えが足りない
対立政策を取ったとしても感情の深い部分で糞尿文明の尺度による
時間距離の近さによる親近感が存在しそれは大きな影響を持つ

中共国の大部分においても糞尿文明は少し前まで有った、というか地方では
未だに糞尿文明である。動画で何回も見る青みどろ色の池や川・・・
あれらの多くは糞尿の流れ込みによるのだ

都市生活においても窓から糞尿ツボの中身を朝早くぶちまけていたのも珍しく無い
もちろん公式には公衆便所まで運んで捨てる決まりは在る。けど・・・
中共国の人達だよ? 真面目に守る人なんて居ない

中共国も糞尿文明の視点で比べればアメリカとの差は少ない
感情や感覚の同質性が中共国や韓国や北朝鮮による対アメリカ活動が
成果を上げやすい理由の要素である

日本文化の個性と言われる物は他国との糞尿文明と便所文明の四則演算の結果である
計算結果による文明差の否定的部分を穢れとして排除する特徴が本質。
近年の日本社会に望ましく無い事柄が増えていると感じるなら

穢れが増えている事を意味する。
糞尿文明は戦いの文化を生み出す。食料の戦いと共に排泄の戦いが在るのだ。
排泄の戦いとは何か? 排泄場所をめぐる戦いである

便所が無い場合においての排泄は困難なのである
自然界で排泄に適した場所は少ない、自分ひとり分でも場所の余裕は無い
日常で排泄場所の場所取り戦闘が起きるのだ

糞尿文明の根本が個人に基礎を置く戦いなのである、歴史も真実も正義も関係ない。
排泄戦闘は緊急の要に基ずく他者排除目的なのだから。
韓国による日本攻撃は排泄戦闘であり排除成功か敗北決定まで止まらない

韓国との歴史論争が意味を成さない理由が判るだろう
排泄という要を満たす目的で日本排除に出ているのだから・・・
漏れだしそうな相手に天気の話を始める様なこっけいな考え。

愚かなのは天気の話をしている日本なんだよねー

 


便所文明 2

2016年03月27日 | 歴史

現在の世界で考えてみよう、まぁ・・代表例としてボリビアを見ると・・・
長距離バスの路線でも便所が無いのが普通と言う数年前の情景が在る。
見通しの良い原野でバスを止める、これは強盗団の有無を考慮すれば

当然と言える。走りながら強盗団の有無を偵察しながら停車場所を決める。
特定の場所に便所を作れば待ち伏せされるのが確実。
便所と言うのは安心できる治安とか支配力が無いと害となるのだ

逆に考えると治安と支配による安心は便所の有無で測れるという事。
広く知られているベルサイユ宮殿に便所が無かったという意味は・・・
当時のフランス王朝は宮殿内でさえ安心できる場所が無い。

武器や城壁に莫大な金を費やしても便所さえ作れない治安と支配力。
しばらく前の世界とは余裕の全く欠落した状況と再認識。
まぁ・・・冬に人肉喰いしないと生き延びれない状況も大昔では無い。

穀倉地帯を持つロシア帝国でさえシベリアの食人は300年ぐらい前に過ぎない。
世界的には200年ぐらい前まで食人は困窮の際には普通と言う認識と。
ヨーロッパの支配者が食人していた例があるがわざわざ記録した稀有の例。

そんな状況だから美容の為に処女の生き血を飲んだり多数の処女を
殺して血液風呂を平気で利用した記録が在る訳だ・・
余裕から生まれれる便所文明は200年以内と言う感じだろうか・・・

 

 


天皇制 1

2016年03月21日 | 歴史

天皇制・・・祭り上げる人が居れば廃止を唱える人もいる・・
冷静に天皇制を検討する事も意義が有ると感じる
では天皇と皇帝は何が違うのか?

皇帝と言うのは権力集中により豊を集中し安楽を享受する制度であろう
天皇は権力集中というのと違う想いがするのだ
大陸皇帝の侵略に対して日本内部の対立や混乱を早期に収める制度

権力的、宗教的多くの対立をどう収めれば良いのか?
先祖は考えに考えて天皇を作りだした・・・それは何か?
現代で言えば、非武装地帯と私は思う

権力や宗教・・・あらゆる対立の非武装地帯が天皇なのである
非武装地帯なので生産力も無ければ華美贅沢も無いのだ
天皇以上の権力も有ったし贅沢もしていた一族は多い

名前は皇帝に似ているが本質において王朝とは異なる
非武装地帯が絶対に必要なのでは無いが在れば良き状況に進める
天皇と言う非武装地帯の行いが日本人の模範と成ったのであろう

 

 

 


便所文明 1

2016年03月21日 | 歴史

文明を分類する説は沢山有りますが文明と言う以上は人間生活に着目
するが適切と思う。地域や人種を重要視した文明論は二次的と考える。
人間生活を真に見るならば食事と排泄である。

食事から文明を論ずる学説は多い、しかし排泄から論じる説はあまり
聞かない。こういう状況は文明論として不適当と考える。
排泄で思いつくのは便所で有る。

現代の我々は当然のように便所を使用出来てるのだがこういう状況は
大昔から世界に在る訳では無い。それどころか日本を除いて世界的視野
に立てばせいぜい100年から150年に過ぎない

朝鮮半島の糞尿文明をあざ笑うネット記事は多いのだがこれほど極端
で無くても世界のほとんどは便所無し文明で近代まで来たのだ
ヨーロッパにしても便所無し文明で有ったのだから

遺跡文明を別にすると日本は世界一古い便所文明かも知れない


歴史の清算

2012年08月23日 | 歴史

歴史の事実は知らない方が良い場合も多い。たとえば朝鮮王朝が対馬征伐として攻め入り
老人や女や子供を船の横腹に両手を釘で打ち付けて生きたままぶら下げ続けた。泣き喚き
疲れはて死ぬまで数百人の対馬住民が殺されてしまいました。現代の韓国や北朝鮮でどの

ように教えているのか?歴史の記録は膨大です。http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/taigai_kankei.htm
ほんの一部でもこれほどの量。韓国側は【歴史の清算も済ませずに】といわれますが国家
関係としては日韓基本条約で永続的で最終的解決が果たされています。北朝鮮領域につい

ても解決。つまり日韓基本条約で清算され解決ずみです。朝鮮人もやられっ放しでは無か
った。倭寇といわれるかも知れませんが現実の倭寇は朝鮮人や多くの種族を含む実益集団
と言われています。小さな他民族国家が倭寇という認識が妥当でしょうね。よく言われる

【理解と友好関係が築かれることを願う】より金儲けの助け合いの方が良い。エレベーター
に電動車椅子で衝突を繰り返して転落死した朝鮮人を見ると理解は出来ず友好関係を持つ
事が可能なのか?という疑問さえ沸いて来る。天皇を神格化しすぎでは無くて安心の印。

国が国民に対して都合の悪い事を隠すのは普通であり日本だけ特別では無いのです。
韓国だって自国民に行なった大虐殺を長い間教えていませんでした。今は教えていますか?
国民なんて子の様な者です。親が外で暴れて人を殴ったとしても食事を用意してくれたら

腹は満たされる。子に親を採点する資格は無いのです。儒教道徳で言えば国は最高の親と
同じですよね。国が解決済みとした日韓関係を国民が叫び続けるのは儒教道徳に反する
行為です。オリンピックの韓国人による行為も我欲と見るのが適切。歴史の真実は過去に

在るのでは無い。歴史上の行動が効果として現代に現われているのだ。国民全体に広がった
ハングル文字。近代的独立国家。文化的暮らしの韓国など等。それが歴史の効果。
歴史の効果を認識し元をたどるのが歴史を知る事。


江戸時代の医者

2012年05月12日 | 歴史
なるほど~江戸時代の医者ってこうなんですかぁ~驚きの高収入も?
【 回答者:bungetsu
回答日時:2012/05/11 19:21 こんにちは。私は、自称「歴史作家」です。

回答から先に述べますと、商家のように大きな看板は出してはいませんでしたが、カマボコ板
位の「医師・○×療庵」などという表札は出していました。江戸時代、医師は資格試験などと
いうものがありませんでしたので、誰もが「医師」を名乗ることができました。診療は漢方医

で、顔色や病状を聞き、触診をしたのち判断をくだして漢方薬を調合しました。たくさんの患
者を手掛けるのが名医のあかしで、将軍家や大名家お抱えの「御殿医」と町民専門の「町医者」
とがありました。また、町医者でも、武家や大店などに気に入られる、籠の乗ってくる「乗物

医者」と庶民専門の徒歩で診察に出向く「徒医者」(かちいしゃ)とがありました。当然「乗
物医者」は診察代も高かった。享保7年(1722年)12月21日小石川薬園(現在の小石川植物園)
内に「小石川養生所」が開設され、江戸の庶民も気安く診療を受けることができました。この

小石川養生所には、門がありその門には「小石川養生所」という看板がさげられていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%9F%B3% …
(よもやま話)

(1)砂糖は薬屋で売買された。江戸では白砂糖のことを「唐三盆」(とうさんぼん)と言い
これは言うまでもなく輸入品で貴重だったため薬屋でのみ販売が許可されていた。

(2)歯磨きの好きな江戸っ子。
歯磨き(磨き砂)売りは一袋6文~8文のものを売り歩き、一袋で約1ケ月~2ケ月は使えま
した。これが商売として成り立ったのは江戸っ子は歯を白くすることを大切にしたからです。
京都などの公家衆は「お歯黒」が有名ですが江戸の武士も庶民も「お歯黒」はしませんでした。

歯磨きを使うか使わないかで、江戸っ子か田舎者かがわかると言われちょっとした悪態にも
「口が臭いぞ。黙ってろこの田舎者めが」と言うくらいでした。また歯磨き売りは「お早う」
の歯磨き売りといわれ、毎朝早くに歯磨粉(歯磨き砂)を入れた箱を肩にかけて「お早う」
「お早う」と言いながら長屋などを売り歩きました。

(3)二千両もらった幕府の医官・狩野玄竹
慶安三年(1650)正月。堀田伊賀守が大病にかかったとき幕府の医官・狩野玄竹が幕府
より命ぜられて、堀田の治療にあたりました。幸いいいあんばいに全快しましたので褒美と
して幕府から千両を賜りました。そして堀田家からも薬代という名目で千両が渡されました

ので、合計で二千両も手にしたことになりました。(現代の2,000~3,000万円位でしょうか)

(4)御殿医には坊主の位と同じ。
「法印」(ほういん)「法眼」(ほうげん)「法橋」(ほうきょう)というのが医官の位で
「法印」は坊主の「僧正」に当たり「法眼」は「僧都」に当たり「法橋」は「律師」に当た
るとされ、坊主の扱いをされていました。では、医者の身分は・・・と言うと、武士と庶民
の中間位でしたが、庄屋などと同じような扱いでした。

(5)匙(さじ)を投げる。
「御匙」というのは御殿医の中でも将軍とその家族を診察する奥医師のことで江戸時代最高
の権威でした。しかしどのような治療をしても治らず死んでしまったら「匙を投げる」と言
うようになりました。】