町工場 職人の声

職人と現場人間の想いを誰かに伝えたい!

鉄の亀の子タワシ 2

2009年12月15日 | 商品
もっと役立つ道具を売り出せば商品として成立すると判断した人がいました。
技術的な人では在りませんでしたが金銭的に豊かで社会的見識も高い人。
その当時に夫婦でダンス大会で入賞するほどの趣味人。

どのような経緯で技術者にめぐり合ったのか尋ねそこましたが道具の開発は
技術者に任せました。この技術者が作り上げた装置が針金の束から金属タワシ
を作り上げる様子を何度も見た事がタワシが記憶に残る理由です

当時も感じましたが今でも振り返るのですがなぜあのように単純な装置で
次々にタワシが出来るのかいくら考えても判りません。
針金からタワシを作る装置が5~6台でしたか並んで生産していたのです

それがどんな装置かというと・・・

鉄の亀の子タワシ 1

2009年12月14日 | 商品
何十年もの昔は電気釜が在りませんでした。少数は売られていたでしょうが
多くの家庭では鉄の釜でご飯を炊いていました。
まきや石炭が燃料なので火に当たる底には燃えカスがこびりつき落とすのに

時間と労力がかかったものです。また昭和30年代に工業が戦前の水準を
超えて発展してくると基礎となる素材産業として鋳物工業が拡大しました。
当時は砂型に溶かした金属を流し込み冷えてから取り出すという方法が

大半だったのです。生産の拡大で課題になったのは鋳物製品に付いた砂を
落とす方法と道具でした。当時は傷をつけない為に縄を丸めたもので落と
したりしていたようですがすぐに使用が出来なくなり能率も悪いものでした。

多大の労力と時間をかけて余分なこびりつきを落とす事が多くの場面で
行われていたのです。誰かが楽にしてくれないかな との思いで。

100円ライター物語 最終回

2009年12月13日 | 商品
学業に励み、会社に勤め、能力を高めて、自動車部品生産で独立経営。
100エンライターを始め各種の考案を世に出し、自身が楽しむと共に
家族生活をも得た。本人にしても振り返るに値する人生なのだと想う・・・

現在の日本には大きな経済的困難が在ると多くの人達が言葉にするが
焦土となった日本に生きて現在を作り上げた人々が遭遇していたのは
はるかに大きな困難だったろうと心底思う。

100円考案者のように技術的手段で困難を越えた人達は他にも多い。
現代ではそのまま真似を出来る物では無いが十分に自身を高める事で
困難を越える方法や手段を得られるのだと信じられる。

考案者の考えや感覚は十分に伝える事は出来なかったけれど記憶が存在
する事はここのブログに来てくれた人達に伝わると思うのです~
100円物語を読んでくれた全ての人に感謝です。ありがとう。

◎考案者みずから本の出版を進めていると風の便りに聞いているので
2010年早々には売り出される事と思います。販売が開始されたら
ここで知らせる事にします。

100円ライター物語 28

2009年12月12日 | 商品
何年もの間売り上げは順調で会社の利益も続きました。
銀座通いも続いたのです。あちらこちらの店で人生を楽しみました
その中に数回だけ行った高級店が在ったそうです

店のごく片隅に座を占めて時にはひっそりと客を観察していたのです
石原裕次郎や勝新太郎の遊び振りも見たと言います
金儲けだけでなく人生を楽しむ面も強かったのでしょう

生活は出来ましたが会社が特別に大きくなる事は在りませんでした
持てはやされる社長の様に講演会をする事も無かったのです
そうして静かな老年を迎えました~

何年か前にファミレスの隣席で若者4人が元気な声の合間にタバコを
取り出し100円ライターで火を点けるのをちらりと見ながら少しだけ
恥ずかしそうでそれでいてしてやったりという満足そうな表情をしていた。

もちろん若者達は100円ライターの考案者が隣の席で料理を食べている
とは知るはずが在りません。社会に大きな影響を与えた満足感は格別の
物で有るようです~

次回。最終回ですーーー

100円ライター物語 27

2009年12月11日 | 商品
苦しく困難なライター開発と同時にケース専用加工機に取り組んだのです。
パート従業員を数十人雇って手作業による生産を続ける傍らで社長は部品を
集め試作を行いエアーシリンダを用いた専用機を完成させたのです。

第一工程、自動プレスによる抜き絞り加工。
第二工程、パーツフィーダでのワーク供給による二次絞り加工。
第三工程、パーツフィーダでのワーク供給による多工程自動加工。

この自動加工機は一部工程に検査機能を持つものでした。
この機械の完成によりある部品メーカーのケースを数千万個~数億個生産
が可能となり何年もの間、忙しい仕事が続いたのです

鋳物定番を立てそこに各種の部品を組み付けたどちらかと言えば単純な
構造の機械ですがこの機械によってケースの大量生産が行われました
売り上げの増大は考案者の会社に大きな利益をもたらしました

100円ライターでは大きな利益とはなりませんでしたが事業の基礎と
成りケース自動機開発により事業を成功に導きました。
毎月続いて十分なお金が入ってくると楽しみを求め始めます・・・

そこでまぁ~社長兼考案者は銀座へと足が向いたのでした~~~

100円ライター物語 26

2009年12月10日 | 商品
考案者は100円ライター開発と同時期にいくつかの技術を完成させました。
昭和30年代に始まったトランジスタ回路に多数使われたコイルのケースです。
代表的な用途でラジオに使われたIFTトランスのケースが在ります

数ミリ角の小さなもので絞りプレス加工により角状にした後でふちを
目的形状にプレス加工したものです。最初は手作業の多工程で注文数に
応じていたものです。しかし注文数が加速度的に増えていきました

それは1ヶ月に数百万数千万個という膨大な数だったのです。
どんなに女性作業者を増やし外注しても生産は間に合いませんでした
手作業ではなく機械的自動化が急務となっていました。

現代のような技術者や部品や設計データなど何も無い条件での開発です。
多くの技術者や職人が困難の中で取り組みました

その一人に100円ライターの考案者が居たのです・・・

100円ライター物語 25

2009年12月09日 | 商品
その強い精神力を何と表現すればいいのだろうーーー
100円の人々を見る時。言葉が浮かぶ日本男児、サムライ、英雄、男、挑戦者、
冒険者。大東亜戦争の前に(大和魂とは四角か丸か三角か)との問いを発して
国民の考えを正そうとしながらも命をかけて行動した人々に伝えたい。

大和魂とは人間の第一義(人と共に生きる事)感じる目標を見つけたら全身全霊
力の限りを尽くし命を賭けて行動する事。100円の人々が示してくれた物。
それは大和魂なのだと想う。先達の想いと成果に包まれて今ここに我々がいる。

仕事と生活の日々が続く中、ともすれば寂しく、情けなく、無力と感じて
ただ一人との孤独を感じ、絶望へ落ちそうになる時、先達を想い出す。
人間に絶望する前にこの世に残されていった心を想いだそう。

広い大地にあふれる心、海に溶け漂う心、大空のどこまでも広がる心。我々は
ここにいる。心の乱れを鎮め水面の様に静かにする時、先達の声が聞こえてくる。
ここは大勢の先達が実現に力を尽くした世界。

ーーーーあなたはそこにいますかーーーー   次回が最終回となるかも?

100円ライター物語 24

2009年12月02日 | 商品
100円ライターを開発、商品化した人々のことを想う時、何が大事かを
考えてしまう。それは人間の第一義(人と共に生きる事)では無いだろうか?
それが人生と社会で最も大切なのではないかと想う。

人の命を救い、嘆き、悲しみ、辛さを減らし、やわらげる事。
我々職人は物作りでこのような道を進む時に満足感を得るのだと想う・・・
そしてその道は無数に在る。

職人に限らず全ての人がそうなのかも知れない。

100円ライター物語 23

2009年12月01日 | 商品
世の中に100円ライターが広がったのは良いが使い捨てとは?との想いを残して
会社は静かにゆっくりと沈んで行き、やがて完全に姿を没した。役員や社員、
考案者の功績と名誉も忘れられて行った。役員の奥さん達も夫がそのような仕事

をしていた事を知らない程に忘れられていった。現在どれ程の100円ライターが
生産されていることだろう、もし無ければ人命、財産が失われその嘆き、悲しさ、
辛さは想像できないほど大きいだろう。日本でいや全世界でくいとめている商品。

多くの人達の仕事にもなった。今でも生産は続き、発展した製品は当時、夢見た
本物の(100円のライター)と成るまでになった。考案者役員達はやり遂げた事
を知っていた。だが人々は最後までマッチ会社が急速に沈んだ事を気にしていた。

軍艦が沈むとき艦長が共に沈むことを選んだように物つくりの人々も会社と共に
沈んでいったが心はマッチ会社と共に在った。

その心を世界に残しながらーーー