町工場 職人の声

職人と現場人間の想いを誰かに伝えたい!

金色のコルダ 2

2008年09月28日 | ブログ見物人
カレイドスターと金色のコルダに出てくる妖精(リリィ)の違いについてです
カレイドスターの妖精が話し相手ならリリィは純真で音楽に関する魔法使いです

話し相手なので色んな場面に登場します、その効果として物語全体の在るべき
姿考え方を表現してしまうのです、教義の表示と感じてしまうのです。
妖精にしては親しみがもう一つ湧かないのです。

リリィは役割が明確です。純真な心でバイオリンと楽譜を魔法で出す。
物語全体の中で少しは話し相手になりますが演奏手段を与えるのが使命です
役割と魔法が妖精リリィとしての高い実在感を作ります。

女子高生【日野 香穂子(ひの かほこ)】は教わる事なく演奏手段を会得する。
学ぶ手段を会得するのに必要な教義を信じた事が無いということです
そこで私たちも 教義と信じる事 を考えなくて良いのですよね
演奏ステージに必要な無学の片方。学ぶ心の姿勢だけに目が向くのです
心を得た時、それだけで無学になれるので演奏(事柄)が可能になるのですよね

◎今日は間に合うかな?

金色のコルダ

2008年09月28日 | ブログ見物人
最初に話の内容を。

女子高生が偶然に音楽の妖精を見てしまうのです。これがきっかけで学内音楽
コンクールに出る事が決められてしまいますが楽器演奏は出来ないのです
そこで妖精が魔法のバイオリンを与えます。誰でも直ぐに演奏できる物です
演奏の心を見つけてステージに立ち無事に演奏を済ませます

その後自分でも練習をして考え心を見つけて繰り返しステージに立つ。
途中には意地悪やスランプも有りますが最後のステージは感動で終わります。

◎今日は遅くなり0時を過ぎてしまいました。

カレイドスターと言うアニメ

2008年09月25日 | ブログ見物人
カレイドスターと言うアニメが有ります。話の内容は少女が妖精と会話しな
がらサーカス的なステージに参加して人気者になると言うものです
妖精が出て来るのにとても自然な雰囲気が有るのですよね

作品の出来栄えは大変によろしいのですが3回ほど見ると満足したのかあまり
繰り返して見たくは無いのです。その感覚がどうも不思議なのですよねー

話しにも絵にも人物も問題は無いのです。いったい何が足らないのでしょう?
その疑問があるアニメを見たとき解けたのです。それは明日書くつもりです。

教義の在る場所

2008年09月24日 | ブログ見物人
釈迦の教えに教義が無いなら何処に教義が在るのでしょうか?
思うに手段の会得の所に在るのだと。そこで、その範囲でのみ使用する存在。
学ぶ為の手段を学ぶ時に許される事でしょうね。

学ぶ心の会得には教義は許されない。先人の心の風景により会得するのが
良いのでしょうね。心の会得に教義を用いる時、釈尊の教えから遠くなる

学ぶ手段の会得に教義を用い心の会得に心風景を用いて無学を得る
その後で事柄を無学を用いて学び会得するというのが釈尊の教えと想う

1000年以上になる仏教の歴史が日本人の心を形作っているのですよね

無学の数は幾つ在るのか

2008年09月23日 | ブログ見物人
無学というのが学ぶ心と手段の意味なら、これを会得し身に付け終えた人
つまり無学人は 何を学ぶのでしょうか。世界にはとても多くの事柄が在
りますから一度に全てを学び始めるという訳には行かないのですよね。
ですから特定の事柄について学び始めるのです。無学の数は無数に在る。

道を志す人は最初に事柄を選び次にこれを学ぶ為の無学を会得するのです。
もちろん多くの事柄の無学を会得した事で学べる事柄も在るでしょうね

事柄を無学で学び事柄を会得する。その終わりの無い繰り返しが道なのです。
学ぶ手段と学ぶ心で事柄を会得する、終りなき道を進んでいると自分の全て
で知る事が悟りと想う。学ぶ事で事柄を会得し業に出るのが釈尊の教えと
想うのです。

大日如来は神では無い。道を進む人々とつながる列の先頭に在るだけなのです
釈尊もまた列の人。誰もが同じ列の人なのですよね。
 釈尊の教えに 拝めるは無い、信じるは無い、教義経典はないのです。

自分の考える無学と無学人

2008年09月22日 | ブログ見物人
自分流に考えて見る。学問が無い、もう学ぶ事が無い そのどちらでも無いと
思うのです。有学、無学が仏教から来た言葉で重要な意味が在るのなら釈尊を
まず思い出す事が大切と想います。それは学が何を意味しているかを知る事。

釈尊が神を崇めず教団、教義を持たない事に注目したいのですよね。釈尊の
教えは宗教とは違いが在るのだと思うのです。釈尊は言う私を崇めてはなら
ない私の言う事を信じてはいけない、偶像を崇めてはいけない。釈尊の周り
に集まった人達は神の信者では無かったのですよね。弟子と呼ばれるのです。

釈尊は当時として普通の修行を多くの人たちと共に励んでいたのでしょう
神についての多くの議論や正誤と善悪、修行の意味や方法についての体得。
この中で釈尊に疑問が湧いたのでは無いでしょうか?人々がこれ程の議論を
数百年続けてもなぜ人として進むべき道が現れて来ないのか?

そこで一人で山に登り論争する集団と自分を距離を置いて対比させる中で
考えを進めたのでしょう。腹ペコの限界の中で山を降り一杯のかゆを食した
時気づいたのでしょうね。神と言う遥か彼方の事から考えるのでは無く現実
に近い所から考えるのが道を見つける方法なのだと。現実を学ぶ事が修行と
言う事。それには学び方を学ぶのが現実を学ぶ事なのだと。

学び方を学ぶには二つのものが必要でそれは学ぶ為の手段と学ぶ心の姿勢。
釈尊の教えとはまず学ぶ為の手段を会得する事。これが有学の意味と想う。
学ぶ心の姿勢を会得する事。有学を経て至るものこれが無学。

無学人とは学ぶ為の手段と学ぶ心の姿勢を会得した人なのだと想うのです。
全てを学び終えた人では無いのです。学ぶという状態は常に続くものであり
普遍の真理は無くその教義も無い、信じるべきものは無いのだと言う事です。
無学人に到達する為の助言。それが釈尊の教えなのだと想うのですよね~

世界は絶えず変化するものであり学ぶ為の助言である釈尊の教えも変化する。
諸行無常の世界に無学人在る時、人々も悟りへの道を進めるのでしょうね。

無学という言葉

2008年09月20日 | ブログ見物人
無学という言葉が在ります。
文章や発言で無学という時には学問を身に付けていないとか知識が不十分の意味で使うのがほとんどだと思います。自分の無学を恥じ入ると言う様にですね。

しかし無学というのは仏道に在る言葉なのですよねえー。授学無学人記品が有名です。

無学人とは仏道学問の全てを身に付けた人であり これ以上は学ぶ事が無い境地に到達している人の事なのだそうです。悟りの直前の高み、頂上の人なのですね。完全教養人とも言えるのかも知れませんね。

仏道者には仏道を語る前に世間で言う無学という意味の正しい由来を広めて欲しいと想います。それが何十年も間違いの意味を憶えていた私の願いです。