哀しい映画である。同時に考えさせられる映画だった。
加害者の家族は、その妻、子ども、あるいは両親は、肉親の犯罪にどれだけ責任があるのだろうか。どこまで責められないといけないのだろうか。
この映画は、オウム真理教の教祖、麻原彰晃こと松本智津夫の三女、松本麗華(りか)の現在を描くドキュメンタリーである。
平成以降に生まれた方にはオウム真理教といってもピンと来ないだろう。1995年、死者14人、負傷者6千人以上に及ぶ地下鉄サリン事件を起こした宗教団体である。不特定多数を狙った無差別テロ事件は日本中を恐怖に陥れた。事件当初からオウムが怪しいと見られていたものの証拠が見つからない。松本智津夫ら関係者が逮捕されるまでに1ヵ月半近く掛かった。その間、テレビのワイドショーはオウムの話題で持ちきり。松本麗華は当時まだ12歳であったものの“アーチャリー”の別名(ホーリーネーム)を持ち、マスコミからは教祖の後継者の一人と目されていた。
12歳の子どもが事件に関与するはずもないが、世間は麗華をオウムの中枢の人間だと考えた。このため事件後彼女は通学拒否や転入反対運動に遭い、小学校にも中学校にも通えなかったという。通信制高校を経て大学を受験するも、身元が知れた途端、多くの大学で入学を拒否された。バイトを辞めさせられたこともある。また反社会的勢力の一員と見られ、銀行口座を作ることも出来ない。海外で入国を拒否されたこともある。
今現在、麗華とオウムとの関係は切れているように見えるが、国はそうは考えていない。事なかれ主義というか、くさい物には蓋的な役人らしい対応である。もっとも麗華が袂を分かった母親と弟(次男)が、オウムの後継団体の1つであるアレフと密接な関係にあることが、国の麗華への対応を難しくしている面もあるのだろう。
麗華の当時のオウムでの立ち位置、そして現在のオウムとの関係は、外部の人間にはよく解らない。それにサリンやその他のオウム関連事件の被害者やその家族の方の心情、苦難を忘れてはいけない。が、それにしても麗華が、ただ麻原彰晃の娘だからという理由だけで、ここまでの試練を負う必要があるのだろうか。彼女は自殺未遂を何度も起こし、今でも死にたいと思うときがあるという。PTSD、鬱である。彼女が幸せを、いや、ごく普通の生活を求めてはいけないのだろうか。それを誰にも止める権利はないと僕は思う。
せめてもの救いは、麗華が今前を見て生きているということ。自らの経験を活かし(ここまで壮絶な経験をした人はいないと思うが)、生きづらさを感じている人へのカウンセリングを行い、講演活動も行っているという。手記も出されていた。
多くの人がこの映画を観て、犯罪の加害者家族への対応はどうあるべきか、何が正しいのかを考えてくれると良い。
加害者の家族は、その妻、子ども、あるいは両親は、肉親の犯罪にどれだけ責任があるのだろうか。どこまで責められないといけないのだろうか。
この映画は、オウム真理教の教祖、麻原彰晃こと松本智津夫の三女、松本麗華(りか)の現在を描くドキュメンタリーである。
平成以降に生まれた方にはオウム真理教といってもピンと来ないだろう。1995年、死者14人、負傷者6千人以上に及ぶ地下鉄サリン事件を起こした宗教団体である。不特定多数を狙った無差別テロ事件は日本中を恐怖に陥れた。事件当初からオウムが怪しいと見られていたものの証拠が見つからない。松本智津夫ら関係者が逮捕されるまでに1ヵ月半近く掛かった。その間、テレビのワイドショーはオウムの話題で持ちきり。松本麗華は当時まだ12歳であったものの“アーチャリー”の別名(ホーリーネーム)を持ち、マスコミからは教祖の後継者の一人と目されていた。
12歳の子どもが事件に関与するはずもないが、世間は麗華をオウムの中枢の人間だと考えた。このため事件後彼女は通学拒否や転入反対運動に遭い、小学校にも中学校にも通えなかったという。通信制高校を経て大学を受験するも、身元が知れた途端、多くの大学で入学を拒否された。バイトを辞めさせられたこともある。また反社会的勢力の一員と見られ、銀行口座を作ることも出来ない。海外で入国を拒否されたこともある。
今現在、麗華とオウムとの関係は切れているように見えるが、国はそうは考えていない。事なかれ主義というか、くさい物には蓋的な役人らしい対応である。もっとも麗華が袂を分かった母親と弟(次男)が、オウムの後継団体の1つであるアレフと密接な関係にあることが、国の麗華への対応を難しくしている面もあるのだろう。
麗華の当時のオウムでの立ち位置、そして現在のオウムとの関係は、外部の人間にはよく解らない。それにサリンやその他のオウム関連事件の被害者やその家族の方の心情、苦難を忘れてはいけない。が、それにしても麗華が、ただ麻原彰晃の娘だからという理由だけで、ここまでの試練を負う必要があるのだろうか。彼女は自殺未遂を何度も起こし、今でも死にたいと思うときがあるという。PTSD、鬱である。彼女が幸せを、いや、ごく普通の生活を求めてはいけないのだろうか。それを誰にも止める権利はないと僕は思う。
せめてもの救いは、麗華が今前を見て生きているということ。自らの経験を活かし(ここまで壮絶な経験をした人はいないと思うが)、生きづらさを感じている人へのカウンセリングを行い、講演活動も行っているという。手記も出されていた。
多くの人がこの映画を観て、犯罪の加害者家族への対応はどうあるべきか、何が正しいのかを考えてくれると良い。